第一百一十七話
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【その三】
学校が始まって、一週間が経った。
泉方新高は、緒山の想像よりもずっとにぎやかだった。
廊下ではいつも誰かが走っていて、教室からはいつも笑い声が聞こえている。
昼休みになれば、中庭では三人、四人と集まった生徒たちが、弁当を広げていた。
にぎやかすぎて、まるで別の世界みたいだった。
緒山は人混みの中を歩きながら、ちょうどいい笑顔を浮かべる。
「緒山さん、一緒にお昼食べない?」
「緒山さん、午後の授業って予習した?」
「緒山さん、今度の週末、商店街行かない?」
彼女は一つひとつに答えていった。
やわらかく、丁寧に、隙なく。
けれど、本当のところを知っているのは、自分だけだった。
あの声も、あの笑顔も、あの誘いも――全部、ガラス一枚隔てた向こう側にあるみたいだ。
自分は内側にいて、みんなは外側にいる。
見えてはいる。
向こうも、見えていると思っている。
でも実際は――。
緒山はふと、自分の手を見下ろした。
手のひらの線は、今日もちゃんと残っている。
彼女は手をぎゅっと握りしめ、そのまま歩き続けた。
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休み時間、緒山の耳に数人の女子生徒たちの会話が入ってきた。
「ねえ、二年C組の石原って知ってる?」
緒山の足が、わずかに止まった。
「知ってる知ってる、いつも一人でいる人でしょ?」
「そうそう。あの子、妹の件のあとから、いろいろ噂立ってるらしくて……」
「え、どんな?」
「うーん……なんかさ、あんまりいい話じゃないっていうか。
性格に問題あるとか、協調性ないとか……親に捨てられたって話もあるみたい」
「ほんとに?」
何人かが目を丸くした。
「さあ。でも、みんなそう言ってるよ」
「じゃあ、あんまり関わらないほうがいいよね……」
声は次第に遠ざかっていった。
緒山はその場に立ち止まり、彼女たちの背中を見送った。
なぜか、その聞き慣れない名前が、
あの林で見た、孤独な横顔と重なった。
空中に止まっていた落ち葉。
羽ばたいたまま止まっていた鳥。
世界が止まった、あの瞬間。
親に捨てられた。
性格に問題がある。
協調性がない。
近づかないほうがいい。
緒山は、小さく笑った。
そんな噂は、どうでもよかった。
そしてそのまま歩き出した。
何も言わずに。
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昼休み、緒山は春野に呼ばれて生徒会室へ向かった。
「定例の面談だ」
事務的な口調だった。
「新しい環境には慣れたか? 何か困っていることは?」
「大丈夫です」
緒山は彼の向かいに座り、視線を窓の外へ流した。
陽射しは明るい。
中庭では、三人、四人と集まった生徒たちの笑い声が、かすかに聞こえてくる。
「本当に大丈夫か?」
春野の目には、少し探るような色があった。
緒山は視線を戻し、彼を見た。
春野陽明。
生徒会長で、三年生の先輩。
「要フォロー対象」である彼女の担当役でもあった。
人を見る目が、少し独特だった。
どこか、居心地の悪くなるような見方をする。
「本当に、大丈夫です」
緒山はもう一度そう答えた。
春野は二秒ほど黙った。
「そうか」
そしてノートを開いた。
「じゃあ、勉強面についてだが――」
緒山は聞いていなかった。
視線はまた、窓の外へ向いていた。
退屈だったからではない。
――一人の姿が見えたからだ。
あの男子生徒が、校舎から出てきた。
彼は中庭を横切らなかった。
集まっている生徒たちの間も通らなかった。
壁沿いを歩き、にぎやかな場所を避けるようにして、向かった先は――林のほうだった。
あの、「立入禁止」の林。
緒山は、その背中が林の小径の入口へ消えていくのを見つめていた。
「彼……」
思わず、声が漏れる。
春野がペンを止め、彼女の視線を追って窓の外を見た。
「いつも、ああなんですか?」
緒山は春野の目を見て尋ねた。
春野は何も言わなかった。
「あの男子です。いつも一人で、あっちへ行くんですか?」
春野はまた少し黙った。
それから、ノートを閉じた。
「石原に興味があるのか?」
緒山は一瞬きょとんとして、それから首を横に振る。
「そういうわけじゃありません。ただ……何度か見かけたので、少し気になって」
春野は彼女の目を見ていた。
――また、あの目だ。
数秒後、春野は椅子の背にもたれ、ため息をついた。
「何が知りたい?」
緒山は答えなかった。
春野が先に口を開いた。
「石原久希。二年C組。俺とは古い付き合いで、けっこう前から知ってる。あいつは昔……あんな感じじゃなかった」
「どんな感じだったんですか?」
緒山は少し意外だった。
まさか彼が、クラスメイトたちの言っていた「石原久希」だったとは。
「もう少し、騒がしいやつだったかな」
春野の声は淡々としていた。
「怒るし、笑うし、言い返しもする。特別、周りに溶け込むタイプってわけじゃなかったが、それでも――」
そこで、少し言葉を切った。
「少なくとも、自分から隠れるようなやつじゃなかった」
緒山は黙って聞いていた。
緒山がそれだけでは納得していない様子を見て、春野は仕方なくといったように続けた。
「あいつの両親は、あいつが小さい頃に離婚した」
