第十三话 心の糸――ぎりぎりと、音を立てる
これまで公開してた第12話は、更新休止のお知らせだったんですが、本日、正式な本文に差し替えました。
まだ読んでない方は、ぜひ第12話から続けて読んでみてください。
ご迷惑をおかけしてすみません。
それでは、どうぞ物語をお楽しみください。
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【八月九日・金曜日・午後】
二時十分。ファミリーレストラン『フォレストテラス』二階の個室。
冷房は音もなく回り、窓の外の蝉の声と八月の焼けつくような空気を遮っていた。けれどそのぶん、個室の空気はどこか重たくよどんでいるようにも感じられる。
長テーブルの縁には、運ばれてきたばかりのアイスレモンティーの跡らしく、細かな水滴がびっしりと浮いていた。
石原は窓際の席に座り、無意識にグラスの側面を指先でなぞる。
窓の外では、通りが熱気の向こうでゆらゆらと歪んで見え、行き交う人影もまばらだ。
石原は十分前に着いていて、ほかの面々が順にやって来るのを眺めていた。
花野が席に着くなり、立花が飛び込んできた。
「暑い暑い! もう死にそうですよ!」
そう言いながら、バッグから冷えたレモンキャンディの小袋をいくつか取り出し、 テーブルに置いた。
「ほらほら、糖分補給! 夏祭り決戦前のエネルギー補給です!」
石原と花野はそれを受け取り、小さな声で礼を言った。
立花の今日の格好は、普段よりずっとシンプルだった。淡い色の半袖Tシャツにデニムのショートパンツというラフな装いで、すっきりとしていながら活発な印象だ。
彼女の頭上には、明るい【興奮】と【期待】のタグが浮かんでいた。
「ありがとう」
向かいから、花野の静かな声がした。
彼女目の前にはタブレットを立てていた。画面には、複雑な表が映っているようだ。
今日はアイボリー寄りの半袖シャツを着ていて、ボタンは一番上まできっちり留めていた。表情はいつも通り淡々としている。
【花野真汐の感情:平静100】
個室の扉が再び開いた。
春野が入ってくる。
きちんとアイロンのかかった薄いグレーのシャツを着て、袖は肘までまくっていた。手には分厚いファイルと、印刷した資料の束を持っている。
足取りはいつも通りしっかりしていて、顔には見慣れた穏やかな笑みが浮かんでいた。軽く全員に会釈する。
「みんな揃ってるか? 悪い、資料の印刷に少し時間がかかった」
だが、石原の視線は春野の頭上で止まった。
【春野陽明の感情:焦り24、疲労46、重圧30】
その感情タグは薄い靄のように、春野の頭上を覆って見える。
「会長、こっちです」
立花が隣の空いた席を軽く叩いた。
春野は長テーブルの上座に腰を下ろし、ファイルを開く。
それから手首を持ち上げ、一度だけ腕時計に目をやった。
会議の開始予定は二時。今は二時十二分だった。
「じゃあ、さっそく始めよう」
春野が口を開いた。声は落ち着いていたが、いつもよりわずかに話すテンポが速かった。
「夏休みに入って最初の正式な会議だ。議題は、二週間後に控えた夏祭りについて。学校側は今年も複数のテーマブースの運営を担当し、さらに生徒ボランティア二十名を出して、祭り実行委員会の案内や後方業務を補助することになっている」
そう言いながら、印刷した資料を一人ひとりに配っていった。
紙にはまだ、プリンターを通したばかりのかすかな温もりが残っている。
石原も自分の分を受け取った。
A4用紙が五枚、きっちり綴じられている。
一枚目は全体スケジュール表だった。
今日から祭り終了までの毎日が細かく区切られ、具体的な作業内容、担当者、締切、必要な物資、確認基準までびっしり書き込まれていた。隙間がほとんどないほど、びっしりと。
「時間はかなり厳しい」
春野はペン先で、スケジュール表の最上部にある太字の見出しを軽く叩いた。
「祭りが始まるまで、まともに使える丸一日の作業日は二週間も残っていない。
物資リスト、予算確認、ボランティア募集、内容企画――そうした基礎作業は、来週火曜、つまり八月十三日までに初版を仕上げる必要がある。来週木曜からは細部の調整と、ボランティア研修に入る」
彼の視線が一人ひとりを順に追い、石原の顔でほんの半秒だけ止まって、また離れていった。
「質問があれば今のうちに聞いてくれて構わない。
ただ、できれば先に手元の分担表にざっと目を通して、自分の担当範囲と進行日程を確認してほしい」
個室には、紙をめくる乾いた音だけが静かに広がる。
石原は二枚目をめくり、自分と緒山の担当欄を見つけた。
購買・連絡担当。
必要な物品の一覧は二ページにわたっていて、屋台用の木材の骨組みや装飾用のカラーフラッグ、照明器具から、使い捨て食器、救急用品、ちょっとした記念品まで――一つひとつに規格、予定数、予算の上限、さらに候補に挙がっている三社分の連絡先まで書き込まれていた。
「これ……細かすぎないですか?」
立花は自分の担当ページを開き、口元を押さえながら小さく声を上げた。
「予備案Aに予備案Bまで書いてあるし……」
「細かくしてあるのは、あとで手戻りが出ないようにするためだ」
春野が続けた。顔は上げないまま、別の資料にペンを走らせて何かを書き込んでいる。
