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異能学園の日常、可視と不可視の僕ら  作者: 颍川
第三卷:星明かりに濡れた頬
11/16

第十一話 笑顔――星明かりの涙

---


【七月二日・火曜日・昼休み】


【生徒会室】


石原の報告書と、緒山が補った観察記録が、生徒会室の長テーブルの中央に静かに置かれていた。


紙の上に並んだ無機質な文字だけでは、旧校舎の物置で目にした、あの胸を揺さぶられるような、そして不安を掻き立てられる光景を、とても再現しきれなかった。


室内の空気は、いつもより重かった。

窓の外の蝉の声さえ、どこか空気を読んだみたいに小さく聞こえる。


「つまり、今俺たちが向き合ってるのは……」


春野が沈黙を破り、指先で報告書をとんとんと叩いた。


「朝日守は、病気の妹のために、自分を削るような能力を使ってる。――妹が望む星空を、作り出してるってことだよな?」


そう言って顔を上げ、視線をその場のみんなへ巡らせた。


「全部はっきりする前に、俺たちはどんな立場で関わるべきだと思う?」


その問いをきっかけに、意見の食い違いが静かに浮かび上がった。


「このまま見てるだけなんて、できません!」


真っ先に口を開いたのは立花だった。焦りのせいで、声が少し上ずっていた。


「報告にもしっかり書いてありましたよね? 能力を使うたびに、まるで中身を根こそぎ持っていかれたみたいになってるって!」


彼女はぎゅっと拳を握りしめ、下唇を噛んだ。


「葵ちゃんが大事なのは分かります。でも、朝日先輩自身はどうなるんですか? もし……妹の夢を叶えるために、自分を削り続けた末に、最後は消えてしまうようなことになったら……」


その声は、最後にかすかに震えた。


「せめて伝えるべきです。私たちはもう気づいてるって、一緒に方法を探せるって……!」


最後の一言には、ただの心配ではない、身に迫るような切迫さが滲んでいた。


「立花の気持ちは分かる」


春野は落ち着いた声でそう言い、彼女をなだめるように続けた。


「けど、代償の正体がまだ分からない以上――それが一時的な疲労なのか、それとももっと取り返しのつかないものなのか、まだ見えてない。

そんな状態で不用意に踏み込むのは危ない」


言葉を慎重に選びながら、彼は続けた。


「“妹のために頑張れ”って背中を押すのも、“今すぐやめろ”って止めるのも、前提が間違ってたら、かえってもっと深く傷つけるかもしれない。

今は、観察を続けるのがいちばん安全なやり方だと思う」


「その“安全なやり方”って、危険が積み重なって、手遅れになるまで見てるってことですか?」


立花が、珍しく会長に食い下がった。目の縁がうっすら赤くなっていた。


「リスク管理と情報収集の観点から見れば、会長の判断には筋が通っている」


花野が静かに口を挟んだ。その声音は、熱を帯びかけていた空気に冷水を差すようだった。


「現時点では、まず観察して、それから評価する。それが最善の手。

ただし、あなたの懸念も重要。――はっきりした危険信号が出たとき、私たちにどこまで介入する権限があるのか。そして、どうやって介入するのか」


彼女は石原へ視線を向けた。


「石原の“観測”は、今ある中ではいちばん鋭い指標」


理性的な整理によって、議論の枠組みそのものは整う。

けれど、室内を満たす重苦しい空気は、まだ誰の胸からも消えなかった。


緒山が、そっと息を吸った。

自然と、みんなの視線が彼女へ集まった。


彼女はずっと俯いたまま、組んだ自分の手を見つめていたが――そのとき、ようやくゆっくり顔を上げた。


「……会長と、真汐ちゃんの言いたいことは分かります」


いつもより低い声だった。話す速さもゆっくりで、ひとつひとつの言葉を胸の奥で確かめながら口にしているようだった。


「情報を集めて、知らないまま誰かを傷つけることを避ける。そういう考え方が間違ってるとは思いません」


そこで一度、言葉を切った。

視線は窓の外、遠い空へ向けられていた。けれど、その先を見ているようではなかった。


「でも……」


ゆっくりと視線を戻し、春野を見た。


「もし、代償を払ってる本人が、そのことさえ気にならないくらい没頭してしまっているのだとしたら……」


少しだけ間を置いて、緒山は静かに続けた。


「そのとき、外から見てる私たちの“冷静な観察”や“データ集め”って……それ自体が、ひとつの残酷さになってしまうんじゃないですか」


その言葉に、室内は再び静まり返った。


春野は緒山を見た。

珍しく強い温度を帯びた彼女の言葉に、彼は自分の方針をもう一度見直していた。


数秒の沈黙のあと、彼はやがて小さく頷いた。


「……分かったよ、緒山」


そう言ってから、石原へ向き直った。


「石原。お前の判断がいちばん直接的だ。

“状態が危険な域まで一気に悪化するのを防ぐ”――そこを最優先のラインにするなら、お前の能力で前兆を掴めるか?」


石原はその視線を真正面から受け止め、迷いなく答えた。


「できます。あいつの変化は、タグを見ればはっきり分かる。

様子がおかしかったら……俺と緒山さんがすぐ動きます」


「なら、基本方針は維持だ。引き続き葵との関係を築きながら、支えられるところを支える。

石原と緒山は、朝日守の観察を続ける。異変が見えたら、もう議論は挟まない。すぐに接触して介入する。最優先は、まず本人の安全確保だ」


「了解です」


石原と緒山が同時に応じた。


「私も、佐藤ともう少し連絡を取ってみます。中等部のほうで、葵ちゃんのために何かできることがないか……」


立花が小さな声で付け加えた。先ほどよりは、少しだけ感情が落ち着いている。


方針は決まった。

それぞれが、自分のやるべきことをはっきり理解していた。


---


【七月八日までの数日間】


その後しばらくのあいだ、どこか危うい均衡が、かろうじて保たれていた。


生徒会のメンバー、とりわけ緒山と石原は、葵のもとを訪れる回数を増やしていた。


持っていったのは、ただの見舞いの言葉だけではなかった。手描きの星空のポストカードや、簡単な天文模型。ときにはタブレットを使って、天文台で撮影された星空の映像を一緒に眺めたりもした。


葵の笑顔は相変わらず明るく、みんなと過ごすうちに、顔色もほんの少しだけ良くなったように見えた。


そんな中で、葵と緒山のあいだには、ほかとは少し違う親しさが芽生えていた。


葵は緒山の手を引いて、窓の外のなんでもない雲を指さしながら、「あれ、どこかあの星座みたい」と無邪気に言う。

緒山はそれを静かに聞きながら、ときどき学校での出来事を話して聞かせていた。

葵を見つめるとき、緒山はいつもやわらかな笑みを浮かべていた。


あるとき、葵がふいに緒山へ言った。


「朋奈お姉ちゃんって、ときどき空をじーっと見てるよね。あれって、一生懸命、雲をひとつひとつ覚えておこうとしてるんでしょ? わたしが夢で見た星を、忘れないように頑張るみたいに!」


緒山は一瞬、言葉を失った。

けれど、葵のまっすぐな瞳を見つめると、すぐにまた笑って、そっとその髪を撫でる。


「だって、葵が好きな星空も……葵と一緒にいる時間も、すごくきれいで、大事で、宝物みたいだから。だから、ちゃんと覚えておきたいの。ひとつだって見落としたくないくらいに」


