第一百二十話
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【十月一日・火曜日】
放課後、石原は家路を歩いていた。
家に帰っている、というより、ただ機械的に足を前へ出しているだけだった。
夕陽に伸びた影が、アスファルトの上へ長く落ちている。
まるで重いものを引きずって歩く人間みたいに、足取りはやけに重かった。
石原はうつむいた。
昼に春野から聞かされた言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
『俺が知ってるのは、これだけだ』
『緒山は……ずっとお前に隠してた』
『あいつは、お前に悪い思い出を残したくなかったんだ』
石原は一度、目を閉じた。
(俺は、あいつが消えていくのを、ただ見ているしかできないのか……?)
「先輩!」
背後から、聞き慣れた声がした。
石原が我に返って振り向くと、立花が小走りで追いかけてきていた。
「奇遇ですね!」
彼女は石原の隣まで来ると、少し息を弾ませた。
「今日、日直が早く終わったんです。同じ電車にはもう間に合わないかと思ってました」
「……そうか」
石原はそう返した。
「立花さんの家、反対方向じゃなかったか?」
「えっと……」
立花は答えなかった。
石原も、それ以上は聞かなかった。
彼女はちらりと石原の横顔を見て、少し歩く速度を落とした。
「先輩、あまり顔色よくないです」
石原は否定しなかった。
二人は並んで駅へ向かった。
放課後の人波が、すぐ横を流れていく。
笑い声、足音、自転車のベルが、雑多に混ざり合っていた。
石原はそれを聞きながら、ふと、そのどれもが遠く感じられた。
「そういえば」
立花が何かを思い出したように言った。
「朋奈ちゃん、今日、学校に来てないんですか? 午前中にクラスへ届け物に行ったんですけど、席が空いてて」
石原の足が、わずかに鈍った。
春野の言葉がよみがえる。
『立花には、まだ言ってない。決めるのはお前だ』
(言うべきなのか……?)
毎日笑顔で「美里ちゃん」と呼んでくれた人。
彼女がいちばん崩れそうだったとき、抱きしめてくれた人。
暗闇の中から、少しずつ連れ出してくれた人。
そんな緒山の残り時間が、もう数えられていることを。
石原の指が、かすかに強張った。
「……あいつ、あまり状態がよくないらしい」
立花は二秒ほど黙った。
「……そう、ですか」
返ってきたその声は、とても静かだった。
「私、朋奈ちゃんに会いに行きたいです。いいですか?」
石原はしばらく黙っていた。
緒山の言葉が脳裏に浮かぶ。
『少しだけ、準備する時間がほしいんです』
彼女の言う“準備”とは。
みんなが、彼女のいない日々に慣れていくためのものなのだろうか。
「あいつは、たぶん……」
石原の声は、少しかすれていた。
「俺たちに、忘れてほしいんじゃないかって」
だから彼女は、一人で準備して。
一人で消えて。
一人で忘れられようとしている。
残された人間が、悲しまなくて済むように。
立花が足を止めた。
石原も立ち止まった。
けれど、振り向かなかった。
背後で、数秒だけ沈黙が落ちる。
やがて立花は石原の隣へ来て、夕陽に赤く染まった空を一緒に見つめた。
「先輩……」
その声は小さいけれど、まっすぐだった。
「私、昔は誰かに忘れられるのが、すごく怖かったんです」
石原は横目で彼女を見た。
「あの頃は、必死に服を変えて、必死に特別に見えるようにしてました。そうすれば、誰からも無視されないと思ってたんです」
立花はそこで、少しだけ言葉を切った。
「でも、違いました。本当に“覚えられる”って、何か特別なことをすることじゃないんです」
彼女は石原を見た。
「誰かの心の中に、ちゃんと置いてもらえることなんです」
石原は何も言わなかった。
「会長から、何か聞いたんですよね」
立花が石原を見ると、石原は少し後ろめたくなって、視線を外す。
「何があったのか、詳しくは分かりません。でも、なんとなく察しはつきます。朋奈ちゃんのことですよね?」
石原は黙ったまま、うなずいた。
立花は小さく息を吸った。
それから、笑った。
「先輩。私、朋奈ちゃんが今どうなってるのかは分かりません。でも、一つだけ分かることがあります」
「……何だ」
「朋奈ちゃんは、先輩のことをちゃんと心に置いてます。最初から、ずっと」
