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第七話 分別



 寮で生活しているとはいっても、外出や外泊への制限は甘い。

 申請書を出すと、基本的にはマーシャの独断で受理されるらしい。

 もちろん、妹恋しいわたしは土日に外泊申請を出して、家族との蜜月を終え月曜日の早朝。

 抜き足差し足、寮の扉を開いた。

「ただいまー……」

「お、おかえりい」

 起こしては悪いと足音に気を遣ったけれど、通路に置かれたゴミ袋を思い切り蹴飛ばしてしまって意味がない。口が縛ってあったおかげで大惨事にはならずに済んだ。

 洗面所から水の音とルイの声がしてほっと息が抜けた。奥にリュドヴィックもいるようで、屈んで洗面所に向かっている様子が見える。

「おはよ、わたしも着替えてくるねー」

「おう」

「おはよう、おかえり! ユ、ズ!? え!!? びょ、病院!!」

 慌ててうがいをしたヴィクが濡れたままの手で、わたしを抱き上げた。

 その拍子で隠したかった顔のガーゼが彼の前にさらされてしまい、混乱したヴィクが大声を上げる。

「え! どうしたんだ、それ!」

 当然、彼の声にルイも洗面所から飛び出してきてしまい事態は広がってしまった。

 朝の挨拶なんてせずにさっさと部屋に引っ込んでおけばよかったと後悔しても遅い。あちゃあと呟いておでこを叩いた。

 どうせ隠し通すことも出来ないのだから、早めに見つかってよかったと思っておこう。

「どうしたの!? どこで!? なんで!?」

「お、落ち着けよ、ヴィク。とりあえず病院だな。えっと、テッドに……、いや、マーシャに!」

 落ち着くようにとヴィクを宥めるルイも混乱しているようで、どこから出したのか携帯電話を操作しようと人差し指を彷徨わせる。

「あっはは。おちついてー。ただ転んだだけなんだけど、怪我した場所が場所だから派手な感じになっちゃった」

 泣きそうなヴィクが壊れ物に触れるような手つきで頬に触れる。これでは怪我をしたのがどちらかわからない。

「救急車……」

 ヴィクがすん、と鼻を鳴らした。

「ほんとに大丈夫だよ。そんなにひどくないから! 痛くないのに見た目だけ派手で恥ずかしいくらい」

 わたしの言葉にひとまずは納得してくれたルイが、ポケットに電話を片付けると心配そうな表情のままこちらを見つめる。

「他に怪我はないかあ?」

 彼の言葉に自分の体を見下ろした。ヴィクの腕が苦しいくらいで他はそこまで。

「んー、腕ぶつけたのと、足もちょっとやっちゃったけど、隠れるし大丈夫! ヴィク、離して」

 安心させるために、ゆったりとした口調でヴィクに話しかけた。

 それなのにより一層ぎゅう、と力を強くした彼の拘束に苦笑い。妹はこれでいつも誤魔化されるのに、弟には効かないみたい。

「ユズ、私の目の届く範囲にいて……」

 それどころか新たなわがまままで付け加える。

 かわいいなあ、としがみつく彼の指を撫でた。

「難しいこと言うなぁ。うーん、わたしが行くところにヴィクも来て~」

 彼の無茶な言葉に同じ無茶で返すと、指が絡め取られる。

 狼みたいに獰猛な瞳が、強い確信を込めて頷いた。

「わかった」

「わかっちゃったかー」

 軽い声で復唱してけらけらと笑うわたしは、彼の真剣な表情に気が付いていなかった。



   ▼   ▼   ▼

 クソみてぇな気分でも、朝が来たら起きて服着て、大人に従う。

 どうせすぐ殺されるのに、こんな行動に何の意味があるのか。

 そう思っていても、実験以外に危険がないのは十分ここに留まる理由になる。

 靴のすべり止めの音がいくつも響く体育館。

 踏みつけられて仕事をした、と声を上げるのはオレと似ていた。

 どうせ何を考えたところで、大人には従うしかない。

 デカすぎる体操服がこすれてかゆかった。

「おえ」

 目の前に立つ、顔面にでかいガーゼを張りつけて嘘くさい笑みを浮かべた女に世界を恨んだ。

「よろしくね、クロード!」

「最悪かよ」

 つくづく、相性が悪い。

 背の順なんてクソ制度を考えたやつは死ねばいい。

 体格差による有利不利を減らすためだとかなんだとかで組まされた二人組は、金髪とパシダームに差がありすぎる。

 そもそも対格差云々を言うのであれば、男女を分けろ。

 尽きない文句に頭が茹だる。ふと、背中に重みを感じた。

 準備体操に前かがみになった俺の背を、女の両手が押している。まるで普通の学生みたいに。

 女の細い指の感触が体温にぼやける。

「クロード体柔らかいねー」

「うるせぇ」

「え、腕ほっそ! ちゃんとご飯食べてる!?」

 女のオママゴトでもしているかのような診察に、お得意の笑い声を吐き捨てた。

「テメエみてぇな恵まれた奴らのゴミ食ってるよ」

「ゴミは食べ物じゃないよ。あ、今日みんなでお昼ご飯、外に食べに行くんだ。クロードも一緒に行こうよ」

 ほざく女に、は、と声が漏れる。体が軋む。

 こいつ、話を聞いているようで聞いていない。

 オレの嫌味に気が付いていて、更なる嫌味で返してきているのか。

 それとも単なるアホなのか。

 どちらにせよ気色悪い。頭が痛い。

「誰が行くかよ」

「いっぱい運動した後だからお腹すくだろうね」

「聞けや」

「美味しい日本食のお店らしいから、クロードには特別にお姉ちゃんがご馳走してあげよう!」

「ふざっけんな!」

 耳鳴りがして、世界にオレの輪郭がはっきりと浮かんだ。



   ▲   ▲   ▲

 堪忍袋の緒が切れた。そう言わんばかりのクロードの声に、ヴィクとルイが遠くからわたしたちを見つめていた。

 踏まれて曇ったフローリングの床でも、彼の怒った顔が映っているのがよく見えた。

 周りを浮かぶ蛍光灯の灯りが、まるで彼の怒りの数のよう。

「いい子ちゃんな自分やって気持ちよくなってんじゃねえよ! テメエのオナニーに俺を巻き込むな!」

 怒ったネイティブの早口は、何度聞いても聞き取れない。

 それでも「おおい、女の子になんてこと言うんだ」なんて言葉だけで嗜める体育教師の声に、顔覆ったルイに、不安げに瞳を揺らすヴィクに。なんとなく悪いことを言われたということは伝わってきた。

