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第五話 はじめての



 一週間のうち、授業があるのは月から金までの五日間。

 週の初め、月火水は体育ことEPSの授業ばかり。木金は座学と、曜日で行なわれる授業がきれいに分けられている。

 俺の隣に座るユズが船をこいで、その奥でリュドヴィックが心配そうに手を伸ばしたり引っ込めたりを繰り返しているのを、横目で見ていた。

 リセの二年生、俺たちの初めての授業は国語からだった。

 国語、外国語、数学が二回、合計四回に区切られて行なわれた午前の授業が終われば、いよいよ初めての追加授業。

 エコールで習ったような簡単な数字の説明を終え、テッドは薄い教科書を立てた。

「午後からはいよいよ、追加授業が始まる。担当の職員がそれぞれの研究室へ案内するから、昼休憩後は再度、この教室に集まるように」

 解散の合図に揃わない返事をして、俺たちは立ち上がった。



 せっかくだし、お昼はピクニックしよう! なんて思いつきで手を上げたユズに促されて、俺たちはグラウンドへ向かう。

 横に長く続く体育館や、高く聳え立つ施設に囲まれ景色はあまり見えないけど、通り抜ける風が木々を揺らしてさっぱりと気持ちが良い。

 離れたところには食後の腹熟しに、制服姿でキャッチボールをしている二人組の姿が見え、楽し気な声が風に乗って聞こえてきた。ズボンのラインが自分たちより一本少ない彼らは一年生だろう。

「2人はこの後、追加授業あるの?」

 低いブロック塀を椅子にして、隣に座ったユズとリュドヴィックに聞く。

 追加授業。この後行われる予定の、ここに入学した俺たちの目的。

 授業、なんて呼び方してるけど、ただの臨床治験の高額ボランティア。

 個別で、特別な授業を行ってくれるのだろう。ありがたいことだ。

 報酬は教師ごとに手渡しで支払う。とプリントに書かれてあったからきっと、強請れば増額だって見込めるはずだ。生活が楽になる日は、そう遠くない。

 だからこそ、危険であってもこのリセに通う人間は未だに尽きていない。それこそ俺だって、キャッチボールをしているあの二人だって。

 校舎のエントランスにある購買で、鉛筆やノートと一緒に並んでいたサンドイッチを頬張り、もっちゃもっちゃと音を立てた。

 ハムとチーズだけのシンプルなサンドイッチは一番安価なもの。ノートよりも安くて薄い。だけあって、パンは水気が多く、粘ついて嚥下に悪い。濃いオレンジ色をしたチーズはそれを助長させ、確かに見たはずのハムは味も食感も行方不明。

 欲張って大きく齧りついたせいで、なかなか飲み込めずに二人を見遣った。

「わたしはっ、あるよ。っく、っ水、のんでいっ?」

「大丈夫?」

「どうぞ。足りるかな? 全て飲んでしまって構わないからね」

 同じように、俺よりも大きくかぶりついていたユズもパンに負け、しゃっくりのとまらなくなったユズの奥からリュドヴィックが蓋を外したペットボトルを彼女の口元に運ぶ。

 サンドイッチに比べて水は高くて、三人で分けようと一本しか買わなかったが、間違いだったかもしれない。

「ヒック、ふた、っく、ふたりは? ング」

「私も、一応は」

「えーー!」

 甲斐甲斐しくユズに水を飲ませるリュドヴィックがおずおずと頷いて、落胆した。

「二人ともあるのお? なんだ、俺だけかあ、ないの」

「クロードもないかもよ?」

「あいつがなくてもなあ」

 自分には追加授業がないものだから、てっきり二人のどちらかもそうなのではないかと期待していた。

 せっかく午後からは自由に遊べると思っていたのに、一人じゃコリドールもできない。

 不貞腐れてため息をついて、サンドイッチに小さく嚙みついた。

「そっかあ。まあ、二人とも、死ぬなよお」

 味わうより先に飲み込む。砂を噛むような動きに、ユズが肩をすくめた。絡まっていた喉はすっかり通ったようだ。

「死ぬときは死ぬよ、誰だって。それが今日かもしんないじゃん?」

「ぅ、そ。そう、だね。私も、二人には死んでほしくないけれど、私自身が死んでしまうのは、諦めがついている、かな」

「うぅわ、マジかー。二人とも死生観狂ってんのかあ」

 二人の返答に顔を顰めて、今度は苦虫を噛む。もっとおいしいものが食べたかった。

「もっと死にたくない~って足掻けよお。俺は絶対死にたくない!」

「そりゃあわたしだって死にたくない! んでもぉ、いつ死んでもおかしくないでしょ? だから楽しくない話やめよ~。もっと楽しい話したい! ふたりがわたしのこと思い出す時に、『あいつ、暗い話しかしない奴だったなげへへえ』なんて思われたくないし!」

