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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十三章 消えゆく痕――ただ、静かに消えたいだけ
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第一百二十二話

---


石原は、もう少しだけ緒山を休ませることにした。


九日間通った。


毎日ドアを叩き、毎日話しかけ、毎日メモを差し入れた。


九日目、扉の向こうから呼吸音が聞こえた。


とても小さな音だった。

それでも、彼女がそこにいることは分かった。


彼女がいるなら、それでいい。


もう少しだけ待とう。


彼女が自分で出てこられるまで。


準備ができるまで。


――少なくとも、そのときの石原はそう思っていた。


---


【十月十三日・日曜日】


三日後。


石原は再び緒山の家を訪れた。


十月半ばに差しかかる陽射しは、もう夏のような熱を失っていた。

穏やかな光がマンションの外壁を照らし、石原の身体にも暖かく落ちている。


石原はインターホンを押した。


しばらくして足音が聞こえ、扉が開いた。


現れたのは、緒山の母親だった。


エプロンには小麦粉が付いていた。

どうやら料理の途中だったらしい。


彼女は石原を見ると、礼儀正しく微笑んだ。


「久希くん、こんにちは」


「こんにちは。朋奈に会いに来ました」


緒山の母親は、笑顔のまま首を傾げた。


「杏ちゃんに用事? 今日は来てないわよ」


石原は一瞬、言葉を失った。


「……違います」


声が、ゆっくりと落ちていく。


「朋奈です。あなたの娘さんの」


緒山の母親の笑顔が、わずかに止まった。


彼女は石原を見つめ、困ったように瞬きをした。

それから、ふっと笑った。


まるで冗談を言われたと思ったみたいに。


「何を言ってるの、久希くんったら」


その声には、少しだけ困った子を見るような響きがあった。


「うちはお父さんと私の二人暮らしよ。娘なんていないわ」


石原はその場に立ち尽くした。


(お父さんって言ったじゃないか……!)


陽射しが背中を照らしている。


暖かいはずだった。

それなのに、身体の芯から冷えていく。


「……今、何て言いました?」


「だから、うちに娘はいないのよ」


緒山の母親は、不思議そうに笑った。


「誰かと勘違いしてるんじゃない?」


石原は彼女を見つめた。


目。表情。話すときに、少しだけ首を傾ける角度。


どこにも綻びはない。

演技でもない。誤魔化しているわけでもない。


本当に覚えていない。


「じゃあ……」


石原は口を開いた。

声が、ひどく乾いていた。


「緒山朋奈という名前に、心当たりはありませんか」


緒山の母親は少し考えた。

そして首を横に振った。


「聞いたことないわね。

でも、素敵な名前ね。もし私に娘がいたら、そんな名前を付けていたかもしれないわ」


石原は何も言えなかった。


九日前。


彼女は廊下に立っていた。

閉ざされた扉を見つめながら、自分と同じように心配そうな顔をしていた。


それなのに今は。


目の前で笑っている。


――娘なんていないわ。


まるで、最初から存在しなかったみたいに。


(……ふざけるなよ)


唇が動いた。


けれど、声にならなかった。


石原はゆっくりと顔を玄関の中へ向けた。


玄関の靴箱を見た。


そこには本来、一足の女性用のスニーカーがあったはずだった。

白いスニーカー。

緒山がよく履いていたもの。


だが今はない。


あるのは男物の革靴と、少し大きめの女性用の靴が数足だけだった。

たぶん全部、母親のものだ。


石原はさらに奥を見た。


廊下の先。

階段。

そして、毎日ノックしていたあの扉。


何も変わっていない。


なのに、何もかもがおかしかった。


「……大丈夫?」


緒山の母親の声が聞こえた。

少し心配そうだった。


「顔色、悪いわよ。よかったら上がっていかない?」


石原は振り返った。


彼女の顔を見た。


何かないかと思った。


ほんの少しの綻び。

ほんの少しの迷い。

本当は覚えているんじゃないかと思わせる何か。


けれど、何もなかった。


「……いえ、大丈夫です」


石原は一歩下がった。


もう一歩。


「失礼しました」


背を向け、階段を降りた。


後ろで扉の閉まる音がした。


石原はマンションの前で立ち止まった。


陽射しは暖かい。


それでも寒かった。


骨の奥から冷えていくようだった。


石原は顔を上げた。


二階の窓を見た。


カーテンは閉まっている。


中は見えない。


それでも。


彼女がそこにいることだけは分かっていた。


自分にはもう、二度と見えない場所に。


---


【十月十四日・月曜日・朝】


陽射しは、昨日と同じように明るかった。

これまでの毎日と同じように。


何も起きていないみたいに、よく晴れていた。


けれど石原は知っている。


起きてしまったことを。


校門の前に立ち、登校してくる生徒たちを眺める。


笑い声、足音、自転車のベル。

どれも、いつも通りだった。


違っていたのは――昨日の夜、石原が一晩かけてスマホの中の写真を全部見返したことだった。


彼女はいなかった。


生徒会室で撮った集合写真。


中央には春野。

隣には花野。

立花はピースをしていて、杏がたまに写り込んでいる。


どの写真も自然だった。

どの写真にも、いるはずのない誰かは写っていなかった。


スマホの中に、彼女はいない。


アルバムにもいない。

メッセージ履歴にもいない。

いつも上のほうに固定していたはずのトーク画面さえ、消えていた。


昨夜、石原は長い間画面を見つめていた。


画面が自動で暗くなり、そこに自分の顔が映るまで。


昨日の午後、春野がグループに送ったメッセージを思い出す。


『明日の昼は通常通り活動だ。全員参加で』


全員。


緒山を含まない、“全員”。


石原は校門をくぐり、最初に彼女のクラスへ向かった。


あの席には今、知らない男子生徒が座っていた。

隣の席の生徒と楽しそうに話している。


石原は教室の入り口で立ち止まった。


「ん? 石原じゃん。誰かに用か?」


顔見知りのクラスメイトが声を掛けてきた。


「いや。教室、間違えた」


石原は踵を返した。


背後から笑い声が聞こえる。


普通の笑い声だった。


誰も気づいていない。

誰も覚えていない。


あの席に、かつて誰が座っていたのか。


午前の授業は、頭に入らなかった。


教師が黒板に文字を書く。

白いチョークの粉が、静かに舞い落ちる。


石原はその白い粉を見つめていた。


(……誰も気づいてないのか)


ふと、一つの考えが浮かんだ。


(覚えているのは……)


(俺だけなのか?)


石原は視線を落とし、自分の手を見た。


掌は乾いている。

線も、はっきり残っていた。


石原は奥歯を噛み締めた。


そして、両手を強く握りしめた。

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