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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十二章 彼方の日々――僕の見えない場所で
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第一百一十五話

---


蝉の声が、遠くに聞こえる。


石原は春野の唇が動いているのを見ていた。

けれど、その声は少しも届いてこなかった。


――聞こえないのではない。

彼の意識は、もうこの部屋にはなかった。


もっと前の、あの場所へ戻っていた。


あの頃、彼女はまだ彼の名前を知らなかった。


---


【日記】


灰色の病室で、滴がひとつ、またひとつ、私の心に落ちてくる。


少し痛い。でも大丈夫。


隣のベッドの優しいおばあちゃんは、ついさっきまで私を励ましてくれていたのに。

今は病気の痛みで、声をひそめて泣いている――誰もそばにいない。


私はそっと近づき、母がくれたぬいぐるみの犬を、おばあちゃんに渡した。


「おばあちゃん、早くよくなってね」


おばあちゃんは笑った。


検査の結果は良くなかった。

市内の病院に転院することになった。


お別れに行ったとき、おばあちゃんの容態は良くなかった。

医者たちが彼女を囲み、彼女は私の目を見つめていた――まるで別れを告げるかのように。


どうか、よくなりますように。


---


【その一】


緒山はノートを閉じて胸に抱いていた。


車は高速道路を、一定の速度で走っていた。


窓の外の景色は、怖いくらい単調だった。

灰白色のガードレール、時折視界をかすめていく緑の道路標識、遠くに連なる山の影。


それらすべてが、後ろへ流れていく。

まるで、誰かに早戻しボタンを押されたみたいに。


緒山は冷たい車窓に額を預けていた。

車体の振動に合わせて、ガラスがかすかに震えていた。


窓の外も、車内も、見たくなかった。


視線は、ガラスに映った自分の姿へ落ちた。

ぼんやりとした、表情のない少女の輪郭。


「朋奈、見て――」


助手席から、母が振り返った。

手にはスマホを持っている。

画面には、どこかの旅行ブロガーの記事が映っていた。


「泉方区に有名な商店街があるんだって。スイーツのお店も多いみたい。

落ち着いたら、一緒に行ってみない?」


無理に明るくしたその声は、しぼみかけた風船に、必死で空気を送り込んでいるみたいだった。


「うん。」


緒山はそう返す。

その声は、ほとんど聞こえないくらい小さかった。


運転席の父が、バックミラー越しに彼女を見た。

けれど、すぐに視線を戻す。


「新しい学校、けっこう大きな図書館もあるらしいぞ」


父が話を引き取った。


「前にずっと探してた小説、あっただろ……? 向こうなら、置いてあるかもしれない」


「うん」


また、それだけだった。


母と父が、目を合わせる。


その目を、緒山はよく知っていた。


心配と、腫れ物に触るような慎重さ。

それから、どうしていいのか分からない戸惑い。


壊れやすいものを前にして、どこへ置けば割れずに済むのか分からない――そんな目だった。


緒山は、その目が好きではなかった。


でも、それ以上に自分が嫌だった。

二人にそんな目をさせているのは、自分だったから。


「あ、そうそう」


母がまたスマホをいじった。


「学校案内に書いてあったんだけど、そこの生徒会、けっこう活発みたいよ。毎年夏には文化祭も――」


「お母さん」


緒山は母の言葉を遮る。


母は一瞬、目を瞬いた。

顔に浮かべていた笑みがわずかに固まり、それからすぐに、また笑顔を作る。


「どうしたの?」


「私、大丈夫だから」


緒山は、窓の外を見たまま、静かな声で言った。


「そんなふうにしなくていいよ」


車内が、数秒だけ静まり返る。


父のハンドルを握る手に、力が入った。

母は何か言おうとして口を開いた。

けれど結局、何も言わなかった。


緒山は振り返らなかった。


自分の言葉が、棘みたいに聞こえたことは分かっている。

けれど、どう言えば柔らかくできるのか、分からなかった。


疲れていた。

「私は大丈夫」と取り繕う力さえ、もう残っていなかった。


緒山はうつむき、ずっと抱えていたノートを開く。


表紙には、「緒山朋奈」の四文字が、彼女の手で書き添えられていた。


インクはもう乾いている。

けれど文字の端には、書いたときの力みが、まだ少しだけ残っていた。


あのとき、自分は何を考えていたのだろう。


たぶん、そうすることで、

「自分が誰なのか」を忘れないようにしたかったのだと思う。


表紙をめくる。


一ページ目。

「一度、海辺の夕焼けを見に行く」


その一行を見て、それを書いたときのことを思い出した。


あのときは、診断結果を受け取ったばかりだった。

彼女は病院の廊下のいちばん奥、非常階段の踊り場に身を隠し、非常灯の緑の明かりを頼りにその一行を書いた。


字は少し震えていた。

手が震えていたからだ。


二ページ目。

「お父さんとお母さんに手紙を書く」


これはまだ書いていない。

何を書けばいいのか、分からなかった。


ごめんなさい? ありがとう? 大好き?