 その原因がわたしだということは、間違いない。

「ご、ごめん」

 良くも悪くも持って生まれた国民性、空気を読むを発動してそのまま即謝罪のコマンドを取った。

 わたしの選択が気に食わなかったのだろうクロードから追加の舌打ちが聞こえて、慌てて言葉を重ねた。ぐう、と心が引き絞られる。

「ごめん、わたし、自分の事しか考えてなかった。クロードの気持ちも考えるべきだった」

 会話の内容を思い返して、何が彼の怒りに触れたのかを考える。心当たりは一つしかない。

 クロードが何かを言う前に、先に謝罪を述べたくて口を開く。

「クロード、和食嫌いなんだね。ごめん、イタリアンでも、フレンチでも、なんでもいいよ。わたしはなんでも美味しく食べられるから、好きなの選んで。ね?」

 妹も米よりパスタが好きだった。和食はまたの機会にしようと深く頷きを重ねる。

 離れたところからこちらを指さすルイの声が聞こえた。ヴィクに対して何かを訴えるような声。話の内容までは聞き取れなかった。

 呆けたようにクロードがわたしを見ていた。

 前髪の隙間から睨むことなく、大きな水晶玉がわたしを映している。

「……お前、マジで言ってんのか」

 疑う彼の言葉にわずかな希望をかけて、ずい、と顔を近づけた。

「うん、マジもマジだよ。あ、でも、でももし、アレだったら、ビュッフェとか、ね。和食も入ってるビュッフェとか、ね! あ、勿論見るのも嫌なんだったら、全然。本当に」

 両手を振りながら、どんどんと尻すぼみになるわたしに返ってきたのは、舌打ちではなくため息。

 なんだか力の抜けたような彼の瞳が、再び前髪に隠れてしまって勿体ない。

 わたし、散髪得意だからいつでも切ってあげるのになあ、なんて思考が取っ散らかった。

 ただ馬鹿なだけのわたしに、苛立っていたことがバカバカしくなったかのように。

 彼は立ち上がって、今度は私の背中を押してくれた。胸が沈んで膝が曲がる。

「別に。食った事ねぇから嫌いもなんもねぇよ」

 両足首を掴んで、曲がった膝に顔を埋めた。

 そっか、と呟いて背中を伸ばした。

「じゃあ是非これを機会に! 初心者にスメシは向かないから、オスシはまた今度ね。お米に合うのはカラアゲとか、えっと、チキンナンバンとか、あとテリマヨチキンとか!」

 歩み寄ってくれた彼の細い声に精いっぱい応えるべく、鶏料理の名前を思いつく限り並べていく。だってわたし、お米に一番合うのはにわとりだと信じて疑っていないから。

「あっ、オヤコドン、オヤコドン好きなんだ、わたし!」

「悪かった、酷いこと言って」

「テバモトオスデニコンダヤツ」

 尚も鶏料理の名前を上げようとしたわたしに向かって、謝罪の言葉を述べたクロードに面食らう。

 え、なんで。悪かったのはわたしだ。話も聞かずに勝手に物事を進めようとしていたこちらが全面的に悪い。

 今だって彼の言葉を無視して勝手に盛り上がっているのに。

 それなのに。そこをあげつらうことなく自分が失言をした、という一点のみで謝罪ができるだなんて、なんて立派なんだろう。

 わたしには出来ない。

 眉を下げて首を振った。謝るべきは、わたしの方だ。

「謝るのはわたしだよ。クロードの気持ち考えてなかった。それに、わたしは全然気にしてないよ! ほとんど何言ってるのかわかんなかったし!」

 はん、と笑って彼は言う。

「だろうな」

 体を捻って、クロードの頭に手を伸ばした。

「謝れるなんてえらいねえ」

「触んな」

「よおしよしよし」

 毛先の揃わない茶髪は、見た目よりもしっとりとわたしの手を受け入れた。

 撫でられるうちに撫でとかないと。

 わたしの激しい動きに耐えかねた体操服が、ずりずりと重力に従う。

 何故かその様子に、クロードは振り払おうと上げた腕を途中でおろした。

 わたしの腕を見るみたいに頭を動かして、それから大きなため息。

 肩が上がって、胸が下がる。

 舌打ちの次はため息が彼の口癖となってしまったようだ。

 こどもの興味関心好きなものって、直ぐに変わるものね。

 妹もそうだった。ガラガラをご機嫌に振っていたかと思ったら突然ぽいっと捨てていた。

 妹を思い起こさせる彼の言動に愛おしさがこみ上げる。

「ツバキよりは大きいんだねぇ」

「誰だよツバキ」

 関心を持ったクロードの言葉に嬉しくなって、つい、また話し過ぎてしまう。

「妹の名前! 前、妹がいるって話、聞いてたでしょ? ツバキって言うの。とっても可愛くて、お姉ちゃん想いな賢い良い子なんだ!」

 胸の中がじわりと温まる。大人しく撫でられるクロードの姿はもう、新しい弟のようにしか見えなかった。

「あー、話してたら会いたくなっちゃうな。昨日会ったばっかりなのに」

「お前、親は」

 記憶の中の妹と目の前の弟を見つめて、だらしのない顔をするわたしにクロードが尋ねる。

 一方的な感想を聞いているとも、興味があるとも思っていなかったため、反応が返ってきたことに驚いて。

 わあ、と嬉しい声が体育館の中を細く、通り過ぎていく。

「え~~っ、なになにクロード。わたしに興味出てきたの!?」

「おう」

 興味があるだなんて嘘みたいに無機質な声で、じっとこちらを見つめる薄い紫の瞳。

 なぜか、穏やかにかち合ったその瞳が、今までで一番居心地悪くて。彼の頭から手を離す。

 微笑むように目を細めて、視線を遮った。

「あ、お母さんはね、いなくなっちゃったんだけど。お父さんと妹と暮らしてるよ。クロードは? クロードの家族構成も教えてよ!」

 なんだか落ち着かない。

 話したかったはずの家族の話。だけど、このままこの子と話していたら、バレてしまいそうで。

 ぱっと笑顔を作り直してほんの少し。彼から顔を背けた。

「じゃあそれ親父かよ」

 それ、と言った彼の視線が、まっすぐとわたしの頬に向けられていた。

「ぁ」

 咄嗟に覆ったガーゼがざらりと不快な感触を訴えた。

 きゅ、と遠くで靴の引っ掛かる音がわたしを笑っている。

 失敗した。すぐに違うと笑って言わなければいけなかったのに、庇うような仕草は彼の言葉に肯定を示すようなものだった。いや、まだ挽回はできる。

 頬にあてた手で顔を覆って、感動したとばかりに声のトーンを上げた。うん、まだ間に合う。

「クロードってば、心配までしてくれてたの!? 優し~! でもごめぇん、クロードには言ってなかったね。昨日転んじゃっただけなんだ。ありがとね、心配してくれて」

 いつも通り、言葉を重ねる。相手が何かを言う前に。

 感情の薄い、彼の顔。もっと違う場面で見たかった。

「まあ、良いけどよ」

 言葉の真偽を知っているかのように、彼は自分の手首を示した。

 静かな声が、わたしとは対照的によく耳に通る。

「嘘つきてぇなら腕、隠しとけ。流石のお坊ちゃん連中にもバレんぞ」

 蛍光灯に晒された彼の腕の方が、わたしよりも細くて、黄色や青色に染まっていて。

 自分の両腕を体の前に、くるり、くるりと見渡す。

「変?」

 紫の血管が透けているのが気持ち悪いわたしの腕。

 転んで怪我をしたと伝えたのだから、痣があってもおかしくないはずなのに。

「縄の痕見せつけて転んだ、は通用しねぇだろ」

 言葉と同じくらい、彼はこちらをまっすぐ見つめていた。

 前髪で視界が覆われているのに、良く世界が見えている。

 もう一度見下ろした皮膚の薄い腕には、くっきりと赤い痕が残っていた。

 ぐるりと巻き付く両腕に、所々皮膚がめくれて血が滲んでいる。

 これが何によるものかまでわかるのは、彼にも経験があるからなのだろうか。

 へえ。と平坦な声が出た。もう取り繕う必要がない気がして。

「わかるんだ」

 は、と呆れたような笑い声を残して、彼は視線を逸らした。

「顔も。転んだっつぅなら他にも怪我しとけ。顔面だけで受け身取るやつが何処にいんだよ」

「あーー、なるほど。すごいね、クロード。探偵みたい」

 言われて、自分の体を見下ろして。彼の観察眼に感心した。

 たしかに。掌を擦り剥いたりの防御の痕跡がないのは、不自然だった。

 次からは気を付けよう、心のメモにしっかり残す。

 上から降ってきた柔らかな笑い声に、慌てて彼の顔を見上げた。

「ま。お前がその調子で脳みそ無ェ話し方してりゃバレねぇかもな」

「うん、気を付ける! ……でも、バレても大丈夫そうだね」

「は?」

 何が心の琴線に触れたのかわからないけど、クロードの穏やかな表情は嬉しくて。

 ずっと見ていたい、と思っていたらすぐに険しい表情に。

 眉をひそめた彼にがっかりしながらだって、と続けた。

「クロードだって普通にしてくれてるじゃん? ふたりも気が付かないふりしてくれるよ」

「無理だろ」

「えっ、なんで?」

