第六話 生きていく術
日の光に焦がされるような暑さで目が覚める。なるほど、カーテンはそのためにあったのか。
窓を開くと気持ちの良い風が入ってきて、こもっていた部屋の空気が澄んでいく。
心地よさに深呼吸して、俺は部屋を出た。
自分よりも先に起きていたヴィクがゴミ袋の口を縛ってこちらを振り返った。
「ルイ。お休みなのに随分と早起きだね」
「おはよ。ヴィクもじゃん」
「私は、習慣みたいなものだから」
無理に口元を引き結ぶヴィクから目を逸らし、バスルームへ向かった。
「俺も。トイレ掃除してくる」
「あ、ごめん。先に終わらせてしまったんだ。……シャワールームも、……洗面所も」
後を追ってきたヴィクがばつの悪い顔で、小出しで説明しながらゴム手袋を外した。
クロードは舌打ち、リュドヴィックは謝罪が口癖か。うんざりとした心地で肩を竦めた。
「謝んなよお。怒ってるんじゃなくて、やらせちゃって悪かったなあって思ったんだ。明日は俺がやる。みんなで使ってるんだし、当番制にしよう」
「う、うん」
気まずそうに返事をして、ヴィクは使い捨ての手袋を水洗いして風呂場に干す。
きっと、家事を当番制にしてもユズは喜んで働いてくれるだろうが、もう一人は。
声をかけることを考えただけでもう気が重い。
顔を洗いながらなんて言おうか考えていると、軽いルームプレートが揺れ、ユズが起きていることを知らせた。
部屋から出てきた彼女はなぜか制服姿で、不思議そうに時計を見上げた。
「あれ、ふたりとも早いね。今日ってお休みじゃなかったっけ?」
「それは完全にこっちのセリフだろ。なんで制服着てんだ?」
「わたしは追加授業ぉ~」
ふくれっ面で不満を伝えるユズに驚く。
きゅ、と蛇口をひねった音が良く響いた。
「え、今日土曜だよなあ? 俺、流石に平日だけだと思ってた」
「私も、金曜日だけだから、みんな、週に1度だけなのかと……」
何度も瞬きを繰り返すヴィクの方が、誤解は深かった。
俺が洗面所から離れると、順番を待っていたユズも蛇口に手を伸ばした。
「いいなぁ。わたしも週1がいいーー」
「そりゃそうだろお」
「どうしてそんなに追加授業が多いの?」
「えー、なんでだろ。女だから? ほら、ヴィヴィアンさんも言ってたじゃん。希少素材って」
器用に歯磨きをしながら話すユズに思わずえっと声が漏れた。
「あのセンパイ、そんな直接的なこと言ったの!?」
昨夜、わざわざパンを届けるためだけに部屋を訪れたヴィヴィアンがまさか、新入生に対して希少素材などと言うとは思いもよらなかった。
腕を吊った彼自身、素材であることに変わりはないというのに!
「ニックネーム、ラールちゃんだからね? わたし」
顔を拭いてなぜか自慢げに、両手で自身を指さし笑い飛ばすユズに目を細める。
「希少ちゃんって。そのまんますぎい。めちゃくちゃ研究者目線じゃん」
「ま、元気に帰ってくるから、心配しないで待っててよ」
「それは巷で言う、死亡フラグだなあ」
「バッキバキに折ってやんよ!」
「言えば言うほど死にそうだなあ。もう喋らず行って!」
「え~~~、なんでそんなこと言うの! 寂しい! 行ってくるね!」
「おう」
茶番の様なやり取りを切り上げ、いってきます! と元気に伸ばした彼女の腕をリュドヴィックの大きな手が包み込み、ユズの体がぐいとうしろ引っ張られた。
何故だかその様子は、ひどくゆっくりに見えた。
「私も、寂しい……」
素直な言葉の通りに縋るヴィクに、ユズの胸がぎゅんと鳴ったのがこちらにまで聞こえてくるようだった。
眉を下げて肩を上げて、甘くて高い声が部屋に響き渡る。
「え~~~~~~~っ! ヴィクかわいい~~~っ!! お姉ちゃんも寂しいよ~! でも行かなきゃ! ね! ……あの、ヴィク、力が強い!」
一瞬、目にハートを浮かべたユズは、ヴィクから駄々をこねられるには体格と力量に差がありすぎた。
んぐぃあ、と独特の声を上げながら腕を引っこ抜こうと頑張るユズに、しばらくその様子を眺めてヴィクは、名残惜しそうに手を離した。
食事用の丸いテーブルにチェス盤を広げ、俺とヴィクは向かい合わせに座っていた。
黒の駒が随分と削られ不利のように見える中、白のクイーンが大きな顔で黒のポーンを飲み込む。
しばらく悩んだ様子を見せた後、黒のルークが左にぐんと進み、クイーンの前へ躍り出るとヴィクの躊躇いがちな声が勝利を告げた。
「あーーっ、くやしい! 勝てない!」
「ご、ごめん」
「謝んなってば! 手加減して負けられるよりはマシ! もっかいやろ」
「うん」
時計の針が二人の沈黙を繋ぐみたいにチクタク音を奏でてくれている。
駒をもとの位置に戻していると、同室の最後の住人がリビングへ顔を出した。
