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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十二章 彼方の日々――僕の見えない場所で
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第一百一十六話

---


【その二】


新しいマンションは、思っていたより広かった。


大きな掃き出し窓から陽の光が流れ込み、フローリングを暖かな淡い金色に染めていた。


段ボールは部屋の隅にきちんと積まれていた。

母はそのうちのいくつかを開けて、彼女の本を一冊ずつ取り出し、新しい本棚へ並べていた。


「朋奈、これはどこに置く? 窓側? それともドアのほう?」

母は数冊の本を抱えたまま、振り返って尋ねた。


緒山はベッドの端に座り、この見慣れない部屋を見ていた。


壁も、カーテンも、新しかった。

シーツも、母がわざわざ買ってくれた、彼女の好きな淡い青色だった。


――全部、新しい。


自分だけは、前のままだった。


いや、それどころか。

病状が悪化して、こうして田舎からここへ引っ越してくるしかなかった。


「どこでもいい」


母の手が一瞬止まる。

けれどすぐに、また本を並べ始めた。


「じゃあ、こっちに置いておくね。あとで合わなかったら動かせばいいし。

ねえ、少し外に出てみる? さっき通ったとき、下に小さな公園があって――」


「行きたくない」


緒山は、途中で言葉を遮った。


母が振り向き、彼女を見る。


その目には、心配と、痛ましさが浮かんでいた。

戸惑いも、ありありとにじんでいる。


――それが、緒山にとっていちばん怖いものだった。


緒山は小さくため息をつき、そのままベッドに横になる。


「じゃあ……お母さんは先に片づけておくね。晩ごはん、何がいい? 近くにスーパーもあるみたいだから、お父さんが帰ってきたら一緒に――」


「お母さん」


緒山は布団で顔を覆った。


「少し、一人にしてほしい」


数秒の沈黙があった。


「……分かった」


母の声は、とても小さかった。


「何かあったら、呼んでね」


母は部屋を出ていった。

振り返って一度だけ彼女を見て、それからドアを閉めた。


---


ドアが閉まった瞬間、世界が静まり返る。


緒山はベッドから起き上がり、ドアのそばまで歩いた。


リビングから、かすかに母のすすり泣きが聞こえてくる。


彼女はドアにもたれ、そのままゆっくりと滑るように座り込んだ。

膝を抱えて、顔を埋めた。


動きたくなかった。

話したくもなかった。

こんな自分を、誰にも見られたくなかった。


それでも――


彼女は顔を上げ、この見知らぬ部屋を見渡した。


差し込む光の角度が、前の家とは違う。

窓の外の景色も、前の家とは違う。

空気の匂いさえ、前の家とは違っていた。


何もかもが違う。


――自分が「いつ消えてもおかしくない人間」であること以外は。


彼女は立ち上がり、窓のそばへ歩いていった。

そして、外を見下ろす。


母が言っていた、小さな公園があった。


滑り台のあたりで、何人かの子どもが遊んでいる。

その笑い声が、かすかに届いてくる。


若い母親がベビーカーを押して通り過ぎる。

おじいさんがベンチに座って、日向ぼっこをしている。


みんな、それぞれの生活を送っている。


普通の生活。

自分とは関係のない生活。


彼女は深く息を吸い込んだ。


そして――時間が止まった。


風の音が消える。

子どもたちの笑い声も消える。

遠くでかすかに聞こえていた車の音も、消える。


あらゆる音が、途絶えた。


自分の呼吸の音さえも、聞こえない。


あの、慣れきった空虚な静けさが、彼女を包み込む。


彼女は胸に手を当てた。


手のひらの下、本来なら鼓動があるはずの場所には、何もなかった。


止まった世界の中では、心臓も動かない。


――けれど彼女はまだ知らない。

この世界に最初に招かれる客の心臓が、あんなにも軽やかに脈打つことを。


彼女の口元が、ゆっくりと弧を描いた。


この止まった世界の中では、

「私は大丈夫」と装う必要が、ようやくなくなる。


彼女は振り返り、ドアを開けた。


廊下には、片づけの途中の姿勢のまま固まった母がいた。

まるで蝋人形のようだ。


緒山はその横を通り過ぎた。

一度だけ視線を向けた。


母の手は中途半端に宙に浮いたまま。

その表情には、さっきのあの細やかな気配りと控えめさが残っている。


「ごめんね」


緒山は小さくそう言うと、ドアを押し開け、外へ出ていった。


---


街のすべてが、止まっていた。


車は道路の真ん中で止まり、運転手はあくびをしかけた姿勢のままだった。


自転車に乗った少年も、その場で静止している。

片足をペダルに乗せ、もう片方は地面から離れたところで止まっていた。


コンビニの自動ドアは半分だけ開いたまま。

店内では客が、棚のおにぎりに手を伸ばしている途中だった。


緒山は、道路の中央を歩いていく。


誰も、あの腫れ物に触るような目で彼女を見ない。

誰も、「一人?」「体調は大丈夫?」「平気?」なんて聞いてこない。


自由に歩ける。


速く歩きすぎて疲れる心配もない。

突然倒れて誰かに迷惑をかける心配もない。

誰のことも気にしなくていい。


彼女は一軒の服屋に入った。


ショーウィンドウのマネキンは、優雅なポーズのまま佇んでいる。


緒山はその前に立ち、首をかしげながらしばらく眺めた。

それから真似をして、同じポーズを取ってみた。