その言葉は、あまりにも自然で、あまりにもまっすぐだった。

葵は嬉しそうに、にこにこと笑う。


その一方で、朝日守の観測は静かに続けられていた。


彼の現れる時間帯や行動の流れ自体は、変わらなかった。

だが不安だったのは、能力を使う頻度が、少しずつ増えていたことだった。

一回ごとの時間は短いままだったが、そのぶん消耗の痕はますますはっきりしていった。


そして、あの決定的な夕暮れが訪れた。


---


【七月八日・月曜日・夕暮れ】


蒸し暑さが異様だった。

鉛色の重たい雲が低く垂れこめ、街の上にのしかかっていた。今にも崩れ落ちてきそうだった。

風はない。ただ、息が詰まるような重たい空気だけが淀んでいた。


旧校舎の中は、なおさらひどい暑さで、埃でさえ、もう舞い上がる力をなくしてしまったように思えた。


石原と緒山は、いつもの場所に身を潜めていた。


朝日守が物置に入った瞬間から、石原の眉間の皺はずっと消えなかった。

――今日はおかしい。最初から、朝日守のタグがひどく不安定にざわついていた。


いつもよりかなり早く来て、扉を開けたときには、すでに息も荒かった。


【朝日守の感情:焦燥37#$%@¥‘’】


「……おかしい」


石原は低く呟き、隣の緒山へ注意を促した。

緒山もすぐに身体を強張らせ、神経を研ぎ澄ませる。


物置の中で、朝日守はいつものように静かに立って準備を整えたりはしなかった。

ほとんど間を置かず、焦りを滲ませた動きで手を持ち上げる。


次の瞬間、縮小された星空の幻景がぱっと灯った。

これまでのどのときよりも明るく、そして速かった。星の巡りも不自然なくらいせわしない。


だが、その輝きは二十秒も保たなかった。

壊れた電球みたいに、唐突にぷつりと消える。


暗がりの中で、朝日守の身体がよろめいたが、それでも止まらなかった。


彼は乱暴に頭を振り、深く息を吸い込み、歯を食いしばったまま、もう一度両手を持ち上げる。


二度目の星空が灯った。

今度はさらに眩しく、けれどそのぶん、いっそう不安定だった。輪郭の光が激しく震え、歪んでいった。


十秒――あるいは、それより短かったかもしれない。

またしても、光は消えた。


朝日守の喉の奥から、押し殺したような声が漏れた。

身体の揺れはさっきよりもひどかった。

それでもなお、頑なに、震える手で三度目の光を形にしようとしていた。


その瞬間、石原のこめかみに裂けるような痛みが走る。

視界の端で、黒い斑点が明滅した。


朝日守の感情は、一度ごとにさらに乱れ、さらに尖り、痛みと偏執を剥き出しにしていった。

それはまるで、実体を持った騒音の濁流みたいに、石原の感覚へ容赦なく叩きつけられる。


「……っ」


石原は低く呻き、危うく足を踏み外しかけた。


「先輩!」


緒山がとっさに彼を支える。

そのまま朝日守へ視線を向け、血の気の引いた顔を見た瞬間、事態がこれまでとは比べものにならないほど危険だと悟った。


その目に、迷いのない決意が走った。


「だめ! 止めないと!」


石原はめまいをこらえながら、強く頷いた。


二人はもう隠れず、物陰から飛び出した。


緒山が一歩先に駆け、薄い物置の扉を強く叩いた。

その声は、蒸し暑い空気を突き抜ける。


「朝日くん! 開けて! もうやめて、止まって!」


扉の向こうで、どうにか形を保っていた三度目の星の光が、驚いたようにびくりと震え、次の瞬間、完全に崩れ落ちた。


無数の光の欠片となって散り、埃の中へ吸い込まれるように、たちまち消えてしまう。


続いて、何かが床に倒れ込む鈍い音と、抑えきれない苦しげな咳き込みが響いた。


物置の扉が石原によって勢いよく開けられた。

内側に積まれていた古い額縁にぶつかり、鈍い音を立てた。

差し込んだ夕暮れの黄ばんだ光の中で、埃が激しく舞った。


石原はこめかみの鋭い痛みに耐えながら、扉枠に手をついて中へ踏み込んだ。

緒山もすぐあとに続いた。

二人の視線は、室内にいるその姿を一瞬で捉えた。


朝日守は、壁際の埃の中に座り込んでいた。

背中はわずかに丸まり、片手でどうにか体を支えている。


窓から差し込む鈍い光に照らされた顔は、ぞっとするほど白かった。

額にかかった髪は冷や汗で濡れ、肌に張りついている。

物音に気づき、彼はひどくゆっくりと顔を上げた。


淡い茶色の瞳には、驚きも狼狽もなかった。

ただ、底の見えない疲労だけが沈んでいる。


「……君たちか」


掠れた声だった。息も弱かった。


そのあまりにも静かな反応に、石原と緒山はわずかに息を呑む。


朝日守の視線は、二人の顔の上に数秒とどまり、それからゆっくりと、まだ自分でも抑えきれずにかすかに震えている自分の指先へ落ちていった。


「最初に……君たちが病院に葵のお見舞いに来たあと……」


一度、息を継いだ。

声は途切れ途切れだったが、それでもどうにか筋道を立てて話そうとしていた。


「そのときから……少し、変だと思ってた。生徒会が、あんなふうに何度も来るほど暇なわけない」


口元をわずかに引きつらせたが、笑いにはならなかった。


「それからは……能力を使ったあと、帰る前に、入口とか窓のあたりを確認してた」


視線が、今まさに石原と緒山が立っているあたりへ向けられた。


「埃が……少しだけ払われた跡があった。ほんのわずかだけど……自然に積もった筋とは、違ってた」


そう言い終えると、目を閉じる。

それだけの説明を続けることすら、もうきつそうだった。


「今日は……もう、それを確かめる力も残ってなかった」


緒山はすでにしゃがみ込み、彼と目線を合わせていた。

いつもの柔らかな笑顔は消えていて、強く寄せた眉の奥に、まっすぐな心配だけが滲んでいる。


「朝日くん……今日はどうして、あんな無理をしたの? さっきの自分が、どれだけ危ない状態だったか……分かってる?」


朝日守は答えなかった。


物置の中には、荒く不規則な呼吸音だけが響く。

遠くで雷が鈍く鳴り、空の色がさらに暗く沈んでいった。


彼は視線を逸らし、無理に立ち上がろうとしたが、二人に止められた。

それでようやく、ぽつりと口を開いた。


「葵が……先週末から、あまり安定してなくて」


言葉を選びながら、続けた。


「医者は……一時的な波だって言ってた。だから、前よりちゃんと休ませて、感情も……あまり大きく揺らさないようにって」


一度、目を閉じた。喉が小さく鳴った。


「それでも、笑ってはくれるけど……夜になると、痛くて眠れないことが増えてて。見てても……どうすることもできなくて……俺は……」


そこで言葉が詰まった。

肩が、抑えきれないように小さく震えはじめる。


緒山は、膝の上に置いた手で、スカートの裾を強く握りしめていた。


石原には、はっきり見えていた。

「病状が悪くなっている」と聞いた瞬間、彼女の瞳が、まるで見えない針で深く刺されたみたいにきゅっと縮まったことを。

無意識のうちに、かすかに首まで振っていた。


【緒山朋奈の感情:喪失感24#$*%?】


そのまま崩れてしまいそうなところまで追い詰められていたからか、朝日守は、途切れ途切れになりながらも、自分の能力のことを初めて他人に語りはじめた。


「俺は……偽物の天体現象を作れる。ほんの狭い範囲だけど。星空とか、オーロラとか、流星群とか……葵はそれが好きで、面白い手品みたいに思ってる」


開いたままの掌を見つめる。

その目は空ろで、それでもなお、どこか頑なだった。


「でも……“彗星”だけは……何度やっても、いや、何度試してもできない。軌道も、光も……あの、長い尾を引いて夜空を横切る感じが……どうしても、掴めない。作れないんだ」


