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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十三章 消えゆく痕――ただ、静かに消えたいだけ
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第一百二十一話

---


【Another View――緒山朋奈】


緒山は膝を抱え込み、そこに顔をうずめていた。


スマホの画面は点いたままだった。

立花、花野、春野、杏。

届いているメッセージは、どれにも返せていない。


指を上へ滑らせる。

そして、もっと前のメッセージで止まった。


火曜日に、春野から送られてきたものだ。


『石原はもう知ってる。

他の人には言ってない。悪い、緒山』


緒山は、その「悪い」という文字を長いあいだ見つめていた。

やがてスマホを置き、もう一度膝に顔を埋めた。


机の引き出しは開いたままだった。


その中には、この数日でドアの下から差し込まれたメモが入っていた。

麻婆豆腐のこと。林の日差しのこと。杏が自分のことを聞いていたこと。

そして――『俺はまだいる』。


緒山はそれらを一列に並べた。


一度読んで。

また読んで。

何度も読み返した。


ドアの外は静かだった。


もう、彼は帰ったあとだった。


緒山は『俺はまだいる』と書かれた紙を握りしめた。

そして、手の甲に額を押し当てた。


(……バカな先輩)


---


別の日。


世界が止まる。


緒山は静止した街を歩き、静止した校門をくぐった。

静止した廊下を進み、石原のクラスの後ろの扉へたどり着く。


昼休みだった。


教室の中では、誰もがその場で止まっている。

箸を持ち上げたままの生徒。首を傾けて話している途中の生徒。口を開けて笑いかけたままの生徒。


動けるのは、緒山だけだった。


彼女は教室の隅へ滑り込み、本棚の陰に身を隠した。

そして能力を解除した。


次の瞬間、喧騒が一気に耳へ流れ込んできた。


笑い声、食器の触れ合う音、椅子を引く音。

すべてが、何事もなかったように動き出す。


緒山は隅にしゃがみ込み、本棚の隙間から石原の席を覗いた。


石原は窓際の席で、数人の男子と一緒に弁当を食べていた。


誰かが何かを話している。

石原はそちらへ顔を向けて聞き――笑った。


ちゃんと、心から笑っていた。


「石原、最近なんか別人みたいに変わったよな」


「分かる。前はちょっと近寄りにくかったけどさ」


「やっぱり生徒会の副会長の影響じゃね?」


誰かがからかうように言った。


「なんだっけ、名前……緒山?」


緒山の頬が熱くなる。


思わず首をすくめた。

それでも気になって、本棚の隙間からもう一度こっそり覗いた。


どう答えるんだろう。


きっと否定する。

たぶん顔を赤くして、『変なこと言うな』とか言うに違いない。


そんなふうに慌てて言い訳する石原の姿を想像しているうちに、この数日、胸の中に溜まっていた重苦しさが少しだけ薄れていった。


自分でも気づかないうちに、口元が緩む。


そして、石原の声が聞こえた。


「うん」


緒山は固まった。


「俺、あいつのこと好きだよ」


石原は少しだけ頬を赤くしていた。

けれど、声はまっすぐだった。


「本当に好きだ。

一緒にいたいと思ってる」


教室が、一瞬だけ静まり返る。


その直後。


「うわぁぁぁっ!」


「石原お前ぇぇぇ!」


「いつからだよ!?」


「直球すぎるだろ!」


一斉に騒ぎ声が上がった。


緒山は本棚の陰に立ったまま、動けなかった。


耳の奥が、ぼうっと鳴っていた。

周りの声が、遠くなっていく。


聞こえるのは、さっきの言葉だけだった。


――俺、あいつのこと好きだよ。

――本当に好きだ。

――一緒にいたいと思ってる。


何度も。

何度も。


頭の中で繰り返される。


緒山は手を上げ、熱くなった顔を覆った。


そのときだった。


緒山は、石原の表情が変わるのを見た。


怪訝そうに眉をひそめたかと思うと、次の瞬間、胸元を押さえる。

唇が、かすかに震えていた。


(また……この顔?)


石原の顔色が、目に見えて白くなっていく。


(違う……違う!)


何が違うのか。

そこまで考えが追いつく前に、石原は顔を上げていた。


教室の中を見回した。

まるで、誰かを探すように。


「朋奈……いるのか?」


その声が、教室中の喧騒をすり抜けて、緒山の耳に届いた。


緒山はその場で固まった。


(どうして……先輩、私がいるって分かるの……?)