 首を傾げると、クロードはわたしに顔を近づけてくれた。

 後ろでわたしたちを見つめるルイとリュドヴィックが見える。彼らも何かを話しているけれど、こちらには聞こえてこない。

「チビはともかく、デケェ方は女に手ェ上げる人間見たこと無ェんじゃねぇ? お前が痣だらけなんて知ったら倒れんだろ」

 二人の方を見ながら、小さな声で話す彼が可愛らしい。

 思わず零れそうになる笑いを噛み締めて、肩を上げた。

「ルイ、クロードよりも大きいよ?」

「今そんな話してねんだわ」

 気が抜けたみたいな顔で、彼はわたしの肩を軽く殴った。やっぱり、とっても可愛い。

 ちぐはぐな彼の言葉と行動にどうしても気持ちが抑えきれなくなって、またクロードの頭に手を伸ばす。

「ヴィクもルイも、きっとそんなに弱っちくないよぉ」

「ハッ、どーだか」

 わたしの腕を払う仕草すらしなくなったクロードの様子に、掌をゆっくりと動かした。



   ◀   ▽   ▶

 体育館裏の水飲み場で、蛇のように丸められた長いホースを勝手に繋いで、服を脱いだ俺とヴィクは洗車でもするかのように全身に水を被っていた。

 何時間も動き回った結果、体操服は絞らなくても滴るほどに汗で濡れている。

 それだけ汗をかいたのだから、部屋まで戻るよりも手っ取り早くすっきりしたいと思うのは当然のことだろう。恐らくそのためにホースも用意されていたはずだ。

「つっっっっっっかれたあ!」

「うん。今日はよく眠れそうだね」

「わ、いいねー、気持ちよさそう!」

 ばっしゃばっしゃと頭から水を受けている俺たちの会話に声がひとつ、多い。二人で顔を見合せて、ばっと揃って声の方を振り向いた。

 手洗い場の陰から顔をのぞかせたユズが混ぜてよ、なんて言いながら歩み寄ってきていて。

 目を剥いて彼女を見つめる俺らの事なんて眼中にないのか、ユズは自分の後ろからクロードの肩を掴んで前に立たせた。

 そうして屈託なく笑う彼女には悪気なんて一切ないのだろう。

 むしろ、あってほしかった。

「ね、クロードも混ざりたいよね?」

「デリカシーどこやったん? お前」

 言葉のわりには穏やかな顔で、クロードはユズを見つめる。

 冷たい水がコンクリートを叩く音に、全裸の男二人の悲鳴が調和した。



「アー、クロード? 俺はルイ・ロベル。よろしくな」

 慌てて体も拭かずに服を着て、今更ながらな自己紹介。

 体操服にしみ込んだ汗の臭いも気にならないほど、顔が熱い。

 隣のヴィクは服で顔だけを覆っている。

 こんな辱めは初めてなんだろう。動けなくなった全身をほんのりとピンクに染めていた。

 そんな俺たちのことを、なにやってんだろう、くらいの感覚で見つめるユズ。

 お前のせいだろ、と下半身丸出しのヴィクを横目に心の中だけで叫んだ。

 もともと高い声をひっくり返したみたいに、言いにくそうな音を出してユズが口を開く。

「ボクはクロード! クロード……、クロードってファミリーネームなに?」

「知らねぇんなら雑ぃことやってんなよ」

 腕を持ち上げ、喉の奥で話すような声で言うユズになされるがままのクロードが、これまでにないほど穏やかな声色で言う。

 あんなに棘の鋭かったクロットゥが、どうすればここまで丸くなるのか。ユズ相手に妙におとなしい姿を見せている。

 そんな姿に上機嫌に話しかけるユズの楽しげな声に、ヴィクがほわ、と顔をのぞかせた。

 真っ赤な顔で、クロード越しのユズを見つめて。

 顔を隠していた体操服を胸の前で強く握りしめる。びしゃ、と水が土をえぐる音がした。

「あっ、わ、私はリュドヴィック! ヴィクって呼んで!」

「服着ろや」

「ボクはクロード! 本当はみ~んなと仲良くなりたいから、いつでも話しかけてね!」

「黙れよおまえ」

 下手な寸劇に文句も言わず、二人と馴染んでいく男にうんざりとした心地で空を仰いだ。

 まあ、ユズがどんな手を使ったにせよ、俺には理解できないだろう。



 車輪が石を踏むたびにがたん、とバスが跳ねる。

 固い椅子で尻が痛い。座り直して体勢を変えた。

 赤ん坊を抱っこした母親がベビーカーを揺らして、忙しそうにあやしている。さっきユズが席を譲ろうとして断られていた。混雑の中であやさずに、座っていればよかったのに。

「バスで十分かー。流石に長いお昼休みでもちょっと焦るね」

「食堂で食やぁ良かったろ。金も時間も勿体ねぇ」

 前の席に大人しく座ったユズとクロードの会話を聞きながら腰をさする。

 お昼前のバスは人が多く、座れたは良いが降りるときは大変そうだ。

 ユズの座る椅子には、通路に立つ男の足が乗せられていて窮屈そうにしている。

 窓側を見遣ると、隣に座ったヴィクが俺の視線に気が付いて首を傾げた。

「夢がないなー、クロードは! 学校抜け出してご飯食べに行く、なんて学生時代の憧れでしょ!」

 クロードの肩にごん、と音がするほど勢いよくぶつけたユズの頭が軽く払いのけられる。

 なんでもない、とヴィクに軽く首を振った。

「声デケんだよおまえ」

 やっぱりどうにも、ユズ相手にだけ彼の棘が抜けてしまったようだ。

 別にどうでもいいけど。

 ヴィクの胸元に同じように頭を預けて、目を閉じる。ヴィクは俺を払いのけたりしなかった。

 そのまま前の二人に向かって、聞こえるように声を張る。

「まあ、でも。外食が憧れってのは、わかるかもお。俺もあんま外で食ったことないからさあ」

 ずっと行ってみたかった、日本食のお店。みんなの口に合うかはわかんないけど。

 言葉を飲み込んで目を開けると、こちらに身を乗り出していたユズに驚いて車体が揺れた。

「ほら、ほら! 夢じゃん! やっぱり!」

 楽し気な高めの声がまっすぐこちらに届いて目を細める。

 がたん、と大きく揺れて、立っている人たちが斜めにバランスを崩す。赤ん坊が泣き始めた。

「ヴィクは美味しいお店たくさん知ってそうだよなあ」

 何度か、瞬きをしたヴィクがゆっくりと首を横に振って、洗剤の香りがした。

「私、外食、初めてで。だから少し、緊張を、していて」

 どことなく幼い表情で口を開く。ふぎゃあ、ふぎゃあ、と重なる。

 彼の言葉に思わずへえ、と呟く。

「意外だなあ。良いもの食べてるイメージあった」

「いいもんは食ってたんじゃねぇの? デケェ家で、一流の料理人が作るようなヤツをよ」

 ハ、と笑ったクロードが俺たちの会話に、言葉を投げる。

 そんな普通の事に驚いて一瞬、子供の泣き声も耳に届かなかった。

 彼の隣で、べろべろ、ばー! と変顔をつくったユズの声だけがはっきりと聞こえてきて。

 まるで世界が戻ってきたかのような感覚にヴィクの声が滲んだ。

「いいもの、かどうかはわからないけれど、庭で野菜を育てていたから、新鮮なものではあったと思う。大きさ……、寮よりは、小さかった、よ。ええと、調理をしていたのは私だから、本職の方が作るような立派なものは、作れなかった、かな」

 クロードの変化に気が付いていない様子でヴィクは、自分へ投げかけられた質問に必死に答えを述べて。全てに満足な返事が出来た、とばかりに胸の前で拳を握った。

 ユズの声が、前から降ってくる。

「え、自分で作ってたの?」

 途端に嬉しそうに目元を緩めて、うん、と返事をした。

「そうだね、気が付いた時にはもう、一人だったから」

 消えてしまいそうな小さな声を拾って、俺は聞き返す。

 窓の外は、良く晴れていて。どこかヴィクには似合わない。

「……ひとり?」

「うん。昔は、世話をしてくれる人がいたのだけれど」

 ほんの少し、寂しそうに瞳を伏せたヴィクに鼻から息が抜ける。

 親戚中をたらいまわしにされた俺でも、食事は用意されていた。ひとりではなかった。

 あっ、と慌ててヴィクは言葉をかき消す。

「いいや、ごめん。変なことを話してしまっていたみたい。忘れてくれると嬉しいな」

「えー? ヴィクの話、聞きたいよ?」

 なんの思考も働かせずに、彼女は即答して。

 そんなユズの言葉に瞳が輝いては暗くなったヴィクに、何も言わずにため息を吐いた。

 いつの間にか泣き止んでいた赤ん坊は、今ではきゃあきゃあと笑い声を上げている。

 停車を示すアナウンスが車内に響いて、バスは静かに動きを止めた。



 バス停から少し歩いて、人の少ない静かな店の群れ。看板が下がったままの暗いブラッスリの奥の、目立つ建物に指をさした。

「ここ!」

 おじさんから聞いていた通りのお店の外観に、興奮が抑えられないで飛び跳ねて三人を振り返る。

「スシもあるぞお! ここのスシが一番美味しいっておじさん言ってた!」

「へえ。なら、それを頼んでみようか」

 泳ぐみたいな龍が大きく口を広げてSUSHIと看板を飾っている。カッコイイ!