「げへへなんて言ったことねーよお」

 包み紙を丸めて、汚い笑い声を上げるユズのそよそよと風に戦ぐ髪が茶色く、霞んで見えた。

 空を見上げる。うっすらと曇った世界に目を細めた。

「ユズって、すぐ死にそうだよな」

「ぅ、わ、かる、気がする」

「あー、あ~~~っ!」

 認めたくはないといった表情で同意したリュドヴィックとルイを交互に見比べて、ユズは大きく開けた口を両手で隠す。目は細いまま、器用に眉毛だけを上げている。

「今日死んだらふたりのコトダマってことにしてやる! 覚えとけよ~っ!」

「何だよコトダマ。ちょくちょく母国語出てんぞ」

「ご、ごめんね。楽しい話をしようか」

 喚いて、何を言っているのかわからないのに、それでもとにかく彼女の味方をするリュドヴィックを睨みつけた。

「ヴィクはユズを甘やかしすぎ!」

「え~、どんどん甘やかされた~い。ルイも甘やかしてよ~」

 調子に乗ってこちらへともたれかかってきたユズの向こうで、静かに瞬きを繰り返していたリュドヴィックが過呼吸かと疑うほど大袈裟に空気を吸って、唐突に叫んだ。

「ヴィクって私のことっ!?」

「うわあっ、びっくりしたあ!」

 初めて聞く彼の大きな声に、思いがそのまま音になる。

「そんなおっきな声出せるんだ」なんて声を震わせるユズも体を縮ませ、心臓を落ち着かせるように掌で胸を叩いていた。

 そんな二人の姿に声のトーンと姿勢を落としたリュドヴィックの手の中で、べこっと水のボトルが助けを求める。

「あ、ご、ごめん。で、でも、ヴィクって」

「あー、嫌だったか?」

「い、嫌じゃない! うれしい、すごく、嬉しい! ヴィクが良い。私は今日からヴィク!」

 体を丸めて、まっすぐと見つめてくる満月の瞳に吸い込まれそうだ。嬉しいという割に表情は硬く、とても熱く自分の愛称を紡ぐ彼はやけに息切れしていた。

 浅く、獣のように呼吸を繰り返すリュドヴィックの背中を、ユズは愛おしそうに撫でる。

「よおし、よおし。ヴィクはかわいいねえ。お姉ちゃんもいっぱいヴィクって呼ぶねえ」

 どこか痛みを我慢するように眉を寄せる彼の手の中のボトルは、助けを得られず凹んでいく。

 ぼすん、ぼすん、と一球ごとに鈍い音に、重たいボールを受け止める二人を遠く眺めた。

 飛び交うボールは勢いよく風を切り、風圧で砂が上がってる。 

「ヴィクはさ、ルイもだけど。うーん、……休みの日、何したい?」

 楽しい話、と漠然とした話題をどうしても続けたいのか、言葉を変えてユズは続けた。

 子供に話しかけるような、甘く柔らかい声が胃もたれのように焼け付く。

「ほら、土日休みじゃん。どっか行ってみたいとか、あれやりたいとか。ね、ほら、ルイ。あるでしょ?」

 素人のキャッチボールにしては早すぎる二人に釘付けになっていた意識が、彼女の問いかけによってふわふわと戻ってきて曖昧に唸った。

 きっと、先にリュドヴィックに聞いたところで具体的な言葉が出ないことはユズにもわかっていて俺に振ってきたのだろう。

 俺だって特に何もない。そう言おうとして、ふと、思い出した。思っていたより、俺にとって心残りだったんだと、今気付いてしまった。

「あーー、じゃあ、行きたいごはん屋さんがあるなあ。美味しいって、おじさんが言ってた日本食の店がこの近くにあるんだって。いいなあって思って聞いてたんだあ」

「へえ? ルイも行きたい~って言えばよかったのに。連れてってくれたかもよ?」

「いやあ、そんなわがまま言えねぇなあ」

 過去が苦しいのは何も、リュドヴィックだけではないはずだ。

 リュドヴィックに同情して、俺の事も伺い見るユズにだって、このリセに来るだけの理由がある。

 頭の後ろで腕を組んで、空を仰いだ。視界に映るのは、自分の過去の事。

「俺さあ、親死んでるんだあ。んで、親戚のおじさんおばさんが面倒見てくれて。でもほらあ、フツーに厄介モンじゃん? 俺。ぐるっぐるいろんな親戚ん家に預けられてたから、次こそは追い出されないようにって必死でさ。だから、一緒に連れてって欲しいとか、あんま言えなかったなあ」

 自分たちの本物の息子や娘を守るために必死になる親戚の大人たちの姿が目に焼き付いている。

 特別悪いことをしたつもりはないのに。もしくは、子供達やそれこそ親の立場の人間からの八つ当たりで食事を抜かれたり、暗い部屋に閉じ込められたり。

 そのことについて何の文句もない。少し寂しかった程度の、ただの思い出。

 ユズは声色に揃えた情け深い表情で軽く頭を下げた。

「そうだったんだ。ごめん、何にも知らないのに失礼なこと言っちゃった」

「やー、話す気もなかったんだけどなあ。ああ、いや。別に言いたくなかったわけじゃないし、うん。それもこれも、昼休みが長いのが悪い」

 同情を買いたかったわけでは無いけれど、リュドヴィックに少し嫉妬していた。

 誰でもいい。ユズでなくても。それでも誰かに、自分も寂しい思いをしていたのだと、本当は知ってほしかった。

 盗み見たリュドヴィックの表情は陰になってわからなかった。

「確かに。時間があるとなんか変なこと口走っちゃうときあるよね! わっかる~。じゃあ、ルイのやってみたいことは、おじさんオススメのお店に行く、だね!」

 適当に口をついて出た言い訳に納得して、ユズは口を閉じないで続ける。

「わたしはね、テーマパーク! むかーしね、妹がこぉ~んな小さい時に家族で行ったの! それがすっごく楽しくてね。きらきらで、ぴかぴかで、本当に幻みたいに一日が一瞬だったんだ。だから、この国のテーマパークにも行ってみたいな。みんなで! 一緒に行こ、ルイ! ヴィク!」

 親指と人差し指をぐっと狭めて、目を細めるユズの小さなころの思い出の妹はさすがに小さすぎる気がするが、ふわふわと揺れながら名前を呼ぶ彼女にうやむやな返事をした。

「そんな感じでさ。ヴィクは? 何かやってみたいことってない? 楽しいこと、楽しそうだなって、思ってたこととか」

「たのしそう、な、こと」

 俯いたままリュドヴィックが呟く。穏やかに頷くユズはゆったりと彼の言葉を待っていた。

「私、は、楽しいことを、知りたくないな。折角、この場所まで、」

 ぐっと口を引き結んだ彼は、決心した表情で背筋を伸ばした。

「聞いてもらえる、かな。えっと、重い話、に、なってしまうかも、しれないのだけれど」

「うん! わたしは話してくれるならなんでも聞くよ。おはなし大好き~」

 初対面で重い話なんて、と嫌がったのは昨日の事。気にしている様子の彼に悪いことをしたと、べえ、とだした舌を噛んだ。

「あー。先に俺が変な話しちゃったしなあ。︙︙昼休みが長いのが悪い」

「そーそー」

「あ、ありがとう。えっと、私、は」

 気の抜けるユズの返事に礼を述べ、ふう、と一息。気合を入れたリュドヴィックは口を開いた。

「私は、ここに、死ぬために来たんだ。一人で。だから、楽しいことを知りたくない、な。死にたく、なくなりそうで。……今ですら、もう、死にたくないと思っている、自分が。あ、浅ましくて、嫌になるな。本当に」

