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異能学園の日常、可視と不可視の僕ら  作者: 颍川
第四卷:花火の下の分かれ道
12/16

第十二话 涙の理由――それでも、明日を願う

お待たせしました。また数日遅れてしまって、ほんとにごめんなさい。


実は先日、肩を怪我して入院することになって、仕方なく友達に状況を伝えてもらってました。今日ようやくパソコンを触れるようになったので、更新を再開します。


心配かけてしまいましたが、待っていてくれたみなさん、本当にありがとう!


これからも楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。では、本編で!

---


電車がゆっくりと停車した。

石原は緒山の手を離す。指先には、かすかな冷たさが残っていた。


緒山は小さく「また明日」と言って、そのまま改札へ向かう人波の中に紛れ、やがて姿は視界から消えていく。


掌に残った、ほんの一瞬の触れ合いの感触だけが、なぜかいつまでも消えなかった。


その日を境に、夏休みが始まった。


蝉の声が校内のざわめきを塗り替えていく。

そして、いつも石原にまとわりついていた“感情のノイズ”さえ、強い日差しの中ではどこか薄れていくようだった。


生活のリズムは、急に緩やかになった。

生徒会の仕事も止まり、日常は家と、たまに出かける買い出しだけの単調な往復へと変わった。


――けれど、すべてが止まってしまったわけじゃない。


葵が退院したあの日、緒山が見せた、声もなく涙を流す横顔が、視界の端に焼きついたまま離れなかった。


静かになるたびに、その光景が浮かび上がる。

あの明るい笑顔と、冷たい涙の跡が同時にあった顔。あわせて、必死に自分の手首を掴んできた感触まで思い出された。


彼女の中に、何か抱え込んでいるものがある。

いつも周りを明るくしている彼女を、あそこまで崩してしまうほど重い何かが。


けれど、それが何なのかは分からない。


……直接聞くか?