 龍の姿を見たユズが目を見開いて、頭を抱えて、空を仰ぐ。その姿にドン引きしながらクロードがおい、と声をかけていた。

「行かねぇの」

「ごめん、いま、カルチャーショックを必死に受け止めてるから、ちょっとだけ待って」

「なんなんおまえ」

 細い路地だから、風が吹くと強い音を立てる。

 かたんかたん、とブラッスリの看板が準備中をアピールしていた。

 中に入っても、店内を泳ぐみたいに龍が赤い壁紙を飛んでいて、興奮しながらユズを見ると「チュウゴクジャナイ……?」と母国語で呟いていた。

 案内された丸いテーブルは、縁の飲食スペースとは別に、真ん中の少し浮いたテーブル部分が回転して、オレよりもテンションの上がったユズがぐるぐる回していた。

「ヤッパチュウゴクジャン!!」

 ぶんっ、と遠心力でおしぼりが飛んで、ヴィクが驚いた声を上げる。

 綺麗にニスの塗られたテーブルに映る大きなシャンデリアが俺たちの影を落としている。

 注文を聞きに来た店員に睨みつけられて、ユズはようやく手を止めた。

「スシ、四人前で」

「スシ四つネ。オッキイ皿、一個でイ? チッサイ皿、ソコ。使っテ」

「あ、はあい」

 メニューも受け取らず、注文するオレに片言の外国人店員がテーブルの上の小皿を指さす。

 ユズはうへ、うへ、と変な笑い声を漏らしながら白地に赤い丸が一つ入った帽子を被る店員の顔を見上げていた。

「チュウゴクダヨネェ!?」

 母国語での会話を試みていたのだろうか、語りかけるユズの声が聞こえていないかのように店員はとっととキッチンへと引っ込んでいく。イラシャマセ~と奥から声が重なった。

 店員の訛りはユズよりも強く、音の飛ぶ癖も彼女とは似ていなかった。

 壁に貼られた手書きの公式アカウント、の文字も少し歪で、けれどユズよりも確実に綺麗な文字に彼女を見た。

「そういやユズって4年前にこの国に来たって言ってたよなあ? それにしては文字読めなさすぎじゃないか? 喋んのはそこまで違和感ないのにさあ」

 自分で飛ばしたおしぼりをヴィクから返してもらいながら、彼女はうーん、と唸った。

「読み書きが出来なくてもできるお仕事って、結構あってね。おしゃべり好きな先輩がいたから、好きなドラマのお話聞いてたらこんなにお話上手になったの!」

 思い出すように、「すっごいお世話になったなぁ」と呟くユズが丁寧にたたんだおしぼりをテーブルに置く。

「でも、もっと稼げる、って聞いたからリセに入ったんだ」

 ふん、とクロードが鼻を鳴らす音が聞こえた。

 そんな彼の様子に嬉しそうに笑って、ユズはクロードの頭に手を伸ばす。

「わたしね、こっち来てから初めての学校なの! だからもう、楽しくて楽しくて!」

 やけにはしゃいだ声の彼女の、距離感の詰め方がバグっていた理由が判明して肩を竦めた。

「コレージュ行ってなかったのか? 義務教育だろお」

 俺の問いかけに珍しく、言葉を探すユズの手を弾きながらクロードが引き継いだ。

「金かかんねぇのと、稼げんのとは別だろ」

 呆れた、と言いたげな口ぶりで、いつものような激しい罵倒はない。

 その言葉と、弾かれた手を見つめたユズは嬉しそうにくすくすと笑うと、再び彼の頭に手を伸ばしていた。

「ふふ、んふふ。やっぱり、わたし、クロードのこと大好き。ね、お姉ちゃんって呼んで?」

「呼ぶかよ」

 離せ、とユズの腕をつかむクロードの姿を眺めるヴィクが、羨ましそうに口を噤んだ。

 ヴィクは? と彼に声をかける。聞くまでもないクロードを無視して。

「ヴィクはコレージュ行ったよな?」

「あ、私は、」

「オマタセ~、ガキ共いっぱい食エよ~」

 会話を遮る、特徴的な声が大きな船の形の皿を運んできた。

 おしゃれなお皿に負けないくらい、カラフルなスシは華やかで、ユズは声を上げた。

「ホアーーッ、アーーーーッ、すっごい! っぽい!」

「ウワ! スシだあ!!」

 王道の、チーズとサーモンを米で包んでハムで巻いたスシから、米の上にサーモンと薄く切ったキュウリを乗せたスシ、それからチーズを米で包んでサーモンで巻いたスシに、いろんなサーモンとハムのスシが所狭しと敷き詰められていて。

 どれもこれも、夢見ていたスシばかりで感動する。スパイスみたいな異国の香りもする。

 そうだ、写真。写真に残しておきたい!