 泣きそうになっているのを堪えるように顔を歪めて、声を震わせるリュドヴィックは逸らしていた視線をこちらに戻した。

「だ、だから、私は、二人と一緒にご飯を食べられるだけで、充分、なんだ。誰かと食事を、してみたいと。ずっと、思っていたから」

 あまりにも些細な望みを抱く彼に、両手で顔を覆ったユズが深呼吸して、呟いた。

「100点……」

「ここでも採点あんのかよお」

 何に対しての採点かもわかっていないヴィクが、首を傾げてありがとうと言うのを咳払いで咎めた。

「というかさあ、死にたくないって当たり前の感情だろお。誰だって思ってんだよ、そんなこと」

「それは、そう、なん、だろう、けれど」

「何でヴィクはそう思っちゃいけないんだ?」

 俺だって、こんな場所に来ているくせに死にたくないと思っている。

 視線を彷徨わせて、答えを探すリュドヴィックが途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

「ここに、来る、目的、だったから……」

「いいんじゃねえの? その時と、今とで、違う思いを持ってたってさあ」

「ぇ」

「そーうだよお!」

 ばっちりと、満月が俺を映した。

 俺の胸元に体を預けてきたユズも同調する。風が吹けば飛んでしまいそうに軽い体に手を添えた。

「お昼ご飯だって、サンドイッチの気分だったのに、今は二度とサンドイッチなんて食べるもんか! って思ってるんだもん。人の考えなんて簡単に変わっていいんだよ」

 もちろん、夜にサンドイッチ食べたっていいし。なんて笑うユズにリュドヴィックはずっと、泣きそうな表情を隠せず唇を噛みしめていた。

「そうなの、かな」

「そーなの」

 ユズはなんの確信もない緩い返答をして、特に深く考えずに聞く。

「というか、なんで死のうと思ったの? あれ、これ聞いていいやつ?」

「え、ええと、家族、と。折り合いが、良くなくて」

 言葉を濁すリュドヴィックにそれ以上は良いと首を振って、ユズは笑いかけた。

「ん~、なる。うん、ヴィクに生きたいって思える心が残ってて良かったよ~」

 俺の胸の中で力を抜いたユズが、顔にかかった髪の毛を落とそうと犬のように頭を振る。勢いで塀から落ちそうになった体をしっかりと抱きとめた。

 そりゃあこんなに軽い体じゃ、ふわふわと落ち着きなく揺れるのも理解できる。

 よくもまあ、こんな儚い体で生きてこられたものだ。

 自分とそう背丈の変わらない少女の小さな体が奇跡のように思えて、握る手に力がこもった。

「ま、生きたいも死にたいも自分で決めたらいいけどさあ。俺は、ユズもヴィクも、今じゃ死なないで欲しいって思ってる。それだけ、忘れんなよお」

「ルイカッコイーーッ!」

「茶化すなよなあ」

 本心で言った言葉も、大仰に持ち上げるユズのせいで嘘くさくなってしまって不本意だと眉を寄せる。

「ふふ、でも。なんかわかんないけど、わたしたちは大丈夫な気がする」

 強く、風が吹く。何故だか、彼女の言葉には説得力がなく、胡乱な目でユズを見た。

「死亡フラグにしか聞こえないんだけどお」

「え~? なんで。大丈夫、大丈夫。ね、ヴィク」

「え? えぇと。うぅん、そうだね」

 リュドヴィックも、否定することはないながらも納得はできていない声で答えた。

「ダメそうじゃん」

「だぁいじょうぶだって! ほら、入学したばっかだし、最初っから死ぬようなことは無いよ。うん、絶対! 絶対大丈夫!」

 繰り返し絶対に大丈夫だと告げる姿にリュドヴィックがほんの少し安堵したように息を吐いて、背筋を伸ばした。

「そうなんだ。少し、安心したよ」

「へえ、絶対? テッドから聞いたのか?」

「ん? ん~ん? なんで? 先生と話なんてしないよ?」

 びゅう、と風が吹く。

 不思議そうに頭を掻くユズに恐怖すら感じて、一瞬言葉も出なかった。

 何の確証もない言葉を、さも事実のように話していた彼女にヴィクも怯えて、再び体が丸まっていく。

「え、何? マジで。何なの? 怖い。ユズのこと全くわかんない。ほんとに。ちょっとも」

「ど、どうしてユズは、そんなに自信を持てるの? その、確証の、ないことなのに」

 戸惑い、ほんの少しずつ誹謗の言葉を混ぜる二人にふっふっふ、とどこぞの悪党さながらユズは笑う。

「仕方ないから教えてあげる。カンサイジンの秘儀! シランケドナ!」

 必殺技を繰り出した戦隊ヒーローのポーズで言い切った。

 賑やかなお昼の終わりを告げる、神聖そうな鐘の音が鳴り響く。

 チャイムの音とはまた違う、これは過去の録音らしい。

 ざあ、と風の音が聞こえるグラウンドには、遊んでくれる相手を失ったボールと俺だけが取り残された。


   ▲   ▲   ▲

 長すぎる昼休みが終わって、ルイと別れたわたしたちが教室へと戻ると、既にクロードが席着いていた。

 なんだかうれしくなって、彼に向って歩み寄ろうとすると、白衣の男性たちが教室の扉を開いてわたしの足を妨げた。

「揃っているようだな。それでは移動する、着いてきてくれ」

 そう外へ先導するテッドに白衣の人が二人、後ろをついてく。

 リュドヴィックと一緒にわたしも同じようにその後を並んで歩く。

 少し離れて付いてくるクロードの、足音も立てずに歩く姿が酷く印象的で、なんて声をかけるのかを迷って。みんな黙っていた。

 向かっているのは校舎から寮とは反対側にある建物。距離も道のりも寮へ向かうのとほぼ変わらないみたい。洋梨は、見つからなかったけれど。

 先生のひとりはヴィクほどではないけど、すらりと細長い体をした色白の男性。白髪は短く切りそろえられ、皴の深い目元にはぼんやりと黒いクマが主張している。なぜか申し訳なさそうに背を丸め、視線が合うたびにぺこぺことお辞儀を繰り返していて、同じようにわたしもぺこぺこと繰り返すのが、少し楽しかった。