石原の喉が、小さく動いた。
「だから――」
立花は石原を見つめる。
「私たちに忘れてほしいとか、会いに来てほしくないとか。たとえ朋奈ちゃんがそう思っていたとしても――それは、朋奈ちゃんの考えです」
彼女は向きを変え、反対方向へ歩き出した。
「私は、朋奈ちゃんのことを忘れません。何があっても」
数歩進んでから、立花は振り返った。
その笑顔には、いつもの少しだけいたずらっぽい色が戻っていた。
「もちろん、先輩が行くなって言うなら、行きません。
私は先輩を信じてますから。じゃ、帰りますね。さよなら!」
夕陽が、彼女の影を長く伸ばしていた。
その影が、石原の影と重なった。
石原はその場に立ったまま、遠ざかっていく背中を見つめていた。
ふと、ずっと前のことを思い出す。
立花がいちばん崩れそうだった、あの日。
自分が彼女に言った言葉。
『あいつはただ、少し時間が必要なんだ。まだ向き合う準備ができていないものと、向き合うための時間が』
今度は、石原の番だった。
遠くから、電車が駅に入ってくる音が聞こえた。
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石原は緒山の家に来ていた。
そのマンションは、いつもと変わらなかった。
ベランダには洗濯物が干され、窓辺には鉢植えが並んでいる。
夕陽が、ガラスに淡く反射していた。
何もかも、いつも通りに見えた。
それでも石原はマンションの前で三度深呼吸をしてから、インターホンを押した。
ドアを開けたのは、緒山の母親だった。
石原の姿を見ると、一瞬だけ目を見開いた。
それから、何でもないふりをするように、疲れた笑みを浮かべた。
「朋奈に会いに来ました」
緒山の母親は一度、奥のほうへ視線を向けた。
それから、声を落とした。
「……あの子、ずっと部屋にこもったままなの。
昨日から、一度も出てきてなくて」
石原は小さくうなずいた。
靴を脱ぎ、緒山の部屋へ向かった。
静まり返った家の中では、自分の足音だけが妙にはっきり聞こえた。
部屋の扉の前で立ち止まり、ノックする。
一回。二回。三回。
返事はない。
もう一度だけ叩いた。
「朋奈」
中は静かだった。
本当に、扉の向こうに誰かいるのか疑いたくなるほどに。
石原はそれ以上ノックをせず、その場に腰を下ろした。
扉の脇の壁にもたれ、足を伸ばした。
あの日、林で彼女が話し出すのを待っていたときと同じ姿勢だった。
「様子を見に来ただけだ。出てこなくてもいい」
沈黙。
「ただ、これだけは知っておいてほしくてな」
石原は少し言葉を切った。
「俺は、ここにいる」
廊下は静かだった。
遠くで緒山の母親が歩く気配がした。
食器が触れ合う小さな音も聞こえた。
夕陽が廊下の突き当たりの窓から差し込み、床に長方形の光を落としている。
石原はそれ以上、何も言わなかった。
ただそこに座ったまま、その光が少しずつ暗くなり、薄れて、やがて消えていくのを見ていた。
立ち上がって帰ろうとしたとき、石原はもう一度だけ扉を見た。
扉は、相変わらず閉ざされたままだった。
翌日の放課後も、石原は来た。
ノックをした。返事はない。
扉の前に座り、少しだけ話して、それから帰った。
三日目。
石原は紙片を一枚持ってきた。
ノートから破った紙に、短くこう書いてあった。
――杏が今日、麻婆豆腐を作ってみた。
朋奈に教わったやつらしい。なかなか美味かった。
その紙を、ドアの下の隙間から差し込んだ。
四日目。
また別の一枚。
――林の日差しがよかった。
朋奈も見に来たほうがいい。
五日目。
――杏が朋奈のことを聞いてきた。
試験勉強中だって言ったら、白い目で見られた。
八日目。
――俺はまだいる。
九日目の夕方。
石原はいつものように来た。
いつものようにノックをして。
いつものように返事はなかった。
扉の前に座り、背を預けた。
そして静かに目を閉じた。
廊下は静まり返っていた。
自分の呼吸さえ聞こえるほどに。
そのときだった。
聞こえた。
かすかに。
本当に、かすかに。
扉の向こう側から、呼吸の音がした。
石原は目を開けなかった。
声もかけなかった。
ただ壁にもたれたまま、その音を静かに聞いていた。
彼女は、いる。
まだ、ここにいる。
夕陽が差し込み、その光が石原の身体を静かに照らしていた。