「こっちには試行錯誤してる時間がない。最初の判断の段階で、できるだけ正確に決めておく必要がある」
口調はあくまで淡々としている。
だが石原には、彼の頭上に浮かぶ【焦り】の数値がわずかに跳ね、67まで上がったのが見えた。
そのとき、個室の扉がそっと開いた。
緒山が顔を覗かせ、申し訳なさそうに笑った。
「すみませんすみません、ちょっと遅れました! 途中で近所のおばさんに会っちゃって、つかまってずっと話し込まれちゃって……」
今日は淡いブルーの半袖シャツに、白いプリーツスカートを合わせていた。
うっすら汗ばんだ額には、短い髪の毛が数本張りついている。
彼女は素早く室内を見回し、視線を石原の顔で一瞬だけ止めると、口元にほんのかすかな笑みを浮かべ、そのまま春野の左隣の空席に腰を下ろした。
「ちょうどいい」
春野は資料をひとまとめ、彼女の前に滑らせた。
「これは石原と緒山が担当する購買関係の資料だ。緒山、今日は仮払申請書を書き上げて、明日の午前中までに判をもらってきてくれ。石原は物品の規格確認を手伝って、漏れや間違いがないか見てほしい」
「分かりました」
緒山は資料を受け取り、そのまま開いて目を通した。
「よし、続けよう」
春野のペン先が、立花の担当欄を軽く叩く。
「展示ブースの内容だが、現時点での案は『泉方新高・歴史クイズ』と『限定記念バッジ収集』の組み合わせだ。
目を引けるし、運営もしやすい。トラブルにも強い。
立花は花野と組んで、日曜までに初稿をまとめてくれ」
「分かりました」
花野は静かな声で応じ、その時にはもう指先がタブレットの上を動き始めていた。
「えっ――?」
だが立花は手を上げ、目をきらきらさせる。
「会長! ブース内容なんですけど、新しい案があります! 『泉方新高の歴史ミニ劇場』とかどうですか? 簡単な人形と背景パネルを使って、学校ができたころの話を再現するんです!
たとえば初代校長がどうやって場所を決めたのかとか、初代生徒会長がどうやって選ばれたのかとか……。
もっとにぎやかにするなら、学校の伝説っぽい話を入れてもいいですし!」
話せば話すほど、彼女の声は弾んでいき、身も乗り出していた。
「脚本は私が書けます! 人形とか背景パネルも、みんなで作れますし! ただのクイズより絶対目を引くし、写真映えもしますし、それに……」
「却下だ」
春野はほとんど間を置かずに口を挟んだ。顔も上げず、ペン先で「展示内容」の欄に丸をつけた。
「予算が足りないし、人手も足りない。ああいう形の劇をやるなら、最低でも三人は固定で回せる人員が必要になるし、脚本も道具も稽古もいる。
ボランティア研修の時間もかなり削られるし、上演ミスや機材トラブルのリスクもある。
失敗したときの立て直しが利きにくい。今の段階で優先すべきなのは、『効率よく、確実に回せること』だ」
その迷いのない断定に、立花は口を開いたまま固まる。続きの言葉は喉の奥で止まってしまった。
石原には、立花の頭上にあった明るい【興奮】と【期待】が、穴を開けられた風船みたいにみるみるしぼんでいくのが見えた。
立花は髪をかき、小さくつぶやく。
「……そっか。たしかに、ちょっと複雑すぎるかも」
「元の案で進める」
春野は紙の上に「歴史クイズ+記念バッジ配布」と書き込み、ペン先に力を込めた。
「重視するのは参加感と記念性であって、演出の精度じゃない。花野、問題の難易度は段階分けして、面白さと知識の両立を意識してくれ。立花は素材の提供を頼む」
「は、はい」
立花はうなずき、ペンを取って自分の資料に書き込み始めた。
会議はそのまま続く。
議論のほとんどは、春野が主導していた。
花野が、ある備品の調達には予算より五パーセントほど多めの予備費が必要かもしれないと指摘したときも、春野はすぐスマホの電卓を開き、数回素早く打ち込んでから言った。
「体験用の景品の予算から回す。予定していた三百個を二百八十個に減らして、単価の上限を十円上げる。総予算はそのままにする」
緒山が、ボランティア募集はまずクラスのグループチャットで希望調査を回してもいいのではないかと尋ねたときも、春野は首を横に振った。
「まとめて集めると情報が混ざりやすいし、重複応募も出やすい。去年の祭りのボランティアデータと、今学期の各部活の活動日程はもう手元にある。俺が直接初版を組んだほうが早い。特別な時間の都合がある人だけ、今日の解散前に個別で言ってくれ」
スマホは手元に置かれていて、何度か新着メッセージで画面が光る。
そのたびに春野は、ほんの一瞬だけそちらに目をやった。
「最後に、ボランティアのシフトについてだ」
春野はExcelの表を呼び出し、個室の壁に投影した。
「二十人を午前、午後、夜間の三班に分ける。各班最低六人。案内、販売対応、緊急支援の役割をそれぞれ含める必要がある。
シフトを組む際は、各自の夏休み中の予定と通学時間も考慮し、できるだけ偏りが出ないよう調整する。この部分は……」
そこで彼は少し言葉を切り、指先でこめかみを押さえた。
「この部分は俺が初版を作る。遅くとも明日の夜までにはグループに共有して確認を取る。時間の都合に特別な事情がある人は、今のうちに言ってくれ」
「会長……」
緒山が小さな声で口を開いた。その指先は、無意識に資料の端をなぞっていた。
「シフト作成って、かなり作業量ありますよね? 少し分担しませんか?