 それなりに年を重ねていそうな彼とは対照的にもう一人はとても若く、反るほどに胸を張っていて、何に対してかわからないけれど自信満々と顔を輝かせている。決して小さくは無いが、隣が大きいので小さく見える、見事な凸凹コンビ。

「セラフィンとテオだ。ユズは私が、リュドヴィックはセラフィンが授業を行う。クロードにはエタンが当たっているのだが、彼は今一年生の授業中なので代わりに助手のテオが研究室まで案内する」

 体を後ろに傾けて、テッドは歩きながらそう説明した。

 鶏のように頭を上下させ続ける白髪の男性が、セラフィンと呼ばれ一層深いお辞儀をしたのを見て、わたしもヴィクも会釈を返した。

「オレはテオ! よろしくな、クロード!」

 なんて、クロードの苦手そうな圧で絡む若い白衣に鬱陶しそうに睨みを利かせるクロードは、昨夜から元気が戻っていないのか舌打ちにも勢いがない。

 そうして挨拶が済んでしまうと、誰も何も話すこともなく。研究棟へと向かう無言の一行は、冷たい風に叩かれながら静かに進んだ。

 一雨来そうな薄暗い天気も相まって、まだ何も起こっていないのにお通夜の空気を先取りしている気分。

 なんだか長く思えた道のりを越えて、着いた研究棟は学生寮よりも横にも縦にも大きく、同じものが二棟どん、どんと聳え立っていた。

 なんの装飾もないコンクリートの壁は建物が出来たばかりみたいに滑らかなベージュの色を保ったまま。入り口の透明な扉は自動で開いて、リセではあまり見ないハイテク技術におお、と小さく声が漏れた。

 一つの建物の自動ドアから、わたしたちとお揃いの制服を着た学生と、白衣の男性が並んででてきた。何かを話して、太い笑い声を上げる白衣の教師には見覚えがある。

 こちらを見て彼はおお! と声を上げた。

「二年きちまったか! そんじゃヴィヴィアン、また来週な!」

「は~い、また~」

 耳にはっきりと聞こえてくる声は、昨日の放課後に教室のカギを閉めに来ていた親切なあの先生。と、会話をしていたのは、ズボンのラインがわたしたちより一本少ない男のひと。

