第十二话
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【五月八日・水曜日・午前】
授業中、石原は机の上の申請書をじっと見つめていた。
その申請書は、まだ真っ白なままだ。ペン先は宙に浮いたままで、どうしても紙に下ろせなかった。
勢いで「行く」と言ってしまったものの、あとになって、現実的な問題が次々と思い浮かんできたからだ。
帰りが遅くなるなら、杏と過ごす時間も短くなるし、今までの生活リズムも崩れることになる。
それ以上に、これからは、自分から継続的に人と関わり、無数の視線や感情にさらされる場所へ踏み込むことになるのだ。
それを想像しただけで、あの慣れきった息苦しさが胸の奥からじわりと迫ってきた。
「俺は……何してるんだろうな」
音もなく、ひとつ息をついた。額をそのまま、冷たい机に押しつける。
だが、別の考えが、妙な引力を帯びたまま、抑えようもなく浮かんできた。
「『異能ロリ』……」
緒山は特別だった。その力は強く、しかもどこか得体の知れないものだ。
なら、もう一人の異能者は、いったいどんな人物なのか。どんな力を持っているのか。
「少しくらい知れたら――……自分の力を知る手がかりにもなるかもしれない」
その考えが、ほんのわずかな後押しになった。けれど、すぐに、そのあとを追うように、もっと根深い自己疑念が浮かんでくる。
過去についた悪評や、ぎこちない対人関係のことを思えば、そんな自分が入って、本当に迷惑にならないのか。緒山や春野に、気まずい思いをさせやしないか。
せっかく温かそうに見えるあの居場所まで、自分のせいで妙な噂に染めてしまうんじゃないか――
「……だめだ。こんなふうに考えてばかりじゃ」
両手で顔を強くこする。
「……もう引き受けたんだしな。とりあえず……申請書だけでも出すか」
そのとき、チャイムが鳴った。石原は自分に言い聞かせるように、さっとペンを走らせ、申請書を一気に埋める。
立ち上がり、職員室へ向かおうとした――その瞬間、
「石原」
教壇から、教師の不機嫌そうな声が飛んだ。
「授業中ずっと上の空だったな。あとで職員室に来い」
周囲から、ちらちらと視線が向けられた。体が一瞬固まり、頭の中で「面倒ごとは避けろ」という警報が鋭く鳴り響いた。
反射的に、口調が必要以上に硬くなったままの言葉が口をついた。
「すみません、先生。今ちょっと急ぎの用事があって……あとでもいいですか」
口にした瞬間、この状況でこんなこと言うべきではなかったと気づいたが、後の祭りだ。
先生はあからさまに眉をひそめた。
石原は心の中でため息をついた。短い「静けさ」は、これでもう完全に終わったらしい。
(どうせ目的地は同じ職員室なのだから、素直に従えばよかった。)
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石原は深く息を吸い、職員室のドアを開けた。
三分後、外に出てきたとき、顔色は入る前よりも悪くなっていた。
先生のしかめ面が、まだ頭にこびりついていた。周囲の生徒から向けられた視線も、まだ離れない。【好奇、驚き、悪意まじりの面白がり】――そんなタグが、まだ頭から離れない。
「……またやらかした」
廊下の壁にもたれ、しばらく目を閉じる。
「先輩?」
聞き覚えのある声がした。
目を開けると、少し先に緒山が立っていた。にこにことこちらを見ている。
【緒山朋奈の感情:愉悦39@#&」】
「先輩、どうやら一戦交えてきたみたいですね〜」
「……まあ、上の空だった分のツケを払ったってところだ」
「でも申請書、ちゃんと出しました?」
石原は小さくうなずいた。
「それならよかった!じゃあ行きましょう。私たちの拠点へ」
くるっと背を向けて歩き出す。黒いセミロングが、歩くたびに揺れていた。
石原もそのあとを追い、やがて、その隣に並ぶ。
渡り廊下に出ると、昼休みに入ったところで、生徒の数は次第に増えていく。
笑い声や雑談、足音、そして目に痛いほど派手な感情タグが、波のように一度に押し寄せてきた。
石原のこめかみが、ずきずきと脈打ち始める。
思わず歩く速度を落とす。少し距離を取りたくなった。
けれど、何か気づいたのか、緒山は逆に一歩寄ってきた。
「先輩」
緒山はふいに立ち止まり、まっすぐこちらを見た。
「……どうした?」
返事はなかった。そのまま更に一歩近づいてきて――ごく自然な動きで、石原の腕に自分の腕を絡めた。
石原の体が固まる。
周囲の視線が、一斉にこちらへ向いた。
それははっきりとわかった。タグが大きく揺れていた。
【驚き】【好奇】【野次馬根性】
さっきよりも数が多い。……しかも、やけに密集していた。
――なのに、不思議だ。視線が、さっきみたいに刺さってこない。
腕に触れている温度だけが、やけに生々しく現実を伝えてくる。
「な、何して――」
「ほら」
緒山は顔を上げ、石原を見た。目がきらきらしていた。
「今みんな、たぶん思ってますよ?この二人、どういう関係なんだろうって」
「……」
「ぼんやりした怖さって、ちゃんと形のあるものにしちゃえば――しかも、ちょっとベタな形にすれば、意外と、怖くなくなると思いません?」
ぱちりと悪戯っぽく瞬きをした。
「少なくとも、『シスコン先輩』のタグは、今は上書きされてますよ」
石原は口を開いた。何か言い返そうとして――そのまま止まる。
……たしかに。
周囲の視線はまだあった。でも、さっきみたいに、「ヤバい奴を見る目」ではない。
そっと隣の緒山を見た。
前を向いたまま、にこにこしている。
昼の光の中で、その横顔はやけに柔らかく見えた。
「……お前」
「ん?」
「……なんでもない」
視線を外し、それ以上は言わなかった。
腕の温もりは、そのままだ。周囲のタグも、さっきほど騒がしくない。
いつの間にか、肩から余計な力が抜けていく。
その上、活動室の前に着いたときになって、ずっと握っていた拳が、いつの間にかほどけていたことに気づいた。




