第十話 星を繋ぐ者――彼女の願いと、彼の光へ
【前書き】
更新が滞っていた間も、この物語を待っていてくださった皆さま、本当にありがとうございます。
本話および次話は、暫定翻訳版(仮訳)となります。
後日、ネイティブによる調整を予定しております。
そして――ここから、物語は新たな段階へ。
これまでの“答え”が、別の“問い”へと繋がっていきます。
これからも、この物語を見届けていただけたら嬉しいです。
4月16日
第一巻の翻訳・校閲作業が完了いたしました!
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【六月二十四日・月曜日・放課後】
【生徒会室】
先週の誕生日会のことは、まだ鮮やかに記憶に残っていた。
「真汐ちゃんのあの棒読みの『誕生日おめでとう』、あれ絶対名場面だったよね!」
「お兄ちゃんの反応も、ほんとバカみたいだったし!」
杏と立花は、目を細めて笑い、声まで楽しげに弾んでいた。
そこへ春野が入ってきた。手には書類の束を抱えている
彼は指の関節で机を軽く叩くと、いつもの気楽そうな笑みを引っ込め、話し合いのときみたいな真面目な顔つきになった。
「はい、あったかい振り返りはそこまで。じゃあ、そろそろ本題に入るぞ」
いつもより少し、部屋の空気が引き締まった。
春野はホワイトボードを部屋の中央へ引き寄せ、花野は手元のノートを開く。立花まで、いつもより背筋を伸ばして座っていた。
「みんないることだし、最近のことを一回整理しよう」
春野は机の端にもたれかかった。
「立花の能力は消えた。石原は新しい異常を見つけた。そろそろ、今わかってることも推測も、全部出し合っていい頃だと思う」
花野はノートを開き、万年筆を手に取った。
「同意」
「じゃあ、私から話します」
立花が手を挙げた。その声はいつになく真剣だった。
「能力が消えてから、やっと先輩の言ってた“代償”の意味がわかったの」
彼女は自分の手を見下ろした。
「前は、制服を着てるのにみんなに無視されるたびに、もう全部終わりみたいな気がしてた。でも今になって思えば、あの“消えかけてる”感じ……あれが、代償が少しずつ深くなっていってたってことなんだと思う」
そう言って顔を上げ、石原を見た。
「だから聞きたいんです。先輩の代償って? “ノイズ汚染”って言ってましたよね。それも……だんだんひどくなっていくんですか? 前の私みたいに」
生徒会室が、ふっと静まり返る。
いくつもの視線がいっぺんに自分に集まったのを、石原は感じた。
二秒ほど黙ってから、口を開いた。
「……たぶん、そうなると思う」
それは石原自身も、ここ最近になってようやく確信したことだった。
声そのものは落ち着いている。けれど、立花はもう眉を寄せていた。
「もし本当に、私のときみたいに悪化していくなら……今のままじゃ、私たち、同じ間違いを繰り返してることになりませんか?」
「今のところは、まだ安定してる。人の多い場所にいる時間をきちんと抑えれば、問題ない」
立花は何か言いかけた。だが、その前に別の声が割って入る。
「お兄ちゃん」
隣から聞こえた杏の声には、いつもみたいな軽さが少し欠けていた。
立花の隣に座ったまま、両手を膝の上に置き、ずっと石原から目を逸らさなかった。
「ひどくなるかもしれないなんて、今まで一回も言ってくれなかったよね」
石原はわずかに目を見開いた。
杏は追及しなかった。ただ、すっと視線を落としただけだった。
「……もういい。どうせ、お兄ちゃんは杏の言うことなんて聞かないし」
そう言って花野のほうへ向き直ると、その声にはいつもの軽さが戻っていた。
「真汐ちゃん、続けて」
「では、法則性はひとまずこう整理できる」
その声に抑揚はなかった。
「代償は、使用頻度と強度に応じて深くなる。立花は能力の消失後、代償も消えた。――この認識でいい?」
「少なくとも、立花と石原のケースには当てはまっている」
花野はノートに数行書きつけた。
「よし。代償の話はいったんここまでだ」
春野が軽く手を叩き、石原のほうを見た。
「次は、数日前に見た男子の話だ。聞かせてくれ」
石原は、夕暮れの廊下で見たことを順に話した。すれ違いざまに見えた欠けたラベルのことも、振り返ったときには、もうその姿が曲がり角の向こうへ消えていたことも話した。
「調べた」
花野が別のページを開いた。
「二年D組、朝日守。異常記録はなし。ただし一点――家庭の問題には注意が必要だ」
「家庭の問題、か……」
春野は目を伏せ、少し考え込んだ。
「それと、これ」
花野はファイルから一枚のメモ用紙を抜き取り、机の上に置いた。
「三日前の投稿」
そこには、ボールペンでやや雑に書かれた文字が並んでいた。
「投稿:ここ一週間、放課後の夕暮れどきになると、旧校舎三階のいちばん東にある使われていない音楽室の窓辺で、変な色の光のにじみが見える。すごく小さい、揺らぐオーロラみたいな光。これ、見えてるの自分だけ?」
花野が緒山を見た。緒山がそのまま話を引き取った。
「旧校舎三階の東側。D組の子に聞いてみたんだけど、朝日くんが放課後によく行ってる場所と同じなんだよね」
春野は腕を組み、しばらく唸った。
「つまり……その現象、朝日守と関係あるかもしれないってことか。でも問題は――今のままだと確かめようがない」
「私のときみたいに、直接聞きに行くのは……?」
立花が小さな声で言った。
「だめ。今の時点じゃ、朝日守について何もわかってない。下手に接触すると、逆効果になる可能性がある」
花野はその案をきっぱり退けた。
沈黙が、生徒会室の中にじわりと広がった。
その静けさを破るように、春野が少し身を乗り出し、話題を切り替えた。
「次。石原、この前俺に話してくれた“発見”も、今ここでみんなに共有しよう」
石原は一瞬だけ間を置き、すぐに何のことかわかる。
「……俺の能力の話だ」
そう言うと、自然と全員の意識が石原に集まった。
