第一百一十八話
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【その四】
病院の匂いは、嫌というほど知っていた。
消毒液や薬品、それに言葉にしにくい「病院特有のにおい」――不安や待ち時間、白い壁の冷たさが混ざり合ったような匂い。
緒山は診察室の外の長椅子に座り、宙に浮いた足をぶらぶらと揺らしていた。
隣では母が、彼女の手を握っていた。強く握りすぎて、少し痛いくらいに。
それでも、緒山は振りほどかなかった。
診察室の扉が開く。
医師の表情も、見慣れていた。
あの顔は、まるでこう言っているようだった――「できるだけやわらかく伝えるが、意味は分かるだろう」
「どうぞ、入ってください」
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検査結果は、前回より悪かった。
最初、医師は緒山に外で待つように言おうとしたが、彼女は残ると言った。
医師は長々と説明した。
「ですが」「可能性としては」「治療方針としては」といった言葉を並べながら。
緒山の耳に残ったのは、ほんのいくつかだけ――悪化、進行が速い、不確定。
ほかの言葉は、ぼんやりと流れていった。
母の手がわずかに震えた。
それが伝わってきた。
緒山は顔を上げ、医師を見て、できるだけ普段通りの声で聞いた。
「あと、どれくらいですか?」
母の握る力が、さらに強くなった。
医師は彼女を見つめ、数秒黙ったあと、「個人差があります」「できる限りのことはします」「前向きな気持ちを大切に」といった言葉を口にした。
緒山は小さくうなずいた。
「ありがとうございました」
立ち上がった。
診察室を出るとき、振り返ると――母はまだ椅子に座ったまま、肩を震わせていた。
医師がティッシュを差し出し、何かを言っていた。
母はそれを受け取り、何度もうなずいていた。
緒山は視線を外した。
そして、そのまま歩き出した。
長い廊下。
白い照明、白い壁、白い床。
その真ん中を歩きながら、どこにも属さない道を進んでいるような気がした。
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帰りの車の中で、母はずっと彼女の手を握っていた。
何も言わない。
緒山も、何も言わなかった。
窓の外を見た。
後ろへ流れていく景色。
木、家、電柱、信号。
普通の世界の、普通のものたち。
「平気だよ、お母さん」
緒山がふいに口を開いた。
母が振り向いた。
「もう分かってたし」
緒山は笑ってみせた。
――たいしたことじゃない、そんなふうに。
「先生、毎回同じこと言うし。もう慣れちゃった」
母は何も言わず、ただ彼女を見つめていた。
目は赤くなっていた。
「ほんとに大丈夫」
緒山はもう一度言った。
「そんな顔しないでよ。なんか、まるで……」
言いかけたところで、
母が彼女を引き寄せ、抱きしめた。
強く。
息が少し詰まるくらいに。
緒山は一瞬、驚いた。
それから手を上げて、そっと母の背を叩いた。
「大丈夫だよ」
その声は、とても小さかった。
まるで、自分に言い聞かせるみたいに。
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深夜。
リビングから、必死に押し殺したようなすすり泣きが聞こえてくる。
緒山はドアに背を預けて床に座り、その音をじっと聞いていた。
父の声だった。
父が泣いている。
父が泣く声なんて、今まで一度も聞いたことがなかった。
いつも穏やかで落ち着いていて、「大丈夫だ、父さんがいる」と言ってくれる人が、泣いている。
母の声も聞こえる。
父をなだめているけれど、その声も震えていた。