悔しさをぶつけるみたいに、自分の太ももを軽く叩く。


石原は扉の枠にもたれながら、春野たちと連絡を取っていた。

こめかみの痛みは少し引いていたが、胸の重さはむしろ増していた。


朝日守の話を聞きながら、その顔色が一言ごとに暗くなっていくのを見ていた。

そして、これまで見過ごしていたいくつかの手がかりが、ここでようやく繋がっていった。


「朝日くん」


石原は静かに声をかけた。


「その能力……代償があるんじゃないのか」


朝日守の体が、びくりと固まった。


「……違う」


返事は早かった。

だが、顔は上げないままだった。


石原は追及しなかった。


「……俺の見間違いかもな」


一拍おいて、続けた。


「最初に見たとき、帰り際に腕を扉の枠にぶつけてた。かなり強く、な。

でも、眉ひとつ動かなかった。まるで、痛みを感じてないみたいに」


朝日守の呼吸が、わずかに乱れた。


慌てて顔を上げ、何か言おうとした。

だが――ちょうどそのとき、窓から差し込む光が彼の顔を照らしていた。


「今もそうだ。光が目に入ってるのに、まばたきしてない」


石原の声は変わらず落ち着いていた。


「それに……病院のときも――」


「……やめろ」


低い声で遮られる。


石原は言葉を止めた。


朝日守は、小さく息を吐いた。

固く握っていた拳を、ゆっくりとほどく。


「……その通りだ。感覚が……鈍くなってきてる」


「朝日くん」


緒山が、ふいに問いかけた。


「あなたが作っているあの星空……もしかして、自分を絵の具にして作り出しているんじゃない?」


言葉が落ちたあと、室内は静まり返った。

外では、ぽつぽつと雨の音がしはじめていた。


「……それが、なんだ」


朝日守はふいに顔を上げた。

ふらつきながらも、無理に立ち上がる。


その目には、強い意地だけが宿っていた。


「葵が喜ぶなら――それでいい」


絞り出すように、さらに続けた。


「彗星は……絶対に見せる。葵がちゃんと見られて、まだそれで笑えるうちに!」


緒山は口を開いた。

けれど、言葉は喉のところで塞がってしまう。重く、胸を押しつぶすようだった。

石原は、何も言わなかった。


「朝日くん……」


緒山が、ふいに口を開いた。

声は少し震えていた。


「葵ちゃん……この前、病院でね。私の手をぎゅっと握って、こんなこと言ってたの」


その言葉に、朝日守の身体がぴくりと揺れた。

視線が、ゆっくりと緒山へ向く。


「――『お兄ちゃん、時々すごく疲れた顔してるの。なんだか、すごく重たいものを背負って歩いてるみたいで……』」


緒山は、言葉をひとつずつ大事に置くみたいに、静かに続けた。


「『だからね、あの“星の手品”も、いつも無理して見せてくれなくていいの。お兄ちゃんがもう少し笑って、ちゃんと休んでくれて……たとえ隣でぼーっとしてるだけでも、わたしは、いちばんきれいな星空を見るよりずっと嬉しい』って」


そこでいったん、言葉を切り、埃っぽい物置の空気の中へ、そして朝日守のきゅっと縮まった瞳の奥へ、静かに沈んでいくのを待つ


「それから……こうも言ってた」


緒山の声は、もう震えていなかった。


「『わたしが一番ほしい“奇跡”は、空の星なんかじゃなくて……お兄ちゃんが、ずっとちゃんとそばにいてくれること』って」


朝日守は、よろめくように半歩下がった。

背中が冷たい壁にぶつかり、鈍い音を立てる。

口を開いたが、声にはならなかった。

ただ、目だけがみるみる赤くなっていく。


「“彗星”でも、完成された星空でも――それはお前が葵に贈りたいものなんだろ。でも、贈る側が壊れちゃだめだ」


朝日守の揺れる目を見ながら、石原がそこで静かに言葉を継いだ。


「どこまでが限界かは、まだ分からない。でも――お前が倒れたら、葵さんはどうなる」


「俺は……」


喉に引っかかるような声だけが漏れた。


「お前が見せたあの星空が、葵さんにとって……これから先ずっと、二度と見たくないくらい苦しい思い出になるかもしれない」


朝日守は、その場にしゃがみ込み、膝を抱え込むようにして顔を埋めた。


緒山は少しだけ身を乗り出す。

目には、まっすぐな切実さが宿っていた。


「他にも、できることはあるよ」


やわらかい声だった。けれど、そこにある芯は揺らがなかった。


「たとえば……能力を使う回数とか、時間をちゃんと決めること。

それに、私たちも一緒に考える。葵ちゃんが楽しみにできること――本物の星を見られる機会とか、面白い天文の映像とか」


少しだけ息をつき、それから続けた。


「そうやって、あなたが背負ってるものを、少しでもみんなで分けたいの。こんなふうに、自分を傷つけながら、一人で抱え込まなくていい」


もう一歩、まっすぐ踏み込むように言った。


「朝日くん。本当の“完全”って、星空に彗星があるかどうかじゃない。

その星空を作る人と、それを見上げる人が……これからも、ちゃんと元気で一緒にいられることだと思う」


朝日守は、しばらく二人を見て、それから、ゆっくりと視線を落とした。


まだ感覚の鈍い指先を、ぼんやりと見つめる


顔に張りついていた、あの偏った意地のようなものが、少しずつ引いていった。

代わりに浮かんできたのは、深い疲れだ。

そして、その疲れの底に、かすかな希望がほんの少しだけ覗いていた。


一度、目を閉じて。

もう一度、開いた。


さっきまで燃えていた激しい光は、もうそこにはなかった。


朝日守は、すぐには何も言わなかった。

長い、長い沈黙だった。


外では、降り出しそうで降り出さなかった雨が、ついに降り出していた。

激しく窓を打ち、埃を洗い流すように、絶え間なく。

その音が、少しずつ部屋を満たしていった。


「……俺、どうすればいい」


石原と緒山は、短く視線を交わし、少しだけほっとした。


「まずは休もう」


緒山が、はっきりと言った。


「ちゃんと休むこと。今日はもう、それが一番大事」


少しやわらかく、けれど迷いなく続けた。


「今日はここまで。私たちが家まで送るか、ちゃんと安心して休める場所まで一緒に行く。

能力のことも、これからどうやって葵ちゃんを支えていくかも、ゆっくり話し合っていこう」


そして、ほんの少しだけ微笑んだ。


「生徒会のみんなもいるから。みんなで一緒に考えよう。朝日くん一人じゃないよ」


雨音の中で、朝日守はようやく、ほんのわずかに頷いた。


---


―― 空白の刹那 ――


---


介入してからの日々は、まるで目に見えないやさしい手が、ゆっくり時計の針を進めていくように過ぎていった。


旧校舎三階東側の物置は、相変わらず朝日守の“工房”だった。

けれど、そこに満ちる空気は、いつの間にか少しずつ変わっていた。


一つの方向へ思いつめたように突っ走るやり方は、もっと慎重に試しながら進むやり方へと変わっていった。

彼は今も、あの特別な“彗星”を追い続けていた。

けれどもう、自分自身を薪みたいにくべて燃やすような無茶はしなかった。代わりに、火加減を覚えていくみたいに、少しずつ力の加減を覚えようとしていた。


花野が、黒い表紙のノートを一冊差し出す。


「記録。時間、持続時間、感覚」


平坦な声だった。


「曖昧なものを、追跡可能なデータに変える」


朝日守はノートを見下ろしたまま、すぐには開かなかった。

指先は少しこわばり、その目には気まずさと、わずかな抵抗がにじんでいる。

あんな不穏な感覚を記録に残すことは、傷口を何度ものぞき込むのと変わらなかったからだ。


それでも、初めて真面目に書き込んだあと――自分の手で記した「左手のひらのしびれが約二時間持続。温水に触れても触覚が鈍い」といった文字を見つめたまま、彼は長いこと黙っていた。


