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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二章 出会い――彼女の感情だけが、読めない(2)
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第九話

---


駅を出て少し歩いたところで、耳障りな声が割り込んできた。


「あれ、、誰かと思ったら」


石原は反射的に顔を向けた。


コンビニの前から、三人の女子が出てきた。

全員、他校の制服を着ていた。その中に、見覚えのある顔があった。


あの時、妹をいじめていた連中だと、石原はすぐに気付いた。

石原は思わず指をぎゅっと握りしめる。


「あっ、シスコン先輩じゃん。今日は趣味変えたの?」


先頭の女子が笑いながら言い、緒山に視線を向けた。


「こんな可愛い彼女、金で買ったんじゃないの?」


別の女子が続けた。


「この前さ、お前の妹ボコったとき、この子いたっけ?」


石原の息が一瞬止まった。

あの記憶が一気に蘇ってきた――靴箱に詰め込まれたゴミ、引き出しに入れられた脅迫状、妹の泣き顔。そして最後に言われた言葉――


「また出しゃばったら、次は誰になるか分かんないよ?」


無意識に、石原は一歩横に動き、緒山を守ろうとする。

だが、そのとき、緒山の視線が自分の顔に向けられているのを感じた。


「行こう」


石原はそう言った。

歩き出そうとした瞬間、緒山は突然一歩動いて、彼の前に立った。


「私、先輩の彼女だけど」


彼女は小さな声で言ったが、その言葉には確かな力がこもっていた。


「文句ある?」


三人は一瞬黙り込んだ。

次の瞬間、耳障りな笑い声が上がった。


「お嬢ちゃんさ、そいつ、ヤバいやつだよ?」


話しているうちに、三人は立ち上がった。

またいつもの悪癖が出て、緒山に「一発、教えてやる」とでも言わんばかりだ。


だが立ち上がったその瞬間、何かにつまずいたかのように足を取られ、全員がごっそりと地面に倒れた。


石原が怪訝に思う間もなく、彼にはまた微かなめまいが訪れた。

しかしそれはすぐに消え去った。


三人が罵声を浴びせながら助け合って起き上がる隙を見て、石原は緒山の手首を掴んだ。


「行こう」


緒山は何も言わず、彼に引かれるままその場を離れた。

通りを抜け、泉方橋まで来たところで、ようやく彼の手をそっと振りほどく。


石原は歩みを止め、振り向かなかった。


橋の下を流れる川が夕陽に照らされて光っていた。

石原は欄干に手をついて、荒く息を吐く。


さっきの言葉がまだ耳の中で響いていた。


「そいつ、ヤバいやつだよ」


(分かってる)

(ずっと前から)