 緩くウェーブがかった茶髪は後ろでゆるく結ばれていて、無気力そうな喋り方に良く似合うタレ目の先輩は左腕を肩から吊っていた。

「二年生~? あ、女の子だ、希少素材~。ラールちゃんね~。おれヴィヴィア~ン、アンくんって呼んで。よろよろ~」

「ぁ、はい、よろしくおねがいします」

 力の入っていない話し方で、緩慢に近づくヴィヴィアンがこちらに向かって手を伸ばす。

「ヴィヴィアン、早く寮に戻りなさい」

 促されるままその手を取ろうとしたわたしの前にテッドが立ちふさがり、きょとんとヴィヴィアンも立ち止まった。

「ぅえ? あ、テッドぉ。あ~そだそだ、トイレの電球切れてたの、換えたのおれ~。お礼~は~?」

 彼は、目前まで近づいてようやくテッドに気が付いたと言わんばかりの態度で、恩着せがましい言葉を使って礼を強請る。

 きっと、彼の通常運転なのだろう。テッドも腰に手を当てため息を一つ、要求を尋ねる。

「何が欲しいんだ」

「え~、新し~い本。ん~、これぐら~い」

 ヴィヴィアンの動きを確認して、頷いたテッドはズボンのポケットから財布を取り出す。

 ひょっこりとテッドの壁を避けて覗いたヴィヴィアンの右手は、親指から中指までの三本がやる気なく伸びていた。

「んへへ。どもね~。じゃ」

 お金を受け取ったヴィヴィアンは満足したとばかりに下がり眉で笑ってあっさり校舎の方へと歩き始めた。それからすぐに「あ」と振りかえり、ふにゃふにゃな動きをして言う。

「みんなガ~ンバ~。ラールちゃんは今度ご飯行こ、おれ奢るから~」

 奢るから、の一言に目を輝かせてはい! と大きく返した。

「高くておいしいとこならいつでも!」

 わたしの気合を入れた返事に意表を突かれたように一拍おいて、ヴィヴィアンは楽しそうに笑った。

「あっは。よき。行こ~。お店、探しといてね~」

 ひら、と後ろ手を振って、今度は振り返らずに去っていく。 

 その後ろ姿をじっと見つめ、あっさりとした彼の態度に少しだけ名残惜しい気持ちで前を向いた。

「よっ。エタンだ! よろしくな!」

 ヴィヴィアンと話していた教師はそう名乗るとにっと笑みを深めた。

 エタンとの合流で空気が柔らかくなり、軍隊のように揃っていた歩き方もいつの間にか、乱れても許されるような気持ちになった。

 風を遮る建物の中は、いろんな薬品の臭いで鼻が痛かった。

 短く息を吐いた、呆れた口調のテッドが呟く。

「まったく、あの子は」

「アレだから可愛いんじゃねぇか!」

「でもちょっと生意気じゃ無いっスか?」

「馬ッ鹿、ヴィヴィアンはそこがいぃんだよ!」

「私はポールの方が好ましいです」

「そりゃあお前! 血が多いからだろ!」

「はい」

 姿を消した瞬間、ヴィヴィアンは教師陣の話題の中心人物となっている。

 がははと豪快な声を上げるエタンの白衣には、赤いシミが付いていた。エタンが動いた時にこすれたそのシミが、伸びて広がって。わたしの視界に焼き付いた。

 賑やかな大人たちの後ろから従順に階段を上るリュドヴィックに「わたし、」と小声で言う。

 話を聞こうと上半身を倒した彼に、つま先を立てて協力した。

「ルイにはああ言ったけどさ。妹、残して死にたくないとは思ってるんだ。だから、極力生き残るように頑張るつもり」

「妹さんがいるの?」

「あれ、言ってなかったっけ? すっごく可愛い妹がいるんだ。良かったら今度、会いに来てよ。妹に友達紹介するって言っちゃったし」

「しょ、紹介? ご家族、に……?」

 言葉を受け止めきれないと、目を見開いたヴィクがわたしの手を取る。

「してくれるの……?」

「うん? うん。ヴィクが嫌じゃなければでいいんだけど」

「いくっ!!」

 目を閉じて、短く息を吸いこんだ彼は叫んだ。

 それから、わたしの目をじっと見つめる。綺麗な金色の視線が、わたしを逃がさないとばかりに強く絡まる。

「行きたい、絶対に行く」

「わは、ありがと!」

「いや、それはこちらの言葉だよ。ありがとう、ユズ」

 話しているうちにどんどんと普段の口調になってしまった内緒話は、きっとみんなの耳にも届いているのだろう。

 踵を下ろして、クロードに向かって割り切った声を出した。

「クロードもね! 絶対来てね!」

 案の定、話を聞いていたクロードは唇の端を痙攣させた。

「ハア? 俺はお前のオトモダチなんかじゃねぇよ」

「じゃあ今からお友達ってことで」

「なんねぇよアホ。黙ってろサロップ。話しかけんなクロットゥ」

「え、なんかすごいいろいろ言われた。なんて? 早口難しいよ」

 彼の口癖であろうクロットゥくらいしか聞き取れなくて、いっそ清々しい。

 難しい言葉をなんとか咀嚼しようと脳内で言葉の欠片を集めていたら、そっと柔らかなショコラの香りが降り注いだ。

「女性にそんな口の利き方は感心しないな」

「女が気ィ使ってくれんのなんか、学生時代だけだぞ! 大事にしろー」

 いつの間にか、わたしたちの会話に参加している教師たちが、わたしのフォローをしてくれているみたいで、びくりとクロードの頬がひきつったのが見えた。

「うるっせぇよ、バァカ! 教師ヅラしやがって、このサヴァンフが! 俺みてぇなゴミ集めて楽しいかよ!」

 があっ、と吼えるように口を開いた彼がなんと言ったのか、言葉の聞き取りも追いつかない。

 それでも静まり返った空間の緊張感はどの国でも同じように不安を煽る。

 何も言えずにあわわ、とわたしたちを見守るヴィクにも言葉の意味が理解できていないのだろう、心配そうにわたしの両肩に手を添え、眉を下げてわたしの側に立っていた。

 ぐっと空気を飲み込んで、彼をうかがうように覗き込んだ。

「クロード、だれかれ構わず敵作るの、良くないと思う。味方はひとりでも多い方が良いよ」

「テメエも! ウルセェんだよサロップ!」

「さる、……さろん、っぷ?」

 だめだ、やっぱり知らない言葉が多すぎる。サロンパスなら知ってるのに。

 難しい単語に首を傾げて彼を見つめると、嘲笑するかのようなクロードの笑い声が大きく響いた。

「そうだよなあ。テメエは男の機嫌とっときゃ長生きできっから関係ないわな! 今からテッドと二人、お楽しみってか!」

 ようやく聞き取れたクロードの言葉は、職場でも何度か言われた覚えがある。

 こちらが不安になるほど威勢のいい彼の姿に、教師たちは慣れたものだと肩をすくめる程度の反応。

「元気が良いのはいいことだが、言葉遣いが悪すぎる。ああ、ユズ、そこが私の研究室なんだ。わかりやすいだろう。中に入って待っていなさい。私は他の生徒も送り届けてくるよ」