定量化された代償は、曖昧な「気分が悪い」なんかより、はるかに重く突き刺さる。

それは冷たい鏡のように、その“贈り物”の裏側にぶら下がっていた、はっきりと残酷な値札を映し出していた。


「一回の使用は、最長でも三分まで」


生徒会室での話し合いの場で、石原はホワイトボードに引かれた赤線を指しながらそう言った。


「これを超えると、あの乱れが一気に強くなる。回復にもかなり時間がかかる」


「それと、次に使うまでは最低でも二十四時間は空けようね」


緒山が、やわらかく補足した。


「体も……それに“感覚”のほうも、ちゃんと休ませてあげないとね。葵ちゃんだって、ほんの一瞬の星空のために朝日くんが自分を追い込みすぎて、昼と夜の温度の違いさえ分からなくなるなんて、きっと望んでないよ」


朝日守は、会議机の端に座ったまま、うつむいてノートのざらついた表紙を指でなぞる。

そして最後には、小さく「……うん」とだけ答えた。


---


朝日葵への見舞いも、もうただの“気遣い”ではなくなっていた。

それはいつしか、生徒会全体で引き受ける大事な役目になっていた。


その中でも、いちばん活発に動いていたのは立花だった。


佐藤を通じて、ほとんど名ばかりになっていた中等部の天文同好会から、いろいろな“お宝”を掘り起こしてきた。

手描きの簡易四季星図に、星座伝説をまとめた小冊子、それに手で回す古い紙製の星座盤まで。


それらを得意げに病室へ持ち込み、葵と頭を寄せ合って一緒に眺めていた。

カラーペンで好きな星に印をつけながら、明るい笑い声を響かせる。


「美里お姉ちゃん、この星ほんとに“葵”っていうの?」


葵が、星図の小さな一点を指して目を輝かせた。


「うん! ちゃんと調べたよ。すごく小さい星なんだけど、ある古い星表では、“日に向かう花”みたいな意味があるんだって!」


立花は身振り手振りを交えて話し、そうやって嬉しそうに呼ばれたのが照れくさいのか、頬を少し赤くしていた。

その頭上に浮かぶ【愉快95、満足5】のきれいなタグを見て、石原の胸の奥も少しやわらいだ。


春野と花野は、もっと実務的なところを支えていた。


春野は生徒会の名義で朝日守の担任にそれとなく話を通し、“身体的に特殊な事情”があることを踏まえて、ときどき遅刻したり、ひどく消耗している日があっても、ある程度は理解と融通がきくよう下地を整えていた。

花野は、葵が無理なく楽しめる科学・自然系の本や映像のリストをまとめ、読みやすくて面白い本やドキュメンタリーを選び出していた。さらに、持ち前の情報検索能力で、世界各地の星空映像をリアルタイムで見られるサイトまで探し当てていた。


そして――緒山は。


そのすべてを、やわらかくつないでいく存在になっていた。


訪れる回数そのものは、特別多いわけではない。

けれど、ひとたび来れば長くそばにいた。

ただ励ますだけではなく、葵がちゃんと“参加できる楽しさ”を、自然なかたちで運んできていた。


「ほら、葵ちゃん。今日はこれやろう?」


そう言って取り出したのは、小さなUSBの星空ライトと、黒いカード紙、それから銀色のペイントペンだった。


「好きな星座を描いて、針で星のところに穴を開けるの。

夜にこのライトで照らすと……天井に、自分だけの星空ができるよ」


点滴で少し冷えた葵の手を包み込みながら、ゆっくりと線を引かせていった。

歪んだ線でも、そこにはちゃんと命があった。


病室は静かで、ペン先が紙をこするかすかな音と、二人の小さな話し声だけが続いていた。


「朋奈お姉ちゃんの手、あったかい」


葵がふいに言った。


「そうかな?」


緒山はやさしく笑い、指先に少しだけ力を込めた。

その温もりを、もっと確かに伝えるみたいに。


「うん……それにね、朋奈お姉ちゃんが星を見るときの目、すごくやさしくて、でもすごく真剣で……わたしも、朋奈お姉ちゃんみたいになりたい」


横から見上げる琥珀色の瞳は、澄んでいて、まっすぐだった。


緒山の手が、ほんの一瞬だけ止まった。

けれど次の瞬間には、笑みがもっと深くなる。

カーテン越しの午後の光の中で、その笑顔は少し眩しすぎるくらいだった。


「なれるよ~」


弾むような声で、そこには笑みも混じっていた。


病室の隅で点滴スタンドの位置を調整していた石原は、胸の奥を何かにそっとつままれたような感覚を覚えた。


彼は振り返って仲のいい二人の姿を視界に収め、ほっと息をついた。


---


朝日守の変化は、ゆっくりだったが、、たしかにそこにあった。


彼は、決めた“セーフライン”を意識して守るようになっていた。

旧校舎での練習でも、実際には力を使わず、ただ座ったまま頭の中で“彗星”の軌道や尾の光を何度もなぞるだけの日さえあった。


疲れは残っていたが、あの極端な虚脱感に襲われる頻度は、少しずつ減っているようだ


あるとき、少し戸惑いながらも、どこか期待をにじませるような顔で、石原にぽつりと漏らした。


「昨日……ちょっと違ったかもしれない。扉にぶつけたとき……少し、痛かった」


「いいことだ」


石原はいつも通り短く答えた。

けれど心の中では、少しほっとしていた。

代償は、完全に取り返しのつかないものじゃない――そう思える兆しだった。


そして、さらに大きな波紋が広がったのは、二週間ほど後の朝日葵の定期検査のあとだった。


その日、生徒会室に入ってきた朝日守の表情は、誰も見たことのないものだった。


目には涙が滲み、手には医師のメモを指が白くなるほどきつく握りしめている。


「先生が……」


何度か口を開きかけて、ようやく声が出た。


「葵の状態……最近はすごく安定してるって。生理的な数値もかなり落ち着いてて……気持ちや心の面でのいい影響が、思ってた以上に出てるって……体への負担も、軽くなってきてる兆候があるって……!」


大きく息を吸い込み、全身の力を使うみたいにして、次の言葉を押し出した。


「このまま維持できたら……来月の初めに、短いあいだだけど……家に帰れるようになるかもしれないって。ほんの数日だけど……で、でも……」


その先は続かなかった。

立花が、小さく歓声を上げてしまったからだ。

春野が力強く肩を叩き、花野の口元も珍しくほんの少しだけ上がっていた。


石原も、心からほっとしていた。

その視線が、みんなの声に引かれるように、自然と緒山へ向く。


緒山は、これ以上ないくらい明るい笑顔を咲かせていた。

真っ先に拍手を始め、その澄んだ音が室内に広がっていった。まるで、この場の喜びにぴたりと溶け込むみたいに。


「よかったね、朝日くん!」


弾む声で彼のそばへ歩み寄り、その喜びをそのまままっすぐ伝えた。


「葵ちゃん、きっとすっごく喜ぶよ! その数日をどう過ごしたら一番楽しいか、ちゃんと考えよう!」


その目には、心からの喜びがまっすぐあふれていた。


「みんなで旅行とか行けたら楽しそう!」


立花が勢いよく口を挟む。

それをきっかけに、ほかのメンバーも次々に言葉を重ねはじめ、部屋の空気は一気に明るくなっていった。


---


短期退院の見込みが立ったと聞いてから、葵の目の輝きは、これまでのどんなときよりも明るくなっていた。

それは、ただ嬉しいというだけじゃなかった。

“普通の暮らし”に触れられるかもしれない――そんな願いを、壊さないようにそっと抱きしめているみたいな、小さくて大事な光だった。


よく晴れた週末の午後。

医師が外に出てもいいと頷いてくれたのをきっかけに、見舞いに来ていた石原と緒山へ、葵は少し勇気を出して、小さなお願いをした。


「えっと……朋奈お姉ちゃん、久希お兄ちゃん……」


ベッドに背を預けたまま、シーツの端をぎゅっと握った。

けれど目はきらきらして、まっすぐ二人を見ていた。


「もし……もし大丈夫なら、本当に退院しておうちに帰る前に……お兄ちゃんと一緒に、みんなとちょっとだけ外を歩いてみてもいいかな? 病院の近くを少しだけでいいの。お医者さんも、少しくらいなら動いていいって言ってくれて……!」