どう切り出せばいいのか、想像もつかなかった。

春野たちも、何も知らないようだ。


胸の奥には、夏の暑さみたいな苛立ちが、じわじわとこもり続けていた。


---


【八月七日・水曜日・夜】


「お兄ちゃーん!」


杏の声が、頭にまとわりついていた思考を引き戻した。


彼女はスマホを掲げている。

画面には、色鮮やかな料理の写真が映っていた。


「見て! 明日これ作ってみたいの! “夏の海鮮冷やし麺”ってやつ。すごくさっぱりしてそうでしょ? でも、かつおだしと新鮮なきゅうりがなくてさあ」


ぱちっとウインクしてみせる。それだけでも、言いたいことは十分伝わった。


「分かった。買ってくる」


石原は杏から差し出されたメモと財布を受け取った。


……外に出たほうがいい。家にいても、この妙な焦燥にずっと付きまとわれるだけだ。


「気をつけてね~。あ、もし小さめのレモンがあったら、それも二つお願い!」


玄関で手を振る杏は、いかにも楽しみで仕方ないといった顔をしていた。


――そして今、石原はスーパーの冷蔵ケースの前に立っていた。

指先で冷たいパックに触れながらも、視線はどこか定まらなかった。


外に出ても、気分はまったく晴れない。


メモにあったものは、ほとんど揃っていた。ついでに、杏がよく飲んでいるヨーグルトも買うべきか――そんなことをぼんやり考える。


「……はぁ」


小さなため息が、冷蔵ケースの低い唸りに紛れた。


結局、いつものヨーグルトを適当に数個手に取り、そのまま青果コーナーへ向かう。


気持ちが落ち着かないせいで、食材を選ぶ手つきまでどこか上の空になっていた。


そのときだ。穏やかだが、どこか焦りの混じった女の声が近くで聞こえた。


「もう……この箱、なんでこんなに滑るの……」


石原はそちらへ目を向けた。


四十代くらいだろうか。淡い花柄のワンピースを着た女性がいた。

カートに載せた、見た目にも重そうなミネラルウォーターの箱を持ち上げて、売り場の山に戻そうとしていた。

ケースが少し濡れて滑るようで、二度試してもうまく持ち上げられず、かえって体勢を崩しかけている。


石原は歩み寄った。


「持ちますよ」


「あら、ごめんなさい。助かるわ」


女性はすぐに手を離し、感謝したように小さく笑ってから、少し横へ退いた。


持ってみると、やはり重い。

石原はそのまま箱を持ち上げ、指定された売り場の山へと手際よく運び、しっかりと置いた。


「ほんとにありがとうね! 力あるのねえ、君」


女性は手を軽く叩きながら、にこにこと笑った。

そのまま視線が石原に向いた。そこには、遠慮のない好意と、まっすぐな熱が宿っていた。


「この辺の学生さん……泉方新高?」


「……はい」


石原は小さくうなずいた。

視線を落とし、そのまま会話を切り上げようとする。


ふと、頭上に浮かぶタグが目に入った。


【???の感情:感謝85、熱意15】


……混じり気のない好意。


石原はそのまま背を向けようとした。

だが。


「ちょっとちょっと!」


女性が半歩、前に出た。

声に迷いがない。ぐいっと距離を詰めてきた。


「こんなに助けてもらって、そのまま帰すわけないでしょ! ちゃんとお礼させてちょうだい!」


「いえ……別に、大したことじゃないです」


反射的に断る。

けれど、引く気配はなかった。


「大したことあるわよ! こんなの一人で運んでたら、どれだけかかると思ってるの」


女性は手を振りながら、にっこり笑った。


「ちょうどね、家でいろいろ作ってあって。食べきれないなって思ってたの。ね、よかったら寄っていかない? お礼ってことで」


「いや、本当に……」


「遠慮しないの! すぐそこなのよ、歩いて数分。――あ、買い物中? じゃあお会計、私が出すわね」


いつの間にか、女性は横のかごに手を伸ばしている。

手際よく中身をまとめ始めた。


軽い口調なのに、妙に押しが強かった。

どこか、覚えのある強引さだった。


「それにね、うちの子がいつも言うの。私の料理を食べると元気になるって。あ、そうだ、あの子も泉方新高なのよ? もしかしたら知り合いかもね」


……勢いに、押された。


断る理由が見つからなかった。

ここまでまっすぐ来られると、跳ね返すのも難しかい。


「……じゃあ、お邪魔します」


「そうこなくっちゃ!」


ぱっと顔が明るくなった。


「ほらほら、これ持つわ。こっちよ」


石原の手から袋を半分さらっていき、そのまま軽い足取りで歩き出した。


――道中。


女性はずっと話していた。

天気のこと。スーパーのセールのこと。


石原は短く相槌を打つだけだった。

ときどき、視線が街並みをかすめた。


歩くうちに、景色が見覚えのあるものへと変わっていく。


……この道。あの角。次の曲がり角も。


足が、わずかに遅くなった。


「もうすぐよ。ほら、あのマンション」


女性が前を指した。


石原は、その建物に見覚えがあった。


心臓が、一拍抜けた。


(……まさか。そんな偶然あるか?)


彼は女性についてマンションの入り口に入り、「緒山」と書かれた表札のかかったドアの前に立った。


心臓の音が、やけに近かった。


「朋奈ー、ただいま! お客さんも一緒よー!」


女性は鍵を取り出してドアを開けながら、明るく声をかけた。


……当たった。


出来すぎた偶然に、わずかに眩暈がする。


「さ、どうぞ――」


言い終わる前に。


奥の部屋のドアが、勢いよく開く。


緒山が顔を出した。


髪は少し乱れていて、黒いセミロングが肩に落ちていた。


星柄の淡い青のパジャマで、足元はふわふわのスリッパ。


片手で目をこすっていて、まだ眠気の残った顔をしていた。


「ママ、おかえり……って、お客――」


視線が動き、母親の肩越しに石原を見る。


――止まった。


手が、そのまま固まった。


時間が、玄関の狭い空間の中で無限に引き延ばされたかのようだった。


石原には見えた。緒山朋奈の頭上の、普段は安定している感情ラベルが、一秒の間に何度も激しく変わり、やがてゆっくりと落ち着いていくのが。


【緒山朋奈の感情:驚き100#「@/*】


唇がわずかに開き、目が大きく見開かれていた。


現実じゃないものを見たみたいに。


「緒山……さん」


声が、少し乾いていた。


「え……あっ?!」


ようやく、声が出た。

手をおろし、そのまま胸元をぎゅっと掴む。


「ママ!? せ、先輩!? な、なにこれ!? 突撃訪問!? それともついに“男子を家に連れてくる”ってやつ、本当にやったの!?」


一気にまくしたてる。


しかし、真っ赤になった耳の付け根、微かに震える指先、そして石原と一秒以上視線を合わせられずにすぐ別の方向へ逃げていく目が、彼女の本当の心境を余すところなく暴露していた。