たとえば先に、クラスごととか部活ごとに空いてる時間帯を集めておいて、それを会長がまとめる形にしたらどうかなって……」
「必要ない」
春野は首を振る。
口調は相変わらず落ち着いていたが、その奥には口を挟ませない強さがにじんでいた。
「まとめて集めると、書き方も揃わないし、情報漏れも出る。去年のデータを基準にしたほうが調整は早い。俺のやり方で進める」
緒山はぱちぱちと瞬きをし、それ以上は食い下がらなかった。
【緒山朋奈の感情:心配15@#&/】
「ほかに質問はあるか?」
春野は室内をひと通り見回した。
短い沈黙が落ちる。
「それじゃあ、今日はここまでにする」
春野はノートを閉じた。その動きはきっぱりしていた。
「各自の担当はもう分かっているはずだ。進展でも問題でもあれば、その都度グループで共有してくれ。解散」
最後の二文字だけ、やけに速かった。これ以上一秒でも長引かせるのは無駄だとでも言いたげに。
面々は順に立ち上がる。
立花は花野のそばに寄り、問題に学校の裏山の「七不思議」を入れるかどうか、小声で話していた。
花野はそれを聞きながら、タブレットに淡々と記録していく。表情は相変わらず静かだった。
緒山は購買リストの資料をまとめ直し、個別に記入が必要な申請書だけを抜き出していく。
石原は自分のバッグを整えながら、ふと、まだ元の席に座っている春野へもう一度視線を向けた。
春野はもう一度ノートを開き、スマホに目を落として素早く文字を打ち込んでいた。眉はわずかに寄っていた。
プロジェクターはすでに切られていて、個室の天井灯の光が彼の体に落ちていた。足元には、輪郭のはっきりした長い影が伸びている。
頭上の【疲労】は、いつの間にか【70】まで上がっていた。
石原はバッグを手に取り、個室のドアへ向かう。
ドアをそっと閉めると、その光景は背後へ閉ざされた。
廊下に出ると、冷房の低い唸りがさっきよりはっきり聞こえる。
石原はひとつ息を吸い、胸のあたりが少し重たくなるのを感じた。
「先輩」
すぐ横から、緒山の声がした。
彼女はもう荷物をまとめ終えていて、分厚いファイルを抱えたまま隣に立っている。顔には心配がはっきり浮かんでいたが、それでも口元には笑みを残していた。
「購買リスト……思ってたより、ちょっと複雑ですね」
軽くぼやくような口調だった。
「早めに確認を始めたほうがよさそうです。先輩、明日の午前って空いてます? 図書館でやりませんか?」
「空いてる」
石原は短くうなずいた。
「じゃあ、決まりですね」
緒山は小さく笑った。だがその笑みはすぐに薄れる。
振り返って、閉まったままの個室のドアを一度だけ見ると、少し声を落とした。
「会長……今日は、なんだかすごく急いでる感じでしたよね?」
石原は一拍置いた。
「……ああ」
それだけを返す。
上がり続けていた【重圧】と【焦り】、それに消えない【疲労】が、重たい塊みたいに意識の奥に残っていた。
二人は並んで階段を下り、店の外へ出た。
午後三時の陽射しはまだ強く、路面の上にはぼんやりとした熱気が揺れている。
蝉の声が一気に耳へ流れ込み、冷房の効いた室内とは比べものにならないほど騒がしかった。
緒山は数歩進んだあと、何かを思い出したように振り返った。
さっきより、少しだけ笑みを引かせた表情だった。
「そうだ、先輩……昨夜話してた“秘密行動”のことなんですけど」
リュックのストラップに指を絡めた。
「今日こんなに仕事があるのを見たら、明日は購買リストと申請書で手いっぱいになりそうですよね。だから……」
少し言葉を切った。
「今夜はそれぞれちゃんと休んで、明日に備えましょう。
明日、全部終わらせて問題ないって確認できたら、夜に商店街へ行くっていうのはどうですか?」
石原をまっすぐ見つめた。澄んだ目だった。
「せっかくの初めての“秘密行動”ですし、やり残しがある状態で行くのは嫌なんです。先輩はどう思います?」
「いい。明日は先に仕事を終わらせる」
石原はうなずいた。
「はいっ、じゃあ決まりです!」
緒山は安心したように、ぱっと表情を明るくした。
「明日、頑張って一気に終わらせましょう! そしたら……夜は、ご褒美タイムです!」
熱風が頬をなでた。
遠くの商店街から、かすかに音楽が流れてきた――夏祭りに向けた宣伝放送だ。
祭りの空気は、この街のあちこちで、ゆっくりと熱を帯び始めていた。
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―― 空白の刹那 ――
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【八月十日・土曜日・夜】