 携帯電話を取り出して、ぽち、ぽち、と操作。器用に箸を握ったユズと、オレンジの多い思い出を何枚か映して確認する。

 薄暗い画像でも、シャンデリアがぬるぬるとした生の感触を伝えてくれていて、大満足だ。

「ちょん、ちょん、でいいから。浸さないで! それ液体の塩だから!」

 ユズに教わりながら、小皿にショーユを垂らして念願の一口目。

 ぐわん、と脳みそが揺れるくらいの衝撃。フォークを握った拳を机にたたきつけた。

「ウッッッッマ!! え、スシウッマ!?」

 俺の声に恐る恐る、クロードとヴィクもフォークで突き刺したスシを口に運んだ。

 ドキドキと彼らの反応を伺う。

「ん。チーズロールうま。これもっと食いてぇ」

「うん。生魚は初めて食べたけれど、結構食べやすいんだね」

 俺みたいに叫ぶことは無いけれど、確実に肩の力を抜いて食事を楽しみ始めた彼らにホッとする。

「現地人にウケてる……、なら、良いかぁ……」

 そう言って、俺以上に安心した様子でユズも一口。少しむせて、箸を落とした彼女は目を閉じた。

「オショウユ、甘いんだ……」

 ユズは見たことの無い顔で、新しい箸をぱきん、と割った。



 さっきまで運動をして腹を空かせていた俺たちにかかれば、四人前のスシなんて一瞬で無くなって。

 少し物足りない気分で店員からデザートメニューを受け取った。

 触るとべたつくそれを真ん中に置いて、四人で覗き込む。決めた、と俺は机を少し回してメニューをユズに向けた。

「俺はチャオズ・オ・ポムってやつにしよお」

「リンゴのギョーザ!」

「私は……、リ・オ・レにしようかな」

「米プリン!」

「ルーロー。ベニエ・ウ・ショコラ」

「デザートロール! チョコのテンプラ!?」

 いちいち復唱して、ユズはそれぞれの顔を見つめていた。

「ユズは? いらない?」

 すんすんと鼻を鳴らしながら、とある単語を指さす。文字が苦手だと言っていた彼女は突っかかることなくその言葉を読み上げた。

「ティラミスで!」

 好きなんだろうか? なんとなく得意げなユズが「ローマジムダジャナカッタ!」とメニューを店員に返していた。

「あ、そう。で、ヴィク。ヴィクはコレージュ行ったよな?」

 デザートはユズから運ばれてきて、彼女はスプーンですくってクロードに差し出す。

 食事前の会話の続きを思い出し、ヴィクを見た。白い体操服の胸元に付いたショーユのシミを、おしぼりでとんとん叩く彼が「あ、」と呟く。

「わ、私も、リセが初めてなんだ」

「マジで。俺ヴィクの予想、全部外れるんだけどお」

 頼んだ本人よりも先にティラミスの味見をしたクロードも、驚いたようにヴィクを見つめていた。

 眉を下げてヘタクソに笑うヴィクにも、ユズはティラミスのスプーンを向ける。

 向かい側に座っていた彼は、テーブルに手をついて身を乗り出してまで、そのスプーンを咥えた。

「おまえ、ひとりって……いつから」

 ぼんやりと、その様子を見つめて問いかけるクロード。

 次は俺の番だと、ティラミススプーンが目の前にずい、と伸びてきて、酸味の強いコーヒーの味が口に広がった。

「あ、えぇと」

 ココアパウダーが喉に張り付く。

 もう、皆のデザートが揃っているのに二周目に入ろうとしたユズに、「いらねぇ」とクロードが言って残念そうに彼女は自分で食べ始めた。

「家庭教師、が。最後に来てくれたのは、……、初等教育の、後半ごろ、かな」

 それからは。と言葉を濁したヴィクが、白いプリンを掬ってユズへ身を乗り出す。

 あーん! とわざわざ声に出して食べたユズがでもさ! と一瞬で飲み込んで言った。

「もう、四人じゃん!」

 その言葉に、なんだかめまいがして。

 見つめ合うユズとヴィクが、二人だけの世界を始めたみたいに、お互いを見つめ合っていて。

 口に広がるリンゴとカスタードの味も霞んで脂っこさだけがいつまでも口の中に残る。

「なんか俺え、すっごい恵まれてたんだなって、急に自覚しちゃったあ」

「ハッ、羨ましいこった」

 ショコラのかかったデザートロールに、ショコラのテンプラを乗せて頬張ったクロードの笑い声が、もう、出会った頃ほど不快ではないことに気が付かないふりをした。

「そろそろ行くかあ」

 会計札を掴んだ俺を、阻んだのは二人。ユズとヴィクだった。

「わたしが払う! 勉強代!」

「え、いいって。誘ったの俺だし」

「流石に女性に支払わせられないよ」

「おい、誰でもいいけど。バスの時間過ぎんぞ」

 何故か。一番自由に二品もデザートを頼んだクロードだけが、支払う気配を見せないのが彼らしいなと少し笑う。

 結局、お会計戦争は意味の分からない理論を展開させたユズが勝利を収め、ガッツポーズを掲げる彼女の腕を引いて急げ、と店を飛び出した。

 からん、とブラッスリを横切る。ひとりの従業員らしき男性が長いサロンを付けて樽を運んでいた。

 薄暗い、路地の奥から、幽霊みたいな影がふらふらと出てきて。

「……クロットゥ?」

 ひどく聞き取りにくい声で、聞きなじみのある言葉を発した。



   ▼   ▼   ▼

 酒かタバコかその両方か。しゃがれた声で黄ばんだ歯を見せつける細長い男がふらふらとオレらに近づいてくる。

 使い古した雑巾みてぇなボロボロの服を地面に擦って歩く男を、オレはよく知っている。

 クソみてぇな人生の、オレの手本。

「行こう、授業遅れる」

 ユズがオレの袖を引く。

 力の抜けたオレの体は、根でも生えたみてぇに動けなかった。

 ユズに気が付いた親父が唇を引きつらせて右手を上げた。顔を背けて目を閉じる。

「ハッ! 偉くなったな、クロットゥが! 女連れてメシか!? 俺にも残飯恵んでくれや!」

 親父の声は狭い路地でも聞き取りにくい。それなのに、よく、耳に残った。

 ぐっと眉間にしわが寄る。噛み締めた口の中に、塩の味が広がった。

 はあ、とため息をついた金髪が、オレの目の前に立って、オレだけを見て言う。

「俺たちに用事があるわけじゃなさそうだ。行こう」

 オレの腕を引いて、動け、と目で訴えている金髪に、ぐら、ぐら、とオレの体は揺れるのみ。

 親父はずっと、何かを喚いていた。金髪とユズが、遮ってるせいで聞こえていなかっただけで、ずっと、こいつらに向かって。

「おおい! そいつはクロットゥだぞ、いいのか! そんなヤツとつるんでてよ!」

 大きな罪を犯したみてぇに脳みそが揺れた。知っていたのに、ほんの数秒忘れていただけなのに。少し楽しいと、思っただけなのに。世界が鈍く、いつもの褪せた色を取り戻す。

 だらん、と金髪に引かれた腕まで脱力して。頭が、下を向く。何も映らない視界が、地面に向く。

 ゆらゆら、ゆらゆら。親父が歩く。特徴的な、足の長さの違う歩き方。

「お前らは知らねぇから構ってやれてんだ! そいつがどんなヤツか教えてやろうか!?」

 わかっている。オレは、きちんとこいつらに言った。だから、だから。

 心の中ですら、声を上げる気力もない。そうだ、こいつらにどう思われようと、構わないはずだった。何を言われたくないって言うんだ、オレは。

 ぐ、と力の入った手が強く拳をつくっていた。体は、心よりも素直に抵抗していた。

「そいつなあ、捨てられてたんだ。ゴミ箱に引っ掛けられたクロットゥみてぇによ! 俺が育ててやったんだぞ! 残飯程度じゃ割に合わねぇなあ!」

 どんなに、嫌でも。オレは親父を拒めない。

 オレの帰る場所は、ずっとそこだったから。

 自分と同じような生き方だと、心を許しかけた女ですら本物の家族がいた。愛していて、愛されている。

 自分にないものを持っている人間と交わるのは、乾いた葉がなくとも夢を見てしまうから、だから、いけない事だったのに。わかっていたのに。

 親に捨てられたオレは、こんな奴でも愛想を尽かされまいと必死でいる。

 ぎぎ、と音でもしそうなくらい体が軋む。

 一歩、親父に向かって踏み出そうとして、動きが止められた。

 そっと、耳に風が吹いた。

 オレの頭を固定するみてぇに、両手で囲い込む手を見上げる。

 テメェが苦しそうな顔しながら、オレの耳塞いで。なにしてんだ、このパシダームは。

「何のつもりだよ」

 喉を引きつらせ、しゃくりあげながらパシダームは言った。

「っ必要のない、言葉だから。聞かせたくないと、思ったんだ」

 お綺麗な持論。そう切り捨てるには、こいつの話を聞きすぎた。

 ぼろぼろと涙をこぼして。拭えばいいものを、オレの耳を塞ぐために両手がふさがってるせいで頬を伝っていく。

 パシダームの手を払って、息が抜けるような笑いが出た。

「要らねぇよ。テメエに気ィ使われるほど弱かねぇ」

 さっきほど、心も体も、固まっていない。動ける。オレは、まだ。

 深い、呼吸の音を周囲に聞かせたユズがもう一度、息を吸った。

 注目を集めた女はこんな場所で誰よりもしっかりと立っていた。

「ありがとうございました!」

 にっこりと笑う、ほっそい目。

 外人特有の、深い深いお辞儀。

 全部が全部、今この場にはそぐわない。

 でも、お前はそうだよな。オレの頭を撫でるお前はいつも、そうだった。

 はっ、と思わず笑って顔を背けた。



   ▲   ▲   ▲

 頭を上げると、クロードを育てた、と言った男の人は、呆然とわたしを見つめていた。

 警察への通報を済ませたルイは眉を寄せて、クロードのそばにいてくれるヴィクは泣きながら、お姫様みたいに守られていたクロードは、ちょっぴり笑って。みんな、わたしを見ていた。

 全員に笑顔を向ける。大丈夫。何の確証も、ないけれど。

 それからクロードの育ての親にまっすぐと声を伸ばした。

 わたしの勇気を後押しするみたいに、涼しい風がごおっと吹く。

「クロードをここまで育ててくださって、本当にありがとうございます! 本当に素敵な人で、大切な友人です! 食事の補助が必要なのであれば、金銭でお応えすることが可能です」