「もう、何言ってるのこの子は」


母親が軽く腕を叩いた。

けれど、笑みはますます深くなっている。


「気にしないでね、家だとこんな調子なの。さ、上がって上がって」


石原は緒山の母の元気な誘いと、緒山本人の気まずそうな視線の中、ぎこちなく靴を脱ぐ。

妙に落ち着かない気持ちで、この温かく明るい、しかし今この瞬間は針のむしろのような、「緒山家」に上がった。


---


石原はリビングの柔らかなソファに座らされた。

体が少し沈む。


手には、冷たい麦茶の入ったグラスを持たされていた。


緒山の母親は、まだ何度も礼を言っていた。


「ほんとにもう、朋奈ったら……。ほら朋奈、ぼーっとしてないで、着替えてきなさい」


緒山は、そこでようやく自分の格好に気づいたらしい。

「あ……」と小さく声を漏らした。


顔の赤みは、まだ引いていない。


そのまま、くるりと背を向けた。

すぐに自室へ引っ込み、ドアが閉まる。少し慌てた音だった。


――静かになった。


リビングには、石原と母親の二人だけ。


石原は背筋を伸ばしたまま座っていた。

視線だけが、部屋の中をゆっくりなぞる。


部屋は明るく、きれいに整っていた。

ベージュを基調に、観葉植物がいくつか置かれていた。


……けれど、どこか広く感じる。


そんな印象だった。


テレビ台の上には、一枚だけ絵が掛けられていた。

星空を描いた水彩。筆致は少し幼かい。


その周りは、やけに余白が多かった。


サイドテーブルには写真立てがあり、石原はそれをちらりと見る。


ほとんどが、緒山の中学時代か、それより前のものだった。

どれもよく笑っている。


ただ、写真の鮮明さが、どこか揃っていないように見えた。


【緒山母親の感情:喜び70、好奇25、その他5】


向かいの一人掛けソファで、母親がやわらかく笑う。


「そんなに緊張しないでね。自分の家だと思ってくれていいから」


少し身を乗り出した。


「そういえば、石原くんと朋奈って、学校では仲いいの? さっき“先輩”って呼んでたけど」


「はい。生徒会で書記をやってます。緒山さんは副会長です」


言葉を選んで答えた。


――ふと。


杏のことを思い出した。


石原はスマホを取り出し、短く打ち込む。


「急に用事ができた。夕飯は待たなくていい。食材は買って、玄関に置いてある」


送信。


「生徒会かぁ。いいわねえ。朋奈も、みんなにお世話になってるみたいで」


母親はうなずいた。

目の奥の好奇心が、少しだけ濃くなった。


「家でもね、たまに生徒会の話をするのよ。雰囲気がいいって。石原くん、先輩として朋奈のこと、ありがとうね」


「……いえ。助けられてるのは、こっちのほうです」


そのまま答えた。事実だ。

彼女がいなければ、生徒会にも入っていなかったし、今みたいな景色を見ることもなかった。


そのとき。玄関のほうから、鍵の音。

続いて、明るい男の声。


「ただいまー。……あれ、お客さんの靴?」


中年の男性が入ってきた。

細いフレームの眼鏡。スーツ姿。手にはビジネスバッグ。


石原を見て、明らかに驚いている。。


「あら、ちょうどいいところに帰ってきたわ」


母親がすぐに立ち上がった。


「この子、石原くん。朋奈の先輩でね、お店で助けてもらったの。石原くん、こちら主人です」


「お邪魔しています」


石原は立ち上がり、軽く頭を下げた。


「おお、どうもどうも!」


男性はすぐに笑顔になった。


「助けてくれたんだ? それは本当にありがとう。さ、座って座って」


上着を脱ぎ、母親の隣に腰を下ろす。

そのまま、ごく自然に石原へ視線を向けた。


「さっき聞いたけど……朋奈の先輩、なんだって?」


「同じ二年です。生徒会で一緒にやってます」


「おお、なるほど。同じ学年で、生徒会も一緒なんだ」


うなずいた。声は穏やかだった。


「朋奈、ちゃんとやれてる? みんなに迷惑かけてないといいんだけど。あの子、たまに突拍子もないことを思いつくから」


そのとき、部屋のドアが開いて、緒山が戻ってきた。


今度は、薄いグレーのTシャツにデニムのショートパンツ。

髪も整っている。


顔の赤みはさっきより薄れていた。

けれど、視線が合うと少しだけ揺れて、すぐ逸らされる。


「お父さん、おかえり」


そのまま歩いてきて、ソファの端に座った。

石原との間には、クッションひとつ分の距離があった。


「先輩、すみません。ちょっと散らかってて」


「……いや。片付いてるよ」


石原は小さく首を振った。


二人はぎこちなく笑い合った。

そのまま、言葉が途切れた。


「はい、そろったしご飯にしましょ!」


緒山の母親の声が、ちょうどよく空気を切り替える。


夕食は思っていたより、ずっと和やかだった。


料理はどれも手が込んでいた。

味もよかった。


母親は次々と石原の皿に料理をよそった。

話題も、学校のことやちょっとした雑談ばかりだった。


父親は最初こそ口数が少なかったが、ビールが進むにつれて、だんだんと話すようになった。


石原の成績。

趣味。

生徒会のこと。


ひとつひとつ、興味深そうに聞いてくる。


そして、話が緒山に関係する内容になると、身内らしい親しさが滲んだ。


「朋奈、生徒会でもあっちこっち動き回ってるのか?」

「生徒会室に変なふうに物、置きっぱなしにしてないよな?」


誇らしさと、“うちの子のことだから分かる”という距離の近さが混じっている。


「お父さん、私そんなことしてないし!」


緒山がすぐに抗議した。


「この前、誰かさんのマフラーが一週間ずっと生徒会室に掛かってたけどな」


父親はゆったりした口調で返した。

目は笑っていた。


「それは……忘れてただけ!」


言い返しながらも、少しだけ声が弱かった。


――やり取りが、自然だった。


石原はそれを横で聞いていた。

必要なときだけ、短く答えた。


こういう空気。

家族の間に流れる温度。


それが、少しだけ羨ましかった。

同時に、胸の奥に淡い渋みが残った。


父親が昔の話をするとき。

ときどき、ほんのわずかに言葉が途切れた。


思い出すみたいに、一拍置いて、けれどすぐに続いた。


母親が横から補った。

笑いながら、自然に。


――息が合っていた。


食事も半ばを過ぎたころ。


「あ、そうだ」


母親が思い出したように顔を上げた。


「この前、朋奈の幼稚園のアルバム見つけたのよね。あとで、石原くんにも見せてあげようか?」


「ちょ、ママ!?」


緒山が即座に抗議した。


「いいじゃないか」


父親が笑った。

だが、その直後。


ほんの一瞬だけ、眉が寄った。

こめかみを軽く押さえた。


「……あれ、どこにしまったっけな。書棚の上だったか……いや、違うか」


彼は少し呆然とした様子で瞬きした。


母親の笑みが、一瞬だけ止まるが、すぐに戻った。


「たぶん書斎のどこかの箱の中よ。あとで一緒に探しましょ。ほら、先に食べちゃいましょう」


会話はそのまま流れていった。


――けれど。


石原は見ていた。


緒山の手。

箸を持つ指が、一瞬だけ強く握られたのを。


---


食事が終わった。


片付けを手伝おうとしたが、止められる。

そのままソファに戻された。


キッチンから、水の音。

小さな話し声が混じっていた。


リビングには、石原と緒山の二人。


緒山はソファの端。

クッションを抱えたまま、視線が落ち着かなかった。


また、静けさが戻った。


何かを言いかけて、やめる。

そんな空気が残っていた。


視界にタグが浮かんだ。


【躊躇】【不安】【恐れ】……


(……緒山さんも、あの日のことを気にしてるのか)