その目には光が宿っていた。

一生懸命に抑えようとしているのに、それでも憧れが隠しきれていなかった。


そばに立っていた朝日守は、何か言いかけて口を閉じる。

いつものように、身体に気をつけろと言いそうになって――結局は何も言わず、石原と緒山のほうを見た。


緒山は、ほとんど迷わなかった。


「もちろんいいよ! こんなにいい天気だもん、お散歩するのにぴったりだよ。ね、先輩?」


そう言って振り向いた。


石原も、短く頷く。


「ああ。問題ない」


そうして、ささやかな“外出”が決まった。


---


四人は、病院の近くの静かな通りをゆっくり進んだ。


日差しはやわらかく、風が道端の若い葉をそっと揺らしていた。

空気は澄んでいて、どこか青い匂いがする。


葵は車椅子に乗り、朝日守がその後ろを押していた。


外の空気を惜しむみたいに深く吸い込みながら、目を忙しなくあちこちへ向ける。

見慣れているはずの街並みも、行き交う人も、店先のショーウィンドウも――その全部が、新しくて面白く見えているようだった。


「あっ、あのコンビニ! お兄ちゃん、前によくあそこでヨーグルト買ってくれたよね!」


「見て、朋奈お姉ちゃん! あっちのお花、すっごくきれい!」


その声は、跳ねる音符みたいに軽やかだ。

朝日守は車椅子を押しながら、大半の時間は黙っていたけれど、視線だけはずっと妹を追っていた。

葵が何かを指さすたび、その口元もわずかに緩んだ。


四人は、あたたかみのある文具雑貨店に入る。


葵の目は、すぐに棚の上のパズルへ引き寄せられた。

箱には、ゴッホの『星月夜』が描かれていた。渦を巻く星空と、静かな村の景色が、紙箱の上でかすかに光っているみたいだった。


「これ……」


小さな声だった。

好き、という気持ちは隠しきれていなかった。けれど、ためらいもちゃんと混じっていた。

必要なものじゃないと、彼女自身が分かっているからだ。


「気に入ったか?」


石原はすでにしゃがみ込み、その箱を手に取って見ていた。


「千ピースか。難しすぎず、ちょうどいいな。絵柄もきれいだし、休んでるときに少しずつやるのに向いてる」


そう言って、微笑むように緒山を見た。


緒山はすぐに意図を察して、そのまま迷わずレジへ向かう。

朝日守が止めるより早かった。


「これ、お願いします!」


「お兄ちゃん、お姉ちゃん……」


葵が小さな声で言った。

顔いっぱいに、隠しきれない嬉しさが広がっている。


「退院祝いの一部だ」


石原は短く言って、パズルを手渡した。


葵はそれを大事そうに抱え込み、頬をすり寄せた。


「ありがとう」


朝日守が、妹にちゃんと礼を言うよう促した。


「……ありがとうございます、二人とも!」


そのあと、葵はお菓子売り場で、医師に少しならいいと言われている飴やゼリーをいくつか選んだ。

どれも両手でそっと抱え、大事な宝物みたいに持っていた。


帰り道。

気持ちがほどけたからか、それともこの久しぶりの外出の空気にすっかり包まれてしまったからか、葵はさっきまでよりずっとおしゃべりになっていた。


車椅子の横を歩く石原を見上げて、ふいにぱちぱちとまばたきをした。


「久希お兄ちゃんって、静かで頼れるし……いつもちゃんと、まじめにお話聞いてくれるし……いいなあ」


石原は、そのあまりにまっすぐな褒め言葉に一瞬固まり、耳のあたりが熱くなるのを感じた。


「……そうか」


曖昧に返した。


葵はにこにこと笑いながら、その手をぎゅっと掴んだ。


「わたしね、久希お兄ちゃんみたいにやさしい人と、けっこんしたいな!」


「ぶっ――ごほっ!」


横で水を飲んでいた緒山が、危うくむせかける。


朝日守の手にも思わず力が入り、車椅子がわずかにぶれそうになった。

驚きと、苦笑と、本能的な警戒みたいなものが、顔に一瞬だけよぎる。


「葵! そういうこと言うな。石原くんは――」


言いかけて、止まった。


石原と緒山を交互に見た。

旧校舎でのあの一件と、その後のあれこれが頭の中でさっと繋がって、妙に筋の通った解釈ができあがってしまったらしい。


少し気まずそうに、声を落とした。


「……石原くんと緒山さんは、その……付き合ってるんだろ。だから、そういう冗談は――」


空気が、一瞬だけ止まった。


「えっ?!」


葵が目を丸くした。

二人を交互に見て、そっと石原の手を離した。


「ごめんなさい……知らなかった。でも、すごくお似合いだと思う!」


「ち、違う!」


石原の顔が一気に赤くなった。


「そうじゃない! 朝日くん、それは誤解だ。あのときは……その……」


言葉に詰まった。

さすがに、ここで事情をそのまま口にするわけにはいかなかった。


緒山も頬をほんのり赤くしていたが、すぐに落ち着きを取り戻し、少し困ったように、でもおかしそうにも見える顔で葵の肩をぽんと叩いた。


「葵ちゃん、違うよ。お兄ちゃん、ちょっと勘違いしてるの。

私は先輩とは、仲のいい友達っていうか……生徒会の仲間で。あのときは、うん、ちょっと複雑な事情があっただけ。恋人じゃないよ」


そう言って、朝日守にちらりと視線を送った。

――その件は長くなるから、あとで説明する。

そんな意味が透けて見える目だった。


朝日守は一瞬きょとんとしたあと、ようやく自分がとんでもない勘違いをしていたらしいと気づいた。

耳まで少し赤くなり、視線を落とす。


「……悪い。勝手に思い込んでた」


「いいよいいよ~」


葵はあっさり笑顔に戻った。


「でも、朋奈お姉ちゃんと久希お兄ちゃん、ほんとに仲いいよね。なんか、兄妹みたい!」


そのひと言で、場の空気はまたふっと軽くなった。

けれど同時に、どこか少しだけくすぐったいような、微妙な感じも残した。


石原と緒山は顔を見合わせ、小さく苦笑した。

それでも、二人とも少し肩の力が抜けていた。


ほんの小さな勘違いと、その訂正だった。

ただそれだけのやり取りだったのに、いつの間にか、四人のあいだにあったどこか意識的な距離は、少しだけ薄れていた。


---


病室に戻って、買ってきたパズルやお菓子を置いても、葵の元気はまだ続いていた。

石原と緒山がそろそろ帰ろうとしたとき、葵がもう一度二人を呼び止める。


「朋奈お姉ちゃん、久希お兄ちゃん、もうちょっとだけいてくれる?」


両手を合わせて、きらきらした目で見上げた。


「わたし……お兄ちゃんと一緒に、ちょっとした“プレゼント”を用意したの。今日、一緒にお出かけしてくれたお礼と……それから、今までずっといろいろしてくれたお礼」


「プレゼント?」


緒山が少し首をかしげる。


朝日守が静かにドアのそばへ行き、病室の天井灯を消した。

午後の明るい陽射しはカーテン越しにやわらぎ、部屋の中はたちまちやわらかな薄闇に包まれる。


「お兄ちゃんね、わたしが退院できるお祝いと、みんなへのお礼を込めて、“今までにないくらいすごい大魔法”を見せてくれるって言ってたの!」


声を潜めているのに、嬉しさは隠しきれていなかった。


「だから、朋奈お姉ちゃんと久希お兄ちゃんにも、絶対いっしょに見てほしくて!」


まっすぐな信頼と期待が、そのまま朝日守へ向けられていた。


朝日守は病室の中央に立ち、石原と緒山へ軽くうなずいた。

そして、静かに目を閉じる。


その表情には、旧校舎で見せていたような張りつめた痛々しさは、もうなかった。

代わりにあったのは、少しの穏やかさと、この景色を誰かと分かち合いたいという、澄んだ意志。


石原は息をひそめた。

朝日守の感情タグが、ゆっくりと流れはじめた。

欠けていた部分が、何かやわらかな力に導かれるみたいに、秩序をもって波打っていった。

それはこれまでのような、乱暴で制御のきかない噴き上がり方ではなかった。


そして次の瞬間。

薄暗い病室の中へ、奇跡は音もなく降りてきた。


もう、手のひらの上だけに閉じ込められた小さな景色ではなかった。

点々とした光が、風に散る蛍火の種みたいに朝日守のまわりから浮かび上がり、ふわりと天井へ、壁へと流れていく。


それらはやがて集まり、広がり、まるで見えない筆が病室の天井をそのままキャンバスにしているかのように、深い群青の夜をゆっくりと染めひろげていった。


その中で、星がひとつ、またひとつと灯っていった。

ただ無数に散っているのではなかった。間の取り方にまで息づかいがあるような、疎密の整った星々たち。

光は金色、銀白、淡い青――それぞれがかすかな瞬きを宿していた。


やがて、やわらかな乳白色の光を帯びた銀河が、天井を斜めに流れるように現れた。

その向こうには、夢の中でしか見られないような、ごく淡い星雲の光斑までにじんでいた。


その場にいた誰もが、息を呑んだ。


その星空が、ほとんど完成されたものとして静まりかけた――そのとき。


銀河の縁で、周囲の星よりもなお明るく、なお鋭い一点の光が、なんの前触れもなく生まれた。


それは現れた瞬間から、ゆっくりと、けれどどこか厳かな落ち着きをたたえて動きはじめた。

中心にあるのは、かすかな温もりを帯びた淡い金色の光だった。眩しすぎることはなく、まるで本当に天を巡る何かのように、見えない軌道をたどっていく。


そして何より、目を奪われたのは、その背後に曳かれていく光だった。


それはただの一本の帯ではなかった。

無数の、ダイヤモンドの粉みたいに細かな光の粒が、核から絶えずあふれ、ほどけ、引きのばされていく。

それぞれの粒はただ並ぶのではなく、本体の動きに従って揺れ、散り、重なりながら、しだいに幅広く、しだいに華やかな尾を形作っていった。


色もまた、ひとつではない。

核に近いところではあたたかな淡金だった。そこからおぼろな銀白へと変わり、いちばん長く伸びた先では、かすかな薄紫と氷のような淡青へと溶けていった。


その尾はまっすぐではなく、ひどくゆるやかな波を帯びていた。

まるで真空の中でさえ、どこかやさしい引力に引かれているみたいに、静かに、けれど確かに揺れている。


進む速さも、あまりにも絶妙だ。

一筋一筋の光の流れを見届けられるほどにはゆっくりで、それでいて、遥かな星の時を渡っていくものだけが持つような、揺るぎない落ち着きと気高さがあった。


それは、ただ天文現象を真似たものには見えなかった。

むしろ、ひとりきりで抱え込んできた守りたい気持ちも、願いも、うまく言葉にできない不器用な愛情さえも、ひとつ残らず凝縮して、心の夜空に架け渡した光の橋みたいだった。


