第一百二十一話
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【Another View――緒山朋奈】
緒山は膝を抱え込み、そこに顔をうずめていた。
スマホの画面は点いたままだった。
立花、花野、春野、杏。
届いているメッセージは、どれにも返せていない。
指を上へ滑らせる。
そして、もっと前のメッセージで止まった。
火曜日に、春野から送られてきたものだ。
『石原はもう知ってる。
他の人には言ってない。悪い、緒山』
緒山は、その「悪い」という文字を長いあいだ見つめていた。
やがてスマホを置き、もう一度膝に顔を埋めた。
机の引き出しは開いたままだった。
その中には、この数日でドアの下から差し込まれたメモが入っていた。
麻婆豆腐のこと。林の日差しのこと。杏が自分のことを聞いていたこと。
そして――『俺はまだいる』。
緒山はそれらを一列に並べた。
一度読んで。
また読んで。
何度も読み返した。
ドアの外は静かだった。
もう、彼は帰ったあとだった。
緒山は『俺はまだいる』と書かれた紙を握りしめた。
そして、手の甲に額を押し当てた。
(……バカな先輩)
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別の日。
世界が止まる。
緒山は静止した街を歩き、静止した校門をくぐった。
静止した廊下を進み、石原のクラスの後ろの扉へたどり着く。
昼休みだった。
教室の中では、誰もがその場で止まっている。
箸を持ち上げたままの生徒。首を傾けて話している途中の生徒。口を開けて笑いかけたままの生徒。
動けるのは、緒山だけだった。
彼女は教室の隅へ滑り込み、本棚の陰に身を隠した。
そして能力を解除した。
次の瞬間、喧騒が一気に耳へ流れ込んできた。
笑い声、食器の触れ合う音、椅子を引く音。
すべてが、何事もなかったように動き出す。
緒山は隅にしゃがみ込み、本棚の隙間から石原の席を覗いた。
石原は窓際の席で、数人の男子と一緒に弁当を食べていた。
誰かが何かを話している。
石原はそちらへ顔を向けて聞き――笑った。
ちゃんと、心から笑っていた。
「石原、最近なんか別人みたいに変わったよな」
「分かる。前はちょっと近寄りにくかったけどさ」
「やっぱり生徒会の副会長の影響じゃね?」
誰かがからかうように言った。
「なんだっけ、名前……緒山?」
緒山の頬が熱くなる。
思わず首をすくめた。
それでも気になって、本棚の隙間からもう一度こっそり覗いた。
どう答えるんだろう。
きっと否定する。
たぶん顔を赤くして、『変なこと言うな』とか言うに違いない。
そんなふうに慌てて言い訳する石原の姿を想像しているうちに、この数日、胸の中に溜まっていた重苦しさが少しだけ薄れていった。
自分でも気づかないうちに、口元が緩む。
そして、石原の声が聞こえた。
「うん」
緒山は固まった。
「俺、あいつのこと好きだよ」
石原は少しだけ頬を赤くしていた。
けれど、声はまっすぐだった。
「本当に好きだ。
一緒にいたいと思ってる」
教室が、一瞬だけ静まり返る。
その直後。
「うわぁぁぁっ!」
「石原お前ぇぇぇ!」
「いつからだよ!?」
「直球すぎるだろ!」
一斉に騒ぎ声が上がった。
緒山は本棚の陰に立ったまま、動けなかった。
耳の奥が、ぼうっと鳴っていた。
周りの声が、遠くなっていく。
聞こえるのは、さっきの言葉だけだった。
――俺、あいつのこと好きだよ。
――本当に好きだ。
――一緒にいたいと思ってる。
何度も。
何度も。
頭の中で繰り返される。
緒山は手を上げ、熱くなった顔を覆った。
そのときだった。
緒山は、石原の表情が変わるのを見た。
怪訝そうに眉をひそめたかと思うと、次の瞬間、胸元を押さえる。
唇が、かすかに震えていた。
(また……この顔?)
石原の顔色が、目に見えて白くなっていく。
(違う……違う!)
何が違うのか。
そこまで考えが追いつく前に、石原は顔を上げていた。
教室の中を見回した。
まるで、誰かを探すように。
「朋奈……いるのか?」
その声が、教室中の喧騒をすり抜けて、緒山の耳に届いた。
緒山はその場で固まった。
(どうして……先輩、私がいるって分かるの……?)