「あ」
「チッ」
昼に差し掛かろうとしている時間に起きたクロードが、比較的静かに扉を開くとあいさつ代わりに舌打ちをひとつ、浮かせた足を仕方なくこちらへ向けた。素足が絨毯を踏む。
「あー、おはよう。……一応、おまえの分のパンもあるけど食うかあ?」
「……食う」
冷蔵庫を漁る後ろ姿に、昨夜ヴィヴィアンからもらった袋を見せると、意外にも大人しく俺らの間に座ってクロワッサンを受け取った。
「おっ、意外」
「は? お前が聞いてきたんだろが」
いやあ? と眉を上げて右手を振った。
静かにチェスの盤面を揃えるヴィクと目が合って、彼がはにかむ。
「断られるもんだと思ってたからさあ」
「食われたく無ェんなら最初っから聞くなや」
「そういうことじゃなくて。おまえなんかの用意した飯なんか食えっかよ! ぐらい言われるもんだと思ってたからあ……」
あ、これは怒鳴られる。調子に乗って言いすぎた俺に返ってきたのは、対照的に落ち着いたクロードの声。お得意の舌打ちもなかった。
「……飯、ある時に食っとかねぇと、死ぬだろ」
正午を知らせる神聖な鐘の録音にかき消されることなく、彼の勢いのない言葉がただ空を漂った。
そっと、クロードを見つめる。
少し赤らんだ頬に、うっすら汗の滲んだ首筋。恐らく熱が出て口が軽くなっている。
電子レンジで温めたコーヒーを啜るクロードに、ジャム用のナイフを手渡した。
「あー。昨日、追加授業どうだったんだ?」
何でもないような顔でジャムを掬う彼は、慣れていない手つきで腕までべたべたに汚して。
リュドヴィックが布巾をそっとクロードの側に寄せた。
「血、抜かれた」
「お。みんなそうみたいだなあ。注射もされたか?」
ちぎったクロワッサンと同量のイチゴジャムがのったパンを口いっぱいに頬張って「ん」と答えた。
「他は?」
「ハンマーで。全身叩かれた」
「はあっ!?」
「るせぇ」
悪態を吐く鋭さも普段には劣っている。
言われて見れば、イチゴジャムではない赤みのある腕に気が付いて。
そうなれば自分より小さく細い怪我人相手に、何を怖がる必要があったのか。気が付けば、同情心なんてものまで抱いてしまっていた。
「え、それ。……マジで生きてて良かったなあ」
「ハッ、別に死のうが変わりねぇけどよ」
「変わりあるだろお、流石に。はあ、今日はゆっくり休んでろよなあ」
「うるせぇ。ほっとけ」
手首を折り曲げるようにして、大きなクロワッサンを細い腕で隠しながら咀嚼する。
一口が小さいのか、食事をするだけの体力もあまりないのか、ゆっくりと食べ進めるクロードの姿に、机に乗せていた体を椅子に預けた。
前髪の隙間から怪訝そうな視線がこちらに向けられているのを無視して、ゆっくり食事を進める彼の邪魔にならないよう、ヴィクにチェスの攻略法を尋ねた。
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「ただいまー、生きて帰ってきたよー」
いつも煩い女が少し疲れた様子で、靴を脱いだ。
「おかえり! 無事で良かった!」
すぐに駆け寄っていくパシダーム。えらく調教されているこった。
「おかえりい」
「あ! クロード起きてる!」
「うるせぇ」
オレを指差してパシダームを操縦する女の、まるでおもちゃでも見つけたみたいな態度に腹が立つ。
「今日は何されたんだ?」
「腕刺す! えっと、注射! あとねえ、なんかいっぱい写真撮って、回る、椅子? 機械? みたいなのに乗ってぐ~るぐる。ちょっと酔ってる。きもちわる~い」
「マジでなんの実験してんだろ」
「ね~」
椅子まで運ばせて、同じテーブルに着いた女が途端に思い出したように声を出した。
「クロード、シュークリーム食べる? テオ先生がくれたんだ。地下鉄の構内で売ってるやつなんだって。有名らしいよ」
クソみてぇな白衣共を先生なんて呼んで擦り寄って。
それだけで食いもん恵んでもらえるような女はバカみたいな顔で、オレにもお恵みを分け与えてやると箱を揺すった。
「うるせぇ。寝る。頭響くんだよお前のデケェ声」
「あっ、ごめん。ゆっくり休んでね。冷蔵庫入れとくから、元気な時食べてね」
囁き声で謝罪するご丁寧な気遣いっぷりに体から力が抜ける。
オレに手を振った女の袖が落ちる。露になった白い肌には傷一つなくて、そいつの清潔さがいやらしいくらい伝わってくる。
「ハッ、クロットゥ」
ぱたんと閉じた扉の向こうで三人が騒がしくしている声がやけにはっきり聞こえて、退散して正解だったとベッドに横たわった。
寝返りを打った布団は熱を孕んで、ぐらぐらと揺れる頭が痛みを訴えるもので、苦しさに枕に爪を立てた。




