第一百一十六話
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【その二】
新しいマンションは、思っていたより広かった。
大きな掃き出し窓から陽の光が流れ込み、フローリングを暖かな淡い金色に染めていた。
段ボールは部屋の隅にきちんと積まれていた。
母はそのうちのいくつかを開けて、彼女の本を一冊ずつ取り出し、新しい本棚へ並べていた。
「朋奈、これはどこに置く? 窓側? それともドアのほう?」
母は数冊の本を抱えたまま、振り返って尋ねた。
緒山はベッドの端に座り、この見慣れない部屋を見ていた。
壁も、カーテンも、新しかった。
シーツも、母がわざわざ買ってくれた、彼女の好きな淡い青色だった。
――全部、新しい。
自分だけは、前のままだった。
いや、それどころか。
病状が悪化して、こうして田舎からここへ引っ越してくるしかなかった。
「どこでもいい」
母の手が一瞬止まる。
けれどすぐに、また本を並べ始めた。
「じゃあ、こっちに置いておくね。あとで合わなかったら動かせばいいし。
ねえ、少し外に出てみる? さっき通ったとき、下に小さな公園があって――」
「行きたくない」
緒山は、途中で言葉を遮った。
母が振り向き、彼女を見る。
その目には、心配と、痛ましさが浮かんでいた。
戸惑いも、ありありとにじんでいる。
――それが、緒山にとっていちばん怖いものだった。
緒山は小さくため息をつき、そのままベッドに横になる。
「じゃあ……お母さんは先に片づけておくね。晩ごはん、何がいい? 近くにスーパーもあるみたいだから、お父さんが帰ってきたら一緒に――」
「お母さん」
緒山は布団で顔を覆った。
「少し、一人にしてほしい」
数秒の沈黙があった。
「……分かった」
母の声は、とても小さかった。
「何かあったら、呼んでね」
母は部屋を出ていった。
振り返って一度だけ彼女を見て、それからドアを閉めた。
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ドアが閉まった瞬間、世界が静まり返る。
緒山はベッドから起き上がり、ドアのそばまで歩いた。
リビングから、かすかに母のすすり泣きが聞こえてくる。
彼女はドアにもたれ、そのままゆっくりと滑るように座り込んだ。
膝を抱えて、顔を埋めた。
動きたくなかった。
話したくもなかった。
こんな自分を、誰にも見られたくなかった。
それでも――
彼女は顔を上げ、この見知らぬ部屋を見渡した。
差し込む光の角度が、前の家とは違う。
窓の外の景色も、前の家とは違う。
空気の匂いさえ、前の家とは違っていた。
何もかもが違う。
――自分が「いつ消えてもおかしくない人間」であること以外は。
彼女は立ち上がり、窓のそばへ歩いていった。
そして、外を見下ろす。
母が言っていた、小さな公園があった。
滑り台のあたりで、何人かの子どもが遊んでいる。
その笑い声が、かすかに届いてくる。
若い母親がベビーカーを押して通り過ぎる。
おじいさんがベンチに座って、日向ぼっこをしている。
みんな、それぞれの生活を送っている。
普通の生活。
自分とは関係のない生活。
彼女は深く息を吸い込んだ。
そして――時間が止まった。
風の音が消える。
子どもたちの笑い声も消える。
遠くでかすかに聞こえていた車の音も、消える。
あらゆる音が、途絶えた。
自分の呼吸の音さえも、聞こえない。
あの、慣れきった空虚な静けさが、彼女を包み込む。
彼女は胸に手を当てた。
手のひらの下、本来なら鼓動があるはずの場所には、何もなかった。
止まった世界の中では、心臓も動かない。
――けれど彼女はまだ知らない。
この世界に最初に招かれる客の心臓が、あんなにも軽やかに脈打つことを。
彼女の口元が、ゆっくりと弧を描いた。
この止まった世界の中では、
「私は大丈夫」と装う必要が、ようやくなくなる。
彼女は振り返り、ドアを開けた。
廊下には、片づけの途中の姿勢のまま固まった母がいた。
まるで蝋人形のようだ。
緒山はその横を通り過ぎた。
一度だけ視線を向けた。
母の手は中途半端に宙に浮いたまま。
その表情には、さっきのあの細やかな気配りと控えめさが残っている。
「ごめんね」
緒山は小さくそう言うと、ドアを押し開け、外へ出ていった。
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街のすべてが、止まっていた。
車は道路の真ん中で止まり、運転手はあくびをしかけた姿勢のままだった。
自転車に乗った少年も、その場で静止している。
片足をペダルに乗せ、もう片方は地面から離れたところで止まっていた。
コンビニの自動ドアは半分だけ開いたまま。
店内では客が、棚のおにぎりに手を伸ばしている途中だった。
緒山は、道路の中央を歩いていく。
誰も、あの腫れ物に触るような目で彼女を見ない。
誰も、「一人?」「体調は大丈夫?」「平気?」なんて聞いてこない。
自由に歩ける。
速く歩きすぎて疲れる心配もない。
突然倒れて誰かに迷惑をかける心配もない。
誰のことも気にしなくていい。
彼女は一軒の服屋に入った。
ショーウィンドウのマネキンは、優雅なポーズのまま佇んでいる。
緒山はその前に立ち、首をかしげながらしばらく眺めた。
それから真似をして、同じポーズを取ってみた。
ポーズを解いて、自分でくすっと笑った。
――バカみたい、私。
けれどすぐに笑みを消し、また歩き出した。