 彼の唇の端がひくり、と震える。それでも彼はまず、笑い声を上げた。クロードの笑い方と、よく似た声で。わたしをきちんと侮辱する。

「おおい、サロップの方がよっぽど話通じんなあ!」

 わたしにではなく、クロードに向かって彼は言う。

 別の人へ侮辱を流す行動。

 わたしのことを、相手にする価値もないと見下しているが故の、行為。

「ですが、彼を罵倒したことは、謝ってください」

 だからこそわたしは、彼を見つめた。男の目が、大きく見開いてわたしを認識していく。

 あなたの相手は、クロードじゃなくて、わたしなんだと。

 男の怒りに満ちた表情に、にっこりと微笑み返した。

「いい気になってんじゃねぇぞ!」

 右手を振りかぶって、向かってくる男をその場から動くことなく見ていた。

 大丈夫。殴られることには慣れている。抵抗はしない。

 父よりも細い腕はスピード感がなく、ゆったりと近づいてくるような感覚を覚える。

 絶対に目を逸らさないと、そう思っていても恐怖が目を瞑らせた。

 鈍い音に、痛みはない。

 草原が風を受けたような、心地の良い香りがした。

「それは、さあ。それは、ダメじゃない? おじさん」

 恐る恐る開いたわたしの目の前で、後ろ姿のルイが右を向いてそう言った。

 それは、まるで、少女漫画のヒーローも霞むような。

「俺はっ! 俺はそんな女、殴るつもりなかった! 俺は、そいつに今まで食わせてやった礼が欲しかっただけだ! 育ててやったのに、恩も礼も無しかよクロットゥ!」

 ぎゃあぎゃあと、耳に障る声で男が何かをずっと喚いている。全く、頭に入ってこない。

 わたしのせいでルイが殴られた。

 そのことを理解した瞬間、脳が止まっていた呼吸を再開させた。

 水中から陸に上がったばかりかのように息が上がる。体がぐらぐらと揺れて、開いたり閉じたりを繰り返す震える指先がキンキンに冷えていた。

 まって、ちがう。こんなことを、望んで。挑発したつもりじゃ、なかった。

「こどもは、」

 話すことも、動くこともできなくなったわたしの代わりに、小さな音が泣いている。

 クロードのそばで、背筋を伸ばしたヴィクが震える声で言った。

「子供は、親の所有物では、ありません。彼は彼で、あなたはあなただ。クロードは、私たちは、誰かのもの、では、ありません」



   ▼   ▼   ▼

 親父に殴られて、血を流す金髪も、手を浮かせて、動揺を隠せないユズも。

 はぁ、はぁ、と、肩を上下させる隣の男も。

「ましてや、あなたが殴ったのも、今、血を流して、いるのも。全部、クロードでは、ない」

「もういい」

 息も絶え絶えに、胸を抑えて。それでも最後まで言葉をつなげたパシダームの腹を、拳で軽く小突いて親父に一歩踏み出した。

 もう充分。オレたちは充分、傷付けられた。もう、いい。

 分かりやすい血痕が二つ、道を染めている。がなる男の唾液が飛んで汗の臭いが香水に混ざる。

 お綺麗な煉瓦通りを、随分汚してしまった。

 情けねぇ。オレより弱い女に、馬鹿にしてた男に、オレより怯えている男に、守られて。

 太った警察が赤い棒を振って、息を上げながら野次馬を背負って走ってくるのが見えた。

 まっすぐ、父親だった男を見据える。

 男に教わった笑い方で、男に倣った口調で。

「テメェには感謝してるよポーヴルコン! 俺よりもクロットゥな人間が、一人はいるって安心できっからよ!」

 もう、こいつに嫌われていると、認めても。オレは呼吸できる。



   ▲   ▲   ▲

「はは。お揃いになったなあ」

 わたしの頬をそっとなぞったルイの、知らないはずなのに核心をついた言葉に胸が詰まった。

 拳の痕が、頬に残っている。

 連れていかれる男性が何かを叫んで、パトカーの扉が彼の言葉を閉じ込めた。

 警察と話をしているクロードたちがこちらを指差している。

「っごめん、ルイごめん。わたしのせいで、ごめん、ごめんなさい」

「なんでユズが謝るんだよお。殴ったのはあいつだろお?」

「違う。ごめんなさい。わたしなら、っいいと思ったの。避けられたはずなのに、避けなかった。殴られてもいいやって、ごめんなさい。わたしのせいで、ルイが」

 泣いてはいけない。自分には何も起こっていないのに、泣くのはおかしい。女が泣くのは、嫌われる要因になる。ルイに、まだ、嫌われたくない。喉を鳴らして、涙を飲み込む。

 奥歯を噛み締めて、強く強く腕に爪を立てた。袖に隠せば、バレたことは一度もない。

「えー? ユズは庇った相手に自分のせいだって言われたら、そうだって返す人なのお?」

 わたしの手をそっと抑えて、ルイは柔らかく問いかけた。

 見上げた彼は唇の端が切れ、血が固まっている。一言も責めることなく、ルイはわたしを抱きしめた。

「ごめん。ごめん、わたし、っ、ありがとう」

「うん。どういたしまして」

 まぶたが腫れだしたルイの顔が、痛々しくて。

 温かな彼の胸の中で、逃げ場のない後悔が心をすり潰す。

 彼の新緑の香りが、爽やかにわたしを追い詰める。

 整わない息を深く吸って、深く吐いて。繰り返して。

 震える呼吸の落ち着け方は良く知っている。

 ほんの数回で何もなかったかのように顔を上げて、わたしはルイから離れた。

 私たちの様子を伺っていたクロードとヴィクが近づいてきて、手続きを終えた警察はうんざりするような顔でこちらを見つめていた。

 遠くから、いつからいたのか見物客のやじが飛んでくる。

「ごめん、ルイ。病院ついていけない。わたし、クロードに言いたいことがある。今、言いたい。わがままでごめん」

「うん、言ってやって。俺の分もさあ」

「うん。ヴィクも、ごめんね。警察、嫌だと思うけど」

「ううん、私たちは大丈夫。この後ヒーローが付き添いに来てくださるそうだから。二人は寮に戻って先に休んでいて」

 涙の筋が残るヴィクも、わたしのわがままを許してくれる。

 そっと、彼と触れ合うだけのハグをして、クロードの手を握った。

「ありがとう。ふたりも、気をつけて戻ってきてね。……帰ろ、クロード」

 わたしより小さな彼の手は、細くて硬くて荒れていて、割れていて。

 握り返してくれることは無かったけれど、振りほどかれることもなくわたしを受け入れた。



 リセへとつないでくれるバスの時間は、ついさっき過ぎてしまった。

 電光掲示板の数字が光って、切り替わる。次に到着するのを待つよりも歩いて帰った方が早い。野次馬が、わたしたちの周りをうろついている。

「ね、お話しいっぱいしたいんだ。歩こ」

 短く返事をするクロードの手を引っ張って、早歩きで街を出た。

 こういう時に連絡するための携帯電話は机の引き出しにしまい込んだまま、一度も役目を果たせていない。

 しばらく無言で、二人で歩く。何も言わずに、何も言われずに。

 人気のない農道。ここまで追いかけてくるような人はさすがにいなくて、少し動きを緩めた。

「ヴィク、」

 高く伸びた雑草と同じ背丈のわたしたちは、ゆったりとした坂道を上る。足が、重くなる。

 わたしの声に、クロードの手がぴくりと反応した。

「ヴィクも、ルイも。全然、弱っちくなかったでしょ?」

 一拍、彼の呼吸が止まった。

 それからわたしの手を握り返して、クロードは言う。肩が下がっていた。

「おー」

 力の抜けた彼の体はとても軽く見えて。どれほど気を張って生きてきたんだろう。

 ほんの少しの間なのだから、クラスメイトと楽しくやっていけたらそれでいいと思っていただけなのに。目を細めて、ね、と口を開いた。

「わたしね、妹がいるんだ」

「聞いた」

 ささやかな返事に息を吐く。彼の頭を撫でたいけれど、手が伸びなかった。

 肩を竦めて、息が抜ける。わがままだけれど、クロードには話したかった。

「すっごく可愛くて、こんなわたしのこと大好きだって言ってくれる大事な妹。だから、妹には内緒の話。クロードにだけ特別に教えてあげる。聞きたいでしょ?」

 風もなく。二人分の呼吸と足音だけが続く。わたしは自分の影を踏んだ。

「わたしたちね、お父さんのお仕事についてこの国に来たの。飛行機に乗って、日本を出るぞ~って時、まだお母さんは市役所で働いてて。お仕事の引継ぎが終わったら行くね、って言ってたんだよ。でも、お母さん、まだ来てないんだ。もうすぐ来るんだけどね!」

 いつも、部屋で唱えていた。妹に、自分に。希望をかけてもう一度呟く。もう、すぐだから。

 クロードの顔を見ずに話を続けた。誰に見せるでもないのに、顔だけは笑顔を取り繕って。

「妹と、お父さんと、わたしだけ。最初はおっきいお家でうれしくて、早くお母さんに見せたかったんだけど、」

 吐いた息が、大きく世界に広がって、それを集めるみたいに空気を吸った。

 内緒の話を教えると言ったのはわたしなのだから、勿体ぶらずに早くすべてを話してしまえ。

 そう思っているのに何故か言葉が詰まって、鼻をこすった。

「っ、わたしね。お母さんによく、似てるんだって。酔っぱらったらお父さんいつもそう言ってるの。それから、なんで裏切ったんだ、って」

 顔を上げると、彼と目が合った。

 ただ、じっと見つめる。彼はわたしを、惨めにしなかった。

「普段はね、良いお父さんだったと思うんだけど。最近はあんまり家にいることが無かったからもう覚えてないや。妹が学校に行ってる平日はお父さんもいなくて、妹がいる週末には酔って帰ってくるの。ズラしてくれたらいいのにね!」

 調子づいてきて、言葉がたくさん出てくる。

 クロードは、何も言わない。わたしは下を向いて、あは、と零した。

「お父さん、たまに上機嫌で帰ってくることもあるんだ。そういう時は大抵、暴力じゃないけど。……嫌なこと、」

 クロードから手を離す。

 体育の際、見咎められた手首の痕を強くこすった。消えない、汚い痕。

「妹には、そんな目にあって欲しくない。本当は、こんなに汚い自分も、妹には見せたくはないんだけどね。でも、わたし、妹に会いたいのを我慢できなくって。……ダメだなあ」