頭の中で、何かがひび割れた。
記憶の欠片が、次々と目の前に浮かび上がる。
泉方橋。
川へ飛び込み、能力で橋へ戻ったあの日。
あとで見た石原の顔色を、ただ疲れているだけだと思った。
教室の扉の前。
チャイムが鳴る瞬間に現れたとき。
視界の端で石原の顔色が悪くなるのを見ても、ただの偶然だと思い込んだ。
林の中。
初めて、能力を見せたあの日。
時間を止めて、移動して、解除した。
石原は胸を押さえていた。
顔色は青白く、唇もわずかに震えていた。
彼女がどうしたのかと聞くと、彼は言った。
『平気だ』
――いつも、そう言っていた。
(……毎回、気づいてたの?)
自分が能力を使っていたことも。
体調を崩す原因が、自分だったことも。
緒山は唇を強く噛み、胸元を押さえた。
また、痛む。
異能力なんて、やめるべきだ。
何度も、そう自分に言い聞かせた。
けれど、やめられなかった。
止まった世界には、鼓動がない。
いつ止まるか分からない、あの怖い心臓の音がない。
胸の痛みも。
病室の消毒液の匂いも。
両親の気遣うような視線も。
何もない。
あの世界では、自分は自由だった。
ちゃんと、生きていられた。
時間への執着は、罪悪感よりもずっと深かった。
だから回数を減らした。
前より慎重にもなった。
あるいは――
見ないふりをしていただけだ。
自分が彼を傷つけていることに。
気づいていないふりを、していただけだ。
先輩は知らないと思っていた。
でも。
知っていた。
最初から、知っていた。
それなのに先輩は、何も言わなかった。
まるで――自分の気持ちを気遣うみたいに。
(こんな私……)
「緒山さん? 学校来てたんだ」
不意に声がした。
緒山が振り向くと、教室の前に女子生徒が立っていた。
不思議そうな顔で、こちらを見ていた。
「いつ来たの?」
女子生徒は首を傾げた。
その表情が、一瞬だけぼんやりと揺れた。
「私、今ちょっとぼーっとしてて……。緒山さん、誰か探してるの?」
緒山は答えなかった。
静かに背を向け、そのまま廊下へ出た。
「えっ? 緒山さん?」
後ろから戸惑った声が聞こえた。
それでも、振り返らなかった。
校舎を出た。
再び、止まった世界へ。
誰もいない中庭に、一人で立った。
風は空中で止まっていた。
木の葉は枝先で静止している。
陽射しだけが巨大な琥珀みたいに、緒山をその中へ閉じ込めていた。
緒山はその場にしゃがみ込んだ。
膝を抱え、顔を埋める。
(こんな私が、先輩に釣り合うわけない……)
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緒山はまた、部屋に閉じこもった。
扉にもたれたまま、身体の奥から冷えていくようだった。
先輩は変わった。
本当に変わった。
もう、あの頃みたいに沈んだ顔ばかりしていた先輩じゃない。
止まった世界で一緒に過ごした昼休み。
毎日少しずつ距離を縮めていったこと。
何とか笑ってほしくて、頑張った瞬間。
その全部に、意味があった。
先輩は、ちゃんと笑えるようになった。
心から。
けれど――
自分がいなくなったあと、どうなるのだろう。
今、自分が先輩を笑わせれば笑わせるほど。
そのときは――
私は、間違えたんだろうか。
最初から、間違えていたんだろうか。
ふと、先輩の言葉を思い出す。
『俺、あいつのこと好きだよ。本当に好きだ。一緒にいたいと思ってる』
緒山は少しだけ笑った。
もう一度、笑った。
笑っているうちに、涙がこぼれた。
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夕食の時間だった。
父が、よそった味噌汁を差し出してくれた。
「熱いから気をつけろよ」
母は緒山の好きな厚揚げを箸で取り、そっと皿に入れてくれた。
「たくさん食べなさいね」
いつもと同じだった。
昔からずっと続いてきた、当たり前の優しさだった。
緒山はうつむいたまま、ご飯を一口ずつ口へ運んだ。
耳の奥で、またあの声がよみがえった。
『朋奈……いるのか?』
緒山は箸を握る手に力を込めた。
「朋奈?」
母の声に呼ばれ、我に返った。
顔を上げると、心配そうな目がこちらを見ていた。
「どうしたの? 具合悪い?」
「ううん」
緒山は首を振った。
