第十話
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また、あの夢だ。
夢の中では、母が俯いたまま最後の付箋を書いていた。
父はソファに座り、まるで彫像のように黙り込んでいる。
そして、母は出ていった。
「……僕のせいで、こうなったの?」
その言葉が、耳の奥にいつまでもこびりついて離れない。
自分では答えを求めて口にしたつもりだった。
だが、その一言が最後のひとひらの雪のように、すでに張り詰めていた父の中の一本の糸を、ぷつりと切ってしまったのだ。
父は立ち上がり、彼を一度だけ見た。あの視線を、彼は今でも忘れられずにいる。そして父もまた、出ていった。
その日から、ひとつの思いが彼の心に深く根を下ろした。
――もしあの時、二人の感情をちゃんと読み取れていたなら。あんな言葉を口にせずに済んだんじゃないか。何もかも、違っていたんじゃないか。
妹だって――自分と一緒に苦しまなくて済んだんじゃないか。
その葛藤は、日を追うごとに膨らんでいった。
そしてある朝、目を覚ました瞬間、世界は躍るような「タグ」で埋め尽くされていた。
彼は、答えを手に入れた。
運命は、皮肉めいた劇的なかたちで――彼の願いに応えた。
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石原は、弾かれたようにベッドの上で飛び起きた。
荒い息を何度も吐く。寝間着は冷や汗でぐっしょり濡れていた。
夢の中で見た父の表情が、まだ網膜に焼き付いている。
あの「僕のせいで、こうなったの?」という幼い声の残響と重なり合い、冷たい蔓のように心臓へ絡みついて、息が詰まるほど強く締めつけてくる。
ただの夢だ。――それでも、夢の中の無力感と自分への疑いは、目覚めたあとの現実と何ひとつ変わらない。
あれから何年経っても、「あの時、ちゃんとわかっていれば」「言葉を誤らなければ」――その後悔は、今もなお棘となって、胸の奥に最も深く刺さったままだ。
異能力の由来について、彼がずっと深く考えまいとしてきた推測が、この瞬間、嫌というほどはっきりした。
――それは、過去の自分への痛烈な皮肉であり、同時に歪んだ補償でもある。
最も大切な人たちの感情を読み取れなかったせいで、取り返しのつかない過ちを犯した。
その結果、石原の中には「本当の意味で、相手の感情を理解したい」という執念が根を張っていった。
そして世界は、その執念に応えるように「贈り物」を与えた。
それは、決して閉じることのできない、終わりなく騒がしく鳴り続ける「答え」だった。
けれど、石原が本当に理解したかった、あの二人だけは、もう二度と取り戻せない。
答えは手に入れた。だが、もう問いを投げる資格はない。静かな世界も、すでに失ってしまった。
この「才能」がもたらしたのは、終わりのない騒がしさと、来る日も来る日も続く自分自身への責め苦だけだ。
窓の外から、始発電車の警笛と、登校する学生たちのかすかな笑いさざめきが聞こえてくる。
もうすぐ視界へなだれ込んでくる色とりどりの感情タグを予感しただけで、こめかみがずきずきと脈打ち始めた。
石原は顔を深く枕に埋めた。 まだ悪夢の湿り気が残る枕に、押し殺したような呻き声を漏らす。
まるで、これから他人の感情で埋め尽くされていく世界そのものを、枕越しに拒もうとするかのように。
そんな息苦しい暗がりと、これから押し寄せてくるはずの騒がしさを思い浮かべていた、そのときだった。
――ふいに、ある光景が頭に浮かんだ。
昨日、林の中で見た――あの緒山の、悪戯っぽいのに少しも陰りのない笑顔だった。
それに、どこかちぐはぐで要領を外したような言動のくせに、不思議と周囲の雑音だけは遠ざけてくれるような感覚があった。
「先輩、明日もまた来ますから!」
その言葉を思い出した瞬間、胸を締めつけていた蔓が、ほんのわずかだけ緩んだ気がした。
自分でも気づかないほど微かな安心が、胸の奥にじわりと広がっていく。
その感覚は、厚い雲を割って差し込む一筋の光明のようだった。
ほんの一瞬だったが、それでも確かに、胸の底に居座っていた冷たさを少しだけ追い払ってくれた。
顔を枕に埋めたまま、石原はその姿勢を崩さなかった。
乱れていた呼吸は、少しずつ落ち着いていった。窓の外の喧騒も、どこか遠くへ退いていったように感じられる。
疲労と、束の間の安堵が入り混じるその狭間で、彼の意識は、そのまま再びゆっくりと混沌の底へ沈んでいった。
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【五月八日・水曜日・朝】