 変な会話をしてしまったせいで、幾つ階を上がったか覚えていない。

 中央は黄色く、花弁は白い小さな花のあしらわれた壁紙が貼られた部屋を指すテッドの言葉に素直に頷いて、扉を開いた。

 ヴィクとクロードはまだ上の階を目指すようで、二人に向かって小さく手を振る。

 こちらを見ることもなく、まるで勝ち目のない相手に噛みついているクロードのきっかけを作ってしまった申し訳なさに、声に出せない謝罪を祈るように彼を見つめる。

 ふわりと浮いた前髪から見えたクロードの瞳は、水晶のようにきれいだった。


   ▼   ▼   ▼

 女と別れた次の階で、デカブツ二人も部屋に消えていった。オレとクソ白衣三人だけが廊下を進む。

 一瞬オレを見た担任の、その視線が不快で舌打ちを返した。

「うん。お前にとって理解しやすい言葉で言うと、そんな風に威勢よく教師に噛みついてきたゴミは、全員直ぐに死んだよ」

「ハッ! 死んだ、じゃなくて殺したんだろうがアンコン! どんだけ殺しゃ成果出んだあ?」

「そうだな。残念だけど、お前からは彼らと同じ臭いがするよ。吐き気がする、ゴミ捨て場のクロットゥのような臭いがね」

 鼻を抑え、不快な視線を向けるテッドに、かあと視界が赤く染まる。理性なんて働かせている暇もなく、感情のままに殴りかかろうとしたオレのからだがひょいと浮いた。

「お前はこっちだ、クロットゥちゃん」

 いつの間にか、後ろにいたクソに持ち上げられて、地面に足が届かない。

「んー、活きが良いから何から始めてやろうか悩んじまうな」

 気色の悪い声で、俺に聞かせるみてぇににたにたした笑いを浮かべる。

 拳を振り回しても、一つも当たらない。

 男は暴れるオレを抱えたまま、研究室の戸を閉じた。


   ▲   ▲   ▲

 ひとりで知らない部屋に待機を命じられて、保健室のような室内ですることもなくわたしは立ったまま手遊びをしていた。

 部屋の中は廊下よりも薬品臭が弱くて、助かったと鼻がふひふひ鳴る。

 壁も天井も同じ壁紙。真ん中にぽつんと置かれたパイプ椅子も、座って良いものかもわからなくて。

 棚も、机に広げられたファイルも、見てはいけない気がして。入り口に向かって視線を手元に固定した。

 カーテンの隙間から差し込んだ陽に、綺麗に自分の影が短く伸びている。

 そういえば、妹が小さい頃はよく遊んでいた。記憶を頼りに影をつくった。

「きつね。かに。えぇっと、……いぬ! ん、おおかみ? からの~、かたつむり、に~、わに~!」

「待たせたね、ユズ」

「アッス! は、いえ、全然!」

「そう? それならよかった」

 一体いつの間に入ってきたのだろうか、気配を感じさせないテッドの手が複雑な形を作り、影を伸ばした。

「恐らく、狼はこうじゃないかな?」

「ぁや~~、わすれてください……」

「ふふ。可愛らしい」

 どうぞ、と着席を促す彼に従うと、テッド自身も車輪の付いた椅子を向かい合うように回して座った。

 後ろに伸ばした手で机の引き出しを開くと、確認もせずにシリンジを取り出す。やたらと太いそれをこちらに見せて、テッドは安心させるように微笑んだ。

「まずは血液を抜かせてもらうね」

「はい」

 太いシリンジの中に血液を保管するスピッツを挿入し、先端には針を取り付けてわたしの腕を引いた。バイトで良く袋に詰めていたそれらに、懐かしさを覚える。

 長袖を丁寧に折り畳みながら、彼は尋ねた。

「授業はどう? ついていけそう? 寮での暮らしや、クラスメイトは? 不便などはない?」

「えっと、はい。ぼちぼち。なんとか、やってます。ありがとうございます」

「そう。クロードともなんとかやれているの?」

 名前を出してまで、彼のことを気に掛ける様子が不気味で力強く頷いた。

「はい。もちろん」

「そう」

 満足な答えではなかったのだろう。肩を竦めて、彼は注射器を露出した腕に刺した。

 ちくりと痛みが走る。

「妹がいるんだって?」

「っ、はい」

「幾つ?」

 引くのかと思って眺めていると、予想に反してプランジャーは勢いよく押され、見る見るうちに血液で満たされたスピッツが新しいものと交換された。

 使い方までは、知らなかった。

「今、十歳です」

「へえ、結構離れてるんだ」

「そうなんです! だから可愛くて、可愛くて」

 妹の話題にどうしても頬が緩む。張っていた緊張の糸もすこしだけ緩んでしまっていた。

 再び満たされたスピッツを入れ替え、そこに血液が溜まっていくのを眺めていると、さらりと揺れたわたしの髪を梳く彼の手に糸をきつく張り直した。

 耳元に近寄るテッドが尋ねる。

「その子も、髪が長いのかい?」

 喉に絡まる、甘い香り。香水みたいに人工的ではないのに、どうしても、存在感を残す。

「い、え。妹は、顎くらいまで、で。いつも、わたしが切っています」

 否定する風を装って、首を振りながらテッドから逃れた。

 妹の可愛らしい姿を思い浮かべて、ふ、と心が緩む。母に似なかった、可愛いあの子。

 記憶の中の母は、短い髪が似合わないの、といつも伸ばしていた。

 もしもの可能性はすべて排除しておきたくて、妹の髪はいつだって短く切り揃えていた。

 お姉ちゃんとお揃いにしたいなんて言ってくれたこともあったけど、その時は泣きながらカットした。もちろん泣いたのはわたし。

「へえ、そう」

 ほんのすこし、離れていた意識がテッドの声に引き戻される。

 名残惜しそうに自分の手を見つめ、彼は注射針を抜いた。

 針先をシリンジから抜いて元の入れ物に戻すと、そのままゴミ箱へと投げる。

 スタンドに刺さったスピッツは三本。すべてを軽く揺らして机の端っこに寄せたテッドが今度は細い注射器を一本持って振り向いた。

「じゃあ次は……、まだ入学して間もないことだしね。そんなに激しいことはしないでおこうか。一つ、注射を打たせてほしいんだけど、いいかな?」

 決定事項な癖をして、確認の体を取る彼の手元をじっくり見つめる。

 ちゃんと文字の勉強をしておけばよかった。そうであれば、注射器の軸に何と書かれているのか、わかったのだろうに。

「はい」

「うん。次の追加授業は明日だったね。その時に様子を見るよ」

 愚かな人間から死んでいくんだなあ、なんてぼんやりと。

 先ほどよりも細い針が今度は痛みすらなく一瞬で引き抜かれた。

 簡単に片手で注射を打った彼の手が、そのまま袖を下ろしてくれる。じれったいほどに、ゆっくりと。