「最近わかったことがある。ほとんどの人のラベルは、ちゃんとした形で流れてる。でも、そうじゃないやつもいる。欠けてたり、文字化けしてたりする。たとえば……」
石原は慎重に言葉を切った。
緒山を連想させかねない比較は避けた。
「立花さんは前、そうだった。能力が消えたあと、ラベルも普通に戻った」
「石原の仮説は、“感情ラベルの異常”が、ほかの潜在的な異能者を見つける手がかりになるんじゃないか、ってことだ」
春野が補足し、石原は頷いた。
生徒会室はまた静かになった。
誰もが、その情報をそれぞれの形で飲み込もうとしていた。
「要するに、特徴はかなりわかりやすい。だから石原は、これを手がかりにすれば、もっとこっちから探しにいけるんじゃないかって考えてる。――自分の能力を使って」
「反対」
花野が口を開いた。いつもより、わずかに早口だった。
「サンプル数が足りない。結論を出すにはまだ早い。しかも――能力を頻繁に使えば、石原の代償はさらに重くなる。そのリスクを負うつもり?」
その言葉に、立花の体がわずかに前のめりになる。思わず、といったふうに石原を見た。
「わかってる」
石原は花野の視線をまっすぐ受け止めた。
「それでも、やる価値はあると思ってる。もし校内にまだ他にもいるなら……誰かが見つけなきゃいけない」
「今ならわかる。俺の能力は、誰かを見抜くためのものじゃない。ただ――本人ですら見えてないものを、見えるようにするだけだ」
花野は目を伏せ、数秒黙り込んだ。
「……ちょっと待った」
春野が机を軽く叩く。
全員の視線がそちらへ向いた。
「俺の結論は――継続。ただし条件つきだ」
そう言って、石原を見た。
「使用頻度は抑える。異常が出たら即中止。議論の余地なし。優先するのは“見つけること”じゃない。“お前が無事でいること”だ」
石原は頷く。
誰もその言葉に反対しなかった。それが、この場での了承だった。
「で、朝日守の件に戻るけど――まずは石原の能力で確認するか?」
「俺は構わない」
春野は頷き、椅子の背にもたれると、少しだけ力を抜いたようだった。
天井を見上げたまま、独り言みたいにぽつりとこぼした。
「異能力、ね……ほんと、便利でもあるけど厄介だよな。こんなもの、いったいどうやって生まれるんだか」
誰も答えなかった。
石原は目を伏せ、自分の手を見つめていた。
立花は静かに座ったままだった。緒山もまた、誰を見るでもなく視線を落としていた。
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春野は頷き、椅子の背にもたれた。
「具体的な進め方は、花野がまとめてグループに共有しといてくれ」
「了解」
沈黙は数秒しか続かなかった。
花野はノートを閉じ、鞄を手にした。
「図書館、予約の時間」
そう言って、彼女はドアのほうへ向かった。
石原のそばを通り過ぎるとき、ふと足を止めた。
「方向性は合ってる。体には気をつけて」
それだけ言い残して、ドアを開けて出ていった。
「じゃあ、今日はここまでだな」
そのあと、春野と立花、それに杏も順に部屋を出ていった。
生徒会室は静かになり、残ったのは、石原と緒山だけだった。
夕陽が部屋をやわらかな橙色に染めていた。
緒山は窓辺に立ち、手元のスマホ画面に目を落としていた。
「先輩」
不意に、彼女が口を開いた。
顔は上げないままだった。
「……ん?」
「先輩の能力……誰かを“見抜く”ための道具じゃない、って」
彼がさっき口にした言葉を、そっとなぞるように繰り返した。
「その受け止め方、すごくいいと思います」
そう言って振り向き、彼女は小さく笑った。
「じゃあ、また明日」
「……緒山さん?」
彼女は鞄を手に、そのまま石原のそばを通り過ぎていった。
ドアが静かに閉まる。
石原は一人、生徒会室に立っていた。
最後の光が少しずつ引いていき、部屋もまた、ゆっくりと暗くなっていく。
さっき春野が口にした、あの問いを思い出した。
「こんなもの、いったいどうやって生まれるんだか」
石原には、その答えはわからなかった。
けれど、あの数秒の沈黙のあいだ、あの場にいた誰もが、それぞれ自分なりの答えを胸にしていたのだと、石原はわかっていた。
ただ、誰ひとり、それを口にはしなかった。
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―― 空白の刹那 ――
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【六月二十五日・火曜日・昼休み】
石原は二年生校舎二階東側の廊下の曲がり角で、冷たい壁に背を預けていた。
ここは人通りがほどよく、見通しもいい。
二年D組の生徒たちの昼休みの動きを見るには、ちょうどいい場所だった。
石原はスマホを取り出し、昨夜花野がグループに送ってきた案をざっと確認した。
「水面下でのスクリーニング手順:投稿の一次選別→石原による“ラベル確認”→高確率対象の絞り込み」
その後は別のメンバーが主導し、生徒会活動や声かけを名目に接触して、状況を確認する――そんな流れだった。
チームはその結果を見て、さらに対応を決める――そういう段取りになっていた。
耳に届くのは、昼休み特有のざわめきだ。
そのざわめきを、石原は今、自分の中で“別の光景”へと訳し替えていた。
視界の中に、無数の感情ラベルが次々と浮かび上がる――
【興奮】【眠気】【退屈】【焦り】【お菓子を分け合う楽しさ】【午後の小テストへの不安】……色とりどりのラベルが隙間なく重なり合い、騒がしい背景ノイズのように広がっていた。
じわりと、代償が顔をのぞかせる。
こめかみに、いつもの鈍い痛みがにじみ始めていた。
石原は何食わぬ顔で息をひとつ深く吸い、D組の教室前を行き来する生徒たちに目を向けた。
大半のラベルは輪郭がはっきりしていて、流れ方も自然だった。
時おり、少しぼやけたり不安定に揺れたりするものもあった。だが、それは一時的な感情の揺らぎにすぎなかった。
時間だけが、少しずつ過ぎていった。
