第九話
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駅を出て少し歩いたところで、耳障りな声が割り込んできた。
「あれ、、誰かと思ったら」
石原は反射的に顔を向けた。
コンビニの前から、三人の女子が出てきた。
全員、他校の制服を着ていた。その中に、見覚えのある顔があった。
あの時、妹をいじめていた連中だと、石原はすぐに気付いた。
石原は思わず指をぎゅっと握りしめる。
「あっ、シスコン先輩じゃん。今日は趣味変えたの?」
先頭の女子が笑いながら言い、緒山に視線を向けた。
「こんな可愛い彼女、金で買ったんじゃないの?」
別の女子が続けた。
「この前さ、お前の妹ボコったとき、この子いたっけ?」
石原の息が一瞬止まった。
あの記憶が一気に蘇ってきた――靴箱に詰め込まれたゴミ、引き出しに入れられた脅迫状、妹の泣き顔。そして最後に言われた言葉――
「また出しゃばったら、次は誰になるか分かんないよ?」
無意識に、石原は一歩横に動き、緒山を守ろうとする。
だが、そのとき、緒山の視線が自分の顔に向けられているのを感じた。
「行こう」
石原はそう言った。
歩き出そうとした瞬間、緒山は突然一歩動いて、彼の前に立った。
「私、先輩の彼女だけど」
彼女は小さな声で言ったが、その言葉には確かな力がこもっていた。
「文句ある?」
三人は一瞬黙り込んだ。
次の瞬間、耳障りな笑い声が上がった。
「お嬢ちゃんさ、そいつ、ヤバいやつだよ?」
話しているうちに、三人は立ち上がった。
またいつもの悪癖が出て、緒山に「一発、教えてやる」とでも言わんばかりだ。
だが立ち上がったその瞬間、何かにつまずいたかのように足を取られ、全員がごっそりと地面に倒れた。
石原が怪訝に思う間もなく、彼にはまた微かなめまいが訪れた。
しかしそれはすぐに消え去った。
三人が罵声を浴びせながら助け合って起き上がる隙を見て、石原は緒山の手首を掴んだ。
「行こう」
緒山は何も言わず、彼に引かれるままその場を離れた。
通りを抜け、泉方橋まで来たところで、ようやく彼の手をそっと振りほどく。
石原は歩みを止め、振り向かなかった。
橋の下を流れる川が夕陽に照らされて光っていた。
石原は欄干に手をついて、荒く息を吐く。
さっきの言葉がまだ耳の中で響いていた。
「そいつ、ヤバいやつだよ」
(分かってる)
(ずっと前から)
「……先輩」
緒山の声が横から聞こえてきても、石原は動かなかった。
彼女はそれ以上、言葉を続けなかった。
次の瞬間、すぐそばでかすかな物音がした。
石原が咄嗟に視線を向けると。緒山が欄干に登っていた。
「何してるんだ!?」
彼女は振り向いて、笑顔を見せた。
「心の中に溜まってるものがあるならさ――ここで吐き出してみたら?」
そして、彼女は欄干から手を離し、そのまま後ろへ身を倒した。
「緒山――!」
石原が駆け寄った時には、もう間に合わなかった。
どぼん、と水音が響き、水しぶきが高く跳ね上がる。
石原はほとんど反射的に石の斜面を駆け下り、靴を脱ぐ暇もなく川に飛び込んだ。
川の水は膝を越え、腰まで達していた。
石原は緒山の腕を掴み、必死で水から引き上げる。
「お前、頭おかしいのかよ!」
彼の声は震えていた。
「泳げもしないのに、なんで川に飛び込むんだ!」
緒山は水浸しになった体を引っ張られても、まだ笑っていた。
「大丈夫だよ、ちゃんと泳げるし……こういうの、何回もやったことあるから」
「何回もやったことある?!」
石原は彼女を岸に引き上げ、肩を掴んで全身をざっと確かめた。
傷はない、溺れてもいない。ただ、顔色が少し悪く、唇がわずかに震えていも。
石原はほっと息をついたが、同時に怒りが込み上げてきた。
だが彼が口を開くより先に、緒山が先に笑いながら「愚痴」を言った。
「先輩、どうしてそんなに慌ててるの?実を言うと、さっき水温を測ってきたばっかりで、ちょうど先輩を誘って一緒に泳ごうかなって思ってたのに~」
だが石原は、彼女の話に乗ることはしなかった。
「お前、頭おかしいのか? もしものことがあったらどうするんだよ? もし俺が間に合わなかったら――」
「先輩」
緒山が彼の言葉を遮る。
彼女は顔を上げ、彼を見つめた。
夕陽が彼女の濡れた顔を照らし、その瞳には輝きがあった。
「さっき、私のことだけ心配してたんじゃない?」
石原は言葉を失った。
「さっきのあいつらの言葉、今はもう思い出せないでしょ?」
彼女は軽く、確かめるように言う。
石原は口を開けたが、言葉が出なかった。
――思い出した。さっきの数十秒、頭の中にはひとつのことしかなかった。
彼女が飛び込んだ、助けなきゃいけない、それだけだった。
あの嘲笑も、あの記憶も、「そいつ、ヤバいやつだよ」って言葉も――全部、水に流されて消えていった。
ただ目の前には、びしょ濡れで、それでもバカみたいに笑っている彼女だけが残っていた。
「……お前、頭おかしいのか?」
石原はもう一度そう言ったが、今度は声がずっと小さくなっていて、どこか呆れたような響きが混じっていた。
「かもしれないね」
緒山は笑いながら答えた。
そして彼女は、突然背伸びして――額を彼の額に軽く押し当てた。
石原は固まった。
彼女の額は少し冷たく、湿った髪が彼の顔に触れた。
「わ、びしょびしょだ――」
彼女は一歩後ろに下がり、満面の笑みで言った。
「だって、杏ちゃんがくれた漫画ではさ、男の子がこうやって好きな子が熱あるか確かめるんだって! 先輩、私のことちゃんと気にかけてくれてる?」
【緒山朋奈の感情:喜び37+@$¥%&】
石原は彼女の笑顔を見て、胸の中でずっと縮こまっていた何かが、ほんの少しだけ解けたような気がした。
石原は、この学校の誰かと、もう二度と関わることはないと、一度は思っていた。
でも、彼女は――ほんの二日しか経っていない自分のために、川に飛び込んでまで、少しでも楽にさせようとしてくれた。
(こいつ、本当に頭おかしいのか……?)