再び差し込む光に起こされたときには、もうすっかり朝になっていた。
カーテンの隙間から差し込んだ朝日が、床の上に一本の明るい光の帯を落としている。
石原はぼんやりと目を開けた。昨夜の悪夢が残した重さは、少しだけ和らいだように感じられた。けれど、精神の疲れはまだ影のようにつきまとっている。
「お兄ちゃん! もうとっくにお日様が昇ってるよー!」
聞き慣れた元気いっぱいの声が、だんだんこちらへ近づいてくる。
部屋の戸がそっと開いた。
ひょこっと顔をのぞかせたのは、杏だ。今日はきちんと制服を着ていて、髪も丁寧に結ばれており、これから学校へ行くつもりらしかった。
石原が起きているのを確かめると、杏はそろりと部屋に入ってきた。
そのままベッドのそばにぺたんと正座して、じっと彼の顔をのぞき込んでくる。
「……怖い夢、見たの?」
否定しようとした。けれど、丸眼鏡の奥の大きな瞳には――もうすべてわかっているという色が浮かんでいた。
彼女の感情タグには、はっきりと【石原杏の感情:心配70、察し30】と浮かんでいた。悪夢のあとの彼の様子を、彼女のほうがよく知っていた。
「……うん」
短く認めると、身体を支えながら身を起こした。
「やっぱり」
杏は小さく息をつき、それから手を伸ばして、指先で彼の額をちょんとつついた。
「早く顔洗ってきて。朝ごはん、できてるよ。今日はお兄ちゃんの好きな玉子焼きもあるよ!」
【石原杏の感情:心配50、励まし40、その他10】
明るい調子に聞こえるよう努めているのだろう。けれど、にじむ心配までは隠しきれていない。
杏の顔を見ていると、夢の中で浮かんだあの自責の念が、ふっとよみがえった。
――妹だって、自分と一緒に苦しまなくて済んだんじゃないか。
けれど、目の前の杏は、もう石原が一方的に守るだけの小さな存在ではなかった。彼を心配してくれて、朝ごはんを作ってくれて、自分なりのやり方で、彼を支えようとしてくれている。
そのことを思うと、胸の奥にずしりとした重みが落ちた。それでも、その重みの奥には、ほんの少しだけ温かさも感じられる。
「……わかった」
低くそう答えて、手を伸ばした。くしゃっと杏の頭を撫でた。
「もー、やだ! またとかしなおさなきゃじゃん」
「あとでお兄ちゃんがブラッシングしてよね」
「はいはい」
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石原は黙ったまま朝食を食べていた。
玉子焼きはうまかった。味噌汁の温度もちょうどよかった。どれも、妹が朝早く起きて用意してくれたものだ。
けれど箸の動きは少し遅かった。視線はテーブルの隅の一点に落ちたままだ。何か別のことを考えているようだった。
テレビでは朝のニュースが流れていた。女性アナウンサーの声が、静かなリビングを淡々と満たしている。
向かいには、杏が座っていた。
箸を持ちながら食べるでもなく、ときおりちらりと彼を見ている。
【石原杏の感情:心配42、観察35、迷い23】
「お兄ちゃん」
「……ん?」
彼ははっとして、杏のほうを見た。
「ううん、なんでもない」
杏は目を伏せ、ご飯に視線を向けた。
「ただ……呼んだだけ」
「朝からぼーっとして、どうしたんだよ」
「ぼーっとなんてしてないし。むしろ、お兄ちゃんのほうでしょ」
言い返さなかった。玉子焼きをもう一切れつまむ。けれど頭の中では、まだあの夢の光景が繰り返されていた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「昨日の話、決まったの?今日……生徒会、行くの?」
箸が一瞬止まった。
生徒会。そこには――緒山がいる。
「……行くよ」
杏は彼をちらりと見て、ただ「……うん」とだけ返した。
テレビのニュースが次の話題に切り替わる。
『続いて、緊急ニュースです。昨日深夜から本日未明にかけて、泉方区を中心に関東の大部分で異常な天文現象が観測され――』
顔は上げなかった。
杏はちらっと画面を見て、「なんか変なの」
と小さくつぶやき、また視線を落として食べ始めた。
朝食はあっという間に終わった。石原は立ち上がり、食器を流しへ運んだ。
「行ってくる」
「うん、気をつけてね」
玄関で靴を履いた。靴を履きかけたところで、その動きがふと止まる。
――103号室。あの表札。
なぜ気になるのか、自分でもわからない。それでも心は、つい下の階のほうへ向いてしまった。
気を取り直して、そのまま扉を開け、朝の光の中へ出ていく。
その背後では、杏が玄関に立ったまま、閉まった扉を見つめていた。
しばらくそのまま立ち尽くしていたが、やがて、ふっと息をついた。