やがて。


水音が止まる少し前。


緒山が息を吸って顔を上げた。


今度は、目を逸らさなかった。


「……先輩」


声は小さかった。

でも、はっきりしていた。


「その……部屋、来ませんか? 新しく買った漫画が何冊かあって……けっこう面白いんです。……それか、その、少し話でも」


言い終えた瞬間。


キッチンのドアが開いた。


母親が顔を出した。

手には布巾。


目が、すぐに輝いた。


「いいわねいいわね、行ってらっしゃい! あとでフルーツ持ってくから! ちゃんと“お話”してきなさいね?」


「お話」をわざと強調した。


「ママ!」


緒山の顔が一気に赤くなった。


その後ろから、父親も出てくる。

少しだけ、表情が複雑だった。


娘を見た。

石原を見た。


口を開きかけた。

けれど、閉じた。


眼鏡を押し上げる。


「……まあ、その……部屋、な。ドアは少し開けておけ。風通しがいいように」


言ったあと、少し間。


「いや、その……暑いだろ。開けてたほうが涼しい」


「お父さん!」


今度は耳まで赤くなった。


緒山がほとんど跳ねるように。立ち上がった。


「せ、先輩、こっちです!」


そのまま手を伸ばした。

石原を立たせようとするみたいに。


――けれど。


途中で、ぴたりと止まる。


はっとした顔ですぐに手を引っ込めた。


熱いものに触れそうになったみたいに、さっと離す。


緒山の頬が一気に赤くなった。


石原も、一瞬遅れて反応した。

耳の奥が熱くなった。


「ち、違う、その……こっちです!」


言葉がまとまらなかった。


視線を落としてそのまま足早に自分の部屋へ向かった。


父親は娘が部屋へ急ぐのを見て、無意識のうちに半歩前に出た。腕を少し持ち上げ、声をかけて引き止めようとするかのようだった。


「あなた」


いたずらっぽい笑みが浮かんでいて、小さく首を振り、二人だけに聞こえる声で、笑いを含ませながら囁く。


「ほら、邪魔しないの。若い子はみんなそんなものなんだから。あなたはこっち。フルーツ切ってちょうだい。いちごとメロン、出すから。あのガラスのお皿でね」


父親の動きが止まった。


少し開いたままのドアのほうを見た。


その前に立つ石原は軽く会釈する。


父親はため息をついた。


「……分かった」


小さくつぶやくと。何度か振り返りながらそのままキッチンへ戻った。


石原は部屋へ入った。


背後で、母親の声がかすかに聞こえた。


「もう、大きくなっちゃって」


---


―― 空白の刹那 ――


---


石原が部屋に踏み入ると、緒山を思い起こさせる、ほのかで微かに苦みのあるシャンプーの香りが、日光に晒された綿の布の温もりと混ざり合って、柔らかく包み込んでくる。


リビングよりも、ずっと温もりのある空間だった。

暖かい色の灯りが、ベージュのカーペットに落ちている。


――視線が、壁の一面に吸い寄せられた。


写真。

色とりどりの付箋。

見慣れない項目がずらりと並んだカード。


静かなはずなのに、そこだけひどく賑やかだった。


今の自分の頭の中みたいに。


「す、好きなとこ座ってください。床でも、椅子でも……」


緒山が机の椅子と、クッションを敷いた床の一角を指した。


緒山はベッドの端に座る。

膝を抱えるようにして、少し距離を取っていた。


まだ、さっきの空気が抜けず、視線も落ち着かなかった。


石原は少し迷ってから、椅子に腰を下ろす。


距離は二メートルほど。

なのに、間に何かあるみたいだった。


「……今日の料理、うまかった」


口を開いた。

沈黙を切るように。


「うん……ママ、ああいうの好きで」


緒山は小さく答えた。

指先で、髪をいじっていた。


「カレーのリンゴ、あれよかった」


「それ、うちの定番なんです……」


――続かなかった。


会話はそこで途切れた。

また、静かになった。


外から、虫の声。

遠くの車の音が、ぼんやりと混ざっている。


石原は膝の上で指を握った。


視線の先。

うつむいた横顔。


まつげの下に、影が落ちていた。


――聞くか。


あの日のこと。

どうして、泣いていたのか。


喉まで来た。


……飲み込んだ。


踏み込んでいいのか分からなかった。

余計な負担になるかもしれない。


今の、この距離すら壊すかもしれない。


胸の奥が、じわじわと締まった。


(……でも)


(このままだと、何もできない)