「それじゃあ今日の晩は激しい運動を控えて、ゆっくり休むように。可能ならドラッグ系もしばらくは控えた方が良いかな」

「あ。わか、りました」

「ん? どうかした?」

 なにか、言葉を促すように目を細めた担任に首を振った。

「いえ。なんか、あの。思っていたよりも、あっけなかったので」

「あぁ。まあ、私たちとしても、大事な生徒を無闇に傷つけたいわけじゃないからね。昨日はああ脅したけど、できることなら全員で卒業させてあげたいと思っているんだよ」

 ボタンを留め、掌を彼の親指がなぞるたび、熱が移動する。

 じっとこちらを見つめる、何かを求める瞳は気味が悪い。

 なんと答えるべきなのかわからず、ぎこちなく頷いた。

「うん。それじゃ、明日も頑張ろうね。応援しているよ」

「……失礼しました」

 テッドの手を借りて椅子から立ち上がると、貧血の眩暈に襲われる。

 ぐらりと揺れそうになる体を叱りつけ、わたしの想定以上に、安全に部屋を後にした。



「ただいまぁ」

「お! ユズ~~~~!」

 部屋に入ると、ソファに横たわっていたルイが勢いよく駆けつけ、わたしを抱きしめた。

「生きてて良かったあ! 遅いから心配したんだからな!」

 濃い太陽の香りにやっと、肩の力が抜けたような心地で息を吐いた。

「はーーっ、なんかすっごい眠い」

「うんうん。無理しないで寝ろよ」

「ふたりは?」

「まだ。ユズが最初」

 ルイの胸の中で瞼をこすり、彼に体を預けてあくびを一つ。

「ん……、じゃあ私もふたり待とうかな」

「体は大丈夫なのか?」

「うん。眠いだけ」

「じゃあ寝てろよ。帰ってきたら起こしてやるからさあ」

 ソファまで腕を引いて、トンと肩を押される。

 腰が沈んで、あとはもう目を閉じるだけで眠れそうだった。

「爆睡しそう……。ルイ、枕はー?」

「硬い膝で良かったら使えよ」

 聞いていたよりも柔らかい枕に頭を預け、ふわふわと意識が浮かんでいく。

 いつ点けたのか、テレビの音が優しく耳を刺激する。早い言葉は聞き取れないが、少し水っぽい音が響いて心地いい。

 光の加減でちかちかと、閉じた瞳が眩しくてルイのお腹に顔を埋めて声をかけた。

「ルイは何してたの?」

「んー、宿題やってえ、テレビのチャンネルの使い方見てた。電源ボタンわかんなくてさーあ。テレビ点いたの実はついさっきなんだ」

「へえ。おもしろい?」

「んー。電源ボタン二個あるの、意味わかんなくてちょっと面白いかな」

「あっは。チャンネルじゃなくて、テレビの話!」

「ああ、そっちか。うーん。まだわかんない。というかどの番組もセックスしかしてないんだけど、なんで?」

「セックスしかしてない?」

「うん」

「へえ~~~~~~?」

 ぼやけた頭に突然入り込んできた強い単語を何度か繰り返す。

 言葉の意味を理解するよりも先に、脳内にイメージ映像が流れた。

 どの番組もそれしかしていないという事は、今この場で流れているのも恐らくそのうちの一つ。そうなれば、心地良いと思って聞いていた音の正体は。

 意識してしまえばすぐに導き出された答えに、先ほどまでのだるいような眠気はどこかへ、思い切り笑い声を上げた。

「アッハ! ハハッ! ふふ、まじ、マジで!? っ、マジじゃん! 超面白い!」

「面白くないなあ。元気なくなる」

「なんでっ! ふつう元気になるんじゃないの? ふはっ、え、ずっと見てたの?」

「うん。だって、折角テレビがあるのに見ないのも癪だろお」

「あっはははは! おもしろ! えっ、わかんないんだけど。こういうのって、別でお金取られるんじゃないの!?」

「え、マジ!? 何それ最悪なんだけどお」

「あははっ、ルイおもしろすぎ!」

 わかってしまってからは、女性のわざとらしい喘ぎ声がきちんと輪郭を持ってわたしの鼓膜を刺していた。

「ねぇちょっ、あははっ! テレ、テレビッ、消してよ!」

「こんなにウケると思わなかったからこのままでいいよ、俺は」

「わたしはよくないんだけど!」

 薄暗い室内も相まって、雰囲気作りをしていたと言われたら信じてしまいそうなほどだ。

 ツボに入ってしまって笑いの止まらないわたしに、不貞腐れたようにひっくり返した唇でルイは「全然好みじゃない」なんて呟いてとどめを刺す。

 ひぃひぃと呼吸が苦しくなってきた頃、扉を開いて健康そうなヴィクが帰寮した。

「あっ、ヴィク! 生きてて良かったあ~~~!」

 さっきわたしを迎えてくれたのと同じ声色で、同じ言葉をヴィクに向けたルイの面白いこと。

 ぶは、とつばが飛ぶ。

「無理! この状況でそれ言ってたの一番おもしろい!」

「わっ、ユズ。無事でよかった。……えぇと、な、何? どうしたの。私、なにかしてしまった?」

「ううん、悪いのはテレビ業界」

「な、なに?」

 簡単に説明するルイの言葉を受けて、ヴィクは関心の薄い声でテレビを覗き込んだ。

 未だにテレビの中では一組の男女がプレイに興じており、わざとらしい女の声が一際大きく響いた。

「へえ。自分が性交渉をしているところを全国に流している人がいるんだ。奇特な趣味だね」

 自分とは住む世界が違う、と興味の薄いヴィクの眼差しに、わたしは何が面白かったのか自分を見失う。急激に冷やされた思考が恥じらいを連れて心をノックした。

「やだ。なんか、本っ当に自分が恥ずかしくなってきた。あんなんで爆笑するとか男子中学生じゃん。え、ほんとにヤダ」

 やだ、しか紡げなくなったわたしの隣で、元凶のルイはノーダメージみたいな顔で言う。

「ヴィクってこういうの嫌がりそうなイメージだったなあ」

「うぅん、好んで見たいとは思わないけれど、別に嫌悪はしないよ。人の趣味はそれぞれだからね」

 着替えてくるねと歩き始めた彼の視線が心なしか、優しくルイに向けられている。

「……ん?」

「ふはっ」

 何かを理解したような、否定しないと語るような。そんな眼差しにルイは慌ててヴィクを追いかける。そんな二人に耐えきれず、再び吹き出した。

「あ、待ってえ!? これもしかして、俺の趣味って誤解してない? 違うからな!? どの番組もこれしかしてないからな!?」

「そんなはずはないでしょう。ニュースであれバラエティであれ、それなりに放送しているはずだよ。そもそもこういう番組って有料ではないの?」

「ちがっ、違うんだってえ! 本当にこれしかやってなかったんだ!」

