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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十三章 消えゆく痕――ただ、静かに消えたいだけ
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第一百二十三話

---


昼休みのチャイムが鳴る頃、石原は生徒会室へ向かった。


春野は窓際の席で資料に目を通していた。

花野は部屋の隅のパソコンの前に座り、キーボードを叩いては止めていた。

立花は机に突っ伏し、腕の中に顔を埋めていた。眠っているようにも見えた。


「全員揃ったか?」


春野が顔を上げた。


「あとはお前と杏ちゃんだけだ。お前が来たなら、あとは杏ちゃん待ちだな」


石原は部屋の中へ入った。


春野は石原の顔を見るなり、眉をひそめた。

立ち上がり、近くの椅子を引いた。


「座れ」


石原は何も言わず、腰を下ろした。


立花がもぞりと動いた。

腕の間から顔を上げ、眠そうな目で石原を見た。


「先輩……また顔色悪いですよ……」


「俺……みんなに、話さなきゃいけないことがある」


石原は言葉を探す。

膝を握る手に力が入った。


声が途切れ途切れだ。

うまく息が続かない。


春野は手にしていた資料を置いた。

花野の指もキーボードの上で止まった。

立花は自分の頬を軽く叩き、姿勢を正した。


三人の視線が、石原へ向いた。


石原は深く息を吸った。


「朋奈が……いなくなった」


一瞬、言葉が止まった。

どう説明すればいいのか、分からなかった。


「五月六日。泉方橋で、初めて会った。

橋から飛び降りたあいつを助けようとした。でも……そのとき、消えたんだ」


立花が完全に目を覚ました。

困惑したように春野を見た。

春野もまた、険しい顔をしていた。


「朋奈は異能力を見せてくれた。俺を生徒会に引っ張り込んだのもあいつだ。

みんなを助けてた。立花が一番辛かったときも、抱きしめてあげてた」


立花が何か言いかけた。


だが石原は止まらなかった。


むしろ、言葉の速度が上がっていく。

止まったら、もう二度と最後まで話せない気がした。


緒山について知っていること。

気づいていたこと。

気づかないふりをしていたこと。

ずっと考えないようにしていたこと。


それらが全部、堰を切ったように溢れ出した。


「朋奈はノートを持ってたんだ。やりたいことがいっぱい書いてあって、俺、一緒に一個ずつチェックして――」


そこで言葉が止まった。


喉が詰まる。


「昨日……昨日、家に行った」


石原は俯いた。


「お母さんが出てきた。朋奈はいるかって聞いた」


顔を上げた。

三人を見た。


目は赤かった。

けれど、涙は出ていなかった。


「そしたら」


石原の声が震えた。


「娘なんていないって、言われた」


誰も何も言わない。


部屋が静まり返る。


「朋奈は……」


石原の声がさらに小さくなる。


「ずっと身体が悪かった」


そこまで言ったところで、無意識に眉のあたりを押さえた。


強く。


痛みを押し潰そうとするみたいに。


「最初から腕にバンドをしてたのに」


「俺、一度も聞かなかった」


声が掠れる。


机に手をついた。

眉のあたりを押さえる指先が震えている。


続きを言おうとした。