石原のこめかみには、細かな汗がにじんでいた。
そろそろ一度引くべきか、と石原は考えた。
頭痛に加えて、胸の奥に溜まるような重苦しい感覚まで、だんだん無視できなくなってくる。
そのとき――D組の後ろの扉から、一人の男子生徒が出てきた。
痩せぎすの少年だった。制服はきっちりと着込んでいて、手には飾り気のない簡素な水筒を持っていた。
どうやら水を汲みに行くところらしい。
俯いたまま、足早に歩き、ほとんど誰とも目を合わせようとしなかった。
その男子が石原の前方、およそ三メートルほどの位置を横切った瞬間、石原にははっきり見えた。
【朝日守の感情:不安24 &*%$#】
あの黄昏にちらりと見えたものと、まったく同じだった。
男子生徒は、石原の視線に気づいたのかもしれない。
わずかに足を止めたあと、さらに深く顔を伏せ、足早に水飲み場へ続く廊下へ曲がっていった。
石原はすぐに視線を外し、胸の内に湧いたざわめきと、さらに強くなっていく頭痛を押し殺す。
もうそこには留まらず、石原は身を翻し、反対方向の比較的人の少ない階段へと早足で向かった。
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【同日・放課後・生徒会室】
「……以上を踏まえると、対象人物は二年D組の朝日守、男子。その感情ラベルには欠損の特徴が見られ、石原が以前目撃した内容、ならびに“旧校舎の光のにじみ”に関する投稿とも関連があると考えられる」
花野はホワイトボードの前に立ち、抑揚のない声で簡潔に報告していた。
ホワイトボードには、あの投稿メモのコピーが貼られている。
その隣には、石原が手描きした異常ラベル形態の図と、学校の公開情報から調べた朝日守の基本情報――といっても、クラスと名前だけだが――が並んでいた。
「接触方針について」
花野はそう続けながら、緒山へ視線を向けた。
「対象は内向的で、普段からあまり目立たない。生徒会名義で正面から“聞き取り”を行えば、警戒や回避を招く可能性が高い。よって、自然接触を推奨する」
「自然にって?」
立花が首を傾げた。
「石原の観察によれば、対象には黄昏時に旧校舎付近へ向かう習慣がある」
花野はホワイトボードの時間軸を指し示す。
「投稿にあった“光のにじみ”の発生時刻も、黄昏に集中している。したがって、緒山あるいは石原が近い時間帯に旧校舎付近へ“偶然”現れ、自然に接触する機会を作るのが望ましい」
その場にいた全員の視線が、石原と緒山に向いた。
「最初の接触理由としては、落とし物を探している、部活動の場所を下見している、あるいは――」
花野はそこで一拍置いた。
「単に黄昏の景色を見に来た、でもいい」
「それはさすがに無理があるって!」
「わかりました」
緒山は頷き、石原へひとつ視線を送った。もう意図は伝わっている、そんな目だった。
「偶然の出会いを作って、いちばん無難な話題から会話を始める。反応を見ながら、“光のにじみ”とか“色”とか“旧校舎”の話題に少しずつ寄せていく……そういうことだよね?」
「そのとおり」
花野は肯定した。
「初回接触の目的は、あくまで対象と“現象”の関連度を確かめ、現在の状態を見極めることにある。“異能力”や“執念”といった核心に触れる敏感な言葉には、直接触れないこと」
春野が腕を組んだまま言った。
「一回目から結果を急ぐ必要はない。安全で自然、それが最優先だ」
「わかった」
「その……」
立花が手を挙げた。
「もし……もしその人が、本当に心の中でつらい思いをしてるなら……ちゃんと優しくしてあげてください」
その一言で、室内の空気がほんの少しだけやわらいだ。
「うん、ちゃんとそうするよ」
緒山が静かに応じた。その目は、やさしく、それでいて揺るがなかった。
「じゃあ、実行は明日の夕方で。天気予報じゃ晴れだし、景色も悪くなさそうだ」
緒山と石原は、短く目を合わせた。
「……ああ」
「うん、問題ないよ!」
穏やかな日常の下で、善意で編まれた小さな網は、もう対象へそっと広がりはじめていた。
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【夜・石原家】
キッチンから、規則正しい包丁の音が聞こえていた。
熱した油に食材が入る、じゅっと小さな音も混じっていた。
石原が玄関を開けたとき、鼻をくすぐったのは味噌汁のあたたかな香りと、ほのかに甘酸っぱい甘酢の匂いだった。
「ただいま」
「おかえり~。お兄ちゃん、今日は遅かったね! 生徒会の新しい仕事、そんなに気合い入ってたの?」
杏がキッチンから顔をのぞかせた。薄い黄色のエプロンを身につけ、手にはまだフライ返しを持っていた。
口元には笑みが浮かんでいた。
【石原杏の感情:気遣い60、好奇30、疲れ10】
「まあ、そんなところだ」
石原は靴を脱ぎ、鞄を玄関の棚に置くと、まだ鈍く重い痛みの残るこめかみを指先で揉んだ。
午後、図書館で行った二回目の“ラベルスクリーニング”は、範囲がさらに広がっていた。
目的そのものは明確だった――ほかに異常なラベルを持つ者がいないかを探すこと。
だが、感情の入り乱れる人混みの中に長く身を置いたせいで、代償による疲労感のほうが、かえって長く尾を引いていた。
「なんだか大変そうだね」
妹の声が近づいてきた。
気づけば杏は、出来たての甘酢味のスペアリブを皿に載せて、食卓のほうへ運んできていた。
「さっき、美里ちゃんがグループにスタンプいっぱい送ってたよ。“観測隊”、いよいよ出撃だよーって、みんなにエール送ってた」
石原がスマホを取り出して見ると、案の定、生徒会のグループチャットでは立花が猫の応援スタンプや星の絵文字を連投していた。
その下には春野の短い「了解」があり、花野は標準の「頑張る」スタンプをひとつ返していた。たぶん、あれが彼女なりの最大限の熱意表現だった。
緒山は、OKサインをした可愛いウサギのスタンプに一言添えていた。
「明日は“偶然の出会い用アイテム”ちゃんと持っていくね~」
