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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十三章 消えゆく痕――ただ、静かに消えたいだけ
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第一百二十話

---


【十月一日・火曜日】


放課後、石原は家路を歩いていた。


家に帰っている、というより、ただ機械的に足を前へ出しているだけだった。


夕陽に伸びた影が、アスファルトの上へ長く落ちている。

まるで重いものを引きずって歩く人間みたいに、足取りはやけに重かった。


石原はうつむいた。


昼に春野から聞かされた言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。


『俺が知ってるのは、これだけだ』


『緒山は……ずっとお前に隠してた』


『あいつは、お前に悪い思い出を残したくなかったんだ』


石原は一度、目を閉じた。


(俺は、あいつが消えていくのを、ただ見ているしかできないのか……?)


「先輩!」


背後から、聞き慣れた声がした。


石原が我に返って振り向くと、立花が小走りで追いかけてきていた。


「奇遇ですね!」


彼女は石原の隣まで来ると、少し息を弾ませた。


「今日、日直が早く終わったんです。同じ電車にはもう間に合わないかと思ってました」


「……そうか」


石原はそう返した。


「立花さんの家、反対方向じゃなかったか?」


「えっと……」


立花は答えなかった。

石原も、それ以上は聞かなかった。


彼女はちらりと石原の横顔を見て、少し歩く速度を落とした。


「先輩、あまり顔色よくないです」


石原は否定しなかった。


二人は並んで駅へ向かった。


放課後の人波が、すぐ横を流れていく。

笑い声、足音、自転車のベルが、雑多に混ざり合っていた。


石原はそれを聞きながら、ふと、そのどれもが遠く感じられた。


「そういえば」


立花が何かを思い出したように言った。


「朋奈ちゃん、今日、学校に来てないんですか? 午前中にクラスへ届け物に行ったんですけど、席が空いてて」


石原の足が、わずかに鈍った。


春野の言葉がよみがえる。


『立花には、まだ言ってない。決めるのはお前だ』


(言うべきなのか……?)