頭の中で、何かがひび割れた。


記憶の欠片が、次々と目の前に浮かび上がる。


泉方橋。

川へ飛び込み、能力で橋へ戻ったあの日。


あとで見た石原の顔色を、ただ疲れているだけだと思った。


教室の扉の前。

チャイムが鳴る瞬間に現れたとき。


視界の端で石原の顔色が悪くなるのを見ても、ただの偶然だと思い込んだ。


林の中。

初めて、能力を見せたあの日。


時間を止めて、移動して、解除した。


石原は胸を押さえていた。

顔色は青白く、唇もわずかに震えていた。


彼女がどうしたのかと聞くと、彼は言った。


『平気だ』


――いつも、そう言っていた。


(……毎回、気づいてたの?)


自分が能力を使っていたことも。

体調を崩す原因が、自分だったことも。


緒山は唇を強く噛み、胸元を押さえた。


また、痛む。


異能力なんて、やめるべきだ。


何度も、そう自分に言い聞かせた。

けれど、やめられなかった。


止まった世界には、鼓動がない。


いつ止まるか分からない、あの怖い心臓の音がない。


胸の痛みも。

病室の消毒液の匂いも。

両親の気遣うような視線も。


何もない。


あの世界では、自分は自由だった。

ちゃんと、生きていられた。


時間への執着は、罪悪感よりもずっと深かった。


だから回数を減らした。

前より慎重にもなった。


あるいは――


見ないふりをしていただけだ。

自分が彼を傷つけていることに。


気づいていないふりを、していただけだ。


先輩は知らないと思っていた。


でも。


知っていた。


最初から、知っていた。


それなのに先輩は、何も言わなかった。

まるで――自分の気持ちを気遣うみたいに。


(こんな私……)


「緒山さん? 学校来てたんだ」


不意に声がした。


緒山が振り向くと、教室の前に女子生徒が立っていた。

不思議そうな顔で、こちらを見ていた。


「いつ来たの?」


女子生徒は首を傾げた。

その表情が、一瞬だけぼんやりと揺れた。


「私、今ちょっとぼーっとしてて……。緒山さん、誰か探してるの?」


緒山は答えなかった。


静かに背を向け、そのまま廊下へ出た。


「えっ? 緒山さん?」


後ろから戸惑った声が聞こえた。

それでも、振り返らなかった。


校舎を出た。


再び、止まった世界へ。


誰もいない中庭に、一人で立った。


風は空中で止まっていた。

木の葉は枝先で静止している。

陽射しだけが巨大な琥珀みたいに、緒山をその中へ閉じ込めていた。


緒山はその場にしゃがみ込んだ。


膝を抱え、顔を埋める。


(こんな私が、先輩に釣り合うわけない……)