――分からない。


三ページ目、四ページ目……


「好きな本を最後まで読む」

「遊園地に行って、観覧車に乗る」

「鉢植えの花を育てて、大きくなっていくところを見る」

「部屋をきれいに片づけて、それから……」


その項目は、最後まで書けなかった。

あのとき、ペン先はしばらく止まったままだった。結局、彼女はノートを閉じてしまった。


さらにページをめくる。


どこからだったか、字の調子が少し変わっていた。

あまり力が入っていない。

重たさもない。

どこか少しだけ――いたずらっぽい、ような。


「学校で友達を一人作る」


これを書いたとき、何を考えていたのだろう。


たぶん、ある夜、眠れなくてスマホを眺めていたときのことだ。

何気なく見ていた学園ドラマのワンシーンで、ヒロインが友達と一緒になって笑っていた。


彼女は画面を、しばらくじっと見つめていた。

それから起き上がり、ノートにその言葉を書き込んだ。


書き終えたあと、小さな笑顔マークも添えた。


「こっそり恋をしてみる」


その一行を見て、口元がわずかに動いた。


あのときの自分は、きっと少し格好つけたつもりだったのだろう。

来年まで生きられるかも分からないくせに、こんな贅沢な願いを書いているのだから。


「担任を一度泣かせて、それから謝る」


これは、あるコメディ映画を見たときに書き足したものだ。

ヒロインが担任を本気で怒らせて、慌てふためかせる場面で、彼女は思わず笑ってしまった。


笑ったあと、すぐに自分が滑稽に思えた。


自分みたいな「優等生」が、

誰かを怒らせて泣かせることなんて、一生できるはずがない。


それでも、書いた。

せめて――自分の中に少しだけ、「反抗」の余地を残しておくために。


「猫を一匹飼う」

「料理を一つ覚えて、両親に食べてもらう」

「日記を書く。毎日書く。そうすれば、いつか……誰かが私を覚えていてくれるかもしれない」


彼女の指が、その一行で止まった。


「いつか誰かが私を覚えていてくれるかもしれない」


これを書いたときの自分は、きっと泣いていたのだろう。


文字のいくつかがにじんでいた。

インクが広がって、小さな丸になっていた。


彼女は瞬きをして、その一行から目を逸らした。


そして、さらにページをめくった。


最後の白紙のページにたどり着くと、ポケットからペンを取り出した。


前の座席では、両親が小声で何かを話していた。

たぶん新しい家のことだろう。


その声は、水の向こうから聞こえてくるみたいにぼやけていて、耳に届いても、すぐに薄れていった。


彼女はペン先を紙に当てた。


数秒、ためらう。

そして、新しい一行を書き加えた――


「死ぬ前に、一度くらい恋ってやつの甘さを味わえますように」


最後の一文字を書き終えてから、彼女はその一行をじっと見つめていた。


死。

恋。


その二つの言葉が並んでいることに、どこか馬鹿げたおかしさがあった。


まるで、「餓死する前に、一度くらいおいしいものを食べたい」と言っているみたいだ。

食べたところで、結局は餓死するのだと分かっているのに、それでも食べたい。


彼女は小さく笑った。

本当に、自分で自分に笑ってしまった。


こんなときにまで冗談を言えるなんて、自分でもなかなか大したものだと思う。

けれど、その笑みは二秒しか続かなかった。


口元が下がった瞬間、胸の奥に何かが詰まったような気がした。

重くて、息ができないほどだった。


(こんな身体のままじゃ、結局、誰かの足を引っ張るだけだよね)


声には出さなかった。

けれど、その言葉は頭の中にはっきりと浮かんでいる。


頭から足先まで、冷水を浴びたようだった。


彼女はゆっくりとノートを閉じる。

そして、もう一度車窓にもたれた。


外の景色は、まだ後ろへ流れていく。


いつの間にか太陽は雲に隠れていた。

光が弱まり、ガラスに映る彼女の輪郭もぼやけていった。


「朋奈? 疲れた?」

前の席から、母の声がした。

「シート倒して、少し寝る?」


「いらない」


彼女はノートを胸に抱き、目を閉じる。


耳元では、まだ両親の声がしていた。


話題は、いつの間にか学校から夕飯のことに変わっている。

母はカレーを作ろうと言った。

「朋奈が好きだから」と。

父はうなずき、落ち着いたらスーパーに食材を買いに行こうと言った。


その声は近くて、遠かった。

ガラス越しに世界を見ているみたいだった。


彼女は目を閉じたまま、何も考えなかった。

いや、もう何も考えたくなかった。


車は走り続ける。


「泉方」という場所へ。

彼女が、まだ何が起こるのか知らない夏へ。


けれど、彼女は知らなかった。

まだ、何も知らなかった。


ノートは、彼女の膝の上に静かに置かれている。


表紙に書かれた「緒山朋奈」の四文字。

そのインクは、朝よりほんの少しだけ薄くなっていた――


けれど彼女は、それに気づかなかった。

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