夕暮れのやわらかな光が、商店街東口のアーチを淡く染めている。
夏祭り前の浮き立つような空気は、もうこのあたりにじわじわと広がっていた。
連なる紙提灯が、かすかな風に揺れている。まだ灯りは入っていなかったが、夜になればあたたかな橙色の光が広がる光景が、自然と目に浮かんだ。
空気には、焼き団子の香ばしさやりんご飴の甘ったるい匂い、それにかき氷機が回るたびに立つ、ひやりとした氷の気配が混じっている。
石原は待ち合わせの街灯の下に立ち、人の流れの中から軽やかに抜け出してくる緒山の姿を見つけた。
彼女は浴衣風のワンピースを着ていた。
淡いピンクの地に、細かな白い桔梗柄が散っている。帯は簡単な蝶結びで、長い髪は飾り気のないかんざしでまとめられ、白いうなじがのぞいていた。
手には、あの“秘密行動”の予定がびっしり書き込まれたノートを持っている。
顔には、仕事を終えたあとの明るい解放感が、そのまま浮かんでいた。
「先輩! お待たせしました。待ちました?」
小走りで近づいてくる。裾が夕暮れの中でやわらかく揺れた。
「今来たところだ」
石原は首を振った。
本当は、十分ほど前には着いていた。
午後、最後の確認メールを業者に送ってから、会議から張り詰めていた神経がようやく緩んだ。その感覚が、まだ体の奥に残っている。
目の前の彼女も、昨日の会議のときよりずっと軽やかに見えた。頭上には明るい【期待】のタグが浮かんでいる。
「はい、これ!」
緒山はノートを開き、嬉しそうに一ページを見せてきた。
そこには、手描きの簡易な商店街マップが貼られていた。
カラーペンで十か所に丸がつけられ、横には店名とおすすめの甘味が丁寧に書き込まれている。
ページの上には、色ペンで描かれた可愛いアイスのイラストと――
『第一弾・商店街 夏の甘味ベスト10制覇作戦!』
というタイトルがついていた。
「作戦、か」
石原はその大げさな見出しに目をやった。
「ふふん!」
緒山はノートを閉じ、目を三日月のように細める。
「お仕事モードは終了です。ここからは“秘密行動モード”!
第一目標は、あっちの角にある『金時屋』。今年の限定、“ミントチョコかき氷”らしいですよ!」
二人は、次第に賑わいを増していく人の流れに紛れていった。
通りの両側では仮設の屋台がすでに営業を始め、呼び込みの声や笑い声、鉄板の上で食べ物が焼ける音が重なって、夏の夜特有の賑わいをつくっている。
提灯の灯りが、人々の顔をやわらかな暖色に染めていた。
「金時屋」は昔ながらの甘味処で、店の前には長すぎもしない、ほどほどの列ができていた。
順番を待つ間も、緒山は楽しそうにノートの印を指さしていく。
「二軒目は『笑福堂』の水信玄餅、三軒目は『万年堂』の高麗餅……あ、でも全部食べ切らなくても大丈夫ですよ? 一つを分け合って、味見するくらいでいいですし」
目がきらきらと輝いている。ちょっとした冒険を計画しているみたいだった。
やがて順番が回ってきた。
緒山は看板のミントチョコかき氷を注文する。
きらきらした削り氷が小さな山みたいに盛られ、鮮やかな緑のミントシロップがたっぷりとかかっていた。そこに濃い茶色のチョコチップが散らされ、てっぺんには真っ赤なさくらんぼが一つ乗っている。
見ているだけで、思わず一口食べたくなった。
彼女はそれを受け取り、店の外に置かれた簡易ベンチへと運んだ。
「はい、先輩どうぞ!」
付属の小さなスプーンで、いちばん上のチョコが混ざったところをすくい、そのまま石原の口元へ差し出した。
その動きは、息をするみたいにあまりにも自然だす。
石原は一瞬、動きを止める。
反射的にスプーンを受け取ろうと手を上げかけたが、その途中で彼女の目と合った。
その視線はまっすぐで、迷いも遠慮もない。
それどころか、少しだけいたずらっぽくきらめいていて――まるで「だめですよ、先輩。このまま食べてくださいね」とでも言いたげだった。
上げかけた手が、そのまま宙で止まる。
周囲の喧騒が、ふっと遠のいた気がした。
提灯のあたたかな光だけが、二人の間のわずかな距離を包む。
結局、負けを認めたみたいに小さく息をつくと、彼はスプーンを受け取るのを諦め、わずかに身を乗り出した。
少しぎこちないまま、口元まで運ばれたそのひとさじを口に含む。
ミントの清涼感が一気に広がり、そのあとにチョコのほろ苦さと氷の細やかな食感が続いた。
甘さも、ちょうどよく抑えられている。
けれど、その味よりも強く意識を奪ったのは、すぐ目の前にあった彼女の指先と、してやったりとでも言いたげに少しだけ深くなった笑みのほうだった。
「どうですか?」
緒山は尋ねながら、自分でも一口食べ、満足そうに目を細めた。