ポーズを解いて、自分でくすっと笑った。


――バカみたい、私。


けれどすぐに笑みを消し、また歩き出した。


パン屋の前を通りかかったとき、緒山はガラス越しに焼きたてのパンを見た。

湯気が空中で止まり、ふわふわした雲みたいに浮かんでいる。


花屋の前では、色とりどりの花が、いちばん美しい瞬間のまま静止していた。

どの花も、決して枯れない。


公園の前を通りかかった。


さっきのおじいさんが、ベンチに座ったまま目を閉じていた。

陽の光が、白い髪をやわらかく光らせている。


緒山はその隣で少しだけ足を止めた。

それからまた歩き出した。


気づけば、新しい学校の前まで来ていた。


泉方新高。


校門は閉まっている。

守衛室の窓の向こうで、警備員のおじさんが湯のみを持ったまま口を開いていた。

ちょうど一口飲んだところだったのだろう。


緒山は校門の上の文字を見上げた。


――ここが、これから三年間過ごす場所。


もし、その三年を過ごせるのなら。


彼女は横に回り、低い塀を見つけた。


乗り越えるのは難しくない。

どうせ誰にも見られないのだから。


塀を越えながら、

「担任を一度泣かせて、それから謝る」という願いを思い出した。


初めての校則違反記録は、たぶんこれだ。


彼女は小さく笑った。


---


校内は、がらんとしていた。


ちょうど昼休みの時間で、教室の中には、思い思いの姿勢で止まった生徒たちがいた。


机に突っ伏して眠っている者。

集まって話している者。

弁当箱を手に、ふたを開けようとしている者。


緒山は校舎の廊下を歩いていく。


いくつもの窓越しに、止まったままの光景が見えた。


笑っている生徒。

騒いでいる生徒。

眠そうにあくびをしている生徒。

こっそりスマホを見ている生徒。


みんな、それぞれの日常の中にいた。


緒山はさらに歩いた。


校舎の端まで行くと、外へ続く扉があった。

その扉を開けると、外には小さな林。


入口には、一枚の札が立っている。

そこには「立入禁止」と書かれていた。


緒山はその札を見て、片眉を上げ、そして、そのまま中へ入った。


林は、思っていたよりも奥深かった。


午後の陽射しが枝葉の隙間からこぼれ落ち、地面にまだらな光と影を落としていた。


鳥が一羽、空中に止まっていた。

翼を広げ、飛んでいる姿勢のまま。


落ち葉も宙に浮かんでいた。

水面に漂っているみたいに。


ひどく静かだった。


この世界だけの静けさだった。


彼女は、うっすら残った小径をたどって奥へ進んでいく。


どれくらい歩いただろう。


ふいに視界が開けた。


小さな空き地。

その真ん中に、古びたベンチが一つ置かれていた。


ベンチには、一人の人影があった。


緒山は足を止めた。


男子生徒だった。


制服を着て、一人でベンチに座っていた。

手には弁当箱。

箸は宙で止まり、口はわずかに開いていた。

ちょうど一口食べようとしているところらしい。


その顔には、何の表情もなかった。


不機嫌そうでもない。

楽しそうでもない。


ただ……空っぽだった。


まるで、世界に忘れられてしまったみたいに。


緒山は、しばらく彼を見ていた。


それから歩み寄り、彼の隣に腰を下ろした。


弁当箱を膝の上に置いたまま、彼女は顔を横へ向け、その横顔を見つめた。


木漏れ日が葉の隙間から彼の顔に落ち、明暗の影を作っていた。


「友達いないの? かわいそう」


彼女は小さく言った。


「しょうがないなぁ。私が一緒に食べてあげる」


彼女は自分の弁当を開けた。


朝、家を出る前に母が鞄へ入れてくれたものだ。

「途中でお腹が空いたら食べなさい」と言って。


今は、一緒に食べてくれる人なんて誰もいないけれど。


それでも――


彼女は玉子焼きを一切れつまみ、口に運んだ。


静かに食べ終える。

それから、もう一度彼を見た。


彼はまだ、同じ姿勢で、同じ表情のままだった。


緒山は立ち上がり、スカートについた草を軽く払った。


「明日……また来ようかな」


そして彼女は背を向ける。


その林を離れ、止まった世界をあとにした。


---


部屋に戻ると、彼女は深く息を吸い込み、能力を解いた。


世界が、再び動き出す。


リビングのほうから、母の声が聞こえてきた。


「朋奈? ご飯できたよ――」


「うん。」


彼女はそう答えた。


ドアを開けて、その「普通」の世界へ戻る。


母はちょうど食器を並べているところだった。

彼女に気づくと、ほっとしたように微笑んだ。


「お腹すいたでしょ? ほら、座って。今日は簡単なものでごめんね。明日はスーパーに行って――」


「うん」


彼女は短く返した。


席につき、箸を手に取る。


頭の中には、あの男子の孤独な横顔が残っていた。


世界から弾き出されたような人。

自分と同じような人。


彼女は視線を落とし、ご飯を一口、口に運んだ。


---


夜。


緒山は風呂から上がり、玄関の姿見の前を通り過ぎた。


何気なく、鏡に映った自分へ目を向けた。


――その瞬間。


鏡の中の像が、かすかにぶれた。


電波の悪い古いテレビみたいに、画面が一コマだけ飛んだような感覚。


彼女は足を止め、鏡を見つめた。


鏡の中の自分も、こちらを見ている。


何もおかしくない。


彼女はまばたきをした。

鏡の中の自分も、同じようにまばたきをする。


――何も、おかしなところはない。


彼女はそのまま背を向け、部屋へ戻っていった。

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