緒山は膝に額を押し当てた。
ふと、昔のことを思い出した。
小さい頃、熱を出した夜。
目を覚ましたら、母がベッドのそばでうつ伏せに眠っていた。
そのとき、いつか大きくなったら、母に優しくしようと思った。
父に初めて自転車の乗り方を教えてもらった日のことも思い出した。
後ろでサドルを支えながら、汗だくで走っていた父。
振り返って、「お父さん、手、離さないで」と叫んだ。
父は笑って、「離さないよ。父さん、ずっとここにいる」と言った。
いろんなことを思い出した。
たくさん、たくさん。
やがて彼女は立ち上がり、机の前へ向かった。
ノートを開き、白いページをめくった。
ペンを手に取り、書いた。
「私は、一人で静かに消えていけますように」
ペン先が止まる。
その一行を、じっと見つめた。
一人で。
静かに。
消えていく。
――そうすれば、お父さんたちは、自分が少しずつ消えていくところを見なくてすむ。
自分がいなくなったあとも、思い出すたびに苦しい場面ばかりが浮かぶ、なんてことにはならない。
そうすれば――
彼女はペンを置き、ベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
顔を枕に押しつけた。
「大丈夫」
「もう、準備できてる」
「大丈夫」
「大丈夫だから」
「大丈夫」
何度も、何度も。
まるで呪文みたいに繰り返した。
彼女は泣かなかった。
泣いてはいけなかった。
泣いたら、
本当はまだ準備なんてできていないと認めることになる。
泣いたら、
本当は怖いのだと認めることになる。
泣いたら――
一人で静かに消えていくことなんて、望んでいないと認めることになる。
彼女は泣かなかった。
ただ、顔をもっと深く埋めた。
もっと、もっと深く。
息が苦しくなるくらいまで。
喉の奥に詰まったものが、
ただの呼吸の音だと思い込めるほどに。
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翌日の昼。
緒山は教室にも行かず、中庭にも行かなかった。
人のいる場所を避けて、あの林へ向かう。
陽射しはやわらかく、この前と同じくらい爽やかだった。
午後の光が枝葉のあいだからこぼれ、地面にまだらな影を落としている。
小鳥の声。風に揺れる葉のささやき。
すべてが、生きている。
これからもずっと。
――彼女を除いて。
ベンチの前で足を止めた。
そこには、誰もいなかった。
緒山は腰を下ろした。
顔を上げて空を見た。
木漏れ日が頬に落ちる。あたたかい。
目を細め、まぶたの上に光を受けた。
――これが、彼が毎日見ている景色。
――ここを選ぶ理由。
息ができる場所。
誰にも見られない場所。
ただ、そこにいられる場所。
視線を落とし、弁当を開いた。
母の作る弁当は、いつもどおり丁寧だった。
玉子焼きはハート形に切られ、ミニトマトはつややかに赤い。
ご飯の上には、海苔で小さな笑顔が作られている。
ハートの玉子焼きを箸でつまんだ。
口に運ぼうとした、そのとき――
紙片に気づいた。
おにぎりの下に挟まれ、端だけがのぞいている。
箸を置き、紙を引き抜いた。
母の字だった。
「朋奈へ。お父さんもお母さんも、ずっとあなたのそばにいるよ」
「泣きたくなったら、私たちのところにおいで」
その文字を見つめるうちに、視界がにじんでいく。
自分はひとりじゃない。
最初から、ずっと。
それでも――
いつか、自分は彼らを置いていなくなる。
お父さんとお母さんに、娘を失う痛みを残してしまう。
それは、変えられない。
何ひとつ、変えられない。
何も――
涙が落ちた。
紙の上に、小さなしみを作った。
二滴、三滴と続く。
口元を押さえた。