息を吸った。


――その瞬間。


「葵ちゃん……今、きっと嬉しいんだろうな」


緒山が顔を上げた。


視線は、窓の外。

夜の空へ。


声は独り言みたいに小さかった。


「一時退院で……病院を離れて、家に戻れて。慣れた場所で、お兄ちゃんと一緒にいられて。ママのご飯も食べられて、自分のベッドで星を見て……」


ゆっくりと言葉を重ねた。


「もしかしたら、近くの小さな公園とかも散歩できるかもしれないし」


口元が、やわらかく緩んだ。

目に、月の光が映っていた。


「きっと笑ってて、明日どこ行こうかなって考えて……どのアニメ見るか決めて……そういうの、想像するだけで」


一瞬、言葉が止まった。


でも、笑みはそのまま。


「……いいなって、思うんです」


立ち上がり、窓のほうへ歩いた。


月明かりに入った。


「“明日”があること。

それを当たり前みたいに楽しみにできること。

やりたいことを、少しずつ叶えていける時間があること……」


声は、静かだった。

やさしかった。


「……ほんと、いいなって思います」


石原は、その場に座ったまま。


夜の風が、開けた窓から入ってくる」としたほうがいいです。

頬に触れた。


――冷たい。


理由のない寒気が、背をなぞった。


月明かりの中の横顔を見た。


……重なった。


橋。

冷たい水。

落ちていく背中。


あのとき止まりかけた、自分の鼓動。


目の前の姿が、重なった。


――同じだ。


「――っ!」


考える前に、体が動いた。


石原は椅子を蹴るように立ち上がると、そのまま一気に距離を詰める。

緒山が目を見開くより早く、その手首を掴んで、自分のほうへ強く引いた。


「きゃっ!?」


緒山の体がぐらりと前に傾いた。

不意を突かれ、そのまま石原のほうへ倒れかかる。


ぶつかりそうになった。


「せ、先輩……!?」


顔を上げると、目が大きく開いた。


石原の目とぶつかる。


――そこで、止まった。


石原も動けなかった。


手の中。

細い手首の感触。温かい。


距離が近い。


……はっとした。


手を離した。

後ろに下がった。

二歩。


「……悪い!」


声がうまく出なかった。


「違う、俺……その……」


言葉が絡まった。


窓の方を指した。


「さっき、外見てて……その顔が……」


呼吸が浅かった。


「あの日、橋でのこと思い出して……飛び降りるのかと思って……」


まとまらなかった。

でも、意味だけは伝わった。


緒山は少しだけ目を見開いた。


――次の瞬間。


「……ぷっ」


笑いが漏れた。


「ははっ……あはははっ!」


止まらなかった。


腰を折ってお腹を押さえる。


「先輩……想像力すごすぎません……? 私、ただ月見てただけですよ? あははっ……!」


笑いが弾けた。


「毎回、窓の外見ただけで飛び降りるって思われるんですか? じゃあ私、もう窓も開けられないじゃないですか!」


声が部屋に広がる。


さっきまでの空気が、崩れた。


「しかも、ここ一階ですよ?」


石原は何も言えなかった。


緊張が抜けていく。

代わりに、耳が熱くなった。


「……笑うな」


小さく言った。


緒山はようやく笑いを抑えた。


目尻の涙を拭う。

まだ少し笑っていた。


そのまま、石原を見た。


何か言いかけて――止まる。


---


―― 空白の刹那 ――


---


石原は、息を深く吸い込んだ。


さっきの一件で、気持ちは軽くなるどころか、逆だった。

胸の中をぐるぐる回っていた不安も、焦りも、眠れないほどのざわつきも、かえって輪郭を持ってしまった。


もう、考えるのはやめたかった。

笑いながら、あんなふうに泣く姿を――黙って見ているのも、限界だった。


「緒山さん」


石原は口を開く。

声はいつもより低く、しかし今まで見せたことのないほど真剣で、感情の高ぶりで微かに震えさえしていた。


「……ずっと、聞きたかった」


目を逸らさなかった。


「葵さんが退院した日……なんで、泣いてたんだ」


緒山の顔から笑みが消える。


少しだけ目を見開いた。

予想していなかった、そんな顔。


石原を見る。


彼女にとってこんな石原を見るのは初めてだった。


あの受け身で、内向的で、よく戸惑っている先輩ではなく、燃えるような目で、力強く、答えをもらうまで絶対に引かないという姿勢。


「見てた」


石原は続けた。


言葉が、止まらなかった。


「笑ってたよな。みんなと一緒に。なのに、涙だけ流れてて……」


息が詰まった。


「あのとき、手首……すごく強く掴んできて……冷たくて……電車の中でも、ずっと震えてた」


一歩、前に出ていた。

無意識だった。


「……心配なんだ」


声が少しだけ強くなった。


「何があったのか、分からないまま……何もできなくて……聞こうとしても、緒山さんを悲しませるかと思って言えなくて……」


喉が引っかかった。


「でも……でも、緒山さんがずっとこうして一人で抱え込んでいるほうがもっと怖い! あんな様子を見ていながら、何も知らず、何の力にもなれなくて……俺は……」


言葉が途切れる。


これはほとんど不器用な告白のようなものだった。

青くて、熱い気遣いが、丸裸のまま彼女の前に広げられている。


緒山は静かに聞いていた。まばたきもせず、彼を見つめる。

彼女はふいに、そっと笑った。


「……先輩」


いつもの調子に近い声。

でも、少しだけ揺れていた。


「急にそんな胸がきゅんとすること言われたら……本気にしちゃいますよ?」


からかうような言い方。


普段なら石原はとっくに顔を真っ赤にして視線を逸らすか、ぎこちなく言い返していた。


しかし今、彼はただ真剣に彼女を見つめ、本当の答えを待っている。


緒山はそのまま見返した。


笑みが、少しずつ消えていく。


静かな顔になった。


そして、小さく首を振る。


「……ごめんなさい」


声はやわらかかった。

けれど、有無を言わせない口調だった。。


「言えないんです」


――石原の胸が、わずかに詰まった。