 最後だけ、どうしても声が震えてしまって。抑えられなかった。

 目元を軽く拭って、クロードに尋ねた。

「クロードもあの人から、殴られたんだね」

「おー」

 静かに、視線を逸らしたクロードのざらつく指が、わたしの手に触れて。強く握られた。

「たぶん、お前が嫌なこと、っつったのも」

 ぐい、と彼に引かれて、やっと、わたしの足は動いた。

 そっか、と笑った自分の声が、何よりも、わたしの心を締め付けた。

「一緒だね」

 何も言わない、クロードはわたしの手を離さなかった。



 リセの白い門の近くに、二人の人物が見えた。

 電話を耳に当てながら、何かを話しているテッドと、忙しなく動き回るマーシャの姿。

 彼らはわたしたちを見て、動きを止めた。

 そして、こちらに駆け寄ってくる。二人揃って不格好な走り方で、つんのめりながら。

「良かった、無事だったか!」

「もう、もうもう! この子達ったら! お母さんをこんなに心配させてっ!」

 叱られるだろうと、構えていた私たちの耳に入ってきたのは、そんな言葉。

 まるで、本当にそう思っているかのように。二人は安堵の表情で私たちを迎えた。

 じっとりと汗の滲んだマーシャに、わたしとクロードは抱きしめられて。

 顰め面のクロードが離せ! と暴れている姿にやっと、戻ってきたと思えた。

 そっと近寄ったテッドがわたしの頬を撫でて、丸眼鏡ごしに微笑む。ガーゼ越しにも襲う不快感に、ほんの少し、息が抜けた。

「トッドから連絡があったよ。大まかな事情は聞いている。今日はもう休みなさい。マーシャは食事を用意してあげてくれ」

「もう、テッド先生!? 私、本当に怒ってるのよ!」

「わかっているよ。けれど、まずは休息が必要だろう」

 マーシャの声に苦笑しながら言うテッドが、わたしに向かって「行きなさい」と促す。

「無理はしないように。ね」

 そっと、横切るわたしの耳元でささやく灰色の瞳が、クロードを映すことは無かった。



 クロードが部屋の扉を押す。がしょん、とわたしたちの帰寮を拒むように、硬く口を閉ざした扉に二人で首を振った。二人とも、鍵を持っていなかった。

 目を合わせ、肩を叩いて。廊下に笑い声が飲み込まれた。

「オレよぉ、」

 仕方なく。扉を避けるように二人で床に座り込んで、ルイとヴィクが帰ってくるのを待っていると、先に口を開いたのはクロード。

 返事をせずに、彼の方を向いて続きを促す。

「クロードなんつってるけどよ。オレの事クロットゥっつってる親父の声、聞き間違えたジジイがそう呼んでよ」

 ふ、と穏やかに笑ったクロードが、過去を振り返るみたいに遠い目をした。

「そいつ、マジ耳悪くてさ。しかも目も見えてねぇわ足も悪ぃわでよぉ。クラクション聞こえねぇで車に撥ねられて死んだんだけどよ」

 わたしに向く、彼の瞳がまっすぐと。憎しみも、感謝も含めていない、ただまっすぐな瞳がわたしを離さない。

「あいつと、……おまえらだけがオレの事、人間扱いしてくれてたな」

 きぃんと耳鳴りの中、クロードの声が鮮明に心を燃やした。

 彼の柔らかな感情に触れて、泣きそうになる。

 首を傾げて、クロードの前髪を払ってやった。反射的に眉を寄せた彼にくすりと笑う。

「シモンは? その人の名前?」

「シモン? ……あー、いや。入学書類、書いてっときにいるっつぅから受付のヤツのパクった」

 素直に事実を語る彼になにそれ、と吹き出して、言う。

「じゃあ、今後はクスモト名乗りなよ」

「ハッ、似合わねぇだろ」



   ◀   ▽   ▶

 寮の階段を上っていると、けらけらと笑い声が聞こえてきた。

 扉を開けたままテレビでも見ているのかと、ヴィクと二人で廊下に出ると、地面に座り込んで楽しげにクロードの肩を叩くユズの姿が見えて、えっ? と隣から声が漏れた。

「えっ、と。風、邪を、ひく、よ?」

 ヴィクが躊躇いがちにそう言うと、二人は顔を見合わせてから、よいせ、と立ち上がった。

「いやあ、鍵、ふたりとも持ってなくてぇ! ごめーん、開けてぇ」

「鍵かけてないだろお!? 俺たち今朝一緒に出ただろお! 鍵なんてかけてないって!」

「え、マジ? やば」

「開かなかったけどな」

 疑うような手つきでクロードがノブを捻って押す。やはり開かないと、俺を見上げる二人に体がわなわなと震えて叫んだ。

「引くんだよ!!」

「マジ? やば」

 言葉通りに俺が引いた途端、頑として口を閉じていた扉が簡単に四人を部屋の中へと許した。

 けらけらと笑うユズがクロードの震える肩を叩く。確実に、俺たちと別れる前よりも気を許している様子に、全部の感情を込めてはあ、と息を吐いた。

「おかえり、みんな」

 薄暗いリビングで、ユズは振り返って体をゆすりながら俺たちを迎えるように言う。

 ただいま。と静かな声で呟いて、ヴィクは壁に手を這わせた。

 ぱっと明るくなった室内で、俺を見て口を閉じたユズが、自分の頬のガーゼを指さして言った。眩しそうに、目を細めている。

「病院行ったの?」

「いや、トッドが……、いやあ、何にもしてねえなあ?」

 言いながら首を傾げた俺に、ユズは重ねる。

「痛くない?」

「おう。あいつ、あんま力なかったなあ。口ん中切っただけだあ」

 連れていかれた警察署のトイレで口の中をゆすいで、左の頬に「オジサンが痛いの痛いの飛んでけしてやろうねェ」と言いながらトッドからシップを貼られただけだ。

 怪我の確認も、消毒だってされていないし、した方が良いとも言われなかった。

「あーでも、リセまではトッドが送ってくれたぞお。やる気なさそーなオッサンだった。なあ?」

「う、うん。とても物腰の柔らかい方だったね」

「すぅごい。物は言いようってこのことなんだ。教科書に載ってそう」

 俺に同意を求められたヴィクの返答に、ユズが眉を下げながら椅子に座った。どこか、疲労の色が滲む彼女はそれでも部屋に引っ込んで休む、という選択肢がないらしい。

 同じようにクロードもユズの隣の椅子を引く。洗面所から水の流れる音がして、軽く手を洗ったヴィクも席に着いた。

 残るは俺だけだ、とでも言いたげに。全員の視線を集めてユズとヴィクの間に座った。

「明日、休みでいいって。テッドが、……トッドとテッドって名前似てんなあ」

 ややこしい名前しやがって。

 とにかく、テッドから伝えておけと言われたことはそれだけだ、と伸びをする。思ったより、俺も疲れていたみたいだ。

「悪かった」

 突然響いた声に、ぐらりと頭が揺れる感覚が強くて瞬きを繰り返す。

 クロードの声は、静かな部屋で誰にも無視されることなく、どこかへ逃げることなく、俺たちの耳にはっきりとした響きで残った。

 おまえらのこと。と、彼は続ける。ヴィクの方を見ながら。

「バカにしてた。オレは死ぬ気で、おまえらは遊び半分で。こんなとこ来やがってって。痛い目見たらすぐ逃げんだろって、思ってた」

 息を吸って、クロードの胸が上がる。俺を見る、薄い紫の瞳が、謝罪するとは思えないほどまっすぐに、こちらを射抜く。

「おまえらにどんな事情があるとか、考えるつもりもなかった」

 そうして、ゆっくりと伏せられていく。ほとんど机を見つめながら、彼はもう一度同じ言葉を告げた。

「悪い」

 俯いて。そう言った彼を微笑むように見つめるユズが、頬杖をついた。こちらを見つめるヴィクに気が付かないふりして、俺も同じように片腕で顎を支えた。

「なあ、クロードさあ。ここで初めて会ったとき、ゴミ集める趣味なんてねえ、って。お前言ったろ? 覚えてるかあ?」

「……おー。言った」

 顔を上げて、俺の言葉にふい、と気まずそうに視線を逸らす。それでもクロードは嘘をつかなかった。

 思い出されるのは、最悪な出会いのこと。

 俺のことを殴った、あのおっさんから送られてきた段ボール箱から落ちてきたメッセージカードに書かれていたのは、忘れ物、とだけ。

 印象が最悪だった目の前の彼を、こんなにも誠実な男だと知るようになるなど考えてもいなかったから。俺だって態度を選んで接していた。

 あのゴミを、クロードの持ち物だなんて、信じていなかったのに。

 ヴィクにも、クロードにも、人間としての小ささを実感させられて本当にしんどい。けれど、確かに自分が蒔いたものだ。

 目を逸らさずに、クロードに言う。洗面所から水の落ちる音が小さく聞こえた。

