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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十二章 彼方の日々――僕の見えない場所で
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第一百一十九話

---


【その五】


数週間が過ぎた。


昼休み、緒山は生徒会室の扉をノックした。


「どうぞ」


扉を開けて中に入る。


春野は机に向かって書類に目を通していたが、顔を上げて彼女を見ると、一瞬だけ意外そうな表情を浮かべた。


「緒山? どうした」


緒山は向かいの椅子に座り、まっすぐ春野を見た。


「会長。私……二年生になりたいです」


春野の手が止まった。


まっすぐに彼女を見る。


数秒の沈黙。


「理由は? ……いや、そもそも現実的じゃない」


「早く、二年生になりたいんです」


「それだけか?」


「それだけです」


春野はペンを置き、椅子にもたれかかった。

眉間に手を当て、少し迷うように目を閉じる。


「自分の体のこと、分かってるのか?」


緒山は答えなかった。


春野は続けた。


「医者からも話は聞いてる。会長として、フォロー担当として、知っておく必要があるからな。

君の状態は――」


「分かってます」


緒山が遮った。


「前より悪くなってることも、残された時間が多くないかもしれないことも、負担が増えれば体に良くないことも」


その口調は落ち着いていた。

まるで他人事のように。


「それでも……先輩」


緒山は春野の目を見た。


「私は、あの人の隣に立ちたいんです」


春野の眉が、わずかに動いた。


「守られる側じゃなくて。

隣に立てる側として」


沈黙が落ちる。


春野は彼女を見つめた。


いつも冷静なその目に、わずかな揺らぎがあった。


「彼がどんな人間か、分かってるのか?」


「分かってます」


「今のあいつが――」


「分かってます」


緒山はもう一度、言葉を遮った。


「一人で抱え込んでいることも、噂がどれだけひどいかも、毎日あの林に行っていることも」


「何も言い訳せず、愚痴も言わず、誰にも頼らずにいることも」


一拍、間を置いた。


「だから、私は隣に立ちたいんです」


春野は長いあいだ黙っていた。

やがて、小さく息をついた。


「気持ちは分かる。でも、原則として――」


「原則として、この学校では飛び級は認められていません」


春野の言葉を遮るように、そばで本を読んでいた女子が口を開いた。


――花野真汐。


生徒会に来てから、彼女の声を聞いたのは初めてだった。


「ただし、緒山のケースは例外に当たる可能性があります。

それに、ここ数回の試験結果を見る限り、成績も非常に優秀です」


――緒山はこの数週間、成績が出るのを待ってから、ここに来ていた。


花野は視線だけを春野へ向けた。


「『飛び級』ではなく、『編入』扱いにするのであれば、現実的だと思います」


そう言うと、また本へ目を落とした。


「でも、編入って同じ学年の……あ、そっか……! あ、ありがとうございます、花野さん!」


緒山はぱっと顔を輝かせ、春野を見た。


春野はその表情を見て、苦笑する。


「そこまで言うなら、手続きは手伝ってやる。

学業のフォローは、自分でどうにかしろ」


「ありがとうございます、会長」


「ただし――」


春野の声が低くなった。


「本当に、それでいいのか?」


緒山は答えなかった。


「近づいて、覚えられて、重要な存在になる――

そのあと、どうするつもりだ」


緒山は視線を落とした。


「言いません」


「……何をだ?」


「私の病気のこと。言いません」


春野の眉が寄った。

花野もちらりと彼女を見た。


「緒山、それは――!」


「会長」


緒山は顔を上げた。


その目には、すがるような色も、弱さもなかった。

ただ、静かな強さがあった。


「彼にとって、私はただの普通の女の子でいたいんです。

笑ったり、ふざけたり、怒ったりする――そういう普通の」


言いながら、少しだけ目を伏せて、やわらかく笑った。


「『あとどれくらい生きられるか分からない患者』じゃなくて。

壊れ物みたいに扱われる存在でもなくて」


「……本気か?」


「本気です」


春野は黙り込んだ。


「かわいそうだから優しくされるのは、嫌なんです。

優しくしてくれるなら――ただ、私が私だからであってほしい」


窓の外から差し込む光が、彼女の横顔を照らした。

その目元が、わずかにきらめいていた。


「たとえ短い時間でも。

たとえ最後に……それでも、覚えていてもらえるのが、笑っていた私ならいいんです」


春野は彼女を見つめた。


長い沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。


「……分かった」


緒山は立ち上がり、深く頭を下げた。


「ありがとうございます、会長」


そのまま踵を返そうとした。


「緒山」


呼び止める声がした。


彼女は足を止めた。


「俺からは言わない。だが――」


一拍、間を置いた。


「もしあいつが違和感を覚えて、俺に聞いてきたら……そのときは、隠さない」


緒山は振り返らないまま、小さくうなずいた。


「分かっています」


そして、扉を開けて外へ出ていった。


---


生徒会室には、春野と花野の二人だけが残っていた。


陽射しが机の上に差し込み、生徒会メンバーの名簿を照らしていた。


春野は、「緒山朋奈」と書かれた名前を、しばらく見つめていた。


やがてスマートフォンを取り出し、写真フォルダを開いた。


一枚の写真。


数日前に撮った、生徒会メンバー全員の集合写真だった。


中央に立つ春野。

その左に花野、右に立花。


そして――自分の隣。


そこに、ひとり写っている。


だが、その人物の輪郭はぼやけていた。


ピントが合っていないような、