「……なんで」


言いかけたそのとき。


彼女の目が、一瞬だけ光った。


口元が、わずかに引き結ばれる。


――次の瞬間。


緒山が動いた。


一歩、踏み込む。

そのまま、何の前触れもなく石原の腰に腕を回し、ぎゅっと抱きついた。

頬を、その胸に押しつけてくる。


「――っ!」


体が跳ねた。


頭が、真っ白になる。


反射的に、引こうとした。


――けど。


止まった。


腕の中の細い肩が、震えていた。


押し殺した音。

かすかな嗚咽。


胸元に、じわっと熱が広がった。


……涙だ。


動けなくなった。


何も言えなかった。


時間が、少し巻き戻ったような気がした。


――あのとき。


泉方情という名の喫茶店で。


彼女が近づいてきて、胸に耳を当てて。

心臓の音を、聞いていた。


あのとき、崩れていたのは自分だった。


……今は、逆だ。


石原は行き場がない手を上げたまま、止まっていた。


最終的にゆっくりと、ぎこちなく、微かに震えている彼女の背中にそっと触れる。


何も言わず、ただ静かに立ち、今この瞬間に彼女が寄りかかれる唯一の支えとなって、途切れ途切れで不明瞭な彼女の低い呟きに耳を傾けた。


「……ごめん……なさい……」


途切れる声。


「ごめんなさい、先輩……」


涙が胸を濡らす。


声も、うまく続かなかった。


「私……別に……何も……」


否定しようとして、しきれずに、彼女はもう感情を制御できなかった。。


「……怖い」


小さく。


「みんな……進んでいくのに……私だけ……」


途切れ途切れ。


「写真……撮っても……」


「……止められたらいいのに……」


言葉にならなかった。

感情だけが、こぼれた。


――そのとき。


軽く、ノック。


ドアが、少し開いた。


母親が立っていた。

果物の皿を持っていた。


その後ろに、心配そうな顔の父親。


中の様子を見た二人とも、動きを止めた。


娘が泣いていた。

石原にしがみついて。


石原は固まったまま、背を撫でていた。


母親の顔に浮かんでいた心配の色が、すぐに了解と心配、そして複雑な安堵が入り混じった表情に変わった。


彼女は何も言わず、こちらを見た石原にただ静かに頷く。


その眼差しには感謝もあり、託すような思いもあった。


静かに中へ入ると、本と付箋で埋まった机の端に皿を置いた。


そして、何か言いたそうにしている父親の腕を取ると、そのまま外へ。


ドアを、少しだけ閉めた。


――また、二人きりになった。


月の光はそのまま。

夜風も変わらなかった。


緒山の泣き声が、少しずつ落ち着いていく。

ときどき、しゃくり上げるだけになった。


でも、腕は離れなかった。


離せば、何かが消えるみたいに。


石原はそのまま立っていた。


胸の中の嵐は、静まらない。

むしろ、強くなった。


全部は分からない。


けど。


――何を怖がっているのかだけは、少し分かった気がした。


ぼんやりとしたまま。

それでも、石原の心の中で、ひとつだけはっきりしていく。


……彼女が何を恐れているにせよ、もう、見ているだけではいたくなかった。


---


数分後。


緒山の嗚咽は、少しずつ弱まっていった。

やがて、深く息を吸う音だけが、ときおり小さく響く。


石原の腰に回っていた腕が、ゆっくりとほどけた。

そのまま一歩だけ、後ろへ下がる。


――それでも、顔は上げなかった。


うつむいたまま、手の甲で乱雑に頬を拭った。


「……ごめんなさい、先輩」


声はかすれていた。

鼻声混じりのまま、それでもどうにか普段の調子に戻そうとしていた。


「私……なんか……急に……」


「……気にしなくていい」


石原の声も、低くくぐもっていた。


石原の腕は、まださっきのぎこちない形のままだ。

それを、少し遅れてゆっくり下ろした。


――静かになった。


部屋に残っていたのは、重たい沈黙と、泣いたあとの気だるい疲れだけだった。

机の上には、さっきの果物が手つかずのまま残っていた。


「……もう、帰るよ」


石原が言った。


ここに居続けるのは、かえって負担になる気がした。


「……うん」


緒山は小さくうなずいてようやく顔を上げた。


目元が赤い。

鼻先も少し赤かった。

頬には、涙の跡が残っている。


それでも、無理に笑おうとしていた。


「今日は……ありがとうございました。来てくれて……ご飯も、一緒に食べてくれて」


石原は首を振った。

何も言わないまま、背を向ける。


ドアを開けた。

開いたドアの向こうから、リビングの明かりが流れ込んでくる。


――リビングには、誰もいなかった。


たぶん、気を遣って席を外してくれたんだろう。


そのまま玄関へ向かい、靴を履いた。


ドアに手をかけたところで――


「石原くん」


背後から声がした。


振り向くと、母親がこちらへ歩いてきていた。

キッチンのほうから、少し早足で。

いつもの柔らかい笑顔だった。


「もう帰るのね。今日は本当にありがとう」


声は少し抑えられていた。


「いえ……お邪魔しました」


「そんなことないわ」


母親は軽く笑った。

それから、石原を少しだけ見つめる。

言葉を選ぶように。


「朋奈……さっき、何か変なこと言ってなかった?」


一度、視線が揺れた。


「その……困らせるようなこと、とか」


できるだけ軽い調子で聞いているようだった。

けれど、どこか落ち着かなさが残っている。


「……いえ」


石原は首を振った。


「ただ……少し、まとまってない話をしていただけです」


あの途切れ途切れの言葉が、まだ頭に残っていた。

どれも断片ばかりで、まだ答えにはなっていない。


母親は、小さく息を吐いた。

一瞬だけ、肩の力が抜ける。

それが、そのままため息に変わった。


「……そう」


口元には、少しだけ苦い笑みが浮かんだ。

慣れているような顔だった。


「……そう。だったら、それでいいのかもしれないわね」


視線が、奥へ向いた。

娘の部屋のほうへ。


それから、もう一度石原を見た。

