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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十二章 彼方の日々――僕の見えない場所で
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第一百一十七話

---


【その三】


学校が始まって、一週間が経った。


泉方新高は、緒山の想像よりもずっとにぎやかだった。

廊下ではいつも誰かが走っていて、教室からはいつも笑い声が聞こえている。

昼休みになれば、中庭では三人、四人と集まった生徒たちが、弁当を広げていた。


にぎやかすぎて、まるで別の世界みたいだった。


緒山は人混みの中を歩きながら、ちょうどいい笑顔を浮かべる。


「緒山さん、一緒にお昼食べない?」

「緒山さん、午後の授業って予習した?」

「緒山さん、今度の週末、商店街行かない?」


彼女は一つひとつに答えていった。

やわらかく、丁寧に、隙なく。


けれど、本当のところを知っているのは、自分だけだった。


あの声も、あの笑顔も、あの誘いも――全部、ガラス一枚隔てた向こう側にあるみたいだ。


自分は内側にいて、みんなは外側にいる。


見えてはいる。

向こうも、見えていると思っている。


でも実際は――。


緒山はふと、自分の手を見下ろした。


手のひらの線は、今日もちゃんと残っている。


彼女は手をぎゅっと握りしめ、そのまま歩き続けた。


---


休み時間、緒山の耳に数人の女子生徒たちの会話が入ってきた。


「ねえ、二年C組の石原って知ってる?」


緒山の足が、わずかに止まった。


「知ってる知ってる、いつも一人でいる人でしょ?」


「そうそう。あの子、妹の件のあとから、いろいろ噂立ってるらしくて……」


「え、どんな?」


「うーん……なんかさ、あんまりいい話じゃないっていうか。

性格に問題あるとか、協調性ないとか……親に捨てられたって話もあるみたい」


「ほんとに?」


何人かが目を丸くした。


「さあ。でも、みんなそう言ってるよ」


「じゃあ、あんまり関わらないほうがいいよね……」


声は次第に遠ざかっていった。


緒山はその場に立ち止まり、彼女たちの背中を見送った。


なぜか、その聞き慣れない名前が、

あの林で見た、孤独な横顔と重なった。


空中に止まっていた落ち葉。

羽ばたいたまま止まっていた鳥。

世界が止まった、あの瞬間。


親に捨てられた。

性格に問題がある。

協調性がない。

近づかないほうがいい。


緒山は、小さく笑った。


そんな噂は、どうでもよかった。


そしてそのまま歩き出した。


何も言わずに。


---


昼休み、緒山は春野に呼ばれて生徒会室へ向かった。


「定例の面談だ」


事務的な口調だった。


「新しい環境には慣れたか? 何か困っていることは?」


「大丈夫です」


緒山は彼の向かいに座り、視線を窓の外へ流した。


陽射しは明るい。

中庭では、三人、四人と集まった生徒たちの笑い声が、かすかに聞こえてくる。


「本当に大丈夫か?」


春野の目には、少し探るような色があった。


緒山は視線を戻し、彼を見た。


春野陽明。

生徒会長で、三年生の先輩。

「要フォロー対象」である彼女の担当役でもあった。


人を見る目が、少し独特だった。

どこか、居心地の悪くなるような見方をする。


「本当に、大丈夫です」


緒山はもう一度そう答えた。


春野は二秒ほど黙った。


「そうか」


そしてノートを開いた。


「じゃあ、勉強面についてだが――」


緒山は聞いていなかった。


視線はまた、窓の外へ向いていた。


退屈だったからではない。


――一人の姿が見えたからだ。


あの男子生徒が、校舎から出てきた。


彼は中庭を横切らなかった。

集まっている生徒たちの間も通らなかった。


壁沿いを歩き、にぎやかな場所を避けるようにして、向かった先は――林のほうだった。


あの、「立入禁止」の林。


緒山は、その背中が林の小径の入口へ消えていくのを見つめていた。


「彼……」


思わず、声が漏れる。


春野がペンを止め、彼女の視線を追って窓の外を見た。


「いつも、ああなんですか?」


緒山は春野の目を見て尋ねた。


春野は何も言わなかった。


「あの男子です。いつも一人で、あっちへ行くんですか?」


春野はまた少し黙った。


それから、ノートを閉じた。


「石原に興味があるのか?」


緒山は一瞬きょとんとして、それから首を横に振る。


「そういうわけじゃありません。ただ……何度か見かけたので、少し気になって」


春野は彼女の目を見ていた。


――また、あの目だ。


数秒後、春野は椅子の背にもたれ、ため息をついた。


「何が知りたい?」


緒山は答えなかった。


春野が先に口を開いた。


「石原久希。二年C組。俺とは古い付き合いで、けっこう前から知ってる。あいつは昔……あんな感じじゃなかった」


「どんな感じだったんですか?」


緒山は少し意外だった。

まさか彼が、クラスメイトたちの言っていた「石原久希」だったとは。


「もう少し、騒がしいやつだったかな」


春野の声は淡々としていた。


「怒るし、笑うし、言い返しもする。特別、周りに溶け込むタイプってわけじゃなかったが、それでも――」


そこで、少し言葉を切った。


「少なくとも、自分から隠れるようなやつじゃなかった」


緒山は黙って聞いていた。


緒山がそれだけでは納得していない様子を見て、春野は仕方なくといったように続けた。