「……みんな、やる気あるな」
石原はグループに短く「うん」とだけ返した。
「だって、前の美里ちゃんみたいな人を助けるためだもんね」
杏は箸を並べながら、少しだけ真面目な声になった。
「お兄ちゃんは、本当に見つけられると思う? あの……“ラベルを見る”やり方で」
「もう一人、かなり可能性の高い相手は見つかってる」
石原は隠さずにそう答え、食卓の席に着いた。
「明日の夕方、緒山さんと一緒に接触してみるつもりだ」
「えっ、そんなに早く?」
杏は少し目を見開いたが、すぐにその驚きを引っ込めた。
こくんと小さく頷いた。
「そっか……お兄ちゃん、本気になるとやっぱりすごいんだね。ちゃんと気をつけてね、あんまり無理しちゃだめだよ」
その視線は、石原のやや青白い顔色と、こめかみを押さえる指先に向いていた。
「わかってる。なんか、俺のほうが弟みたいだな」
杏はくすっと笑って、茶碗を差し出した。
夕食は、静かで、それでいて心地よい空気の中で進んでいく。
杏は学校での出来事をぽつぽつ話した。
たとえば、図書委員会で来週古い本を整理することとか。
それから、クラスで“旧校舎の怪談”に興味を持ってる子がいて、休み時間にひそひそ話していたことも。
「そうだ……」
ふと思い出したように言って、杏は箸で茶碗のご飯を軽くつついた。
「この前……“あの人”を隣町で見たっていうコンビニのおばさんにも、また連絡してみたの。メールの返事は来たんだけど……時間が経ちすぎてて、具体的な特徴はもう思い出せないって」
声は落ち着いていた。
けれど石原には、その目の奥をよぎった一瞬の落胆と、ラベルの中でわずかに濃くなった【疲れ】が見えていた。
石原は少し黙った。
いつものように「無駄なことはするな」と突き放したり、露骨に苛立ちを見せたりはしなかった。
カフェで緒山に言われた言葉と、妹にした約束を思い出していた。
「……お疲れ」
杏の好きな玉子焼きをひと切れ、そっと杏の皿の上に置いた。
「焦らなくていい。ちゃんと寝ろ。手がかりは、そのうち出てくる」
杏は少しだけ目を丸くして、それから兄を見上げた。
「……うん」
すぐに目を伏せて、ご飯をひと口運んだ。
耳のあたりが、ほんのり赤かった。
「急にそういうこと言うの……なんか、くすぐったい」
小さくぼやきはしたものの、彼女の感情ラベルの中では、さっきまでのかすかな疲れが少し薄れ、代わりに【安心】の色が滲んでいた。
食後は石原が皿洗いを引き受けた。
水音が流れる中、テーブルを拭いていた杏が、ふいにまた口を開いた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「もし……明日接触する人が、本当に助けを必要としてて。お兄ちゃんたちがその人を助けられて、その人と、その人にとって大事な人が……今よりもう少しでもいい結末にたどり着けるなら……」
そこで一度、言葉が途切れた。
声はとても小さかった。
「それって、きっと……すごく素敵なことだよね」
その言葉の先にある、言い切れなかった願いまで、石原には伝わっていた。
洗い終えた皿から、雫が陶器の縁を伝って落ちていくのを見つめながら、
「……そうかもな」
石原は静かに答えた。
自分にそれができるのかどうか、石原にはわからなかった。
それに、“より良い結末”というものが、いったいどんな形をしているのかも。
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【六月二十六日・水曜日・夕方】
旧校舎は、一日の終わりが沈殿したような静けさに包まれていた。
本校舎の賑わいとはまるで別世界で、廊下は薄暗く、空気には古びた木と埃の匂いが混じっている。割れた窓の隙間を抜ける風が、ときおりかすかなうなり声のような音を立てていた。
石原は三階東側の廊下の陰で、閉ざされた教室の扉に背を預けていた。
“環境確認”のために十分ほど早くここへ来ていて、速くなりすぎた鼓動をどうにか落ち着かせようとしている。
視界の中を動く人影はほとんどなく、感情ラベルも拍子抜けするほど少なかった。
聞こえてくるのは、遠くからかすかに届く部活動の声くらいだ。
そのおかげで“ノイズ汚染”の負担はかなり軽くなっていた。
けれどそのぶん、胸の奥でもうひとつの高鳴りが、かえってはっきりしていく。
それは、これから始まる“芝居”への緊張と、もう一人の“異常を持つかもしれない相手”に間近で接することへの、うまく言葉にできない複雑な予感だった。
石原は無意識に手を上げ、指先で左胸のあたりに触れる。
やがて、階段のほうから足音が聞こえてきた。
軽くて、聞き慣れたリズムだった。
緒山が廊下の曲がり角に姿を見せる。
手には年季の入った文庫本を二冊、肩には小さな布バッグ。頭には、どこか文芸めいた雰囲気のキャスケットまで被っていた。
石原を見つけると、彼女は目を細めて、そのまま小走りに近づいてきた。
「お待たせしました、先輩~」
声は少しだけ抑えられていたのに、空っぽの廊下では妙に澄んで響いた。そこには、わざと潜めたみたいな弾みも混じっている。
【緒山朋奈の感情:期待55#@$%#】
切り替えは早かった。
それに……どうやら、本当に少し楽しんでいるらしかった。
石原は頷く。
だが視線は、どうしても今日の彼女の格好に引き寄せられた。
制服ではあった。けれど、いつもより少しだけ細部にまで気が配られている。
シャツのいちばん上のボタンが外されていて、襟元のリボンも普段よりきれいに整えられていた。全体からは、肩の力が抜けたような、それでいて清々しい空気が漂っていた。
「これが“道具”ね」
緒山は手にしていた文庫本を軽く揺らした。詩集らしい。
「文学部の先輩から借りてきたんです。たまにここへインスピレーションを探しに来るって言ってたから、“うっかり置き忘れた”とか、“うっかり探しに来た”とか、そういう流れにもできるでしょ?」
「……ああ」
石原の返事は相変わらず短かった。