それでも、指の隙間から声が漏れた。
長く押し込めていたものが、ふいにあふれ出すみたいに。
どれくらい泣いていたのか、分からない。
陽射しは変わらずあたたかく、
風も穏やかで、
世界はいつものままだった。
その中で、彼女はようやく泣くことができた。
「……あの」
不意に、声がした。
「大丈夫、か?」
緒山ははっと顔を上げた。
涙ににじむ視界の向こう、少し離れたところに男子生徒が立っていた。
弁当を手に、どうしていいか分からないような顔で。
彼だ。
何度も遠くから見ていた人。
止まった世界で、隣に座っていた人。
みんなに「近づくな」と言われている人。
――石原久希。
場違いなところに迷い込んだみたいに、立ち尽くしている。
近づくべきか迷い、けれど離れることもできないように。
「ここ……あんまり人、来ないから」
ぎこちなくて。
不器用で。
少しも、やさしい言い方ではなかった。
彼女は、ぽかんとした。
彼は頭をかきながら、自分でもなぜそんなことを言ったのか分かっていないようだった。
それから――
「泣いたって、どうにもならない」
彼はそう言った。
緒山は、その目を見た。
そこには、同情も、憐れみもなかった。
彼女がいちばん嫌っている、「かわいそうだね」という目も。
ただ――真剣だった。
真剣で、不器用だった。
「でも……」
彼は言葉を探すように、少し黙った。
「一回泣いたくらいで、空が落ちてくるわけじゃない」
言っていることは、めちゃくちゃだった。
話のつながりもなくて、うまく説明できているとも思えなかった。
――正直、何を言いたいのかよく分からない。
彼は明らかに持て余した様子で、言い終えると、そのまま背を向けて歩き出した。
振り返りもしない。
緒山は、呆然とその背中を見つめた。
やがて、その姿は林の小径の奥へと消えていった。
頬には、まだ涙が残っていた。
けれど、胸の奥にずっと詰まっていたものが、
ほんの少しだけ、ほどけた気がした。
緒山は立ち上がった。
そして、彼のあとを追った。
「待って――」
彼は足を止め、振り返った。
緒山は息を切らしながら、彼の前に立った。
「私……」
何を言えばいいのか、分からない。
ただ、追いかけたかった。
何かを、伝えたかった。
彼は、じっと彼女を見ている。
そのとき、彼の顔をはっきりと見た。
初めて、ちゃんと。
その顔には、自分と同じ何かがあった。
うまく言えないけれど――「大丈夫」と言い張るような、意地。
さっきの言葉を思い出した。
――「一回泣いたくらいで、空が落ちてくるわけじゃない」
緒山は顔を上げて、空を見た。
三月の空は青かった。
嘘みたいに、青かった。
「えっと……」
緒山は口を開いた。
彼はまだ、こちらを見ている。
「何か、飲みに行かない? お礼に」
彼は少し驚いたようだった。
「近くに、カフェがあるみたいで」
彼女は校外のほうを指さした。
「泉方……なんだっけ」
「泉方情?」
「そう、それ」
緒山は、彼を見つめた。
「いいかな?」
彼は二秒ほど黙ってから、うなずいた。
「いいよ」
「わ、私は……ハートのラテアートとか、好きで」
自分でも少し変だと思いながら、ぎこちなく笑った。
――体のこともあって、ずっとコーヒーなんて飲んでいなかったのに。
それは、久しぶりに浮かべた笑顔だった。
なぜか、その瞬間、彼は顔を真っ赤にして走り去ってしまった。
――デートの誘いだと思われたのだろうか。
そう考えて、緒山は困ったように首を振った。
(思春期ってやつかな……ちょっと面白い)
彼女は校門を出て、一人でそのカフェへ向かった。
店の前に立って、ふと気づいた。
しわだらけの服。
泣きはらした目。
頬には、まだ涙の跡。
このまま入るの?