あるいは何かに邪魔されたような、不自然な歪み。


春野は、その曖昧な人影をじっと見つめた。


しばらくして、スマートフォンをロックした。


「会長、考えすぎる必要はありません」


隣で荷物をまとめていた花野が、淡々と告げた。


「どういう意味だ?」


「少なくとも、あの子は軽い気持ちで言っているようには見えません」


「それは分かってる。ただ……」


春野は言葉を濁した。


これから先、何が起こるのか。


まだ分からない。


---


その日の夜。


緒山は新しい部屋の机に向かっていた。


窓の外には見慣れない夜景。

街灯が道を、やわらかな橙色に染めている。


ノートを開いた。


前のほうのページの文字が、さらに薄くなっていた。


それ以上は見ないようにして、すぐに新しいページを開いた。


ペンを取った。


「彼に近づくための計画」


そう書き、下に項目を書き連ねていった。


「編入して、彼と同じクラスになる」

「生徒会に誘って、日常的に関わる機会を作る」

「まずは、自分の存在に気づかせる」


ペン先が止まる。


どうやって、気づかせるか。


ふと思い出した。

ある日、泉方橋の近くで彼を見かけたことがある。


もしかして――


緒山は靴も履き替えずに家を飛び出した。

一軒一軒、表札を確かめて歩いた。


二階に着いた。

彼女の家の、真上の部屋。


緒山は息を吸い込んだ。


石原。


「……そ、そんなことってあるの」


緒山は目を見開いた。

あまりに不思議な縁に、胸がざわついた。


突然、ドアが開いた。

緒山は慌ててその場を離れ、ちょうど通りかかった隣人のふりをした。


「お兄ちゃん、お菓子買ってくるね!」


「気をつけてな、杏」


緒山はこっそりとその様子をうかがう。

胸の奥が、じんわりと温かくなった。


部屋に戻り、椅子に座り直す。

緒山は再びペンを取った。


彼女は自分の能力を思い出した。――止まった世界。


もし、あれを使えば――


彼女は書き続けた。


「橋の上で『偶然』を作って、顔を覚えてもらう」


「それでも足りなければ、『特別な出来事』を起こす――

 例えば、目の前で飛び降りて、助けてもらう」


そこまで書いて、思わず笑った。


――さすがにどうかしてる。


それでも、手は止まらない。


「能力で教室に戻って、『特別』だと気づかせる」

「少しずつ距離を縮めて、話せる関係になる」

「林の中は、一人きりでいる場所じゃなくてもいいと気づかせる」


一行ずつ、丁寧に書き込んでいった。


書き終えて、そのページを見つめた。


ぎっしりと並んだ計画。


彼に近づくための理由で、ページはいっぱいだった。


やがて、このページはすべてチェックで埋まることになる。


けれど、本当の理由は一つだけだった。


彼女は前のページをめくった。


そこには、一行の文字。


ほとんど消えかけている。


「あのバカな先輩を見つけて、伝える。空は落ちてこなかったし、すごく青かったって」


その文字を、長いあいだ見つめた。


そして、その後ろに、小さくチェックをつけた。


――紙の上ではなく、心の中で。


あの午後から。


あの不器用な言葉を聞いた瞬間から。


初めて、ちゃんと彼を見たあのときから。


もう分かっていた。


自分は、この人に近づきたいのだと。


---


それからの日々、彼女は計画を一つずつ実行に移していった。


手続きは、思ったよりも順調に進んだ。

春野の仕事は、いつだって早い。


四月の半ば。

彼女は二年生になった。


彼と同じクラスではなかったけれど。


ある日、緒山は能力を使って、こっそり彼の教室へ入った。


初めてその教室に足を踏み入れた瞬間、一目で彼を見つけた。


窓際の席に、一人で座っている。

外を見つめている。


あの林で見た彼と、まったく同じだった。


彼女は、その斜め後ろの席に座った。


彼は知らない。


何も知らない。


彼女がずっと前から彼を見ていたこと。

止まった世界の中で、何度もこっそり隣で昼食を食べていたこと。

編入して、生徒会に入り、いろんなことをしてきた理由が、全部彼に近づくためだったこと。


そして――


彼の目に「きらきらしている」ように映る少女が、

胸の奥にどれほど言葉にできない後ろめたさと、恐怖と、願いを抱えているのかも。


でも、急がなくていい。


時間はある。


少なくとも、まだ少しだけは。


---


五月六日。早朝。


彼女はいつもより早く泉方橋へ来ていた。


橋の上に立ち、景色を眺めているふりをした。


風が髪を揺らした。

少し冷たい。


ふと、自分の手を見下ろした。


手のひらの線は、昨日よりまた少し薄くなっていた。


彼女は拳を握りしめ、道の向こうへ目を向けた。


そこに、一人の姿があった。


ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。


胸が、どくんと鳴った。


本物の、少し痛いくらいの鼓動。


緒山は深く息を吸った。


用意していた台詞。


何度も練習した、


「おはようございます」

「偶然ですね」

「先輩もこの道なんですか」


――全部、消えてしまった。


残ったのは、ぎこちない一言だけ。


「おはようございます」


彼は少しだけ固まった。


――聞こえていないのだろうか。


緒山は笑った。


陽の光が泉方橋に降り注ぐ。


彼女にも、彼にも。


彼は知らない。


何も知らない。


でも、それでいい。


今日から――


少しずつ、知ってもらえばいい。


ゆっくりでいい。


この世界には、ずっと彼を見ていた人がいるのだと。


ずっと伝えたかったのだと。


ほら。


空は、本当に落ちてこなかったよ。


それに、あなたがいたから――


こんなにもきれいな、青い空になったんだ。


川の水は、静かに流れていた。


夏は、まだ始まったばかりだった。

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