「別に、言い訳しなくても。趣味を否定はしないよ。あ、けれど、ユズまで巻き込むのはあまり良くないのではないかな」

「聞いてっ!!」

「アッハアッ!!」

「ユズはどっから声出してんのお!」



「まあ、何にせよ。とりあえずユズが無事そうで良かったよ」

「うん。ヴィクも!」

「うんうん、二人とも、生きてて良かったあ!」

 言い争いの種となっていたテレビは、ヴィクの手により夕方の情報番組に切り替わっている。

 ようやっとまともに会話ができるようになって、ルイは蛇口から注いだ水で喉を潤した。

「なあ、追加授業ってどんなことされるんだ?」

「え~~? っとねえ。わたしは、血を、取る、それから腕に、押す? した!」

「採血、と注射、だな。ヴィクは?」

 知っている言葉と身振りで説明を試みるわたしに、ルイがゆっくりと発音して教えてくれた。

「同じだよ。血を抜かれて、薬剤を入れられて、」

「採血! 注射!」

 覚えたばかりの言葉でヴィクの柔らかな表現を塗り替えると、目元を緩めた彼がすごいね、と頭を撫でてくれる。

「それから、顔を覆う形のヘルメットみたいなものを被せられてね。しばらく音楽と映像が早く切り替わっていくのを見ていたよ」

「なにそれ。何かの実験みたい!」

「なんかの実験だろお」

「そだった~」

 ソファの角に座ると隣にヴィクが、そのまた隣にルイも並んだ。

 小さなテーブルにルイがグラスを置いた途端に奪い取って飲み干す。生ぬるく、少しえぐみのある味に顔を顰めた。

「でもでもなんか、ヴィクの実験たのしそう! わたしも今度それやってくれないかな~」

「うーん、まあ。確かに、骨切られたりとかよりは、楽しそうだなあ」

「え、骨を切断される可能性が?」

 驚いて繰り返すリュドヴィックにルイが頷く。恐怖に怯える巨体がわたしの体ををぬいぐるみのように抱きしめた。

「うん。おじさんが教えてくれたんだ。おじさんの知り合いがここで働いてたことあるんだって。だから詳しいって言ってた」

「そう、なんだ……骨……」

 彼は想像で痛みを感じているのか眉を寄せた目を閉じ、口はうっすらと開いたままになっている。ぎゅう、と彼の力で押し出されるようにわたしの腕が伸びる。関節って不思議。

「ふーん、じゃあその知り合いって人が、骨切ってたのかもね。ヴィクちょっと痛~い」

「かもなあ。しかもその人、自殺したって言ってたから、もっときついこともしてたのかもお」

「げぇ、怖い話だった! ヴィクちょっと痛ぁ~い、かも~ぉ!」

 ぺしぺしとリュドヴィックの体を窘めて、ルイに向かって抗議の拳を突き上げた。

「もしかしたら出るかもなあ、その人のおばけ。会ったら挨拶しといてくれよな」

「いやいや、この学校、出てくるおばけが多すぎて見つけらんないって」

「はは。あり得るう」

「わたしたちも、そのうちの一人になる日が来るかもしれないし。あ、でも。そうなったらゆっくり探せるか」

「あー、……そういやさあ、クロード遅いなあ?」

 気の長い計画に、ふとクロードのことを思い出したルイが入り口を覗いた。

 それに倣ってリュドヴィックとわたしも同じように視線を移し、もしかしてと顔を見合わせる。

「一人目のおばけ……?」

「ううん、あまり考えたくないけれど……」

「え! やだ! せっかく仲良くなれたのに!」

「え、マジ? いつの間に? 本当に?」

 わたしの発言には信憑性がないと、疑うルイに見つめられたリュドヴィックが躊躇いがちに首を振った。

「恐らく、相手の認識とは異なる、かもしれない……」

「なんだ、妄言かよお」

 突然ガタン、と、力強く扉の開かれた音に、全員の視線が再び扉へ集まった。

 見なくてもわかるほどに苛立っているクロードが、開く時よりもうるさく扉を閉じる。

 いつも通り機嫌が悪い。安心してリュドヴィックの腕の中から声をかけた。

「うわ~~~ん、おかえりクロード! 無事でよかった~~~!!」

「うるっせえ!! ほっとけ!!」

 条件反射のように怒鳴り、そのまま三人に見守られながら部屋に閉じこもる。

 誰かが口を開くよりも先に、ガシャン! と何かの割れる音。それから遠吠えのような叫び声が彼の部屋から響いた。

「こっわあ」

「うん。元気そうでよかった~」

「確かに。元気そう、では、あるのかな」

「元気そうなだけで機嫌最悪じゃん」

「クロードの機嫌がいいとこなんて見たことないよ」

「確かに」

「それはそう」



 リュドヴィックの拘束から抜け出して、口直しを探して冷蔵庫を開くと、ルイが身を乗り出して言った。

「あ、忘れてたあ。なんか、ヴィヴィアンってセンパイがみんなで食べてってパン持ってきてくれたんだ。明日の朝食おう」

「あ、ヴィヴィアンさん。わたしたちが追加授業行くときに会ったよね。元気そうだった?」

 ヴィクに同意を求めるように言うと、彼は小さく頷いて眉を寄せる。

 その姿を見ていないルイが鼻から息を抜くように軽く笑って言う。

「ん。まあ、普段のヴィヴィアンを知らないからわかんないけど。元気なんじゃない? ギプスしてる腕に、自分たちの分だってパンの袋引っ掛けてたし」

「あっはは! やってそー」

 簡単に想像できるヴィヴィアンの姿に笑って、テーブルに置かれた袋を覗き込んだ。

 紙袋に書かれた店名は知らないお店の名前で。おしゃれな字体は踊っているように見えた。

 そういえばクロエのパン屋は、ロゴなんて作ってなかったなあ。

 茶色い紙袋の中にはいくつかの大きなクロワッサンと、切り分けられたバタール。

 いかにもこの国の人の朝食といったラインナップにヴィヴィアンの親切心が見えて目を細めた。

「こんなにおっきなクロワッサンあるんだね」

 三日月というよりも丸まって満月のような形のクロワッサンを持ち上げた。

 掌に引っ付いてはがれた表面の生地がパラパラと崩れていくのが勿体なくて、直ぐに袋の中に戻す。

 油を吸って元気を無くした紙袋がビニールに張り付いている。その隙間に、白いメッセージカードを見つけてとりだした。

 読みやすい大きな文字で電話番号と、それからラールちゃん専用。と簡単に書かれている。

 あからさまな下心にくすりと笑って、メッセージカードをズボンのポケットにしまい込んだ。


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