自分でも、どこに目を置けばいいのかわからなくなっていた。
「じゃあ、作戦の最終確認ね」
緒山が少しだけ距離を詰め、声をさらに落とす。
「相手は二年D組の朝日守。五時半くらいにこの廊下を通って、廃音楽室のほうへ向かうはず。
そのとき私たちは、ちょうどあっちから出てきたみたいな感じにするの」
そう言って、彼女は石原の表情をそっと覗き込んだ。
「理由づけは、私が落とした詩集を探しに来たってこと。先輩は、私に引っ張られて手伝いに来たってことでもいいし……ただ付き合ってくれただけでもいい」
それから、軽く瞬きをした。
「話しかけるのは私がやる。先輩はできるだけ自然にしてくれればいいし、無理にたくさん喋らなくても大丈夫。
それで――」
彼女はそこでいったん言葉を切った。
「花野の分析と、先輩の観察だと、朝日くんってかなり内向的で、警戒心も強いんだよね。
普通の“偶然の遭遇”だけだと、すぐ距離を取られるかもしれない」
石原の鼓動が、一拍ぶんだけ変に跳ねた。
次に彼女が何を言うのか、なんとなくわかってしまったからだ。
緒山は小さく息を吸って、自分を落ち着かせるようにしてから、澄んだ目でまっすぐ石原を見た。
「だから、私たち……デートしてるふりをしましょう」
言い方はあまりにも自然だった。
石原は、頬が一気に熱を持つのを感じた。
「そのほうが、“わざと仕組まれてる”って疑われにくいし。だって……こんな場所で、わざわざ誰かを張ってるなんて思わないでしょ?」
「……わかった」
理屈の上では、たしかに通っていた。
ただ、それを実行する側の難易度は、石原にとって試験どころではなかった。
「そんなに緊張しなくていいですよ、先輩」
緒山はふっと笑った。
その笑みには少しだけ悪戯っぽい聡さが混じっていて、それでもちゃんと、彼を励まそうとしているように見えた。
「先輩は私に合わせてくれればいいから。ほら、この前、喫茶店でやったみたいに」
そう言って、彼女はごく自然に石原の襟元へ手を伸ばした。
別に乱れてもいない襟を、軽く整えた。指先が不意に首筋をかすめ、ひやりとした感触が走っる。石原の身体がぴくりと強張った。
「あと、これも」
その反応には気づいていないのか、緒山は小さな布バッグから白いイヤホンを取り出した。
片方を自分の右耳に入れ、もう片方を石原へ差し出した。
「これつけてたほうが、それっぽいでしょ。中にね……落ち着くピアノ曲を入れてあるんです。もしかしたら、少しはリラックスできるかも?」
石原は、まだ彼女の体温が残っている気がするイヤホンを受け取ると、少し迷ってから左耳に差し込む。
音楽はとても小さかった。
小さすぎて、それが旋律なのか、それとも自分の心臓の音なのか、ほとんどわからないくらいには。
緒山は腕時計を見た。針はちょうど五時半を指していた。
「そろそろ“現場”に行きましょう」
そう言って、彼女は廊下の先――廃音楽室のほうへ軽い足取りで歩き出した。
石原もあとに続く。二人のあいだで短く垂れたイヤホンのコードが、見えない結び目みたいに二人を繋いでいた。
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音楽室の扉は半開きになっていた。
中には埃をかぶった古い机や椅子、それに使われなくなった楽器のカバーが積み上がっている。
高い位置の、汚れた窓から差し込む夕陽が、埃をかぶった床にくすんだ光の筋をいくつも落としていた。
緒山は窓辺まで歩いていき、外を確認するように視線を向けた。
そのままそこに立つ姿は、髪の先にいたるまで静かに佇んでいる。
廊下の奥で、足音が一度だけ止まる。
何かを察したような、ほんのわずかな間があった。
それからまた、こちらへ近づいてきた。
【緒山朋奈の感情:緊張46%&*】
――来た。
緒山は声にせず、口の動きだけでそう告げた。目がきらっとしていた。
石原はすぐに意識を研ぎ澄ませる。
廊下に響く足音は、埃に溶け込んでしまいそうなほどかすかだ。
それでも確かに、一歩ずつこちらへ向かってきていた。どこか急いでいるような足取りだった。
そのとき、緒山が小さく息を吸い、そっと手を伸ばしてきた。
石原の脇に下ろしていた手を、静かに包み込む。
石原の手はびくりと跳ねた。反射的に引こうとしたが、彼女はしっかりと握ったまま離さなかった。
見上げてくるその表情が語っていた。――私と計画を信じて、と。
石原は動きを止めた。
すると緒山の指先がそっと力をこめるようにして、彼の手のひらへなじんでいく。
妙な感覚が腕を伝って広がっていった。
半身がわずかに痺れるようで、イヤホンの奥で流れていたはずのピアノの音まで遠のいてしまう。
緒山はそのまま石原の手を引き、音楽室の扉をそっと押し開けた。
まるで今しがた中をひととおり見終えて、これから出ていくところだったかのように自然な足取りだった。
ちょうどその瞬間、数歩先に――朝日守がいた。
細身の男子生徒は、目に見えて動きを止めた。
この時間、この場所で教室から誰かが出てくるとは思っていなかったのだろう。
いっそう深く顔を伏せ、身体を少し横へ逃がすようにした。
「あ、ごめんなさい!」
緒山が絶妙なタイミングで、やわらかく声を上げた。
石原の手は離さないまま、もう片方の手をそっと胸元に添え、唇をかすかに結ぶ。
「外に人がいるって気づかなくて……もしかして、邪魔しちゃったかな?」
そう言いながら、握っている石原の手に、指先だけでもう一度小さく力を込めた。
石原はその合図を受け取った。
手に残る感触をどうにか意識の外へ押しやり、顔を上げて朝日守を見る。できるだけ自然に見えるように。
「……いや、別に」
声は低かった。
朝日守はほんの一瞬だけ目を上げ、繋がれた手と、片耳ずつ分け合ったイヤホン、それから石原のぎこちない表情をまとめて視界に入れたあと、すぐにまた目を伏せた。
【朝日守の感情:警戒40#@《%》^】
その感情ラベルは、石原が以前ちらりと見たときと同じだった。
そのまま去ろうとした彼の足を、緒山が引き止める。
