第一百一十九話
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【その五】
数週間が過ぎた。
昼休み、緒山は生徒会室の扉をノックした。
「どうぞ」
扉を開けて中に入る。
春野は机に向かって書類に目を通していたが、顔を上げて彼女を見ると、一瞬だけ意外そうな表情を浮かべた。
「緒山? どうした」
緒山は向かいの椅子に座り、まっすぐ春野を見た。
「会長。私……二年生になりたいです」
春野の手が止まった。
まっすぐに彼女を見る。
数秒の沈黙。
「理由は? ……いや、そもそも現実的じゃない」
「早く、二年生になりたいんです」
「それだけか?」
「それだけです」
春野はペンを置き、椅子にもたれかかった。
眉間に手を当て、少し迷うように目を閉じる。
「自分の体のこと、分かってるのか?」
緒山は答えなかった。
春野は続けた。
「医者からも話は聞いてる。会長として、フォロー担当として、知っておく必要があるからな。
君の状態は――」
「分かってます」
緒山が遮った。
「前より悪くなってることも、残された時間が多くないかもしれないことも、負担が増えれば体に良くないことも」
その口調は落ち着いていた。
まるで他人事のように。
「それでも……先輩」
緒山は春野の目を見た。
「私は、あの人の隣に立ちたいんです」
春野の眉が、わずかに動いた。
「守られる側じゃなくて。
隣に立てる側として」
沈黙が落ちる。
春野は彼女を見つめた。
いつも冷静なその目に、わずかな揺らぎがあった。
「彼がどんな人間か、分かってるのか?」
「分かってます」
「今のあいつが――」
「分かってます」
緒山はもう一度、言葉を遮った。
「一人で抱え込んでいることも、噂がどれだけひどいかも、毎日あの林に行っていることも」
「何も言い訳せず、愚痴も言わず、誰にも頼らずにいることも」
一拍、間を置いた。
「だから、私は隣に立ちたいんです」
春野は長いあいだ黙っていた。
やがて、小さく息をついた。
「気持ちは分かる。でも、原則として――」
「原則として、この学校では飛び級は認められていません」
春野の言葉を遮るように、そばで本を読んでいた女子が口を開いた。
――花野真汐。
生徒会に来てから、彼女の声を聞いたのは初めてだった。
「ただし、緒山のケースは例外に当たる可能性があります。
それに、ここ数回の試験結果を見る限り、成績も非常に優秀です」
――緒山はこの数週間、成績が出るのを待ってから、ここに来ていた。
花野は視線だけを春野へ向けた。
「『飛び級』ではなく、『編入』扱いにするのであれば、現実的だと思います」
そう言うと、また本へ目を落とした。
「でも、編入って同じ学年の……あ、そっか……! あ、ありがとうございます、花野さん!」
緒山はぱっと顔を輝かせ、春野を見た。
春野はその表情を見て、苦笑する。
「そこまで言うなら、手続きは手伝ってやる。
学業のフォローは、自分でどうにかしろ」
「ありがとうございます、会長」
「ただし――」
春野の声が低くなった。
「本当に、それでいいのか?」
緒山は答えなかった。
「近づいて、覚えられて、重要な存在になる――
そのあと、どうするつもりだ」
緒山は視線を落とした。
「言いません」
「……何をだ?」
「私の病気のこと。言いません」
春野の眉が寄った。
花野もちらりと彼女を見た。
「緒山、それは――!」
「会長」
緒山は顔を上げた。
その目には、すがるような色も、弱さもなかった。
ただ、静かな強さがあった。
「彼にとって、私はただの普通の女の子でいたいんです。
笑ったり、ふざけたり、怒ったりする――そういう普通の」
言いながら、少しだけ目を伏せて、やわらかく笑った。
「『あとどれくらい生きられるか分からない患者』じゃなくて。
壊れ物みたいに扱われる存在でもなくて」
「……本気か?」
「本気です」
春野は黙り込んだ。
「かわいそうだから優しくされるのは、嫌なんです。
優しくしてくれるなら――ただ、私が私だからであってほしい」
窓の外から差し込む光が、彼女の横顔を照らした。
その目元が、わずかにきらめいていた。
「たとえ短い時間でも。
たとえ最後に……それでも、覚えていてもらえるのが、笑っていた私ならいいんです」
春野は彼女を見つめた。
長い沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「……分かった」
緒山は立ち上がり、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、会長」
そのまま踵を返そうとした。
「緒山」
呼び止める声がした。
彼女は足を止めた。
「俺からは言わない。だが――」
一拍、間を置いた。
「もしあいつが違和感を覚えて、俺に聞いてきたら……そのときは、隠さない」
緒山は振り返らないまま、小さくうなずいた。
「分かっています」
そして、扉を開けて外へ出ていった。
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生徒会室には、春野と花野の二人だけが残っていた。
陽射しが机の上に差し込み、生徒会メンバーの名簿を照らしていた。
春野は、「緒山朋奈」と書かれた名前を、しばらく見つめていた。
やがてスマートフォンを取り出し、写真フォルダを開いた。
一枚の写真。
数日前に撮った、生徒会メンバー全員の集合写真だった。
中央に立つ春野。
その左に花野、右に立花。
そして――自分の隣。
そこに、ひとり写っている。
だが、その人物の輪郭はぼやけていた。
ピントが合っていないような、
あるいは何かに邪魔されたような、不自然な歪み。
春野は、その曖昧な人影をじっと見つめた。
しばらくして、スマートフォンをロックした。
「会長、考えすぎる必要はありません」