声が、少しだけやわらいだ。


「……あの子ね、ときどき考え込みすぎるの。まだ答えの出ないこととか、自分じゃどうにもできないようなこととかを」


そこで、少し間を置いた。


「もしこれから……あの子が、石原くんに何か話すことがあったら」


言葉が、ゆっくりになる。


「うまくまとまってなくてもいいの。聞いてあげてくれるかしら」


小さく、頼むような口調で。


「何かしてあげなくていいの。ただ……聞いてくれるだけでいいから」


石原は、少しだけ目を伏せる。

胸の中で、何かが動いた。


――うなずいた。


「……はい」


母親の声が、少し震えた。


「ありがとう」


母親は小さく言った。


「気をつけて帰ってね……あ、そういえば石原くん、上の階だったわね」


---


石原は自宅のドアを開けた。


手には、もうすっかり冷えた食材の入った袋がある。


リビングでは、杏がソファにあぐらをかいてテレビを見ていた。

物音に気づくと、すぐに振り向いた。


「おかえりー……って、え!? こんな時間!?」


杏は目を丸くした。


「もう冷やし麺の予定、完全にダメじゃん! 玄関に置いたって言ってたのに、何もなかったし……あれ?」


文句を言いかけて、ふと口をつぐむ。

石原の顔を見た。


明らかに疲れていて、目元が、少し赤かった。


そこで言葉が止まった。


【石原杏の感情:怒り15、困惑50、心配35】


杏は眉を寄せ、ソファから降りて、近づいてくる。


石原の顔をのぞき込んだ。


「何かあった? “用事できた”って言ってたけど……なんか、ひと騒動終えて帰ってきたみたいな顔してるよ」


「……別に」


視線を外した。


そのままキッチンへ向かい、食材を冷蔵庫に入れる。


「緒山さんの家で、晩飯を食べただけだ。少し話してただけだし」


「えぇー!?」


声が裏返った。


「朋奈さんの家!? しかもご飯!? それってさすがに、進みすぎじゃ――」


そこで、また言葉を止めた。

石原の顔を見る。


想像していたような反応がなかった。

照れも、気まずさもない。


杏は一度まばたきをして、言葉を飲み込んだ。


「……まあいいや。謎イベントってことで」


軽く肩をすくめた。


「私はもう適当に食べちゃったけど、お兄ちゃんは? 何か軽く作ろっか?」


「いらない。ありがとう」


石原は眉間を押さえた。


「ちょっと疲れた。先に部屋に戻る」


「……そっか」


杏はそれ以上聞かなかった。

ただ、その背中を見送る。


「……ほんと、お兄ちゃんって何でも一人で抱え込むんだから」


小さくつぶやいた。


---


ベッドに横になる。


見慣れた天井だった。

暗くて、輪郭もぼやけている。


眠気はこなかった。


耳の奥で、さっきの出来事が何度も繰り返される。


緒山の泣き声が。

途切れ途切れの言葉が。

それから、母親のあのため息が。


頭の中で、何度もぶつかっては戻ってきた。


落ち着かなかった。

抜け出せなかった。


――もう、嫌だった。


このままは嫌だ。


ただ受け取るだけで終わるのは、嫌だった。

後から「大丈夫」と言うことしかできないのも、嫌だった。


……違う。


緒山さんが何を怖がってるのか、知りたい。

あの恐怖に、飲まれたままでいてほしくない。


緒山さんが言わなくてもいい。

それでも、何かできることはあるはずだった。


そう思ったとき――


枕元のスマホが光る。

暗闇の中で、やけに明るかった。


反射的に手が伸びた。

画面を見る。


LINEの通知だった。

相手は――「朋奈」。


開いた。


短い文章だけだった。


「今日は本当にごめんなさい。それと、ありがとうございました。おやすみなさい、先輩。」


絵文字はなかった。

あの独特の「〜」もなかった。


そっけないくらい短いのに、妙に重く感じられた。


「ごめんなさい」と「ありがとう」と「おやすみ」。

それだけが、残った。


石原はしばらく画面を見ていた。

指が、止まる。


やがて、石原も一文だけ返した。


「おやすみ」


送信した。


スマホを枕元に置く。

光が消えた。


部屋が、また暗くなった。


けれど。


さっきまでのざわつきは、少しずつ沈んでいく。


最後に残ったのは、ひとつの考えだけだった。


――明日。


目を閉じた。

決めた。


明日、ちゃんと話そう。

問い詰めるんじゃない。


ただ――


自分にできることがあるか、聞いてみようと思った。

どんなことでもいい。


---


【八月八日・木曜日・午前】


目を覚ますと、窓の外はすでに明るかった。


すぐに思い出した。

昨夜、自分の中で決めたことを。

それから、あの短い「おやすみ」のメッセージも。


胸の奥には、まだ重さが残っている。

けれど、昨日みたいに散らばってはいなかった。


向かう先だけは、はっきりしている。


スマホを手に取った。

トーク画面を開いた。


入力欄。

カーソルが点滅していた。


……どう送ればいい。


「今日、少し話せるか?」


それでいいのか。

急すぎるかもしれない。

向こうに、余計な負担をかけるだけかもしれない。


指が止まった。


そのとき。


スマホが震えた。


通知だった。

――緒山。


開いた。


『先輩、おはようございます!』

『あの……昨日は本当にすみませんでした!』

『その、お詫びも兼ねて……今日の午後、時間ありますか? 改めて、ちゃんとお家に来てほしくて!』

『あと、先輩に見せたいものがあって……その、夏休みのちょっとした計画、みたいな?』


そんなメッセージが続けて届いた。


いつもの調子。

軽いテンポ。


昨夜、あんなふうに泣いていたのが、まるで幻だったみたいに。


――考える間もなかった。


『分かった。午後の何時?』


すぐに返した。


『二時くらいでも大丈夫ですか? ちょうどパパとママ出かけるので! ゆっくり話せますし~(もちろん泣くほうじゃないやつです!)』


『了解』


それで決まった。


スマホを置く。


胸の重さは、消えていなかった。

