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第三話 クラスメイト



 マーシャから受け取った箱をひっくり返して荷物を散乱させた部屋の中で、ふんふんと鼻歌を歌いながら制服の長袖に腕を通す。

 受け取ったばかりのそれらは新品ではないけれど、型崩れもなく自然と背筋が伸びた。

 警察官と同じ型で作られたリセの制服の胸元にはカモミールの花が、校章として堂々と咲いていてなんだか誇らしい。

 クローゼットに貼り付けられた鏡の前で体をひねった。

 体よりも大きな服に着られている状態なのに、なぜかサマになっている錯覚が見えて緩む口元が抑えられない。

 整えていない伸び放題な髪も、高い位置で一つに結んでしまえば少しはマシに見えて、水色のワイシャツを飾るワッペンが格好良くて何度も撫でつけた。

 妹が見たら、どんな反応をするだろう。

 きっと瞳を細めて、普段と変わらない単調な声色で、それでもまっすぐと感想を伝えてくれるのだろう。「いいんじゃない」とかかな。え、イマジナリーツバキ可愛い。

 想像だけでも驚くほどかわいい妹に目を見開くと、目の前の人物も同じように驚いた顔をしていて思わず噴き出した。

 しばらく、鏡に映った自分と笑い合って、最後にもう一度上から下まで見下ろす。右足首辺りに黄色いラインが二本入ったグレーのズボンも少し大きいけれど、裾を擦る心配はなさそうだ。

「んふ。行ってくるね、イチゴウ。サンゴウも!」

 新しい環境に浮き足立った気分のままベッドへ、それからクローゼットへ言葉をかけ、緩んだ頬に強めの気合を入れて、早くも散らかった部屋を出た。

 妹が生まれる前に母が作ってくれたルームプレートがカタンと音を立て、ニゴウも見送ってくれている。

「ニゴウも。すぐ帰ってくるからね」

 新しい友人たちへの挨拶を済ませ、広い共用のリビングルームに踏み出した。

 すると丁度、斜め向かいの個室の扉が開き、ひとりの少年が同じように部屋から出てきたところだった。

 青々とした草原のように活力に満ちた翠の瞳と目が合い、顔を輝かせた少年は「あ!」と声を上げる。こちらに駆け寄るお揃いの制服がふわりと靡いた。

「君も今日からあっ?」

 穏やかに、間延びした語尾を弾ませて彼はそう言った。見た目通りの爽やかな声に、目に痛い金色の髪がひょこひょこと飛び跳ねていた。

「よろしく、俺はルイ! ルイ・ロベル。君はあ?」

 目の前で立ち止まり、そう名乗る彼は屈託なくこちらへと手を差し出す。

 視線がわたしより少し高い彼の、身長分大きな手のひらはあたたかく、柔らかくて心地良い。

 緊張で震える喉を叱責して、口を開く。ほんのちょっと、握る手に力がこもった。

「ァ、よろしく。わたしはユズ、クスモトです。エット、はじめまして!」

 簡単な単語ばかりの自己紹介が詰まってしまった。難しいことでもないのに、慣れていないみたいな口調が恥ずかしい。

 焦ってじっとりと汗をかき始めたわたしに気付くこともなく、ルイは人懐っこく目を細める。

 警戒心のない、かわいらしい男の子。

「ユズ! 初めまして、よろしくな。んーー、ユズは外国人? 珍しい顔してる」

 ルイは握った手を上下に振って、覗き込むようにわたしの顔を見つめた。

 ずい、と近付いた翠に吸い込まれそうなほど、彼はこちらをじっくりと観察する。不躾なほどに。それでもその視線は、不思議と嫌悪感を抱かせない。

 返答を望むように首をかしげる彼に、頷きを返した。

「うん、そうなんだ。日本、エット、わたしは日本から来ました。でも、今、私はここに住んでいます」

「おー、うまいうまい! 俺え、日本好きだぜ。日本食が美味いんだよな。あっ、もっと、ゆっくり、喋った方が、良い?」

「ううん、大丈夫。ありがとう」

「おう!」

 ルイの大声に負けじと、壁にかかった時計が存在を訴えた。

 始業時間が何時かなんて覚えていないけれど、真下を向いた長針に急がないと、とルイはわたしの手を握った。



 つい先ほど抜けてきた道は、強さの増した風が木々の隙間を勢いよく通り過ぎ、靡いた髪の毛が体を叩く。

 まだ9月も始まったばかりだというのに、やけに気合の入った風は落ち葉を巻き上げわたしたちを追い越した。

「最近引っ越してきたの?」

「エーーット、妹が6才になる年だから……4年? くらい前かな」

「へえ。それで結構、話すのが上手いんだな」

 間を繋ぐように声をかけ、ルイは慣れたように手を引く。

 寮へ向かう際はこちらを向いていた矢印はいつの間にか反対を向いていて、迷うことなく校舎へとたどり着いた。といっても、校舎は先ほどの鐘楼がある十字に日焼けの残るあの建物で、迷いようもなかった。