「……うん。ミントがすごく爽やかで、チョコと合わせても意外とくどくないです」
「……うん、悪くない」
石原はうなずいた。
ひんやりした感覚が、夏の夜の蒸し暑さを和らげる。だが、その冷たさでは、頬に残る熱までは消しきれなかった。
「でしょ!」
緒山は楽しそうに足を軽く揺らした。
もう一口すくったが、すぐには口に運ばず、ゆっくりと溶けていく氷を見つめる。
「こういう味って……ちゃんと覚えておきたいんです。
夏限定で、先輩と一緒に食べた、最初の甘味ですから」
まるで何気ないひと言みたいだった。
けれど、その言葉に石原の胸はふっと揺れる。
彼は何も言わず、ただ小さくうなずいた。
気まずさがほんの一瞬よぎったあと、場の空気はまたすぐに軽やかで心地よいものへと戻っていった。
二人はかき氷を分け合って食べ終えた。
緒山はノートの「金時屋」の横に、きちんと小さなチェックを入れた。さらに余白に短い感想を書き添える。
『ミント強め! チョコのかけらがいい感じ!』
その横には、小さな笑顔のマークまで描かれていた。
次に向かったのは「笑福堂」の水信玄餅だった。
水晶みたいに透き通ったゼリー状の菓子が、竹の葉を編んだ小皿に盛られていた。黒蜜をかけ、別添えのきな粉を添えて食べるらしい。
口当たりはひんやりとなめらかで、甘いのにくどさがなかった。
今回は緒山もさすがに“食べさせる”ようなことはせず、小皿をそのまま石原の前へと押しやって、笑って言った。
「これは自分で混ぜて食べるのが楽しいんですよ」
石原は内心ほっとした。
けれどその一方で、胸のどこかに、わずかな物足りなさが引っかかる。
緒山は食べることにひどく集中していた。
一口一口を確かめるように味わっている。
食べ終えると、またノートを開いて書き込んだ。
『ひんやりした夏の夜空をひとかけら、そのまま食べたみたい。黒蜜が決め手』
石原はその様子を黙って見ていたが、ふと気になった。
あのノートは、彼女にとって単なる計画用のノートではないのかもしれない。
ただ機械みたいに印をつけているんじゃなかった。ひとつひとつの時間を、ちゃんと集めて、残そうとしているように見えた。
一軒、また一軒と回るうちに、緒山と過ごす時間は思っていたよりずっと早く過ぎていった。
「次で最後ですよー!」
緒山はノートを閉じ、軽やかな声で少し先を指さした。暖簾のかかった「小倉屋」だ。
「目標は看板のきな粉団子! これを食べたら、今日の“甘味作戦”は無事達成です!」
最後の一軒は「小倉屋」の団子だった。
列は少し長く、二人は最後尾に並ぶ。
周囲は人の声であふれ返り、遠くからは祭りの音楽が流れてきていた。
緒山はすっかり気が緩んだ様子で、ときどき屋台の飾りや通りすがりの浴衣を指さしては、石原に小声で話しかけてくる。
やがて、団子を受け取る直前――
石原の視線は、緒山の肩越しに、斜め向かいにある装飾資材の問屋の店先へ向かった。
そこに、見覚えのある姿があった。
春野だ。
少し皺の寄った薄いグレーのTシャツに、濃い色の長ズボンを穿いていた。
髪はいつものようにきっちり整えられておらず、汗ばんだ額には数本の髪が張り付いている。
店主に向かって、どこか切迫した様子で話していた。
片手にノートを持ち、もう一方の手で身振りを交えている。
店先には色とりどりの旗や提灯、木材が束になって積まれ、雑然としていた。
石原の胸がわずかに沈んだ。
春野の頭上に浮かんでいた感情タグは、強く目を引く。
【焦り】【苛立ち】【疲労】――そのタグは、今にも彼自身を飲み込んでしまいそうなくらい濃かった。
眉は深く寄せられ、話す速度も速かい。ときおり腕時計に視線を落としていた。
そのとき、不意に春野が顔を上げた。
その視線が人混みを抜け、まっすぐ石原を捉える。
そしてそのまま、石原の隣にいた緒山へと移った。
彼女はつま先立ちになって、ショーケースの団子を覗き込もうとしていた。
ほんの一瞬、春野の表情が固まる。
次の瞬間、彼は手にしていたノートを閉じ、目を閉じて深く息を吐いた。
そのまま足早に人混みをかき分け、まっすぐこちらへ向かってくる。
周囲の喧騒が、ほんの少しだけ勝手に音量を下げたみたいだった。
石原の視界では、春野の【苛立ち】の数値が一気に【85】まで跳ね上がっている。
「石原、緒山」
春野は二人の前で足を止める。
声は普段より低く、落ち着いていた。口元にはかろうじて笑みの形も残っている。
だがその作られた平静さが、逆にその奥にある冷たさを際立たせていた。
「購買リストの最終比較表、もう提出してあるはずだな?」
先に石原へ視線を向けた。
言葉はゆっくりだったが、一つ一つが狙いを定めた槍みたいに、正確に突き刺さってくる。
「それから、緒山」