「あの……君も、ここに“あれ”を見に来たの?」
その言葉に、朝日守の身体がはっきりと強張った。
「……何を?」
さっきよりも低い声でそう返し、彼は二人を見た。
緒山はふっと笑うと、今度は石原の手を放し、その代わりに腕にそっとしがみつくようにした。
さっきよりも、さらに距離が近かい。
彼女が口を開くたび、吐息が首筋をかすめるのがわかった。
「最近、このへんの窓辺で、黄昏どきになるとすごくきれいな光のにじみが見えるって聞いたの。夢みたいだって」
そう言って、いったん石原を見上げ、それからまた朝日守へ視線を戻す。
その目はただ純粋に、学校の怪談めいた噂話に興味を持っているようにしか見えなかった。
「私たちもそれを聞いて、ちょっと気になってこっそり見に来たんだけど……今日はまだ見えなくて。君なら何か知ってるのかなって思って」
声はふわりと軽く、本当にその手の噂にわくわくしているみたいだった。
石原も背筋を伸ばし、合わせるように小さく「……ん」と相槌を打った。
視線だけは、真っ直ぐ朝日守へ向けたまま。
朝日守はその場に立ったまま、さらに顔を伏せた。
声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
「……知らない。たぶん……光の加減だと思う」
少し間を置いてから、ぎこちなく付け足した。
「俺は……ただ……通りかかっただけだから」
そう言い終えると、それ以上問いかける隙を与えることもなく動き出した。
壁際をなぞるように二人の横をすり抜けていく。
すれ違いざま、肩がドア枠にぶつかって小さくない音を立てたが、それでも振り返りはしなかった。
そのまま彼は足早に廊下の向こうへ去り、背中はすぐに階段の曲がり角へ消えた。
足音が完全に遠ざかるまで、石原と緒山はその場に立ち尽くしていた。
やがて廊下は、また元の静けさを取り戻す。
緒山が小さく息をつき、石原の腕から手を離した。
声色も、すぐにいつもの真面目な調子へ戻っていった。
「……警戒心、かなり強いですね。回避傾向もはっきりしてる」
小さくそうまとめて、眉をわずかに寄せた。
「私の問いかけには明らかに反応してた。特に“光のにじみ”の話を出したとき、全身がぴんと張ってた。否定はしてたけど……反応だけでも十分ですよ」
石原は頷いた。
心拍はまだ完全には戻っていなかった。腕には、さっきしがみつかれていたあたりの温度が、まだ残っている気がする。
「感情ラベルも……かなり不安定だった。半分くらいは、ずっと文字化けしたままだった」
「それに、あのまま向かった方向も、主校舎や校門じゃなかった。旧校舎のもっと奥……別の行き先があるのか、ただ私たちを避けたかっただけか」
「……ああ」
緒山は顔を上げる。
もういつもの笑みに戻っていたが、頬の赤みだけはまだ少し残っていた。
「初回接触としては十分じゃないですか。“現象”との関連はかなり濃そうだし、状態も不安定。それが確認できただけでも、今日の目的は達成しましたね。お疲れさま、先輩」
そう言って、彼女は笑いながら軽くまばたきをひとつした。
「じゃあ、戻りましょうか。イヤホン、返して?」
差し出された手を見て、石原はようやく自分がまだ片耳にイヤホンをつけたままだったことに気づいた。
中の音楽は、もうとっくに止まっている。
あわてて外して渡した。
指先がかすかに触れ合う。
「ありがと」
緒山は受け取ったイヤホンのコードを丁寧に巻き取り、バッグへしまった。
二人は肩を並べて旧校舎を出た。
外の空は藍と橙が溶け合うような色をしていて、吹いてくる風には夏の夕暮れらしい、かすかな涼しさが混じっていた。
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―― 空白の刹那 ――
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【六月二十七日・木曜日・昼休み】
【生徒会室】
立花はスマホを手にしたまま、どこか微妙に浮き立ったような顔で口を開いた。
「えっと……佐藤からちょっと聞いた話があるんだけど、たぶん今わたしたちが調べてることと関係あるかもしれないんです」
その言葉に、みんなの注意がそちらへ向いた。
「佐藤が言ってたんだけどね、中等部三年に“朝日葵”っていう女の子がいて、体の事情で長期欠席が続いてるんだって。ほとんど学校には来てないみたい」
「その子を知ってる子たちの話だと、すごく静かな子で……でも、夜になると、みんなを誘って星を見るのが好きだったらしいの」
立花はトーク履歴を見ながら続けた。
「それで、二、三週間くらい前かな。佐藤が病院の近くのコンビニでバイトしてたとき、たまたまその子を見かけたんだって。車椅子に乗ってて……背が高くて細い、うちの高等部の制服を着た男の子が付き添ってたって」
春野はすぐに反応した。
「苗字、合うな」
花野はあらためて学生の基礎情報を確認した。
「朝日守。登録情報にあった『家庭面で要注意』は、この妹を指していると見ていい」
「面倒を見る必要のある妹がいるってわかったのは大きいね。こっちとしても、接点の作り方が一つ増える」
緒山は両手を組んで机の上に置き、考え込むように言った。
「でも、生徒会って名目でいきなり、長期で休んでる子の家族まで気にかけるのって、理由として十分かな。
逆に踏み込みすぎだって思われたり、調べられてるって警戒されたりしませんか?」
「そこはちゃんと考えないとな」
春野は頷き、少し考えてから口を開いた。
「こういうのはどうだ。生徒会の“長期欠席生徒とその家庭への支援”っていう通常のフォローの名目で、先生を通して正式に連絡を入れる。
制度の中での定期的な気遣いって形なら、理由としても通るし、向こうの抵抗感も少しは下げられるはずだ」
「それなら可」
花野が短く賛同した。
「そのあと、どうするの?」
立花が手を挙げた。
