第一百一十五話
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蝉の声が、遠くに聞こえる。
石原は春野の唇が動いているのを見ていた。
けれど、その声は少しも届いてこなかった。
――聞こえないのではない。
彼の意識は、もうこの部屋にはなかった。
もっと前の、あの場所へ戻っていた。
あの頃、彼女はまだ彼の名前を知らなかった。
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【日記】
灰色の病室で、滴がひとつ、またひとつ、私の心に落ちてくる。
少し痛い。でも大丈夫。
隣のベッドの優しいおばあちゃんは、ついさっきまで私を励ましてくれていたのに。
今は病気の痛みで、声をひそめて泣いている――誰もそばにいない。
私はそっと近づき、母がくれたぬいぐるみの犬を、おばあちゃんに渡した。
「おばあちゃん、早くよくなってね」
おばあちゃんは笑った。
検査の結果は良くなかった。
市内の病院に転院することになった。
お別れに行ったとき、おばあちゃんの容態は良くなかった。
医者たちが彼女を囲み、彼女は私の目を見つめていた――まるで別れを告げるかのように。
どうか、よくなりますように。
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【その一】
緒山はノートを閉じて胸に抱いていた。
車は高速道路を、一定の速度で走っていた。
窓の外の景色は、怖いくらい単調だった。
灰白色のガードレール、時折視界をかすめていく緑の道路標識、遠くに連なる山の影。
それらすべてが、後ろへ流れていく。
まるで、誰かに早戻しボタンを押されたみたいに。
緒山は冷たい車窓に額を預けていた。
車体の振動に合わせて、ガラスがかすかに震えていた。
窓の外も、車内も、見たくなかった。
視線は、ガラスに映った自分の姿へ落ちた。
ぼんやりとした、表情のない少女の輪郭。
「朋奈、見て――」
助手席から、母が振り返った。
手にはスマホを持っている。
画面には、どこかの旅行ブロガーの記事が映っていた。
「泉方区に有名な商店街があるんだって。スイーツのお店も多いみたい。
落ち着いたら、一緒に行ってみない?」
無理に明るくしたその声は、しぼみかけた風船に、必死で空気を送り込んでいるみたいだった。
「うん。」
緒山はそう返す。
その声は、ほとんど聞こえないくらい小さかった。
運転席の父が、バックミラー越しに彼女を見た。
けれど、すぐに視線を戻す。
「新しい学校、けっこう大きな図書館もあるらしいぞ」
父が話を引き取った。
「前にずっと探してた小説、あっただろ……? 向こうなら、置いてあるかもしれない」
「うん」
また、それだけだった。
母と父が、目を合わせる。
その目を、緒山はよく知っていた。
心配と、腫れ物に触るような慎重さ。
それから、どうしていいのか分からない戸惑い。
壊れやすいものを前にして、どこへ置けば割れずに済むのか分からない――そんな目だった。
緒山は、その目が好きではなかった。
でも、それ以上に自分が嫌だった。
二人にそんな目をさせているのは、自分だったから。
「あ、そうそう」
母がまたスマホをいじった。
「学校案内に書いてあったんだけど、そこの生徒会、けっこう活発みたいよ。毎年夏には文化祭も――」
「お母さん」
緒山は母の言葉を遮る。
母は一瞬、目を瞬いた。
顔に浮かべていた笑みがわずかに固まり、それからすぐに、また笑顔を作る。
「どうしたの?」
「私、大丈夫だから」
緒山は、窓の外を見たまま、静かな声で言った。
「そんなふうにしなくていいよ」
車内が、数秒だけ静まり返る。
父のハンドルを握る手に、力が入った。
母は何か言おうとして口を開いた。
けれど結局、何も言わなかった。
緒山は振り返らなかった。
自分の言葉が、棘みたいに聞こえたことは分かっている。
けれど、どう言えば柔らかくできるのか、分からなかった。
疲れていた。
「私は大丈夫」と取り繕う力さえ、もう残っていなかった。
緒山はうつむき、ずっと抱えていたノートを開く。
表紙には、「緒山朋奈」の四文字が、彼女の手で書き添えられていた。
インクはもう乾いている。
けれど文字の端には、書いたときの力みが、まだ少しだけ残っていた。
あのとき、自分は何を考えていたのだろう。
たぶん、そうすることで、
「自分が誰なのか」を忘れないようにしたかったのだと思う。
表紙をめくる。
一ページ目。
「一度、海辺の夕焼けを見に行く」
その一行を見て、それを書いたときのことを思い出した。
あのときは、診断結果を受け取ったばかりだった。
彼女は病院の廊下のいちばん奥、非常階段の踊り場に身を隠し、非常灯の緑の明かりを頼りにその一行を書いた。
字は少し震えていた。
手が震えていたからだ。
二ページ目。
「お父さんとお母さんに手紙を書く」
これはまだ書いていない。
何を書けばいいのか、分からなかった。
ごめんなさい? ありがとう? 大好き?