視線が彼女へ移った。
手にしていた団子の箱に一瞬だけ目が止まる。
「仮払申請書の押印確認済みデータだが、今日の業務終了までにアップロードするようメールで伝えていたはずだ。この時間なら……もう処理は終わっているな?」
声を荒げていたわけではない。怒気も露骨には見せていなかった。
だが理性で押さえ込まれた苛立ちが、わずかな隙間から冷たく滲み出ている。
空気が、すっと抜け落ちたみたいだった。
緒山の笑顔が固まった。
ぱちぱちと瞬きをした。あまりに突然で、状況をうまく飲み込めていないようだった。
「か、会長? 比較表は……先輩と午前中に確認して、お昼前には提出しました。仮払申請書も……押印してもらってすぐスキャンしてアップロードしましたし、たしか……二時半ごろには? メールにも返信して確認していますけど……」
彼女の言葉ははっきりしていた。
その声には、戸惑いと、少しだけ理不尽な疑いを向けられたみたいな悔しさが混じっている。
春野の視線は緒山の顔から外れ、再び石原へと戻った。
すぐには口を開かなかった。ただ、眉間の皺はさらに深くなり、口元に貼りついていた笑みも少しだけ崩れた。
「昼前に提出……二時半に確認……」
低く繰り返す。その声は、頭の中の確認事項をなぞっているみたいだった。
だが、そこに安堵はない。むしろ、余計に焦りが増していくばかりだった。
不意に顔を上げた。
その視線が鋭く石原を射抜いた。
「最終比較表の建材部分、三社の見積もりの差額は予算の範囲内に収まっているか? 『小林材木店』の板材の規格は図面と一致しているな? それから、『佐藤文具』の振込先情報は申請書の添付に更新してあるか?」
問いは具体的で、途切れることなく重なっていった。
「この時間だ……」
腕時計を見た。その動きは、ほとんど反射みたいに速かった。
「一つでも確認が甘ければ、月曜の調整会議までに修正が間に合わない。……本当に、全部見直しきってるのか? “たぶん”も“おそらく”もなしだぞ」
石原は、その焦りを宿した目をまっすぐ見返した。
一歩、前に出た。
「建材の差額は予算内です。赤字で注記してあります。
小林材木店の規格は、午後に緒山と倉庫で現物確認しました。図面と完全に一致していて、倉庫管理者の署名入り確認書も取ってあります。スキャンしてメールにも添付済みです。
佐藤文具の新しい口座情報も、緒山が電話で確認して更新しました。メール添付と紙の申請書、両方とも差し替えてあります」
一つひとつ、はっきりと告げた。
「春野が気にしていた点は全部、今日の四時十七分に送った最終確認メールにまとめてあります。……今、見ますか?」
「四時十七分……最終確認……」
春野の顔から、張りつめていた力が抜けていく。
ポケットのスマホに手を伸ばしかけたまま、動きを止めた。
頭上にあった濃い【疑念】は、陽の中で霧がほどけるみたいに、みるみる薄れていった。
代わりにせり上がってきたのは【気まずさ】と、その奥に沈んだ【疲労】だった。
「……俺は……」
声が急にかすれた。
先ほどまでの圧迫感は、跡形もなく消えている。
「そのメール……見ていなかった。外に出ていて……」
言葉が途切れた。
額を押さえる手に、力がこもる。
「……悪かった」
視線は落ちたまま、足元のわずかに汚れた靴先を見つめていた。
「ちゃんとやってくれてたんだな。俺が……」
そこまで言って、言葉を飲み込んだ。
「……お疲れさま」
視線が、ほんの一瞬だけ緒山へ向けられた。
無理に表情を整え、ぎこちない笑みを浮かべる。
「浴衣、似合ってるよ、緒山。……その、俺は邪魔しないから。祭りの空気、楽しんでくれ」
言い終えると、すぐに背を向けた。
「春野!」
石原が呼び止めた。
春野の背中がわずかに強張った。だが振り返らない。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫だ。ただ、少し疲れてるだけだ。ありがとう」
低い声。最後がわずかに揺れていた。
そのまま人混みに紛れ、店の影の中へと消えていく。
残されたのは、息苦しいほどの静けさだった。
石原は胸の奥に重さを感じる。
さっき、春野が去る直前――石原には、それがはっきりと見えた。
彼の頭上にあった【焦り】【疲労】【気まずさ】のタグが、最後の「ありがとう」と同時に、一瞬だけおかしな変化を起こしたのだ。
激しく明滅して、ぶるりと揺れ、そのまま崩れるみたいに、判別のつかない歪んだ線へと変わったかと思うと、すぐ元に戻った。
その一瞬の“文字化け”に、石原の心臓がぎゅっと縮む。
「先輩……」
緒山が静かに声をかけた。
石原は顔を上げる。
その目にあった光は、先ほどよりもずっと弱まっていた。