石原は、その瞬間、呼吸を忘れていた。


彼が見ていたのは、目の前の光景だけではなかった。

彗星が生まれ、天井を横切っていくその短いあいだ、朝日守のタグは、これまで一度も見たことがないほど整った波を描いている。

欠け、乱れ、噛み合わなかったものが、そこではじめて、ひとつの形を取っていた。


あの彗星は、もう彼にとって届かない欠落ではなかった。

感情も、願いも、努力も、その全部がようやく辿り着いた先――妹に差し出す、形を持った“愛”そのものだった。


葵は、口を開けたまま見上げていた。

瞳の中には、人工の天の川がそのまま映り込んでいた。そこにあるのは、ただただ純粋な驚きと幸福だけだった。


「……すごい……」


緒山も、思わず小さく呟く。

誰かのために生まれたこの星空を見上げるその目は、やわらかくほどけていた。


朝日守は目を開けた。

顔色はいつもより少し白かったが、呼吸は安定していて、眼差しも澄んでいた。


妹の満ち足りた笑顔を見て、彼の口元にも、ほんのかすかな笑みが浮かぶ。


それから、石原と緒山のほうを見て、静かにうなずいた。


やわらかな星の光が、そこにいる全員へ降りそそいでいた。

病室は、ほんのしばらくのあいだ、痛みとも不安とも切り離された、夢の中の部屋みたいになっていた。


その静かな光の下で、葵が満ち足りた声で、小さくつぶやいた。


「次、陽明お兄ちゃんたち来たら……ちゃんとお礼、言わなきゃ……」


やがて、その声もだんだんとほどけていった。


穏やかな光に包まれながら、葵はゆっくりとまぶたを閉じる。

まだ封も切っていない『星月夜』のパズルを抱えたまま。

兄が作り出した星空の下で、安心しきったように眠りへ落ちていった。


「それと……ちゃんと……お兄ちゃんにも……ありがとうって……」


言葉は、そこで眠りに溶けた。


朝日守はそっと布団の端を整え、手を軽く振った。

星の光は静かにほどけるように薄れ、やがて消える。

病室には、ふたたびいつもの明るさが戻った。


病院を出るころには、ちょうど夕暮れだった。


石原と緒山は並んで歩いたが、しばらくはどちらも口を開かなかった。


まだ、あの星の残光が網膜の裏に焼きついているようだった。


「……どうやら」


ふいに、緒山が言った。

肩の力が抜けたように、ほっとした笑みを浮かべた。


「私たちの“観測”と“介入”、ちゃんと意味があったみたいですね、先輩」


「……ああ」


石原は短く答えた。

視線の先では、夕焼けに染まった雲が、静かに空の端まで広がっていた。


---


―― 空白の刹那 ――


---


【八月二日・日曜日】


八月最初の陽射しは、澄みきっていて明るかった。

市立総合病院のロビーを囲む大きなガラス張りの壁を通して降りそそぎ、あらゆるものを明るい金色で縁取っている。


今日は、葵が短期退院で家に戻る日だった。


病室の外の廊下には、生徒会の面々がほとんど揃っていた。

みな静かに、そのときを待っている。


春野は珍しくきちんとアイロンのかかったシャツ姿で、立花と杏はそろって短めのスカートを穿いていた。

花野は、素朴な包みにくるまれた小さなかすみ草のドライフラワーを抱えていた。


石原は窓際に立ち、階下の中庭に広がる濃い緑を見下ろしていた。

少しだけ速くなっている鼓動を、なんとか落ち着かせようとする。

それは自分のためじゃなかった。病室の中にいるあの兄妹が、これから手にする短くてもかけがえのない“日常”のことを思って、落ち着かなくなっているだけだった。


緒山は、そのすぐ隣というより、半歩ぶんだけ離れたところに立っていた。

今日は長い髪をゆるく編んで、片側へ流している。


いつものあたたかな笑顔を浮かべながら、立花と小声で、このあと荷物をどう運ぶか話していた。


【緒山朋奈の感情:興奮37#*$%¥&】


相変わらず、あの見慣れた乱れまじりの欠けたタグのままだ。

けれど、この明るい光の中では、不思議とあまり目立たなかった。


やがて、病室の扉が開いた。


朝日守が、葵の手を引いて、慎重に外へ出てきた。


葵は病衣ではなく、淡いベージュのワンピースに着替えていた。

その上に羽織った薄い黄色のカーディガンが、白い頬にさえ、少しだけ生気の色を添えている。


目は星でも詰め込んだみたいに輝いていて、口元の笑みがどうにも収まりきっていなかった。


「みんな! おはよう!」


両手をぱっと上げて、元気よく挨拶した。


「わあ、葵ちゃん今日めちゃくちゃ可愛い!」


立花が真っ先に駆け寄った。


「顔色も悪くない」


花野が花束を差し出した。

声は平坦だったが、そのぶんやさしさがにじんでいる。


「準備はいいか? 迎えの車、もう手配してある」


春野が廊下の先を指さした。


朝日守は妹の後ろに立っている。


長いあいだ眉間のあたりに沈んでいた、重い疲れと陰りは、今日の陽射しの中ですっかり薄れていた。

静かなところは変わらなかった。けれど、その目は明るく澄んでいて、口元には心から安堵したような笑みがある。


そして石原は、そのときになって初めて気づいた。

朝日守の感情タグが、いつの間にか完全な形に戻っていることに。


【朝日守の感情:喜び34、興奮47、安堵19】


(……もう、朝日守の執着は消えてる)