毎日笑顔で「美里ちゃん」と呼んでくれた人。

彼女がいちばん崩れそうだったとき、抱きしめてくれた人。

暗闇の中から、少しずつ連れ出してくれた人。


そんな緒山の残り時間が、もう数えられていることを。


石原の指が、かすかに強張った。


「……あいつ、あまり状態がよくないらしい」


立花は二秒ほど黙った。


「……そう、ですか」


返ってきたその声は、とても静かだった。


「私、朋奈ちゃんに会いに行きたいです。いいですか?」


石原はしばらく黙っていた。


緒山の言葉が脳裏に浮かぶ。


『少しだけ、準備する時間がほしいんです』


彼女の言う“準備”とは。


みんなが、彼女のいない日々に慣れていくためのものなのだろうか。


「あいつは、たぶん……」


石原の声は、少しかすれていた。


「俺たちに、忘れてほしいんじゃないかって」


だから彼女は、一人で準備して。

一人で消えて。

一人で忘れられようとしている。


残された人間が、悲しまなくて済むように。


立花が足を止めた。


石原も立ち止まった。

けれど、振り向かなかった。


背後で、数秒だけ沈黙が落ちる。


やがて立花は石原の隣へ来て、夕陽に赤く染まった空を一緒に見つめた。


「先輩……」


その声は小さいけれど、まっすぐだった。


「私、昔は誰かに忘れられるのが、すごく怖かったんです」


石原は横目で彼女を見た。


「あの頃は、必死に服を変えて、必死に特別に見えるようにしてました。そうすれば、誰からも無視されないと思ってたんです」


立花はそこで、少しだけ言葉を切った。


「でも、違いました。本当に“覚えられる”って、何か特別なことをすることじゃないんです」


彼女は石原を見た。


「誰かの心の中に、ちゃんと置いてもらえることなんです」


石原は何も言わなかった。


「会長から、何か聞いたんですよね」


立花が石原を見ると、石原は少し後ろめたくなって、視線を外す。


「何があったのか、詳しくは分かりません。でも、なんとなく察しはつきます。朋奈ちゃんのことですよね?」


石原は黙ったまま、うなずいた。


立花は小さく息を吸った。

それから、笑った。


「先輩。私、朋奈ちゃんが今どうなってるのかは分かりません。でも、一つだけ分かることがあります」


「……何だ」


「朋奈ちゃんは、先輩のことをちゃんと心に置いてます。最初から、ずっと」


石原の喉が、小さく動いた。


「だから――」


立花は石原を見つめる。


「私たちに忘れてほしいとか、会いに来てほしくないとか。たとえ朋奈ちゃんがそう思っていたとしても――それは、朋奈ちゃんの考えです」


彼女は向きを変え、反対方向へ歩き出した。


「私は、朋奈ちゃんのことを忘れません。何があっても」


数歩進んでから、立花は振り返った。

その笑顔には、いつもの少しだけいたずらっぽい色が戻っていた。


「もちろん、先輩が行くなって言うなら、行きません。

私は先輩を信じてますから。じゃ、帰りますね。さよなら!」


夕陽が、彼女の影を長く伸ばしていた。

その影が、石原の影と重なった。


石原はその場に立ったまま、遠ざかっていく背中を見つめていた。


ふと、ずっと前のことを思い出す。


立花がいちばん崩れそうだった、あの日。

自分が彼女に言った言葉。


『あいつはただ、少し時間が必要なんだ。まだ向き合う準備ができていないものと、向き合うための時間が』


今度は、石原の番だった。


遠くから、電車が駅に入ってくる音が聞こえた。


---


石原は緒山の家に来ていた。


そのマンションは、いつもと変わらなかった。


ベランダには洗濯物が干され、窓辺には鉢植えが並んでいる。

夕陽が、ガラスに淡く反射していた。


何もかも、いつも通りに見えた。


それでも石原はマンションの前で三度深呼吸をしてから、インターホンを押した。


ドアを開けたのは、緒山の母親だった。


石原の姿を見ると、一瞬だけ目を見開いた。

それから、何でもないふりをするように、疲れた笑みを浮かべた。


「朋奈に会いに来ました」


緒山の母親は一度、奥のほうへ視線を向けた。

それから、声を落とした。


「……あの子、ずっと部屋にこもったままなの。

昨日から、一度も出てきてなくて」


石原は小さくうなずいた。


靴を脱ぎ、緒山の部屋へ向かった。

静まり返った家の中では、自分の足音だけが妙にはっきり聞こえた。


部屋の扉の前で立ち止まり、ノックする。


一回。二回。三回。


返事はない。


もう一度だけ叩いた。


「朋奈」


中は静かだった。

本当に、扉の向こうに誰かいるのか疑いたくなるほどに。


石原はそれ以上ノックをせず、その場に腰を下ろした。

扉の脇の壁にもたれ、足を伸ばした。

あの日、林で彼女が話し出すのを待っていたときと同じ姿勢だった。


「様子を見に来ただけだ。出てこなくてもいい」


沈黙。


「ただ、これだけは知っておいてほしくてな」


石原は少し言葉を切った。


「俺は、ここにいる」


廊下は静かだった。

遠くで緒山の母親が歩く気配がした。

食器が触れ合う小さな音も聞こえた。


夕陽が廊下の突き当たりの窓から差し込み、床に長方形の光を落としている。


石原はそれ以上、何も言わなかった。

ただそこに座ったまま、その光が少しずつ暗くなり、薄れて、やがて消えていくのを見ていた。


立ち上がって帰ろうとしたとき、石原はもう一度だけ扉を見た。


扉は、相変わらず閉ざされたままだった。


翌日の放課後も、石原は来た。


ノックをした。返事はない。


扉の前に座り、少しだけ話して、それから帰った。


三日目。


石原は紙片を一枚持ってきた。


ノートから破った紙に、短くこう書いてあった。


――杏が今日、麻婆豆腐を作ってみた。

 朋奈に教わったやつらしい。なかなか美味かった。


その紙を、ドアの下の隙間から差し込んだ。


四日目。


また別の一枚。


――林の日差しがよかった。

 朋奈も見に来たほうがいい。


五日目。


――杏が朋奈のことを聞いてきた。

 試験勉強中だって言ったら、白い目で見られた。


八日目。


――俺はまだいる。


九日目の夕方。


石原はいつものように来た。


いつものようにノックをして。

いつものように返事はなかった。


扉の前に座り、背を預けた。

そして静かに目を閉じた。


廊下は静まり返っていた。

自分の呼吸さえ聞こえるほどに。


そのときだった。


聞こえた。


かすかに。

本当に、かすかに。


扉の向こう側から、呼吸の音がした。


石原は目を開けなかった。

声もかけなかった。


ただ壁にもたれたまま、その音を静かに聞いていた。


彼女は、いる。


まだ、ここにいる。


夕陽が差し込み、その光が石原の身体を静かに照らしていた。

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