「会長……あんな様子、初めて見ました」
「……ああ」
「私たち……このまま続けますか?」
緒山は小さく問うた。
手の中の、まだ手つかずの団子の箱へ視線を落とす。
それから、ノートの「小倉屋」の欄――まだ印のついていない空白へと目を移した。
きれいに締めくくるはずだった今日の計画は、途中で断ち切られたままになっている。
石原は少し黙った。
最後の一項目は、閉じきれない円のように残っている。
緒山の瞳の奥で、期待がゆっくりと薄れていった。
「……帰ろう。続けても、味が変わる」
「……うん」
団子の箱は開かれなかった。
緒山はそれを静かに袋にしまい、ノートの「小倉屋」の横に、小さな、途切れた点みたいな印をつけてから、ノートを閉じる。
帰り道、二人は並んで歩いたが、言葉はなかった。
祭りの喧騒は背後へ遠ざかり、街は少しずつ静けさを取り戻す。
街灯の光が、二人の影を長く伸ばし、また縮め、もう一度伸ばしていった。
やがて、マンションの手前の交差点で緒山が足を止めた。
振り返り、石原をまっすぐ見る。
夜の中で、その瞳はひどく澄んでいて、それだけに真剣さがよく分かった。
「先輩。会長のこと……放っておけませんよね」
石原はうなずいた。
「でも、直接聞いても、きっと話してくれません」
緒山は眉を寄せ、袖口を指でいじった。
「あんなにプライドの高い人ですし……さっきみたいな姿、本人が一番つらいはずです。
私たち、どうしたら力になれるでしょう」
「まずは様子を見る」
「……うん」
緒山は小さくうなずいた。
その短い言葉の中に、何かを掴んだようだった。
少し迷ったあと、彼女はそっと手を伸ばし、石原の手首を軽く引いた。
「じゃあ……明日、もう少し会長のこと見てみましょう。何か手伝えることがあったら……一緒に」
「分かった」
石原はその視線を受け止め、静かに応じた。
不思議と、胸の奥が少し落ち着いた気がした。
「……じゃあ、先輩。また明日。今日は……ありがとうございました」
「おやすみ、緒山さん」
彼女が家へ入っていく背中を見送りながら、石原は街灯の下でしばらく立ち尽くしていた。
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【Another View――春野陽明】
春野は、ほとんどよろめくようにして家のドアを開けた。
玄関のセンサーライトが点き、青白く疲れ切った彼の顔を照らし出す。
リビングの灯りはつけなかった。
そのまままっすぐ自室へ向かい、後ろ手にドアを閉めた。
そしてドアにもたれたまま、ゆっくりと床へ滑り落ちた。
暗闇の中、机の上の電子時計だけがかすかな赤い光を放っていた。
22:47。
時間。
また、時間だ。
彼は手を持ち上げ、高校進学のときに父から贈られた腕時計を見つめた。
秒針が一目盛りずつ進んでいった。規則正しく、冷たく、止まることなく。
なのに彼には、時間が何かおかしな速さで指の隙間からこぼれ落ちていくように思えてならなかった。
足りない。
どうやっても足りない。
机の上には、山積みの参考書と模試のプリントが、暗がりの中に重たい輪郭を浮かべていた。
いちばん上に広げられていたのは、早稲田大学商学部の募集要項だった。
その脇には、点数を上げる必要のある科目と目標点が、赤ペンでびっしり書き込まれていた。
先週、父に言われた言葉がまだ耳に残っていた。
「陽明、お前の成績は安定している。だが最難関の学部を狙うなら、この夏休みが本当に勝負だ」
机の反対側には、生徒会の夏祭り用ファイルが置かれていた。
本来なら今日のうちに、ボランティアのシフト初稿と予算の最終確認を終えているはずだった。
だが実際には、建材の規格確認や屋台の電源調整に走り回っていた。
どれも誰かに任せられた仕事だったのに、任せきれなかった。
その結果、一日かけてようやく物品リストの照合を終えるのが精一杯だった。
それに、あのメール。
石原が言っていた、あの最終確認メール。
彼は手探りでポケットからスマホを取り出す。
バッテリー残量が少ないせいで、画面は自動的にいちばん暗くなっていた。
震える指でロックを外す。
メールアプリのアイコン右上に浮かんだ赤い「47」が、まるで自分を嘲笑っているみたいだった。
下へスクロールした。
見つけたのは、『夏祭り物品調達 最終確認(添付一式あり)』という件名のメールだ。
送信時刻は16:17。
既読状況には、花野、立花、それに顧問教師の名前まで並んでいた。
全員、二時間以内には確認を終えている。
未読のままだったのは、自分だけだった。
冷たい自己嫌悪が、心臓をきつく掴んだ。
今日の午後、自分は何をしていた?