むしろ、少し形を変えていた。


期待。

それから、緊張。


……“夏休みの計画”。


何を見せるつもりなんだろうか。


---


午後一時五十分。


緒山の家の前。


インターホンを押す。


すぐに、ドアが開いた。


「先輩、時間ぴったりですね! どうぞどうぞ!」


緒山が顔を出す。

明るい声だった。


体を横にずらして、石原を招き入れる。


「今日は“秘密作戦会議”ですからね!」


その軽さが、夏の風鈴みたいに耳に残った。


リビングには、やはり誰もいなかった。


「パパとママ、久しぶりに二人でお出かけなんです」


緒山はウインクして、石原を自分の部屋へと案内した。


ドアは開いていた。


午後の光が、そのまま差し込んでいた。


部屋の奥。


あの壁が、目に入った。


写真。付箋。カード。


光の中で、ひとつひとつがやけに鮮明に、やけににぎやかに見えた。


「好きなとこ座ってください!」


彼女は机の椅子を示しすと自分はベッドの端に腰を下ろす。


枕元からノートを一冊取り上げた。

星空の表紙だった。


それを、壊れやすい宝物を抱くみたいに胸に抱えた。


「先輩、昨日言ってましたよね……私のために何かできることがあれば、って」


顔を上げた。

笑っている。


けれど、目の奥に少しだけ慎重さが混じっていた。


「……ああ」


石原はうなずきながら椅子に腰を下ろした。


「実は……ちょうど、頼れる“共犯者”が必要だったんです!」


ぱっと声の調子を上げた。


ノートを膝の上で開いた。

カラフルな付箋の挟まったページだ。


「見てください! 『夏休み特別体験プラン』! 超――挑戦的だと思いません?」


ノートをこちらに向けた。


指でページを押さえていたから、上下のほうは見えな。


目に入ったのは、いくつかの項目だけ。


・信頼できる相棒と商店街の“夏スイーツ十選”制覇!

・海に行って、暗闇の向こうから生まれる朝日を見る!

・誰もいない舞台で、大声で叫ぶ


カラーペンの文字。

小さな落書き。


弾んだ字だ。

生活を楽しもうとしている誰かの願いみたいに見えた。


「一人だとちょっとつまらないこともあるし……その、少しだけ勇気がいることもあるから」


ぱたん、とノートを閉じた。


手を合わせた。

少しだけ照れたような仕草だった。


でも、目は期待で光っていた。


「だから……先輩。よかったら、一緒にやりませんか? もちろん、先輩が空いてるときだけでいいので」


一息置いた。


「夏休みに、ちょっとだけ特別な味つけをする感じで。……それに」


少し声を落とした。


「これ、二人だけの“秘密行動”なんです。会長たちには内緒で。知られたら絶対笑われますし」


冗談みたいな言い方だった。

少し子どもっぽいくらいの、軽い誘い方だ。


光が差していた。

そのまま、彼女の輪郭を縁取っている。


石原はノートから視線を外した。

彼女の顔を見る。


明るい笑顔だった。


(……こんなことで、あいつの力になれるのか)


胸の中に、小さな引っかかりが残った。


それでも。


「……分かった」


短く答えた。


「緒山さんの都合がいいときに、呼んでくれ」


――ぱっと。


緒山の表情が変わった。

目が、明るくなる。


「ほんとですか!」


勢いよくうなずくと、ノートを開き直した。

少し前のページへ。


指で示す。


「じゃあ最初の“秘密行動”はここです! 明日の夜、商店街でちょっとした夏祭りのプレイベントがあるんです。老舗のお店も限定スイーツ出すみたいで!」


指がすっと動いてページが一瞬めくれた。


……別の文字が見える。


少し幼い字だった。


「観覧車」と「雪」。


すぐに隠れた。


「さっと回って、さっと帰る感じで!」


「……ああ」


短く返した。


――ずいぶん手早い。


それも、何か理由があるように思えた。


「じゃあ決まりです!」


ぱたん、とノートを閉じると丁寧に枕元へ戻した。


「そうだ、先輩」


ふと思い出したように振り向いた。

少しだけ言いにくそうな顔だ。


「その……もし、ですよ? ほんとにもしですけど」


視線が泳いだ。

指が髪をいじった。


「秘密行動の途中で、春野会長とか美里ちゃんに見つかったら……一緒にごまかしてくださいね?」


頬が少し赤かった。


「……分かった」


石原は答えた。


――どうせすぐバレる。


そう思いながらも。


緒山はほっとしたように笑った。


「じゃあ、明日六時! 商店街の東口で!」


「ああ」


「絶対ですよ! あ、私もママに言い訳考えないと……」


ぶつぶつ言いながら、考え始める。


表情は、明るく、楽しそうだった。


石原はそれを見る。

その横顔を。


まつげに光がかかっていた。


昨夜の涙も、不安も、今は見えなかった。


……それでも。


消えたわけじゃない。


ただ、今は触れない。


その笑顔を、崩したくなかった。


---


【八月九日・金曜日・朝】


石原はスマホを開いた。


通知が一件あった。

昨夜遅くに届いていたものだった。


『本日午後二時、夏祭り準備会議。「フォレストテラス」二階個室。全員参加。』


眉が寄った。


送信時刻は二時三十五分。


少し遅い。


だが、特に深くは考えず、そのまま画面を閉じた。

【あとがき】


読了ありがとうございます!


次回予告:第十三話【心の糸――ぎりぎりと、音を立てる】


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それでは、次回もお楽しみに!

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29日に予定通り更新がなかったので、こっそり作者さんに連絡を取ってみたんだ。そしたら、28日に転んで手術が必要になったとのこと。一時的な活動休止の報告もできない状態だったみたい。だから代わりにここで読…
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