――分からない。
三ページ目、四ページ目……
「好きな本を最後まで読む」
「遊園地に行って、観覧車に乗る」
「鉢植えの花を育てて、大きくなっていくところを見る」
「部屋をきれいに片づけて、それから……」
その項目は、最後まで書けなかった。
あのとき、ペン先はしばらく止まったままだった。結局、彼女はノートを閉じてしまった。
さらにページをめくる。
どこからだったか、字の調子が少し変わっていた。
あまり力が入っていない。
重たさもない。
どこか少しだけ――いたずらっぽい、ような。
「学校で友達を一人作る」
これを書いたとき、何を考えていたのだろう。
たぶん、ある夜、眠れなくてスマホを眺めていたときのことだ。
何気なく見ていた学園ドラマのワンシーンで、ヒロインが友達と一緒になって笑っていた。
彼女は画面を、しばらくじっと見つめていた。
それから起き上がり、ノートにその言葉を書き込んだ。
書き終えたあと、小さな笑顔マークも添えた。
「こっそり恋をしてみる」
その一行を見て、口元がわずかに動いた。
あのときの自分は、きっと少し格好つけたつもりだったのだろう。
来年まで生きられるかも分からないくせに、こんな贅沢な願いを書いているのだから。
「担任を一度泣かせて、それから謝る」
これは、あるコメディ映画を見たときに書き足したものだ。
ヒロインが担任を本気で怒らせて、慌てふためかせる場面で、彼女は思わず笑ってしまった。
笑ったあと、すぐに自分が滑稽に思えた。
自分みたいな「優等生」が、
誰かを怒らせて泣かせることなんて、一生できるはずがない。
それでも、書いた。
せめて――自分の中に少しだけ、「反抗」の余地を残しておくために。
「猫を一匹飼う」
「料理を一つ覚えて、両親に食べてもらう」
「日記を書く。毎日書く。そうすれば、いつか……誰かが私を覚えていてくれるかもしれない」
彼女の指が、その一行で止まった。
「いつか誰かが私を覚えていてくれるかもしれない」
これを書いたときの自分は、きっと泣いていたのだろう。
文字のいくつかがにじんでいた。
インクが広がって、小さな丸になっていた。
彼女は瞬きをして、その一行から目を逸らした。
そして、さらにページをめくった。
最後の白紙のページにたどり着くと、ポケットからペンを取り出した。
前の座席では、両親が小声で何かを話していた。
たぶん新しい家のことだろう。
その声は、水の向こうから聞こえてくるみたいにぼやけていて、耳に届いても、すぐに薄れていった。
彼女はペン先を紙に当てた。
数秒、ためらう。
そして、新しい一行を書き加えた――
「死ぬ前に、一度くらい恋ってやつの甘さを味わえますように」
最後の一文字を書き終えてから、彼女はその一行をじっと見つめていた。
死。
恋。
その二つの言葉が並んでいることに、どこか馬鹿げたおかしさがあった。
まるで、「餓死する前に、一度くらいおいしいものを食べたい」と言っているみたいだ。
食べたところで、結局は餓死するのだと分かっているのに、それでも食べたい。
彼女は小さく笑った。
本当に、自分で自分に笑ってしまった。
こんなときにまで冗談を言えるなんて、自分でもなかなか大したものだと思う。
けれど、その笑みは二秒しか続かなかった。
口元が下がった瞬間、胸の奥に何かが詰まったような気がした。
重くて、息ができないほどだった。
(こんな身体のままじゃ、結局、誰かの足を引っ張るだけだよね)
声には出さなかった。
けれど、その言葉は頭の中にはっきりと浮かんでいる。
頭から足先まで、冷水を浴びたようだった。
彼女はゆっくりとノートを閉じる。
そして、もう一度車窓にもたれた。
外の景色は、まだ後ろへ流れていく。
いつの間にか太陽は雲に隠れていた。
光が弱まり、ガラスに映る彼女の輪郭もぼやけていった。
「朋奈? 疲れた?」
前の席から、母の声がした。
「シート倒して、少し寝る?」
「いらない」
彼女はノートを胸に抱き、目を閉じる。
耳元では、まだ両親の声がしていた。
話題は、いつの間にか学校から夕飯のことに変わっている。
母はカレーを作ろうと言った。
「朋奈が好きだから」と。
父はうなずき、落ち着いたらスーパーに食材を買いに行こうと言った。
その声は近くて、遠かった。
ガラス越しに世界を見ているみたいだった。
彼女は目を閉じたまま、何も考えなかった。
いや、もう何も考えたくなかった。
車は走り続ける。
「泉方」という場所へ。
彼女が、まだ何が起こるのか知らない夏へ。
けれど、彼女は知らなかった。
まだ、何も知らなかった。
ノートは、彼女の膝の上に静かに置かれている。
表紙に書かれた「緒山朋奈」の四文字。
そのインクは、朝よりほんの少しだけ薄くなっていた――
けれど彼女は、それに気づかなかった。