「……先輩」


緒山の声が横から聞こえてきても、石原は動かなかった。

彼女はそれ以上、言葉を続けなかった。


次の瞬間、すぐそばでかすかな物音がした。

石原が咄嗟に視線を向けると。緒山が欄干に登っていた。


「何してるんだ!?」


彼女は振り向いて、笑顔を見せた。


「心の中に溜まってるものがあるならさ――ここで吐き出してみたら?」


そして、彼女は欄干から手を離し、そのまま後ろへ身を倒した。


「緒山――!」


石原が駆け寄った時には、もう間に合わなかった。


どぼん、と水音が響き、水しぶきが高く跳ね上がる。


石原はほとんど反射的に石の斜面を駆け下り、靴を脱ぐ暇もなく川に飛び込んだ。

川の水は膝を越え、腰まで達していた。

石原は緒山の腕を掴み、必死で水から引き上げる。


「お前、頭おかしいのかよ!」


彼の声は震えていた。


「泳げもしないのに、なんで川に飛び込むんだ!」


緒山は水浸しになった体を引っ張られても、まだ笑っていた。


「大丈夫だよ、ちゃんと泳げるし……こういうの、何回もやったことあるから」


「何回もやったことある?!」


石原は彼女を岸に引き上げ、肩を掴んで全身をざっと確かめた。

傷はない、溺れてもいない。ただ、顔色が少し悪く、唇がわずかに震えていも。


石原はほっと息をついたが、同時に怒りが込み上げてきた。

だが彼が口を開くより先に、緒山が先に笑いながら「愚痴」を言った。


「先輩、どうしてそんなに慌ててるの?実を言うと、さっき水温を測ってきたばっかりで、ちょうど先輩を誘って一緒に泳ごうかなって思ってたのに~」


だが石原は、彼女の話に乗ることはしなかった。


「お前、頭おかしいのか? もしものことがあったらどうするんだよ? もし俺が間に合わなかったら――」


「先輩」


緒山が彼の言葉を遮る。

彼女は顔を上げ、彼を見つめた。


夕陽が彼女の濡れた顔を照らし、その瞳には輝きがあった。


「さっき、私のことだけ心配してたんじゃない?」


石原は言葉を失った。


「さっきのあいつらの言葉、今はもう思い出せないでしょ?」


彼女は軽く、確かめるように言う。

石原は口を開けたが、言葉が出なかった。


――思い出した。さっきの数十秒、頭の中にはひとつのことしかなかった。

彼女が飛び込んだ、助けなきゃいけない、それだけだった。


あの嘲笑も、あの記憶も、「そいつ、ヤバいやつだよ」って言葉も――全部、水に流されて消えていった。

ただ目の前には、びしょ濡れで、それでもバカみたいに笑っている彼女だけが残っていた。


「……お前、頭おかしいのか?」


石原はもう一度そう言ったが、今度は声がずっと小さくなっていて、どこか呆れたような響きが混じっていた。


「かもしれないね」


緒山は笑いながら答えた。

そして彼女は、突然背伸びして――額を彼の額に軽く押し当てた。


石原は固まった。


彼女の額は少し冷たく、湿った髪が彼の顔に触れた。


「わ、びしょびしょだ――」


彼女は一歩後ろに下がり、満面の笑みで言った。


「だって、杏ちゃんがくれた漫画ではさ、男の子がこうやって好きな子が熱あるか確かめるんだって! 先輩、私のことちゃんと気にかけてくれてる?」


【緒山朋奈の感情:喜び37+@$¥%&】


石原は彼女の笑顔を見て、胸の中でずっと縮こまっていた何かが、ほんの少しだけ解けたような気がした。


石原は、この学校の誰かと、もう二度と関わることはないと、一度は思っていた。

でも、彼女は――ほんの二日しか経っていない自分のために、川に飛び込んでまで、少しでも楽にさせようとしてくれた。


(こいつ、本当に頭おかしいのか……?)


「……送ってく」


石原は顔を逸らしながら言ったが、足は動かなかった。


石原の指が、わずかに動く。

五月なのに、彼はTシャツ一枚しか着ていなかった。彼女に貸せる上着もなかった。

言いたいことはあったが、結局言葉が喉に詰まってしまう。


緒山は首を傾げて彼を見た。

それから自分の濡れたスカートに目を落とし、もう一度彼の硬直した横顔を見た。


「先輩」


彼女は突然、笑いを含んだ声で言った。


「もしかして、私に服貸そうとして――でも一枚しかないって気づいた?」


石原の肩が少しだけ固まった。


「ふふっ」


緒山は口を押さえて笑った。


「先輩、可愛い!」


「……早く行こう」


「じゃあ――」


彼女は声を少し引き延ばして、楽しそうに目を細める。


「服、交換しよっか?」


石原の顔が一瞬で赤くなった。


「お前、濡れたままだと風邪引くぞ!」


彼はやっと声を絞り出したが、いつもより明らかに声が高くなっていて、彼女を見ることもできなかった。

緒山は声を上げて笑った。


「分かった、分かった、冗談ですよ」


彼女は濡れた髪をまとめながら一歩前に進み、振り返って言った。


「早く行こ。風邪ひいたらダメだよ――そういうのは先輩が言うセリフでしょ?」


石原は彼女の小走りの後ろ姿を見つめた。

夕陽が彼女を照らし、濡れたスカートが揺れていた。


ふと、自分の心配がまるで彼女に見透かされているように感じた。内側まで、全部。


彼は急いで追いかけ、彼女の隣を歩いたが、ずっと黙っていた。


103号室の前に着いた時、緒山は足を止め、振り返った。


「先輩、送ってくれてありがとう」


石原は軽くうなずく。


「明日ね」


「うん」


彼女はドアを開け、また顔を出して言った。


「そういえば、先輩――さっきのは告白じゃないですからね!」


そう言って、ドアを閉める。

石原は、ドアを見つめ、静かに息をついた。


石原は、おかしな女の子を知ってしまった。

川に飛び込んで、たった2日しか会っていない自分を少しでも楽にさせようとした女の子を。


彼は覚えていた。

濡れたスカートも、首を傾げて自分を見た顔も、「服、交換しよっか」と言ったときのあの瞳の輝きも。


(緒山さん……)


石原の唇がわずかに動き、かすかな言葉が漏れた。


「ありがとう……」


---


石原はベッドに横たわり、ぼんやりと天井を見つめていた。


今日は、本当にいろいろあった。

橋の上。林の中。電車の中。それから、川辺――


目を閉じると、あの、全身びしょ濡れのまま笑っていた女の子が浮かんでくる。


彼女は石原のために川に飛び込んだ。

濡れたスカートのまま石原の隣を歩き、首をかしげて、まるで心を見透かすみたいに――その姿が、頭から離れなかった。


それから石原は、もう一つの疑問を思い出した。

どうして彼女が能力を使うたびに、自分だけが体調を崩すんだ?


あの日、橋の上の出来事を、誰も何も覚えていなかった。

今日の昼も、周りは誰も時間が止まったことに気づいていなかった。


覚えているのは、石原だけだった。反応するのも、石原だけだった。


「どうして……俺なんだ?」


月明かりがカーテンの隙間からこぼれ、床にやわらかく落ちていた。


彼は寝返りを打ち、ぼんやりと考える。


あの女の子、いったい何者なんだろう。


どうして橋の上にいたんだ?

どうして林の中にいたんだ?

どうして俺の家の下に住んでるんだ?


こんな偶然が重なって、まだ偶然で済むのか?


答えはわからない。


でも、なんとなく感じていた。

何かが少しずつ変わり始めている気がした。


---


石原はまだ知らなかった。

少し間の抜けたようにも見えるその笑顔の裏に、たくさんの秘密が隠れていることを。


そして彼と彼女を結ぶ、「偶然」と呼ばれる一本の糸が、見えない誰かの手によって、少しずつ引き寄せられ、張り詰め始めてことを。


そして、「どうして俺なんだ?」というその答えを、彼はすぐに知ることになる。

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