けれど言葉にならない。

喉から漏れたのは、意味にならない音だけだった。


もう、話せなかった。


春野が立ち上がった。


紙コップに水を注ぎ、石原の前へ置いた。

立花は自分のティッシュ箱をそっと押し出した。


花野は動かなかった。


だが、ずっと石原を見ていた。


石原はコップを受け取った。


飲まない。


ただ握りしめる。

水面がかすかに揺れていた。


意識が、初めて朋奈と出会った朝へ引き戻されていく。


あの陽だまりみたいな笑顔の下に、あれほど多くの秘密が隠れていたなんて、考えたこともなかった。


「俺は……」


石原が呟いた。


「話したくないなら、聞いちゃいけないって思ってた」


静かな部屋に、涙が机へ落ちる音だけが響く。


ぽたり。


ぽたり。


立花は春野を見て、次に花野を見た。

落ち着かない様子で、小刻みに足を踏み替えていた。

唇が少し動いた。何かを待っているみたいだった。


春野と花野は短く視線を交わした。


そして二人とも、小さく首を振った。


「石原――」


春野が息を吸った。

何かを言おうとした、その瞬間。


「私は先輩を信じます!」


立花が勢いよく立ち上がった。


椅子の脚が床を擦り、鋭い音が生徒会室に響く。


立花は机の横に立っていた。

目はもう赤くなっている。


「先輩……」


声が震えている。

少し、頼りない。


「先輩が言ってるその人のこと、私、本当に覚えてるのか分かりません」


一度、言葉を切った。


「でも、さっき『朋奈』って名前を聞いたとき……胸の奥が、急に締めつけられた気がしたんです」


立花は胸元へ手を当てた。


数秒黙った。

慎重に、一つずつ言葉を選ぶように。


「それに……そんな先輩を見てたら、信じたいって思いました」


石原は呆然と彼女を見返した。


「先輩だけに背負わせたくないです。

私は……先輩が苦しそうにしてるの、見たくないです」


立花は慌てて視線を逸らした。

頬が少し赤い。


そのまま椅子へ座り直した。


春野は小さくうなずき、立花の肩に軽く手を置いた。


そのときだった。


生徒会室の扉が勢いよく開かれた。


---


「お兄ちゃん――!」


杏が息を切らしながら、入口に立っていた。


制服のスカートは少し乱れている。

まるで学校中を走ってきたみたいだった。


片手でドア枠を支え、もう片方の手を胸に当てている。

額にはうっすらと汗が浮かんでいた。


「杏?」


「生徒会のみんな、誰もメッセージ返してくれないの!

お兄ちゃんに送っても返ってこないし、みんなに送っても返ってこないし――絶対何かあったと思って!」


誰も答えなかった。


杏は部屋の中へ入ってきた。


一歩、二歩。


そして石原の前まで来ると、彼を見下ろした。


「それで? 何があったの?」


石原は口を開いた。

けれど、言葉にならなかった。


杏はしばらく彼を見つめた。

数秒待ってから、小さくため息をついた。


そして立花の方を向いた。


「美里ちゃん、何があったの?」


立花は石原を見た。


それから口を開いた。

声はとても小さかった。

何かを驚かせないようにするみたいに。


「と、朋奈ちゃんのこと。

朋奈ちゃんが消えちゃって……私たち、朋奈ちゃんのことを忘れかけてるの」


杏は眉をひそめた。


「忘れかけてるって何? 昨日だって、まだ――」


そこで言葉が止まった。


昨日。


何があった?