「接触したあとも、まだ確かめたいことはある。特に、あの“光のにじみ”が本当に彼に関係してるのかどうか。もし関係してるなら……それが何なのか、どうしてそんなことをしているのか」
春野は石原と緒山を見る。
石原は黙って話を聞いていた。
頭に浮かんでいたのは、あのとき見た朝日守の欠けた感情ラベルだった。
それほど心を注がざるを得ない妹がいるのなら、あの重い【不安】にも、少しは輪郭が与えられる気がした。
けれど、ラベルの中に混じっていたあの異常な乱れ――あいつの中にある執念は、いったい何に向いているのか。
「プライバシーを侵さない範囲で、もう一度だけ近くから様子を見る必要がある」
春野の声が、石原の思考を引き戻した。
「目標は、旧校舎の現象が本当に彼に由来するのかを確かめること。それと、今の彼の状態をできるだけ正確に把握することだ。
こっちが介入したほうがいい状況なのかどうか、その判断材料が必要になる」
石原と緒山は一度だけ視線を交わし、小さく頷いた。
「気をつけるよ」
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【六月二十八日・木曜日】
さらに観察を進めると決めた翌日、もっと直接的なきっかけが訪れた。
昼休み、春野が報せを持ってきた。
「朝日守の担任に連絡を取って、朝日葵さんのお見舞いに行きたいって伝えてみた。
向こうの保護者……たぶん、電話に出たのは朝日本人だな。最初はかなり迷ってたけど、担任の先生に説得されて、なんとか了承はもらえた」
そこで一度言葉を切ってから、続けた。
「ただし、“短時間だけ”だ。それと、できるだけ葵さんの休養を妨げないように、って条件つきだった」
その日の放課後、石原と緒山は生徒会の代表として、励ましの気持ちを込めた白い雛菊の小さな花束と、十代向けの読みやすい本を何冊か持って、朝日葵のいる市立総合病院へ向かった。
通された病室は、明るい個室だ。
想像していたよりも整っていて広かった。けれど、消毒液特有の淡い匂いが、そこにはたしかに漂っていた。
窓は半分だけ開いていて、薄い青のカーテンが風に揺れていた。
朝日葵は、上体を起こした病床にもたれていた。
想像以上に小さく、痩せている。
白い肌は透けるようで、亜麻色の長い髪が肩にやわらかく流れていた。
けれど、その目だけはひどく明るかった。
琥珀色の瞳は二人を見た瞬間、すぐに三日月みたいに細められた。
「お兄ちゃんの学校の生徒会の先輩たちですか? 来てくれてありがとうございます!」
明るく澄んだ声だった。
楽しそうに手まで振っていて、病人にありがちな陰りは少しも感じられなかった。
【朝日葵の感情:喜び85、好奇15】
その感情は純粋で、どこにも欠けたところのない、澄んだ泉みたいだった。
「こんにちは、葵ちゃん。私は緒山朋奈、こっちは石原久希」
緒山は花と本をベッド脇の棚に置いた。
「急に来ちゃって、休む邪魔になってなかった?」
「全然平気! 私、普段ほんとに退屈してるから」
葵は好奇心いっぱいの目で二人を見ていた。
とくに石原のほうに、その視線がほんの一瞬だけ長く留まる。
「お兄ちゃん、あんまり友達連れてこないんだよね……あ、もう、そんなところに立ってないで」
朝日守はドア枠の脇の陰に立っていた。
学校で見たときより、明らかに張り詰めている。両手は不自然に身体の横へ垂れたまま、視線も伏せられていた。
けれど、葵が声を出すと、すぐに顔を上げて妹を見た。
【朝日守の感情:緊張24#$%&】
「……生徒会の人たちだ」
朝日守は妹に向かって小さくそう言い、それから二人をちらりと見た。
「……あの日の、あのカップルか」
「あはは、ほんとに縁があるね」
緒山はその流れのまま、石原の腕にそっと手を回した。石原も合わせるように、少しだけ距離を詰めた。
見舞いの時間は短く、そして穏やかに流れていった。
会話を主に回していたのは緒山だ。
病状そのものには触れず、学校であったちょっとした出来事や、もうすぐ来る夏祭り、それから気楽に話せる話題を選んでいた。
葵は夢中になって聞き、ときどき鈴のような笑い声を立てた。
壁に貼られた星空のポスターや惑星の写真を指さしながら、楽しそうにあれこれ語っていた。
「私、こういうの見るの大好きなんです! あんまり外には行けないけど、見てると、すごく遠いところまで行けたみたいな気持ちになれるんです」
そのあいだ、朝日守はほとんど何も話さず、そばに立っていた。
ただ、葵が二度ほど咳をしたり、少しでも疲れた顔を見せたりすると、すぐに半歩ぶん前へ出て様子を見る。
緒山が白湯を差し出した。
「気をつけて、ちょっと熱いかも……」
朝日守は考える間もなくそのコップを受け取り、葵に飲ませた。
葵は「ちょっと熱いよ」と眉を寄せたものの、すぐにまた緒山のほうへくっつくように身を寄せた。
十五分ほどして、緒山はちょうどいい頃合いで席を立った。
「今日は来てくれてありがとう、緒山お姉さん、石原お兄さん!」
葵は目をきらきらさせたまま、朝日守のほうを見た。
「お兄ちゃん、先輩たち送ってきてよ。看護師さんたち、私が勝手にベッドから下りると怒るんだもん」
朝日守は黙って頷いた。
病院の静かな廊下を、三人はゆっくり歩いていく。
「葵ちゃん、ほんとに明るい子だね」
緒山が最初に沈黙を破った。どこか、まだ話し足りないみたいな口調だった。
「部屋の星空のポスターも、すごくきれいだった」
朝日守の足がわずかに止まった。
それでも返ってきたのは、短い「……ああ」だけだ。
「星空、すごく好きなんだね」
緒山は、ただ雑談を続けるみたいにそう言った。
今度は、さっきよりも長い沈黙が落ちる。
薄暗い病院の照明が、俯いた彼の顔に落ちていたが、表情まではよく見えなかった。
しばらくしてから、やっと口を開く。
「……うん。好きなんだ」
そこまで言って、彼はほんの少しだけ笑ったように見えた。
そんな顔を見たのは、初めてだった。
石原は彼の斜め後ろを歩きながら、その変化をはっきり見ていた。