石原は胸の内でそう呟く。

あとでみんなにも、このことを伝えようと思った。


軽く言葉を交わし、必要な手続きを済ませると、一行は葵を囲むようにして病院の外へ向かった。

外へ出た瞬間、陽射しがためらいなく全員を包み込む。


葵はあたたかな外気を大きく吸い込み、目を細めた。

その笑顔は、さっきよりさらに明るい。


朝日守の足取りは安定していて、ときどき顔をのぞき込みながら、小さな声で妹に声をかけていた。


「無理するなよ」


「もう、そんなに心配しなくていいってば!」


葵が笑って返した。


場の空気は、ごく自然に浮き立っていた。

立花は葵のそばで、帰ったらできることを次々に口にし、春野は朝日守と小声で移動の段取りを確かめ合っている。

花野は少し後ろを歩きながら、静かに全体を見ていた。

石原と緒山は、その輪の少し外側を並んで歩いている。


緒山はずっと笑っていた。

立花の話に相槌を打ち、ときどき腰をかがめて、風に乱れた葵の髪をそっと整えていた。

その動作は自然で、気負いがなく、見ているだけで安心するほどだ。

本当に、心からこの再会を喜んでいるように見えた。

むしろ、いつもより少しだけ明るいくらいに見えた。


――なのに。


石原は、ほんのわずかな異物のような違和感を感じはじめていた。


最初は、あまりにも小さな違和感だった。


朝日守の両親が、仕事先から慌てて駆けつけてくる。

病院の前で合流し、痩せた母親が目を赤くしながら葵をぎゅっと抱きしめ、そのあと息子の肩を強く叩いた。

その光景に、周囲からも思わずほっとしたような、あたたかなため息が漏れた。


そのときだった。


緒山の笑顔が、ほんの一瞬だけ固まったように見えた。


けれど、それは瞬きのあいだに消えた。

次の瞬間には、何事もなかったみたいに元へ戻っている。


それでも、石原の胸のどこかに、小さな棘のようなものが残った。


それだけじゃなかった。


朝日守たち家族四人が、ようやく寄り添うように並び、春野がスマホで記念写真を撮ることになったとき。

緒山は少し離れた場所から、それを見守っていた。


口元には、ちゃんと笑みがあった。

けれど石原は気づいた。

彼女の指先が、ひそかに丸まり、手のひらへ食い込むみたいに力が入っていたことに。


明るい陽射しが横顔を照らしているはずなのに、その頬は妙に白く見えた。


その瞬間、石原の胸の奥を、説明のつかない動悸がひやりと走る。

ごく弱い、けれど覚えのある予感だった。


石原ははっとして緒山を見た。

けれど彼女は、その場に立っているだけだ。

少なくとも、能力を使っている様子はなかった。


なのに、不安だけが胸の中でじわじわと広がっていった。


やがて車がやってきた。


朝日守が慎重に葵を抱き上げて乗せ、両親がそのそばで支えた。

その光景は、どこにでもありそうなくらい平凡で、だからこそあたたかかった。


生徒会の面々は歩道に並び、手を振る。


「ちゃんと休んでねー!」

「また来週、会いに行くからね!」


葵は窓から半身を乗り出すみたいにして、大きく手を振る。

最後に石原と緒山のほうを見て、口の動きだけでそっと言った。


「ありがとう! またね!」


車はゆっくりと発進し、そのまま通りの流れに混ざっていった。


車の後ろ姿が角の向こうに消えてから、ようやく春野が息を吐いた。


「……ひとまず、一段落だな。いい始まりだ」


立花も頷き、目を潤ませている。

花野も、ほんのわずかに頷いた。


みんな、誰かの願いが叶ったことへの満足感に、静かに包まれていた。


その空気がふっとゆるんだ瞬間。


石原は、ほとんど反射みたいに、もう一度すぐそばの緒山を見た。


緒山はまだ、車の消えた方向を見つめていた。

見送りのときのままの、明るくて、心からそう見える笑顔を浮かべたまま。

どこにも、不自然なところなんてなかった。


なのに――


涙が……


大粒の涙が、なんの前触れもなく、笑顔のままの彼女の目からぽろぽろとこぼれ落ちた。


少し上がったままの口元をかすめ、頬の輪郭を伝い、シャツの前を濡らして、すぐに濃い染みを広げていく。


自分が泣いていることに、緒山自身、気づいていないようだった。


笑顔はそのまま、きれいなかたちで顔に残っていた。

むしろ陽の光を受けて、乾ききらない涙の粒がきらめくぶんだけ、いっそう眩しく見えてしまうほどだった。


【緒山朋奈の感情:羨望24#*$%\】


石原の心臓が、唐突に一拍だけ止まった気がした。


明るい顔も、いたずらっぽい顔も、真剣な顔も、脆さを見せた顔も、これまでにいくつも見てきた。

けれど――こんなふうに、あまりにも静かに泣く姿だけは、初めてだった。


彼女は何も言わない。

ただ穏やかに笑ったまま、涙だけを際限なくあふれさせていた。


そのとき、不意に緒山の身体がふらりと揺れる。


そして石原が反応するより先に、彼女の手が伸びてきて、彼の手首を強く掴んだ。

どこか取り乱したような、けれど必死な力だった。


石原は全身をこわばらせる。

それでも、その手を振り払うことはしなかった。


手首に伝わってきたのは、冷たくて、細かく震える感触。

目の前にあったのは、涙に濡れたまま、それでもまだ笑顔の形を残している横顔だった。


「……緒山さん」


石原は、空いているほうの手をそっと伸ばし、彼女の手の甲に重ねた。

ひどく冷たく、震えの止まらないその手に。


緒山の肩がびくりと跳ねた。

まるで、深い悪夢の底から急に引き戻されたみたいに。


一度、まばたきをした。

その拍子に、また大きな涙がこぼれる。

けれど、貼りついたみたいだった笑顔は、そこでようやく崩れはじめた。


彼女は慌ててうつむき、石原の手首を掴んでいた手を離した。

もう片方の手で顔を拭おうとしたが、肩は小さく、どうしても震え続ける。


「……ご、ごめんなさい……」


声にははっきりと鼻にかかった響きが混じっていた。

ほとんど聞こえないほど小さく、息みたいにかすれて、まともな調子になっていない。


「わ、私……ただ……あの人たちのことが、すごく嬉しくて……」


口にしながら、自分でもその言い訳を信じきれていないのが分かるようだった。

拭っても拭っても、涙は止まらない。


その異変に、周囲の視線が少しずつ集まりはじめた。


石原は半歩だけ前に出て、さりげなくその大半を遮った。

それと同時に、さっきまで手を重ねていたほうの手を、今度はそっと彼女の肩へ置いた。


「……ああ」


石原の声は、意識して平坦になった。

まるで、たった今の出来事がひどく大きなものではなかったみたいに。