三件目の建材業者と、突然の五パーセント値上げについて延々と交渉していた。
旧校舎の倉庫で、去年の資材に傷みが出ていないか不安になり、自分で板材の寸法を測っていた。
頭の中では、ボランティアのシフトの組み合わせを何度も並べ替えて、“完璧な”案を探し続けていた――
時間を無駄にした。
優先順位を取り違えた。
しかも、きちんと仕事を終えてくれていた後輩たちに対して、あんなふうに疑いに満ちた、見苦しい顔を向けてしまった。
「あ……」
喉の奥から、押し殺したような息が漏れた。
重圧は、一つの場所からだけ来ているわけではなかった。
勉強は、最初から分かっていた大きな山だ。
生徒会の責任は、自分で選んで背負ったものだった。後悔したことはない。むしろやりがいさえ感じていた。
――高三の時計が、容赦なく刻み始めるまでは。
そのうえ心の奥には、自分でもあまり触れたくない空白が一つ残っていた。
先月、彼は正式にバスケ部を辞めた。
本当に、時間が足りなくなったからだ。
最後の練習のあと、部員たちは強く肩を叩いてこう言ってくれた。
「生徒会のほうが今は必要なんだろ。分かってるよ」
けれど、その目の奥にあった惜しさも、少しの距離も、春野にはちゃんと分かっていた。
二年以上打ち込んできた部活だった。
汗を流し、声を張り上げ、仲間と同じ目標に向かって全力で走ってきた場所だった。
それが今は、ただの「元キャプテン」だ。
一つずつ切り離して見れば、どの問題にも対処できる自信はあった。
だが、それらが四方八方から波のように押し寄せ、どれもこれも「最高」を要求してきて、一つも落とせないとなったとき――
「まだ余裕がある」と信じていた心の弦は、ついに悲鳴を上げ始めていた。
今日、石原と緒山に向けてしまったあの態度。
あれが、そのひび割れだった。
仕事が終わったなら休むべきだと、そんなことは当然分かっている。
石原と緒山が、楽しそうに一緒に過ごしているのを見て嬉しく思う気持ちだって、確かにあった。
それでも彼の感覚では、仕事に「終わり」はない。
あるのはせいぜい「ひとまず基準を満たした」という状態と、「まだ改善の余地がある」という現実だけだった。
そしてもっと彼を冷えさせていたのは、最近、自分が「未来」に対して奇妙な空虚さと歪んだ切迫感を覚えるようになっていたことだった。
机の前に座り、志望資料や作業表を広げているとき、本来なら――
一つひとつの進路も選択肢も、目の前に整理された道として見えるはずだった。
なのに今は、それらがすべて底の見えない渦のように歪んで見える。
必死に計画を立てようとした。
確かな「見取り図」を掴もうとした。
だが思考は霧の中を空回りするばかりで、焦れば焦るほど手応えは遠のいていく。
未来は、これから敷いていく一本のレールではなかった。
いつ自分を呑み込んでもおかしくない、濃い霧の広がりだった。
その「先」が見えない感覚は、時間が失われていくこと以上に、彼を怖がらせていた。
次の一歩さえ見定められず、確かな形にもできない人間が、どうして人生の舵を握り、今ある責任を背負いきれるというのか。
スマホの画面が、とうとう完全に暗くなった。
バッテリーが切れたのだ。
暗闇が、彼を丸ごと飲み込んだ。
自分の状態がおかしいことは分かっていた。
一度立ち止まって見直すべきことも。
助けを求めるべきことも。
仲間を信じるべきことも。
全部、頭では分かっていた。
だが「分かっている」と「できる」の間には、彼自身にもまだ正体を見切れない、
“執念”という名の深い断絶が横たわっていた。
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【石原家】
石原は机の前に座っていた。
スタンドライトの明かりが、目の前に開かれたノートを照らしている。
そこに文字はなかった。
あるのは、指先が無意識になぞった乱れた線だけだ。
春野が最後に見せた、異常な断片を交えた混乱した感情タグが――
それが、警鐘みたいに頭の中で何度も鳴り続けていた。
石原はスマホを手に取り、春野とのチャット画面を開く。
入力欄でカーソルが点滅していた。
「大丈夫ですか」とそのまま聞いても、おそらく今夜と同じように「問題ない」とかわされるだけだ。
呼び出して話す?
今の春野の状態と性格を考えれば、断られる可能性のほうが高い。
石原はしばらく指を止め、それから打ち始めた。
「夏祭りのボランティア配置について、一つ案があります。
簡単な希望確認をもう一段階入れれば、あとからの調整負担を減らせるかもしれない。
明日の午後、緒山さんと一緒に学校で資料整理をする予定だ。よければ、そのときこの流れを直接確認したい。ついでに旧校舎倉庫の物品確認表も持っていく。
三時、生徒会室でどうですか」
送信した。
スマホを置き、石原は窓の外の深い夜を見る。
これで春野の問題の核心に触れられるのかは分からない。
そもそも返信が来るかどうかも、怪しかった。
それでも、やってみるしかなかった。
夜はさらに深くなり、石原は疲労の底へ沈むように眠りへ落ちていった。
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【八月十日/十一日・未明】
そして、彼は“見た”。
それは一つながりの夢ではなかった。
焼けつくように熱を持った、砕けた断片だった。
耳をつんざくブレーキ音。
激しく反転する自分の視界。
そのあとに来たのは、冷たく、自分の体ではないみたいな麻痺した感覚。
入り乱れる人の声。
救急車の回転灯の赤が、闇を切り裂く。
どこか真っ白で、息が詰まりそうな場所で、曖昧で焦った声が聞こえた。
「……適合した……助けられる……」
最後に見えたのは、涙で濡れて輪郭の滲んだ顔だった。
その目には、耐えきれないほど大きな悲しみが満ちていた。
彼は、その目を知っていた。
叫ぼうとした。
だが、声は出なかった。
次の瞬間、彼はベッドの上で勢いよく身を起こした。
寝間着は冷や汗でぐっしょり濡れ、心臓が胸の中で狂ったように打っていた。
窓の外はまだ真っ暗だった。
午前三時。
ただの悪夢だ。
そう自分に言い聞かせても、指先は勝手に胸元へ伸びる。
そこにはまだ、何か冷たく空っぽな幻痛の残像が貼りついている気がした。
言葉にしがたい不安が、
水に落ちたインクみたいに、胸の奥でゆっくりと滲み広がっていった。
あとがき
読了ありがとうございます!
次話予告:
第十四話【 繋がる悪夢――もう一つの世界、もう一つの未来】
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それでは、次回もお楽しみに!