「俺、それ。親戚の家で似たようなの、言われたことあるんだあ。誰かに電話してるおばさんがさ、泣きながら『あんなに大きなゴミ、置いておくような趣味はない!』って」

 おかしくないのに、笑いがもれた。ふ、と机に乗せられたヴィクの大きな手を見つめて、「俺の事、だったんだあ」と。呟く。

「俺の話、聞いてくれよ。お前の話も聞きたいし、俺達の事情も知って欲しい」

 もう、四人じゃん、と。誰かの言葉を思い出して。

 力を抜いて背もたれに体を預けた。

「俺、親殺してんだあ。生まれる時に母さん殺して、それがショックで父さん首吊って。生まれて数週間で二人。俺は立派な殺人鬼」

 四人もいるのに、部屋の中はやけに寒くて、静かで。

 俺の声だけが、虚しく溶けていく。呼吸の音も、聞こえない。

「だから、親戚の家ぐるぐるしてたってわけ」

 いっそのこと、施設に入れられた方がましだったのかもしれない。

 けれど幼い俺には、家族との縁が切れるかもしれないことの方が、耐えられなくて。

「そりゃあ、自分の子供に人殺しなんて近づけたくないの、俺だってわかるからさあ。おばさんが俺の事ゴミって呼んでるのも、仕方ないって思った。思えてる、けど」

 なんで俺だけ。なんで、手を広げてくれないの。受け入れてもらえないの。

 幼い心が今でも泣いている。寂しくて、欲しくて。ひとりぼっちの俺が、誰でも良いからそばにいてくれと。叫ぶのを諦めたのは、いつだったっけ。

 ぱっと、顔を上げて、クロードの顔に向けて指をさした。ユズが何か言いたげに口を引き結ぶ。

「だからって俺は、死ぬつもりはないぞ! 生きたい。絶対死にたくない。って言ったら確かに遊び半分だって思われても仕方ないかも知んないけどお、でも! それでも俺は、ここにいるから」

 ここしか、居場所はないから。

 クロードは視線を逸らさなかった。受け止められる、彼の純粋な心が羨ましい。

「……まあ、つまり。同じゴミでも、俺は不燃ってところだなあ」

 俺の言葉にユズが軽く笑って、肩を小突いてきた。痛いなあ、なんて嘯いて、「ヴィクは?」とバトンを渡す。

 驚いたように、目を大きく開いたヴィクが、両手の指を絡めて握りしめた。

「えぇと、私、……、私、も。ここには死に場所を求めてきた、から。だから……」

 言いにくそうに、何度も言葉を詰まらせて、目をぎゅう、と閉じる。

「私は、つまり、あの……、可燃ゴミ……」

 吹き出したユズの声に、顔を潜めたヴィクが唸りながら情けない声を出す。尻尾を垂らした大型犬みたいに。

「話すの、得意じゃないんだ」

「うん。ゆっくりでいいよ。どうせ明日休みなんだし」

 伸びをして言うユズに、ヴィクも力を抜いた。

 俺が話していた時よりも空気が和らいで、皆でソファに移動する。空気を読んでいたかのように息を潜めていた時計が、気を取り直したかのように、ちく、たく、と時を刻み始めた。

「幼い頃から、家族から嫌悪されていることには、気が付いていたから。だから、ひとりきりで、家族とは違う家に放置されても、そこまでの衝撃は、なかったんだ」

 ユズの手を握って、ヴィクは安心したようにぽつりぽつりと話し始める。

「ただ、案外、自分でも気が付かないうちに、心はすり減っていたみたいで。……近くで、私の母親と、子供の笑い声が聞こえた時に、」

 ふっと、彼の瞳に影が落ちる。ユズが顔を下から覗き込んで、彼の苦笑する息が聞こえた。

「唐突に、世界が、憎らしくなってしまって」

 そりゃそうだ。と、声には出さずに口を歪めて同意する。

 背中を丸めたクロードが真剣に話を聞いている姿が目に入って、鼻から息が抜けた。

「その家から離れる方法として、死を選んだのだけれど。自分でどうにかするのも怖くて、ここに来たんだ」

 ユズの怪我をしていない方の頬を撫でる、ヴィクの手付きが酷く優しく見えた。

 彼の手にすっぽりと隠れてしまうほど、小さく見える彼女の顔が安心したみたいに手に乗っかっている。

「でも、もしかしたら、はじめから私は、死にたくなかったのかもしれない。誰かから、認めてもらって。誰かと、温かい部屋で一緒に眠りたかっただけなの、かも。ここ数日は、生きていたくないと考える時間が、なかったから。もしかしたら、本当は」

 そっと言葉を置いて、まあ、でも。と、彼は笑った。

「今更気が付いたところで、もう遅いのだろうね」

 目を細めて。ユズは顔を乗せていた手を掴むとクロードに向けた。

「どうせわたしたち、長くないんだから。仲よくしようよ。ほら、クロード、仲直りの握手!」

 細い彼女の両手が、筋肉質な男の腕を重たそうに持ち上げて、クロードは少しだけ考えるように見つめてからその手を取った。

「ん……、悪かった」

 それから、俺に向かっても謝罪の言葉を告げた彼に「おー、マジでなあ」と返す。

「俺え、無視されたり、舌打ちされたり、クロットゥって言われたり、そういうのは結構かなり滅茶苦茶嫌だった!」

 また謝ろうとするクロードを遮って、けど。と口を開いた。

「俺もクロードの事、どんな事情があるかなんて、考えるつもりなかったから。お互い様な」

 伸ばされていたクロードの手を取り、ふん、と鼻を鳴らした。

「でも俺は謝らないからなあ! お互い様、より態度悪かっただろ、お前!」

「おー」

 随分と、殊勝な態度で握手をするクロードに完全に毒気を抜かれて。

「ヴィクはそんな簡単に許していいのお?」

 肩をさげてヴィクを促した。俺にはもう、攻撃が出来そうにない。きっと、彼にもだけれど。

「私、は。私にとって、クロードが嫌な態度であったことは無い、から。……むしろ、私が悪い態度を取ってしまっていたかもしれない、と、不安で」

「や。お前で態度悪ぃんだったら、オレ、ムショでクソ親父と再会してんだろ」

 眉を寄せたクロードの言葉に、ユズが確かに~と緩く同意して、ブランケットを羽織った。

「わ! が、まま、を。言っても、良い、なら。できれば、ヴィク、と、呼んで欲しい。おまえ、よりも、嬉しい」

 おずおずと告げるヴィクの、小さな小さなお願い。

「ユズ! ユズユズユズユズ! ユズ、ルイ、ヴィク!」

「ル〜、イ〜、言えるかあ?」

 直ぐに手を挙げて叫び出したユズに、俺も〜と緩く手を挙げて言う。

「声でけぇな、おまえら」

「呼べよお」

 意地を張るみたいにふん、といつも通り笑ったクロードにユズがねえ、と話しかけていた。

 ヴィクも、クロードも、ユズも。出会った頃とは違う印象を受けるのに、何も変わっていなかったのだと。俺の良心がやっぱりちくちく痛んだ。



   ▲   ▲   ▲

「クロードって呼ばれるの、嫌じゃない? 嫌なこと、思い出さない?」

「おー。ま、別に」

「んーー、あ、クゥって呼ぶね」

「おー? おー。おー?」

 曖昧な返事をしたクゥの傍で、ルイが変な顔をしている。

 どこからか、温かなにおいの気配がした。

 いろんな料理が混ざったような、特定の出来ない懐かしい夕飯みたいな。

 すん、すん、と鼻をひくつかせていると、ジジッ、と部屋のチャイムが鳴った。

 すかさず立ち上がったヴィクが、玄関口で何かを話している。

「ルイ、お手紙が届いているらしい。受け取りのサインをしてくれる?」

「え、俺に手紙!?」

 弾かれるみたいに立ち上がったルイも玄関へ、先ほどよりも広く開かれた扉から、においは強くなって部屋に広がった。

 ヴィクがマーシャから鍋を受け取って、両手で掴んでいる姿が給食当番みたい。

 そんな二人をぼんやりと眺めながら、クロードに体を傾けた。

 思ったより疲れていたみたい。ソファでくつろぐ体制になったら急に、力が抜けてきた。

 どう? と小さな声でクロードにだけささやく。

「ゴミ集めの趣味、出来そう?」

 その言葉に口をゆがめたクロードが言った。

「ゴミは集めねぇ。……お前らはゴミじゃねぇだろ」

 声色は怒りを孕んでいる。それなのに、言葉のやさしさに思わず、胸が詰まって。

 目を閉じて、彼の肩に頭を預けた。

「そうだね。わたしたちにとって、クゥもそうなんだよ」

 わたしの言葉はブランケットに吸い込まれて、興奮したルイの声が部屋を明るくさせた。


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