「ちょっと考え事してただけ」
母はしばらく彼女を見ていた。
けれど、それ以上は聞かなかった。
父が隣で口を開く。
「明日は晴れるらしいぞ。少し外に出てみるか?」
「んー……また考える」
会話は続いていく。
父は会社の話をして、母は近所の猫の話をする。
いつも通りの日常。
いつも通りの声。
その穏やかさが、薄い毛布みたいに自分を包んでいた。
緒山は二人を見つめた。
父の髪には、また白いものが増えた気がした。
母の目尻の皺も、記憶より少し深くなっていた。
二人はずっと自分を守ってくれた。
小さい頃から。
そして今も。
最初の入院から、何度も続いた検査の日々も。
見知らぬ街への引っ越しも。
毎日の、気遣うような「今日はどうだった?」も。
ずっと、そばにいてくれた。
なのに。
自分には何もできない。
ある日突然、いなくなることしか。
二人に、失う痛みを残して。
石原にも、同じ痛みを残して。
目の奥が熱くなる。
泣くな。
もう子供じゃない。
込み上げてくる感情を、必死に押し込める。
喉が締めつけられる。
鼻の奥がつんと痛む。
それでも歯を食いしばり、声だけは漏らさなかった。
「朋奈」
母の手が、そっと手の甲を包んだ。
温かい。
少しだけ硬くて、乾いていて。
長い年月を重ねた手だった。
「何があってもね」
母は静かに言った。
「私たちはここにいるから」
緒山は息を止めた。
あのときと同じだった。
泉方へ引っ越してきたばかりの頃。
泣きじゃくる自分の手を、母は同じように握ってくれた。
長い時間をかけて。
遠回りをして。
たくさん歩いてきたはずなのに。
結局、自分はあの頃と同じだった。
母の胸で泣いていた、小さな子供のまま。
何も変わっていない。
もう泣くな。
緒山は深く息を吸った。
そして無理やり笑顔を作った。
「……うん。分かってる」
声が、少し震えた。
緒山は箸を置いた。
「ごちそうさま」
そして立ち上がり、茶碗を持って台所へ向かった。
背後で、母は何も言わなかった。
けれど、茶碗を持つ自分の手が、わずかに震えていた。
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深夜。
緒山は一人、机の前に座っていた。
デスクライトの明かりが、机の上のノートを照らしている。
表紙に書かれた文字は、数日前よりさらに薄くなっていた。
緒山はノートを開いた。
一ページずつ、ゆっくりとめくっていく。
『海辺で一度、日の出を見る』(✓)
『カレーライスを作れるようになる』(✓)
『本当の友達を作る』(✓)
『こっそり恋をする』(✓)
『担任を困らせて泣かせる』( )
チェックの付いたものもあれば、付いていないものもあった。
緒山の手が、あるページで止まる。
文字が薄くなっていて、すぐには読めなかった。
顔を近づけて、ようやく読み取れた。
『一人で、静かにいなくなれますように』
緒山は動きを止めた。
(一人で……静かに、いなくなる)
あの写真を思い出す。
生徒会の集合写真。
みんなの顔ははっきり写っているのに、自分のいた場所だけが曖昧にぼやけていた。
あのときは、撮影した人の手ブレだと思った。
数日前のことも思い出す。
引き出しを整理していたとき、一枚のメモを見つけた。
書かれている文字がどうしても読めなかった。
あとになって気づいた。
あれは、自分で書いた字だった。
緒山はノートを表紙へ戻した。
そしてもう一度、表紙を見た。
――やっぱり。
そこに書かれた自分の名前は、昨日よりさらに薄くなっていた。
緒山は視線を落とし、自分の手を見た。
掌の線さえ、昨日より薄くなっている気がした。
ずっと恐れていたもの。
それが今は、救いの綱みたいに思えた。
(……これでいい)
緒山はペンを取った。
(一人で静かにいなくなる……私一人で)
そうすれば、誰も悲しまなくて済む。
そうすれば、お父さんもお母さんも、自分が消えていくところを見なくて済む。
石原だって、ちゃんと前へ進める。
緒山はその一行の後ろに、小さなチェックを付けた。
それからノートを閉じた。
目を閉じた。
能力を発動する。
窓の外が止まる。
階下からかすかに聞こえていたテレビの音も止まる。
すべてが止まった。
けれど、今度は――
もう、解除する気はなかった。




