第一百二十二話
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石原は、もう少しだけ緒山を休ませることにした。
九日間通った。
毎日ドアを叩き、毎日話しかけ、毎日メモを差し入れた。
九日目、扉の向こうから呼吸音が聞こえた。
とても小さな音だった。
それでも、彼女がそこにいることは分かった。
彼女がいるなら、それでいい。
もう少しだけ待とう。
彼女が自分で出てこられるまで。
準備ができるまで。
――少なくとも、そのときの石原はそう思っていた。
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【十月十三日・日曜日】
三日後。
石原は再び緒山の家を訪れた。
十月半ばに差しかかる陽射しは、もう夏のような熱を失っていた。
穏やかな光がマンションの外壁を照らし、石原の身体にも暖かく落ちている。
石原はインターホンを押した。
しばらくして足音が聞こえ、扉が開いた。
現れたのは、緒山の母親だった。
エプロンには小麦粉が付いていた。
どうやら料理の途中だったらしい。
彼女は石原を見ると、礼儀正しく微笑んだ。
「久希くん、こんにちは」
「こんにちは。朋奈に会いに来ました」
緒山の母親は、笑顔のまま首を傾げた。
「杏ちゃんに用事? 今日は来てないわよ」
石原は一瞬、言葉を失った。
「……違います」
声が、ゆっくりと落ちていく。
「朋奈です。あなたの娘さんの」
緒山の母親の笑顔が、わずかに止まった。
彼女は石原を見つめ、困ったように瞬きをした。
それから、ふっと笑った。
まるで冗談を言われたと思ったみたいに。
「何を言ってるの、久希くんったら」
その声には、少しだけ困った子を見るような響きがあった。
「うちはお父さんと私の二人暮らしよ。娘なんていないわ」
石原はその場に立ち尽くした。
(お父さんって言ったじゃないか……!)
陽射しが背中を照らしている。
暖かいはずだった。
それなのに、身体の芯から冷えていく。
「……今、何て言いました?」
「だから、うちに娘はいないのよ」
緒山の母親は、不思議そうに笑った。
「誰かと勘違いしてるんじゃない?」
石原は彼女を見つめた。
目。表情。話すときに、少しだけ首を傾ける角度。
どこにも綻びはない。
演技でもない。誤魔化しているわけでもない。
本当に覚えていない。
「じゃあ……」
石原は口を開いた。
声が、ひどく乾いていた。
「緒山朋奈という名前に、心当たりはありませんか」
緒山の母親は少し考えた。
そして首を横に振った。
「聞いたことないわね。
でも、素敵な名前ね。もし私に娘がいたら、そんな名前を付けていたかもしれないわ」
石原は何も言えなかった。
九日前。
彼女は廊下に立っていた。
閉ざされた扉を見つめながら、自分と同じように心配そうな顔をしていた。
それなのに今は。
目の前で笑っている。
――娘なんていないわ。
まるで、最初から存在しなかったみたいに。
(……ふざけるなよ)
唇が動いた。
けれど、声にならなかった。
石原はゆっくりと顔を玄関の中へ向けた。
玄関の靴箱を見た。
そこには本来、一足の女性用のスニーカーがあったはずだった。
白いスニーカー。
緒山がよく履いていたもの。
だが今はない。
あるのは男物の革靴と、少し大きめの女性用の靴が数足だけだった。
たぶん全部、母親のものだ。
石原はさらに奥を見た。
廊下の先。
階段。
そして、毎日ノックしていたあの扉。
何も変わっていない。
なのに、何もかもがおかしかった。
「……大丈夫?」
緒山の母親の声が聞こえた。
少し心配そうだった。
「顔色、悪いわよ。よかったら上がっていかない?」
石原は振り返った。
彼女の顔を見た。
何かないかと思った。
ほんの少しの綻び。
ほんの少しの迷い。
本当は覚えているんじゃないかと思わせる何か。
けれど、何もなかった。
「……いえ、大丈夫です」
石原は一歩下がった。
もう一歩。
「失礼しました」
背を向け、階段を降りた。
後ろで扉の閉まる音がした。
石原はマンションの前で立ち止まった。
陽射しは暖かい。
それでも寒かった。
骨の奥から冷えていくようだった。
石原は顔を上げた。
二階の窓を見た。
カーテンは閉まっている。
中は見えない。
それでも。
彼女がそこにいることだけは分かっていた。
自分にはもう、二度と見えない場所に。
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【十月十四日・月曜日・朝】
陽射しは、昨日と同じように明るかった。
これまでの毎日と同じように。
何も起きていないみたいに、よく晴れていた。
けれど石原は知っている。
起きてしまったことを。
校門の前に立ち、登校してくる生徒たちを眺める。
笑い声、足音、自転車のベル。
どれも、いつも通りだった。
違っていたのは――昨日の夜、石原が一晩かけてスマホの中の写真を全部見返したことだった。
彼女はいなかった。
生徒会室で撮った集合写真。
中央には春野。
隣には花野。
立花はピースをしていて、杏がたまに写り込んでいる。
どの写真も自然だった。
どの写真にも、いるはずのない誰かは写っていなかった。
スマホの中に、彼女はいない。
アルバムにもいない。
メッセージ履歴にもいない。
いつも上のほうに固定していたはずのトーク画面さえ、消えていた。
昨夜、石原は長い間画面を見つめていた。
画面が自動で暗くなり、そこに自分の顔が映るまで。
昨日の午後、春野がグループに送ったメッセージを思い出す。
『明日の昼は通常通り活動だ。全員参加で』
全員。
緒山を含まない、“全員”。
石原は校門をくぐり、最初に彼女のクラスへ向かった。
あの席には今、知らない男子生徒が座っていた。
隣の席の生徒と楽しそうに話している。
石原は教室の入り口で立ち止まった。
「ん? 石原じゃん。誰かに用か?」
顔見知りのクラスメイトが声を掛けてきた。
「いや。教室、間違えた」
石原は踵を返した。
背後から笑い声が聞こえる。
普通の笑い声だった。
誰も気づいていない。
誰も覚えていない。
あの席に、かつて誰が座っていたのか。
午前の授業は、頭に入らなかった。
教師が黒板に文字を書く。
白いチョークの粉が、静かに舞い落ちる。
石原はその白い粉を見つめていた。
(……誰も気づいてないのか)
ふと、一つの考えが浮かんだ。
(覚えているのは……)
(俺だけなのか?)
石原は視線を落とし、自分の手を見た。
掌は乾いている。
線も、はっきり残っていた。
石原は奥歯を噛み締めた。
そして、両手を強く握りしめた。