隣で荷物をまとめていた花野が、淡々と告げた。
「どういう意味だ?」
「少なくとも、あの子は軽い気持ちで言っているようには見えません」
「それは分かってる。ただ……」
春野は言葉を濁した。
これから先、何が起こるのか。
まだ分からない。
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その日の夜。
緒山は新しい部屋の机に向かっていた。
窓の外には見慣れない夜景。
街灯が道を、やわらかな橙色に染めている。
ノートを開いた。
前のほうのページの文字が、さらに薄くなっていた。
それ以上は見ないようにして、すぐに新しいページを開いた。
ペンを取った。
「彼に近づくための計画」
そう書き、下に項目を書き連ねていった。
「編入して、彼と同じクラスになる」
「生徒会に誘って、日常的に関わる機会を作る」
「まずは、自分の存在に気づかせる」
ペン先が止まる。
どうやって、気づかせるか。
ふと思い出した。
ある日、泉方橋の近くで彼を見かけたことがある。
もしかして――
緒山は靴も履き替えずに家を飛び出した。
一軒一軒、表札を確かめて歩いた。
二階に着いた。
彼女の家の、真上の部屋。
緒山は息を吸い込んだ。
石原。
「……そ、そんなことってあるの」
緒山は目を見開いた。
あまりに不思議な縁に、胸がざわついた。
突然、ドアが開いた。
緒山は慌ててその場を離れ、ちょうど通りかかった隣人のふりをした。
「お兄ちゃん、お菓子買ってくるね!」
「気をつけてな、杏」
緒山はこっそりとその様子をうかがう。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
部屋に戻り、椅子に座り直す。
緒山は再びペンを取った。
彼女は自分の能力を思い出した。――止まった世界。
もし、あれを使えば――
彼女は書き続けた。
「橋の上で『偶然』を作って、顔を覚えてもらう」
「それでも足りなければ、『特別な出来事』を起こす――
例えば、目の前で飛び降りて、助けてもらう」
そこまで書いて、思わず笑った。
――さすがにどうかしてる。
それでも、手は止まらない。
「能力で教室に戻って、『特別』だと気づかせる」
「少しずつ距離を縮めて、話せる関係になる」
「林の中は、一人きりでいる場所じゃなくてもいいと気づかせる」
一行ずつ、丁寧に書き込んでいった。
書き終えて、そのページを見つめた。
ぎっしりと並んだ計画。
彼に近づくための理由で、ページはいっぱいだった。
やがて、このページはすべてチェックで埋まることになる。
けれど、本当の理由は一つだけだった。
彼女は前のページをめくった。
そこには、一行の文字。
ほとんど消えかけている。
「あのバカな先輩を見つけて、伝える。空は落ちてこなかったし、すごく青かったって」
その文字を、長いあいだ見つめた。
そして、その後ろに、小さくチェックをつけた。
――紙の上ではなく、心の中で。
あの午後から。
あの不器用な言葉を聞いた瞬間から。
初めて、ちゃんと彼を見たあのときから。
もう分かっていた。
自分は、この人に近づきたいのだと。
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それからの日々、彼女は計画を一つずつ実行に移していった。
手続きは、思ったよりも順調に進んだ。
春野の仕事は、いつだって早い。
四月の半ば。
彼女は二年生になった。
彼と同じクラスではなかったけれど。
ある日、緒山は能力を使って、こっそり彼の教室へ入った。
初めてその教室に足を踏み入れた瞬間、一目で彼を見つけた。
窓際の席に、一人で座っている。
外を見つめている。
あの林で見た彼と、まったく同じだった。
彼女は、その斜め後ろの席に座った。
彼は知らない。
何も知らない。
彼女がずっと前から彼を見ていたこと。
止まった世界の中で、何度もこっそり隣で昼食を食べていたこと。
編入して、生徒会に入り、いろんなことをしてきた理由が、全部彼に近づくためだったこと。
そして――
彼の目に「きらきらしている」ように映る少女が、
胸の奥にどれほど言葉にできない後ろめたさと、恐怖と、願いを抱えているのかも。
でも、急がなくていい。
時間はある。
少なくとも、まだ少しだけは。
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五月六日。早朝。
彼女はいつもより早く泉方橋へ来ていた。
橋の上に立ち、景色を眺めているふりをした。
風が髪を揺らした。
少し冷たい。
ふと、自分の手を見下ろした。
手のひらの線は、昨日よりまた少し薄くなっていた。
彼女は拳を握りしめ、道の向こうへ目を向けた。
そこに、一人の姿があった。
ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
胸が、どくんと鳴った。
本物の、少し痛いくらいの鼓動。
緒山は深く息を吸った。
用意していた台詞。
何度も練習した、
「おはようございます」
「偶然ですね」
「先輩もこの道なんですか」
――全部、消えてしまった。
残ったのは、ぎこちない一言だけ。
「おはようございます」
彼は少しだけ固まった。
――聞こえていないのだろうか。
緒山は笑った。
陽の光が泉方橋に降り注ぐ。
彼女にも、彼にも。
彼は知らない。
何も知らない。
でも、それでいい。
今日から――
少しずつ、知ってもらえばいい。
ゆっくりでいい。
この世界には、ずっと彼を見ていた人がいるのだと。
ずっと伝えたかったのだと。
ほら。
空は、本当に落ちてこなかったよ。
それに、あなたがいたから――
こんなにもきれいな、青い空になったんだ。
川の水は、静かに流れていた。
夏は、まだ始まったばかりだった。