……無理。
恥ずかしすぎる。
彼女はくるりと背を向けて走り出した。
かなり離れたところまで来て、ようやく足を止めた。
膝に手をつき、肩で息をした。
それから、笑った。
笑いながら、また涙がこぼれた。
でも、さっきまでのような涙じゃない。
まるで――
何かに、そっと受け止められたような涙だった。
それから後、彼を林で見かけることはなかった。
――静かな場所を邪魔してしまったからかもしれない。
けれど、あの午後の陽射しと、あの不器用な声は、ずっと心に残っている。
小さくて、それでも消えない光のように。
やがて彼女は、ノートに新しい一行を書き加えた。
「あのバカな先輩を見つけて、伝える。空は落ちてこなかったし、すごく青かったって」
それは、たくさんある願いの中で、いちばん軽くて――
いちばん重いものだった。
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その日の夜、緒山が家に帰ると、母は台所で夕飯の支度をしていた。
ドアの音に気づいて、ちらりと振り返った。
「おかえり。もうすぐできるよ――」
緒山はそのまま歩み寄り、後ろから母を抱きしめた。
母の体が、ぴくりと固まった。
「朋奈?」
緒山はその背に顔を押しつけた。
「お母さん」
「どうしたの?」
「ごめん」
母は何も言わなかった。
「ごめんね」
緒山はもう一度言った。
「お父さんとお母さんに、心配かけちゃって」
母の手が、彼女の手にそっと重なった。
「それから……」
声が少しくぐもった。
「今日……泣いたの」
母がゆっくり振り向いた。
緒山は顔を上げ、その目を見る。
「なんだか……前より、そんなに怖くなくなった気がする」
母は彼女をじっと見つめた。
そして、ふっと笑った。
笑いながら、涙がこぼれた。
「ばかねえ。泣きたいときは泣けばいいの。お母さんがいるでしょ」
緒山は小さくうなずいた。
そして、本当に泣いた。
母の腕の中で、ひどく泣いた。
ずっと押し込めていたものを、全部流し出すみたいに。
母は抱きしめたまま、何度も繰り返した。
「大丈夫」「お母さんはここにいる」「大丈夫よ」
昔と同じだった。
転んで膝をすりむいたときも。
もっと小さかった頃、怖い夢を見て夜中に起きたときも。
何も変わっていない。
母は母のままで、家は家のままで。
そして彼女は、愛されている子どものままだった。
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深夜。
緒山はベッドに横になっていた。
天井は見慣れない。
けれど気持ちは、どこか覚えのあるものだった――
あたたかいもので満たされているような感覚。
今日の昼のことを思い出した。
あの男子の不器用な様子。
言い終えたあと、どうしていいか分からなくなっていた顔。
思わず、笑みがこぼれた。
笑いながら、また涙が流れた。
けれど今度の涙は、あたたかかった。
「あんなに優しい人なのに、あんなふうに扱われて」
小さく、つぶやいた。
あの噂。
「あまり近づかないほうがいい」という声。
一人で弁当を食べている昼休みの姿。
「不公平だよ……」
寝返りを打ち、窓から差し込む月の光を見つめた。
ふと、一つの思いが浮かんだ。
「かわいそう」でもない。
「ありがとう」でもない。
――助けたい。
あの人を、助けたい。
お返しのためじゃない。
助けてもらったからでもない。
ただ――あの人は、ちゃんと大切にされるべき人だと思った。
あの人が世界に向き合うみたいに。
やさしく。
不器用で。
まっすぐに。
あの人に伝えたい。
一人じゃないことを。
世界に置き去りにされた人なんかじゃないって。
だって――私は、あの人を見つけたから。
一週間前に。
あの止まった昼休み、林で初めて見たあの瞬間から。
ずっと、見えていた。
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その夜、緒山はノートを開いた。
今日の気持ちを書き留めようと思った。
日付を書こうとして、ふと手が止まった。
前のほうのページの文字が、ずいぶん薄くなっていた。
ほとんど、消えかけている。
彼女は一瞬固まり、顔を近づけて目を凝らした。
「一度、海辺の夕焼けを見に行く」
まるで色あせた写真みたいに、かすかな輪郭だけが残っていた。
「お父さんとお母さんに手紙を書く」
さらに薄い。ほとんど読めない。
「好きな本を最後まで読む」
「遊園地に行って、観覧車に乗る」
「鉢植えの花を育てて、大きくなっていくところを見る」
ページをめくる。
残っている文字もあれば、
跡だけになっているものもある。
まるで、何かに少しずつ消されていくみたいだった。
彼女は、その薄れていく文字をしばらく見つめていた。
それから、今日書いたページを開いた。
「私は、一人で静かに消えていけますように」
そこだけは、はっきり残っていた。
まだ新しいインクの色。
彼女はペンを手に取った。
そして、その下に、力を込めて新しい一行を書き加えた。
「今日は、すごく、すごくいい人と、一緒にお昼を食べた」
書き終えて、その一行を見つめた。
やがてノートを閉じ、
ペンを少し強く握りしめた。
薄れていく文字のことは、深く考えなかった。
――いや、考えるのが怖かったのかもしれない。