パン屋の前を通りかかったとき、緒山はガラス越しに焼きたてのパンを見た。
湯気が空中で止まり、ふわふわした雲みたいに浮かんでいる。
花屋の前では、色とりどりの花が、いちばん美しい瞬間のまま静止していた。
どの花も、決して枯れない。
公園の前を通りかかった。
さっきのおじいさんが、ベンチに座ったまま目を閉じていた。
陽の光が、白い髪をやわらかく光らせている。
緒山はその隣で少しだけ足を止めた。
それからまた歩き出した。
気づけば、新しい学校の前まで来ていた。
泉方新高。
校門は閉まっている。
守衛室の窓の向こうで、警備員のおじさんが湯のみを持ったまま口を開いていた。
ちょうど一口飲んだところだったのだろう。
緒山は校門の上の文字を見上げた。
――ここが、これから三年間過ごす場所。
もし、その三年を過ごせるのなら。
彼女は横に回り、低い塀を見つけた。
乗り越えるのは難しくない。
どうせ誰にも見られないのだから。
塀を越えながら、
「担任を一度泣かせて、それから謝る」という願いを思い出した。
初めての校則違反記録は、たぶんこれだ。
彼女は小さく笑った。
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校内は、がらんとしていた。
ちょうど昼休みの時間で、教室の中には、思い思いの姿勢で止まった生徒たちがいた。
机に突っ伏して眠っている者。
集まって話している者。
弁当箱を手に、ふたを開けようとしている者。
緒山は校舎の廊下を歩いていく。
いくつもの窓越しに、止まったままの光景が見えた。
笑っている生徒。
騒いでいる生徒。
眠そうにあくびをしている生徒。
こっそりスマホを見ている生徒。
みんな、それぞれの日常の中にいた。
緒山はさらに歩いた。
校舎の端まで行くと、外へ続く扉があった。
その扉を開けると、外には小さな林。
入口には、一枚の札が立っている。
そこには「立入禁止」と書かれていた。
緒山はその札を見て、片眉を上げ、そして、そのまま中へ入った。
林は、思っていたよりも奥深かった。
午後の陽射しが枝葉の隙間からこぼれ落ち、地面にまだらな光と影を落としていた。
鳥が一羽、空中に止まっていた。
翼を広げ、飛んでいる姿勢のまま。
落ち葉も宙に浮かんでいた。
水面に漂っているみたいに。
ひどく静かだった。
この世界だけの静けさだった。
彼女は、うっすら残った小径をたどって奥へ進んでいく。
どれくらい歩いただろう。
ふいに視界が開けた。
小さな空き地。
その真ん中に、古びたベンチが一つ置かれていた。
ベンチには、一人の人影があった。
緒山は足を止めた。
男子生徒だった。
制服を着て、一人でベンチに座っていた。
手には弁当箱。
箸は宙で止まり、口はわずかに開いていた。
ちょうど一口食べようとしているところらしい。
その顔には、何の表情もなかった。
不機嫌そうでもない。
楽しそうでもない。
ただ……空っぽだった。
まるで、世界に忘れられてしまったみたいに。
緒山は、しばらく彼を見ていた。
それから歩み寄り、彼の隣に腰を下ろした。
弁当箱を膝の上に置いたまま、彼女は顔を横へ向け、その横顔を見つめた。
木漏れ日が葉の隙間から彼の顔に落ち、明暗の影を作っていた。
「友達いないの? かわいそう」
彼女は小さく言った。
「しょうがないなぁ。私が一緒に食べてあげる」
彼女は自分の弁当を開けた。
朝、家を出る前に母が鞄へ入れてくれたものだ。
「途中でお腹が空いたら食べなさい」と言って。
今は、一緒に食べてくれる人なんて誰もいないけれど。
それでも――
彼女は玉子焼きを一切れつまみ、口に運んだ。
静かに食べ終える。
それから、もう一度彼を見た。
彼はまだ、同じ姿勢で、同じ表情のままだった。
緒山は立ち上がり、スカートについた草を軽く払った。
「明日……また来ようかな」
そして彼女は背を向ける。
その林を離れ、止まった世界をあとにした。
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部屋に戻ると、彼女は深く息を吸い込み、能力を解いた。
世界が、再び動き出す。
リビングのほうから、母の声が聞こえてきた。
「朋奈? ご飯できたよ――」
「うん。」
彼女はそう答えた。
ドアを開けて、その「普通」の世界へ戻る。
母はちょうど食器を並べているところだった。
彼女に気づくと、ほっとしたように微笑んだ。
「お腹すいたでしょ? ほら、座って。今日は簡単なものでごめんね。明日はスーパーに行って――」
「うん」
彼女は短く返した。
席につき、箸を手に取る。
頭の中には、あの男子の孤独な横顔が残っていた。
世界から弾き出されたような人。
自分と同じような人。
彼女は視線を落とし、ご飯を一口、口に運んだ。
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夜。
緒山は風呂から上がり、玄関の姿見の前を通り過ぎた。
何気なく、鏡に映った自分へ目を向けた。
――その瞬間。
鏡の中の像が、かすかにぶれた。
電波の悪い古いテレビみたいに、画面が一コマだけ飛んだような感覚。
彼女は足を止め、鏡を見つめた。
鏡の中の自分も、こちらを見ている。
何もおかしくない。
彼女はまばたきをした。
鏡の中の自分も、同じようにまばたきをする。
――何も、おかしなところはない。
彼女はそのまま背を向け、部屋へ戻っていった。