「あいつの両親は、あいつが小さい頃に離婚した」


春野は一度、間を置いた。


「母親は遠くへ行った。父親は……まあ、言わなくていいだろ。

今は妹と二人暮らしで、自分たちのことは自分たちでやってる。

そういう話が広まると、分かるだろ。余計なことを噂したがるやつは、どこにでもいる」


緒山は小さくうなずいた。


「そのあと、妹が少し厄介なことに巻き込まれた」


春野の声が、少し低くなる。


「詳しいことは言えないが、あの頃が、あいつにとって一番きつい時期だった。

そのあとから、噂はもっとひどくなった。

性格に問題があるから親が離婚したとか、妹の面倒も見られないとか……」


彼は窓の外へ目を向けた。


「でも、あいつは一度も説明しなかった。弁解も、一度も」


数秒、沈黙が流れた。


「だから、あいつはあっちへ行くんだ」


春野は林のほうを見た。


「たぶん、あそこが唯一、息をつける場所なんだろうな」


緒山は視線を落とした。


彼女が生徒会に入ったのも、思いつきで書いた「やりたいこと」の一つだった。


あの夜、眠れずにベッドの上で何度も寝返りを打った。

結局、起き上がってあのノートを開いた。


前に書いた項目は、どれも重たかった。


手紙を書く。

海を見に行く。

部屋を片づける。


――まるで遺願みたいだった。


だから、少し違うことを書きたかった。

「生きている人間がやること」を。


ペン先を紙に当てて――


「生徒会に入って、『まともな人』ってどんな感じか体験してみる」


書き終えて、緒山は小さく笑った。


そしてすぐに、自分が滑稽に思えた。


生徒会に入って、何を体験するというのか。

会議をして、雑務をして、使われるだけだ。


それでも、翌日。


掲示板の前を通りかかったとき、生徒会の募集ポスターが目に入った。


ポスターは陽の光を受け、色とりどりの文字を浮かび上がらせていた。


「青春やり直し大作戦! 一緒に思い出を作ろう!」


彼女はその場で五秒ほど立ち止まった。

そして、そのまま申込用紙をもらった。


春野との面接のとき、彼は不思議そうな顔をしていた。


「どうして生徒会なんだ? 君なら……他にやりたいこともあるだろう」


「やってみたいと思って」


春野は一度彼女を見たが、それ以上は聞かなかった。


「分かった」


あとになって思えば、春野は余計なことを聞かない人なのだろう。


それでよかった。

彼女は、あまり説明したくなかったから。


その日の夜、ノートを開いてその項目を見つけ、

小さくチェックを入れた。


そして、その印をしばらく見つめていた。


生徒会に入る。――達成。


じゃあ、次は?


「学校で友達を一人作る」


まだ、チェックは入っていない。


生徒会に入った理由。


今思えば、それもきっと、「息をつける場所」を探していたからなのだろう。


窓から差し込む陽の光が、緒山の膝に落ちていた。


あたたかくて、どこか安心する。


けれど胸の奥には、冷たくて、重たい何かが沈んでいた。


「ありがとうございます、会長」


緒山は立ち上がった。


「それじゃ、失礼します」


春野は彼女を見た。


「緒山」


呼び止められ、彼女は振り返った。


春野は少し迷ったようにしてから、結局こう言った。


「何かあったら、いつでも来い」


緒山は小さくうなずき、扉を押して部屋を出た。


---


教室へ戻る廊下を歩きながら、緒山の足取りは来たときよりも遅かった。


頭の中で、あの光景が何度もよみがえる。


林の中のベンチに、一人で座っていたあの男子生徒。


木漏れ日が、彼の身体に落ちていた。


その顔には、何の表情もなかった。


不機嫌そうでもなく、楽しそうでもない。


ただ――空っぽだった。


ただ孤独なだけじゃなかった。


本来なら背負わなくていいはずのものまで、背負わされていた。


そして彼は、一度も説明しなかった。


あの女子たちの言葉を思い出した。


――「あまり近づかないほうがいいよね」


緒山は、笑いそうになった。

同時に、ため息も出そうになった。


けれど結局、何もしなかった。


そのまま歩き続けた。


教室に戻り、自分の席に座る。


教科書を開いた。


だが、文字はひとつも頭に入ってこなかった。


あの止まった世界。

林で、初めて彼を見たときのこと。


――「かわいそう」


そう思ったはずだった。


けれど今、頭に浮かんでいるのは別のことだった。


哀れみじゃない。


――あの人は、どんな人なんだろう。


分からない。


けれど、知りたいと思った。


---


緒山が出ていったあと、春野は一人で生徒会室に残っていた。


窓の外を、しばらく見つめていた。


それから視線を落とし、机の上を整えた。


一枚の書類が、机の上に広げられていた。


生徒会の新規登録用紙。

緒山のものだった。


名前、クラス、連絡先。

どの欄も、丁寧に記入されている。


ただ一か所だけ。


最後の欄。


すべてのメンバーがチェックするはずの「誓約書確認」の項目。


「緒山朋奈」と書かれた名前の横にある、小さなチェック欄――


春野は目を細め、顔を近づけた。


そのチェック欄の部分だけ、ぼやけたインクの染みのようになっていた。


まるで、プリンターが途中でインク切れを起こしたみたいに、そこだけ欠けていた。


春野は、そのぼやけた跡をしばらく見つめていた。


やがて書類をファイルに収めた。


何も言わずに。

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