思い出そうとしても、うまく形にならない。


ただ、どこかに立って、自分に向かって笑っていた誰かの影だけが、ぼんやりと浮かぶ。


「お、お兄ちゃん……どういうこと?」


声が小さくなった。

スカートを握る手に力が入った。


石原は視線を逸らした。


だが杏はすぐに彼の前へ回り込んだ。


「お兄ちゃん、教えて。最初から。

お兄ちゃんの口から聞きたい」


石原はしばらく迷った。

それから静かにうなずいた。


話し始めた。


さっきよりも途切れ途切れで、まとまりがなかった。


泉方橋のこと。

林の中で、緒山が能力を見せたこと。


杏は何も言わなかった。


泉方橋の話でも動かなかった。

緒山が能力を見せたところでは、唇を強く結んだ。


そして、緒山の母親が玄関で笑いながら『娘なんていないわ』と言った話になったとき。


杏は勢いよく顔を逸らした。


石原は話し終えた。


杏はすぐには口を開かなかった。


窓の外を見た。

陽射しが頬に当たっている。

睫毛が小さく震えていた。


やがて振り返った。


「お兄ちゃん。今話したこと……全部覚えてるの?」


「全部、覚えてる」


石原は答えた。


杏は彼を見つめた。


長い間、じっと。


そして言った。


「私もやる」


「杏――」


「お兄ちゃんは黙ってて」


杏は石原を見た。


その声は、急に優しくなった。


「前にみんなが私を助けてくれたとき、私はみんなのために何もできなかった」


石原は目を見開いた。


「だから今度は、私にも手伝わせて。いいでしょ?」


窓から差し込む陽射しが、杏の身体を照らしていた。


その表情を見てしまうと、拒めなかった。


石原は口を開く。

けれど、声が出るまでに数秒かかった。


「……分かった」


杏はノートを手に取った。


そしてふいに顔を背けた。

――自分の表情を見られたくないみたいに。


しばらく様子を見ていた春野が、ようやく口を開いた。


「石原。お前が話したこと、俺にはまったく覚えがない」


石原の胸が少し沈んだ。


「でも、お前は今まで、根拠もなく動いたことはなかった」


春野はそう言って、石原の肩を軽く叩いた。


「俺も付き合う。一緒に確かめよう」


「私は、あなたの言う『記憶』を信用しません」


パソコンの向こうから、花野の声がした。


「私には、まったく覚えがありませんから」


その声はいつも通り落ち着いていた。


「ただ、その女の子のことより、今はあなたの精神状態のほうが気になります」


「したがって、しばらくは近くで観察します。あなたが妙なことをしないように」


石原はその場に立ったままだった。


強く握っていた手が、少しずつ緩んでいく。


石原は俯いた。


「ありがとう……」


小さく息を吐いた。


「本当に、ありがとう」


やがて顔を上げた。


声には少しだけ力が戻っていた。


「じゃ、じゃあ今の状況を整理して――」


「石原」


春野が遮った。


生徒会室が静かになる。

全員が石原を見ていた。


「今のお前の状態じゃ、これ以上は無理だ」


「ど、どうして?」


春野は答えなかった。


代わりにポケットからウェットティッシュを取り出し、石原の顔を軽く拭いた。


そこでようやく気づいた。


自分の顔が、涙でぐしゃぐしゃになっていたことに。


「でも――」


「先輩」


立花が立ち上がった。


石原の前まで歩いてきた。

そして、見上げるように彼の顔を見た。


「先輩、本当に顔色悪いです。

さっきも泣いてましたし……今日は帰って休んでください」


「続きは、明日でいいですから」


石原は何か言おうとした。


口を開きかけた、そのとき。


手を引かれた。


振り向いた。


杏が涙目でこちらを見ていた。

そして、小さく首を横に振った。


そのとき、花野が席を立った。


机の上を片付け始めた。


「あなたの話が本当だとしても、一晩遅れた程度で致命的に変わるとは考えにくい」


「続きは明日の昼休みに。

ただし、あなたが感情を整理してこられることが前提です」


生徒会室は数秒、静まり返った。


石原は俯いた。


みんなの言葉を思い返した。

そして、手のひらに残る温かな感触を感じていた。


「……分かった」


小さくうなずいた。


「明日、またお願いします」


その言葉を聞いて、全員が少しだけほっと息をついた。


---


春野の提案で、杏が石原を連れて先に帰ることになった。


扉が閉まったあと、生徒会室にはしばらく沈黙が流れた。


立花はゆっくりと自分の席に腰を下ろし、机の上を見つめた。


「……会長。先輩が言ってたことって……」


「本当かどうかは、今は考えるな」


春野は椅子の背にもたれ、眉間を揉んだ。


「今日は明らかに様子がおかしかった。

少し休ませよう。明日になれば、落ち着いているかもしれない」


花野はコップを手に取り、一口水を飲んだ。


「だといいけど」


窓から差し込む午後の日差しが、壁に掛けられた一枚の集合写真を照らしていた。


その輪郭は、少しずつ曖昧になっていく。


けれど、誰もそれを気に留めなかった。

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