「そうだな……ほんとに、よかった」


春野の問いかけるような目を受けて、石原はごく小さく首を横に振った。


緒山は何度か深く息を吸い、ようやくどうにか涙を止めた。

目元も鼻先もまだ赤かったが、顔を上げる。

そこには、涙の跡を残したままの笑顔が、無理やりに戻されていた。


「……私、大丈夫……。ただ、これから葵ちゃんとあんまり遊べなくなるのかなって思ったら……」


まだ声は少し掠れていた。


「だ、大丈夫ですよ! 葵ちゃん、退院したあとだって中等部で会えますし!」


「そ、そうですよ、朋奈さん!」


立花と杏が心配そうに声をかけた。


春野は石原と緒山のあいだを一度見て、少し考えるような顔をしたあと、最後には静かに頷いた。


「……じゃあ、戻ろうか。今日はお疲れさま」


---


帰りの電車の中は、どこか静かだった。


緒山は窓にもたれ、流れていく街並みを見ている。

横顔は落ち着いていたが、まつげの先はまだ少し濡れていた。


石原は、その斜め向かいに座ったまま、視線を外せずにいる。

胸の奥を走った、あの妙な動悸も、まだ完全には収まっていなかった。


何度か声をかけようとして。

だが、今は何を言っても、かえって彼女の邪魔をしてしまう気がして、結局ひとつも口にできなかった。


いつも見てきた、曇りのない笑顔。

そして、あのひどく欠けた感情タグ。


緒山の胸の奥には、きっと何かがあるのだと思った。

何か、ずっと隠してきたものが。


――けれど、今の石原には、それが何なのかなんて、どうでもよかった。


赤くなった目のまま窓の外を見つめている緒山を見て、胸の中に残っていたのは、たったひとつの願いだけだ。


(……もう、泣かないでくれ。緒山さん)


その思いが、あまりにも強かった。

それだけで、普段なら人に触れる前に立ち止まってしまうはずのためらいを、押し流してしまうくらいに。


視線が、膝の上で重ねられた彼女の手に落ちた。

まだ、少しだけ縮こまるように指が丸まっている。


その瞬間にはもう、身体のほうが先に動いていた。


石原は立ち上がり、そのまま彼女の隣の空席へ腰を下ろした。

電車が小さく揺れた。

石原は彼女を見ないまま、ただ何気なく座る位置を変えただけのような顔をしていた。


そして、次のかすかな揺れに合わせるようにして、手をゆっくりと伸ばした。

ほんの一瞬だけ、分かるか分からないかほどのためらいがあった。

それでも最後には、その手をそっと彼女の手の甲へ重ねた。


緒山の肩が、小さく震える。


彼女は振り向かなかった。

手も引っ込めなかった。

ただ、窓の外を見たまま、その視線だけがほんの一瞬、固まったように止まる。


電車の規則的な走行音の中で、時間がゆっくりと流れていった。


石原は、そのままだった。

それ以上何かをするでもなく、何かを言うでもなく、ただ触れた手を重ねていた。


やがて、彼女の細かな震えが、少しずつ収まっていく。


窓の外では、街の灯りがひとつずつ灯りはじめていた。

深まりつつある夕暮れの中で、それらが連なり、どこかあたたかな星の川みたいに見える。

車内に流れる案内放送は、遠くぼやけて聞こえた。


どれくらいそうしていただろう。


もう彼女からは何も返ってこないのかもしれない、と石原は思いかけた。

そのときだった。


重ねた手が、ほんのわずかに動いた。


離れようとする動きではなかった。


指先が、ごくゆっくりと裏返る。

おそるおそる確かめるみたいに、石原の指へと触れてきた。

そして――そっと、一本だけ、指を握った。


力はとても弱かった。

羽がそっと触れたみたいに、あまりにもかすかなそれ。

それでも、確かに“応えてくれた”と分かるだけの感触があった。


石原の指先が、ぴくりと震えた。

心臓がまた、少し速く打ち始めた。


それでも彼は動かなかった。

その小さな力に、ただ静かに身を任せる。


二人はそのまま、暗くなりかけた車内の隅で、誰にも気づかれないまま繋がっていた。

あまりにも不器用で、けれどそれ以上なく本物の触れ方だった。


電車はそのまま走り続ける。

見慣れた駅へ向かいながら、まだ名前もつかない先の夜へ向かっていった。

それでも、その先はもう前ほど怖くない気がした。

この無言の繋がりが、たしかにそこにあったから。


今の石原は、ただ手の中にあるこの微かな光を、少しでも強く握っていたかった。


たとえまだ頼りなくても。

たとえ今にも消えてしまいそうでも。


少なくとも、今この瞬間だけは、本物だった。

ぬくもりがあって、たしかに彼の指を握り返していた。


この光が、どうかこれから先も消えませんように。

石原は、ただそう願っていた。

【あとがき】


第十一話をお読みいただき、ありがとうございます。


本話では、朝日守という人物の“願い”と、その代償の在り方に、

より深く踏み込む形となりました。


誰かのために力を使うこと。

それ自体は、とても美しく、尊い行為のはずです。

けれど、その願いが自分自身をすり減らすものであるとき、

それは本当に「正しい選択」と言えるのか――。


この問いは、石原たちだけでなく、

読んでくださっている皆さんにも、少しでも伝わっていれば嬉しいです。


そして、本話をもって第一巻は一区切りとなります。


第一巻では、石原自身の変化や成長に焦点を当ててきましたが、

ここから先の物語では、緒山や立花をはじめとした主要キャラクターたちにも、

より深く光が当たっていくことになります。


また、構成についてひとつお知らせがあります。

もともと中国語版第三巻のラストに配置していた立花美里の番外編を、

本作では第十二話として前倒しすることにしました。


立花の視点から、これまでの出来事の裏側や、

とくに緒山の心情に触れる内容となっています。


――とはいえ、主役はもちろん立花です。

石原と関わる中で、彼女の中に芽生えた変化や想いにも、ぜひ注目していただけたら嬉しいです。


その先に何が待っているのか。

どうぞ、引き続き見届けていただければ幸いです。


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。

次回も、どうぞよろしくお願いいたします。


---


四月一日 0:00 追記 次回「立花美里」番外編と予告しておりましたが、本編の展開に収まりきらないため、公開を第2巻中盤に移動いたします。 引き続き、次回更新は第2巻 第一話を予定しております。

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