「……送ってく」
石原は顔を逸らしながら言ったが、足は動かなかった。
石原の指が、わずかに動く。
五月なのに、彼はTシャツ一枚しか着ていなかった。彼女に貸せる上着もなかった。
言いたいことはあったが、結局言葉が喉に詰まってしまう。
緒山は首を傾げて彼を見た。
それから自分の濡れたスカートに目を落とし、もう一度彼の硬直した横顔を見た。
「先輩」
彼女は突然、笑いを含んだ声で言った。
「もしかして、私に服貸そうとして――でも一枚しかないって気づいた?」
石原の肩が少しだけ固まった。
「ふふっ」
緒山は口を押さえて笑った。
「先輩、可愛い!」
「……早く行こう」
「じゃあ――」
彼女は声を少し引き延ばして、楽しそうに目を細める。
「服、交換しよっか?」
石原の顔が一瞬で赤くなった。
「お前、濡れたままだと風邪引くぞ!」
彼はやっと声を絞り出したが、いつもより明らかに声が高くなっていて、彼女を見ることもできなかった。
緒山は声を上げて笑った。
「分かった、分かった、冗談ですよ」
彼女は濡れた髪をまとめながら一歩前に進み、振り返って言った。
「早く行こ。風邪ひいたらダメだよ――そういうのは先輩が言うセリフでしょ?」
石原は彼女の小走りの後ろ姿を見つめた。
夕陽が彼女を照らし、濡れたスカートが揺れていた。
ふと、自分の心配がまるで彼女に見透かされているように感じた。内側まで、全部。
彼は急いで追いかけ、彼女の隣を歩いたが、ずっと黙っていた。
103号室の前に着いた時、緒山は足を止め、振り返った。
「先輩、送ってくれてありがとう」
石原は軽くうなずく。
「明日ね」
「うん」
彼女はドアを開け、また顔を出して言った。
「そういえば、先輩――さっきのは告白じゃないですからね!」
そう言って、ドアを閉める。
石原は、ドアを見つめ、静かに息をついた。
石原は、おかしな女の子を知ってしまった。
川に飛び込んで、たった2日しか会っていない自分を少しでも楽にさせようとした女の子を。
彼は覚えていた。
濡れたスカートも、首を傾げて自分を見た顔も、「服、交換しよっか」と言ったときのあの瞳の輝きも。
(緒山さん……)
石原の唇がわずかに動き、かすかな言葉が漏れた。
「ありがとう……」
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石原はベッドに横たわり、ぼんやりと天井を見つめていた。
今日は、本当にいろいろあった。
橋の上。林の中。電車の中。それから、川辺――
目を閉じると、あの、全身びしょ濡れのまま笑っていた女の子が浮かんでくる。
彼女は石原のために川に飛び込んだ。
濡れたスカートのまま石原の隣を歩き、首をかしげて、まるで心を見透かすみたいに――その姿が、頭から離れなかった。
それから石原は、もう一つの疑問を思い出した。
どうして彼女が能力を使うたびに、自分だけが体調を崩すんだ?
あの日、橋の上の出来事を、誰も何も覚えていなかった。
今日の昼も、周りは誰も時間が止まったことに気づいていなかった。
覚えているのは、石原だけだった。反応するのも、石原だけだった。
「どうして……俺なんだ?」
月明かりがカーテンの隙間からこぼれ、床にやわらかく落ちていた。
彼は寝返りを打ち、ぼんやりと考える。
あの女の子、いったい何者なんだろう。
どうして橋の上にいたんだ?
どうして林の中にいたんだ?
どうして俺の家の下に住んでるんだ?
こんな偶然が重なって、まだ偶然で済むのか?
答えはわからない。
でも、なんとなく感じていた。
何かが少しずつ変わり始めている気がした。
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石原はまだ知らなかった。
少し間の抜けたようにも見えるその笑顔の裏に、たくさんの秘密が隠れていることを。
そして彼と彼女を結ぶ、「偶然」と呼ばれる一本の糸が、見えない誰かの手によって、少しずつ引き寄せられ、張り詰め始めてことを。
そして、「どうして俺なんだ?」というその答えを、彼はすぐに知ることになる。