春野は一度、間を置いた。
「母親は遠くへ行った。父親は……まあ、言わなくていいだろ。
今は妹と二人暮らしで、自分たちのことは自分たちでやってる。
そういう話が広まると、分かるだろ。余計なことを噂したがるやつは、どこにでもいる」
緒山は小さくうなずいた。
「そのあと、妹が少し厄介なことに巻き込まれた」
春野の声が、少し低くなる。
「詳しいことは言えないが、あの頃が、あいつにとって一番きつい時期だった。
そのあとから、噂はもっとひどくなった。
性格に問題があるから親が離婚したとか、妹の面倒も見られないとか……」
彼は窓の外へ目を向けた。
「でも、あいつは一度も説明しなかった。弁解も、一度も」
数秒、沈黙が流れた。
「だから、あいつはあっちへ行くんだ」
春野は林のほうを見た。
「たぶん、あそこが唯一、息をつける場所なんだろうな」
緒山は視線を落とした。
彼女が生徒会に入ったのも、思いつきで書いた「やりたいこと」の一つだった。
あの夜、眠れずにベッドの上で何度も寝返りを打った。
結局、起き上がってあのノートを開いた。
前に書いた項目は、どれも重たかった。
手紙を書く。
海を見に行く。
部屋を片づける。
――まるで遺願みたいだった。
だから、少し違うことを書きたかった。
「生きている人間がやること」を。
ペン先を紙に当てて――
「生徒会に入って、『まともな人』ってどんな感じか体験してみる」
書き終えて、緒山は小さく笑った。
そしてすぐに、自分が滑稽に思えた。
生徒会に入って、何を体験するというのか。
会議をして、雑務をして、使われるだけだ。
それでも、翌日。
掲示板の前を通りかかったとき、生徒会の募集ポスターが目に入った。
ポスターは陽の光を受け、色とりどりの文字を浮かび上がらせていた。
「青春やり直し大作戦! 一緒に思い出を作ろう!」
彼女はその場で五秒ほど立ち止まった。
そして、そのまま申込用紙をもらった。
春野との面接のとき、彼は不思議そうな顔をしていた。
「どうして生徒会なんだ? 君なら……他にやりたいこともあるだろう」
「やってみたいと思って」
春野は一度彼女を見たが、それ以上は聞かなかった。
「分かった」
あとになって思えば、春野は余計なことを聞かない人なのだろう。
それでよかった。
彼女は、あまり説明したくなかったから。
その日の夜、ノートを開いてその項目を見つけ、
小さくチェックを入れた。
そして、その印をしばらく見つめていた。
生徒会に入る。――達成。
じゃあ、次は?
「学校で友達を一人作る」
まだ、チェックは入っていない。
生徒会に入った理由。
今思えば、それもきっと、「息をつける場所」を探していたからなのだろう。
窓から差し込む陽の光が、緒山の膝に落ちていた。
あたたかくて、どこか安心する。
けれど胸の奥には、冷たくて、重たい何かが沈んでいた。
「ありがとうございます、会長」
緒山は立ち上がった。
「それじゃ、失礼します」
春野は彼女を見た。
「緒山」
呼び止められ、彼女は振り返った。
春野は少し迷ったようにしてから、結局こう言った。
「何かあったら、いつでも来い」
緒山は小さくうなずき、扉を押して部屋を出た。
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教室へ戻る廊下を歩きながら、緒山の足取りは来たときよりも遅かった。
頭の中で、あの光景が何度もよみがえる。
林の中のベンチに、一人で座っていたあの男子生徒。
木漏れ日が、彼の身体に落ちていた。
その顔には、何の表情もなかった。
不機嫌そうでもなく、楽しそうでもない。
ただ――空っぽだった。
ただ孤独なだけじゃなかった。
本来なら背負わなくていいはずのものまで、背負わされていた。
そして彼は、一度も説明しなかった。
あの女子たちの言葉を思い出した。
――「あまり近づかないほうがいいよね」
緒山は、笑いそうになった。
同時に、ため息も出そうになった。
けれど結局、何もしなかった。
そのまま歩き続けた。
教室に戻り、自分の席に座る。
教科書を開いた。
だが、文字はひとつも頭に入ってこなかった。
あの止まった世界。
林で、初めて彼を見たときのこと。
――「かわいそう」
そう思ったはずだった。
けれど今、頭に浮かんでいるのは別のことだった。
哀れみじゃない。
――あの人は、どんな人なんだろう。
分からない。
けれど、知りたいと思った。
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緒山が出ていったあと、春野は一人で生徒会室に残っていた。
窓の外を、しばらく見つめていた。
それから視線を落とし、机の上を整えた。
一枚の書類が、机の上に広げられていた。
生徒会の新規登録用紙。
緒山のものだった。
名前、クラス、連絡先。
どの欄も、丁寧に記入されている。
ただ一か所だけ。
最後の欄。
すべてのメンバーがチェックするはずの「誓約書確認」の項目。
「緒山朋奈」と書かれた名前の横にある、小さなチェック欄――
春野は目を細め、顔を近づけた。
そのチェック欄の部分だけ、ぼやけたインクの染みのようになっていた。
まるで、プリンターが途中でインク切れを起こしたみたいに、そこだけ欠けていた。
春野は、そのぼやけた跡をしばらく見つめていた。
やがて書類をファイルに収めた。
何も言わずに。