---


緒山はまた、部屋に閉じこもった。

扉にもたれたまま、身体の奥から冷えていくようだった。


先輩は変わった。

本当に変わった。


もう、あの頃みたいに沈んだ顔ばかりしていた先輩じゃない。


止まった世界で一緒に過ごした昼休み。

毎日少しずつ距離を縮めていったこと。

何とか笑ってほしくて、頑張った瞬間。


その全部に、意味があった。


先輩は、ちゃんと笑えるようになった。


心から。


けれど――


自分がいなくなったあと、どうなるのだろう。


今、自分が先輩を笑わせれば笑わせるほど。


そのときは――


私は、間違えたんだろうか。


最初から、間違えていたんだろうか。


ふと、先輩の言葉を思い出す。


『俺、あいつのこと好きだよ。本当に好きだ。一緒にいたいと思ってる』


緒山は少しだけ笑った。


もう一度、笑った。


笑っているうちに、涙がこぼれた。


---


夕食の時間だった。


父が、よそった味噌汁を差し出してくれた。


「熱いから気をつけろよ」


母は緒山の好きな厚揚げを箸で取り、そっと皿に入れてくれた。


「たくさん食べなさいね」


いつもと同じだった。

昔からずっと続いてきた、当たり前の優しさだった。


緒山はうつむいたまま、ご飯を一口ずつ口へ運んだ。


耳の奥で、またあの声がよみがえった。


『朋奈……いるのか?』


緒山は箸を握る手に力を込めた。


「朋奈?」


母の声に呼ばれ、我に返った。


顔を上げると、心配そうな目がこちらを見ていた。


「どうしたの? 具合悪い?」


「ううん」


緒山は首を振った。


「ちょっと考え事してただけ」


母はしばらく彼女を見ていた。

けれど、それ以上は聞かなかった。


父が隣で口を開く。


「明日は晴れるらしいぞ。少し外に出てみるか?」


「んー……また考える」


会話は続いていく。


父は会社の話をして、母は近所の猫の話をする。


いつも通りの日常。

いつも通りの声。


その穏やかさが、薄い毛布みたいに自分を包んでいた。


緒山は二人を見つめた。


父の髪には、また白いものが増えた気がした。

母の目尻の皺も、記憶より少し深くなっていた。


二人はずっと自分を守ってくれた。


小さい頃から。

そして今も。


最初の入院から、何度も続いた検査の日々も。

見知らぬ街への引っ越しも。

毎日の、気遣うような「今日はどうだった?」も。


ずっと、そばにいてくれた。


なのに。


自分には何もできない。


ある日突然、いなくなることしか。


二人に、失う痛みを残して。

石原にも、同じ痛みを残して。


目の奥が熱くなる。


泣くな。


もう子供じゃない。


込み上げてくる感情を、必死に押し込める。


喉が締めつけられる。

鼻の奥がつんと痛む。


それでも歯を食いしばり、声だけは漏らさなかった。


「朋奈」


母の手が、そっと手の甲を包んだ。


温かい。

少しだけ硬くて、乾いていて。

長い年月を重ねた手だった。


「何があってもね」


母は静かに言った。


「私たちはここにいるから」


緒山は息を止めた。


あのときと同じだった。


泉方へ引っ越してきたばかりの頃。

泣きじゃくる自分の手を、母は同じように握ってくれた。


長い時間をかけて。

遠回りをして。

たくさん歩いてきたはずなのに。


結局、自分はあの頃と同じだった。


母の胸で泣いていた、小さな子供のまま。


何も変わっていない。


もう泣くな。


緒山は深く息を吸った。

そして無理やり笑顔を作った。


「……うん。分かってる」


声が、少し震えた。


緒山は箸を置いた。


「ごちそうさま」


そして立ち上がり、茶碗を持って台所へ向かった。


背後で、母は何も言わなかった。


けれど、茶碗を持つ自分の手が、わずかに震えていた。


---


深夜。


緒山は一人、机の前に座っていた。


デスクライトの明かりが、机の上のノートを照らしている。

表紙に書かれた文字は、数日前よりさらに薄くなっていた。


緒山はノートを開いた。


一ページずつ、ゆっくりとめくっていく。


『海辺で一度、日の出を見る』(✓)


『カレーライスを作れるようになる』(✓)


『本当の友達を作る』(✓)


『こっそり恋をする』(✓)


『担任を困らせて泣かせる』( )


チェックの付いたものもあれば、付いていないものもあった。


緒山の手が、あるページで止まる。


文字が薄くなっていて、すぐには読めなかった。

顔を近づけて、ようやく読み取れた。


『一人で、静かにいなくなれますように』


緒山は動きを止めた。


(一人で……静かに、いなくなる)


あの写真を思い出す。


生徒会の集合写真。

みんなの顔ははっきり写っているのに、自分のいた場所だけが曖昧にぼやけていた。


あのときは、撮影した人の手ブレだと思った。


数日前のことも思い出す。


引き出しを整理していたとき、一枚のメモを見つけた。

書かれている文字がどうしても読めなかった。


あとになって気づいた。


あれは、自分で書いた字だった。


緒山はノートを表紙へ戻した。


そしてもう一度、表紙を見た。


――やっぱり。


そこに書かれた自分の名前は、昨日よりさらに薄くなっていた。


緒山は視線を落とし、自分の手を見た。


掌の線さえ、昨日より薄くなっている気がした。


ずっと恐れていたもの。


それが今は、救いの綱みたいに思えた。


(……これでいい)


緒山はペンを取った。


(一人で静かにいなくなる……私一人で)


そうすれば、誰も悲しまなくて済む。


そうすれば、お父さんもお母さんも、自分が消えていくところを見なくて済む。


石原だって、ちゃんと前へ進める。


緒山はその一行の後ろに、小さなチェックを付けた。


それからノートを閉じた。


目を閉じた。

能力を発動する。


窓の外が止まる。


階下からかすかに聞こえていたテレビの音も止まる。


すべてが止まった。


けれど、今度は――


もう、解除する気はなかった。

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