緒山が“星空”の話をした瞬間、朝日守の、ただでさえ欠けた感情ラベルが激しく揺れたのだ。
それ以上、二人は何も聞かなかった。
病院の入口で礼儀正しく別れを告げると、朝日守はすぐに中へ戻っていく。
帰りの電車では、石原と緒山はほとんど言葉を交わさなかった。
窓の外では、街の明かりが流れていた。
緒山は車窓に映る自分の顔を見つめ、それからガラスに映り込んだ星の光にふと目を留めた。
指先でそれに触れようとしてみた。
けれど、返ってきたのは冷たいガラスの感触だけ。
その指先がわずかに止まってから、彼女は小さな声で言った。
「先輩。朝日くんの中にある“執念”って……やっぱり、妹さんと関係してるのかな」
石原は小さく頷いたが、それ以上は何も言わなかった。
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【六月十九日・金曜日】
放課後のチャイムが鳴り終わったばかりの廊下で、石原は約束どおり緒山と合流した。
言葉は交わさなかった。
視線だけ合わせて、そのまま自然に歩き出す。前後に距離を取りながら、旧校舎のほうへ向かった。
校内にはまだ昼の名残のざわめきが残っていたが、旧校舎に近づくにつれて、音は次第に薄れていった。
二人が選んだのは、三階東側の突き当たり。
壊れた机や椅子が積まれたくぼみの陰で、ちょうど目的の物置を斜めから見下ろせる位置だった。
扉の上にある小さな窓から、わずかに中の様子がうかがえた。
静けさの中で、時間だけがゆっくりと流れていく。
石原は呼吸を整えながら半ば目を閉じた。
隣では緒山がわずかに身を乗り出し、息遣いまで抑えて扉の一点をじっと見つめていた。
――来た。
廊下の奥に、あの細い影が現れた。
朝日守は顔を伏せたまま、音を立てずに歩いてくる。
扉の前で一瞬も迷わず、鍵を開け、滑り込むように中へ入り、すぐに閉めた。
【朝日守の感情:不安37*#$%^】
前に見たときよりも、ラベルの乱れはひどくなっていた。
数分の沈黙のあと、二人は窓越しに中をのぞいた。
物置の中央、わずかに空いたスペースに、朝日守が立っていた。
高い窓から差し込む夕日の残光が、横顔をかすめる。まつげの影が落ちるほどに、うつむいていた。
表情はなく、
何もないような、空白に近い静けさだけがそこにあった。
やがて、両手がゆっくりと持ち上がる。
掌を向かい合わせにして、目を閉じた。
深く息を吸い込んだ瞬間、空気が変わる。
張り詰めるような集中が、一気に高まった。
石原の視界で、あの感情ラベルが激しく揺れた。
次の瞬間――
わずか二、三秒のうちに、直径およそ三十センチの小宇宙の天の川が、彼の両手の間に燦然と広がった!
星々は点滅し、星の塵が流れ、時折流星のような軌跡が駆け抜ける。
幻影は精巧で、夢のような柔らかく純粋な光を放ち、俯いた朝日守の顔を照らしていた。
その光が広がった瞬間――
彼の表情から、あの重たい陰りが消えた。
目を閉じたまま、抑えきれないように口元が緩む。
その笑顔は、顔全体を一瞬で変えてしまうほど明るく、まるで別人のようだった。
【朝日守の感情:#*$@%-?】
石原は息を止めた。
あまりにも強い感情の噴出。
同時に、冷たい直感が胸に落ちた。
この光の代償は、目の前にはっきり出ていた。
幻が続くほどに、朝日守の顔色はみるみる白くなり、力を失っていった。
視線を横へ流す。
緒山も、完全に動きを止めていた。
口元に手を当てたまま、目を大きく見開いていた。
その瞳に、星と、星に照らされたあの笑顔が映っている。
声はなかった。
ただ、指先だけがかすかに震えていた。
幻は一分も続かなかった。
風に散るように、光は急速に薄れ、消えていく。
同時に、朝日守の笑みも消えた。
彼は一歩よろめき、近くの古いイーゼルに手をつき、肩で息をしながら、顔を伏せた。
頬を軽く叩き、どうにか体勢を立て直すと、そのまま部屋を出ていく。
石原はそっと緒山の袖を引き、二人は音を立てないようにその場を離れ、旧校舎を抜けた。
主校舎の裏手、小さな通路に出てから、ようやく足を止める。
夕方の風が吹き抜けた。
少しだけ冷たかった。
言葉のない時間が続く。
緒山はゆっくりと振り返り、暮れかけた空の中に沈む旧校舎を見つめた。
その表情は、さっきとは違っていた。
「……あそこに、あんなふうに通ってるのって」
ぽつりと、独り言のようにこぼした。
「人を避けたいだけでもないし……ああいう力を、ただ試してるって感じでもないですよね」
風が髪を揺らし、目元を隠した。
「たぶん、あそこが一番静かで、誰にも邪魔されない場所で……あの“光”を作ってるんだと思うんです。じゃあ、それを見せたい相手って……」
言葉が、さらに小さくなった。
「学校にほとんど来られない……葵ちゃんのため、なのかな」
石原は隣に立ったまま、すぐには答えなかった。
頭の中では、さっきの光景が何度も繰り返されていた。
あの輝きと、あの笑顔と、そのあとに残った色のない顔。
「……ああ」
短く、それだけ返した。
胸の奥が、重く沈んでいく。
夕闇がゆっくりと広がり、二人の姿を飲み込んでいった。
【あとがき】
第十話をお読みいただき、ありがとうございます!
体育祭を経て、少しずつ日常を取り戻し始めた彼らですが――
その裏では、新たな“異常”と向き合う準備が静かに進み始めています。
本話では、能力の代償や法則性、そして新たな対象の存在など、
これまで断片的だった要素が少しずつ繋がり始めました。
同時に、石原自身の選択――「それでも関わるのか」という覚悟も、
よりはっきりと形になってきています。
そして、次に彼らが踏み込むのは、
“願い”そのものに深く関わる物語です。
次回、第十一話 【笑顔――星明かりの涙 】
誰かのために願うことは、どこまで許されるのか。
その願いが、自分自身を削るものだったとしたら――。
もしこの作品を気に入っていただけましたら、
ブックマークや⭐評価で応援していただけると、とても励みになります。
それでは、次回もぜひお楽しみに!