 外観から想像するまま建物の中にも、当時の名残が強く残っている。

 昔はこの地下で生徒たちが暮らしてたらしいけど、今では階段が腐っちゃって立ち入り禁止なんだって。

 ルイの説明に、雑にロープの伸ばされた木製の広い階段を覗き込んだ。

 割れた電球の破片すら片付けられていないそこは、まるでその奥で魔物でも飼っているかのように暗く、冷えた空気が下から吹き込んでくるようにぞくぞくと寒気を覚える。

「詳しいんだね」

 建物の中に入ってからは何の道標もないというのに、躊躇いなく階段を上り始めたルイに半ば引きずられながら、グランドフロアの大聖堂が気になって頭だけは置いてけぼり。

「入校案内のパンフレットに書いてあったぞ。読むのは苦手?」

 彼の言葉に今朝、マーシャから渡された書類のどれかだろうと納得してあー、と言葉を濁す。

「うん。読めなかった」

「そっか。まあ、難しいことも書いてあったし、俺も全部は理解できてないからなあ」

 上手に気遣いの言葉を述べ、ルイはこっち、と指をさした。

「2年生は階段上がってすぐだって。次からは迷わずに来れるな?」

「ふぅん、わたしたちは?」

「ん?」

「え?」

 変なことを聞かれたみたいに、踊り場に立ち止まってじっとこちらを見つめた彼はもう一度、今度はゆっくりと言う。うねうねと、合っているのかよくわからない身振りまで添えてくれた。

「あ、えっと。1階の、1番手前、だってえ」

「えぇ? っと、それって2年生、って言わなかった?」

「うん」

「んーー?」

 聞き取れていなかったわけでは無いことを確認して、唸りながら顔を見合わせ、はっと同時に声を上げた。

「え、もしかして2年生じゃないのお!?」

「ごめんなさい! わたし1年生です!」

「センパイじゃん!」

「今日からここで働かせていただきます!」

 はっきりと言い切るお互いの言い分の嚙み合わなさにもう一度顔を見合わせて、お互いに反対方向に首を傾げる。

「えっと、わたし、今日からここです。朝、来ました。ここ」

「俺も今朝来たばっかだぞお?」

「ん? えっ、でも2年生って……」

 話している途中でとあることに思い至って、もしかして、と大きく息を吸った。

「わたしの数え方が、間違ってるのかも!」

「え、順番にカウントダウンしないのか?」

「それだーー、日本だと、カウントアップするの! あーよかった、びっくりしたあ」

「へえ! 真逆だなあ」

 ようやっと解明した謎にふう、と息をつく。

 エコールプリメールに通う妹の学年はカウントアップしていたので、リセでもそうだと疑いもしていなかった。

 そうなると、来年からの妹は何年生になるんだろう。なんて思考を飛ばし始めたところで腕が再び引かれた。

「ん? 4年前からこっちにいるって言ってなかったか? コレージュはどうしてたんだ?」

「あー、まあ。ねっ」

 変なところで立ち止まっているよりも早く教室に入った方が良いと、歩き始めたルイが新しい疑問を見つけてそのままわたしにぶつけた。

 当然の剛速球に良い返答は思い浮かばず。目線を泳がせ、下手に躱す気もないわたしに彼も気が付かないふり。ルイとて別に、興味があって聞いたわけではないのだろう。突っ込んで聞いて面倒なことにならないようにと彼は話題を滑らせた。

「ふぅん。ま、実は俺もこの辺に来たのは最近なんだあ。一緒だな」

「へえ、そうなんだ。それまではどこに……って、まあ、聞いてもわたし、わかんないや」

「あはっ、だろうなあ。まあ、ここら辺に来たのは最近だけど、この国には生まれてからずっと住んでるから。わかんないことがあったら何でも聞いてくれよ」

「本当? それすっごく助かる」

 一段一段、平べったい階段を上りきると、彼の言っていた通りすぐに教室が姿を現した。

 長い木製の廊下のずっと奥の方で、高さの揃わない背中が4つ、扉の中へ消えていった。

「おー、少なくともセンパイは4人以上かあ」

 そう言いながらスライド式の扉を引いて、手をかけたままのルイが立ち止まった。

 同じように立ち止まり、ルイの動きを待つわたしを振り向いて彼は首を傾げる。

「? どうかした?」

 自分を見上げて動かないわたしに、入らないの? なんて不思議そうな声で言う。

 その様子にまさか、とわたしの全身に衝撃が走った。

 これが、これがかの有名なエスコートなるものなのだろうか!

 手慣れた彼の動きに女誑しの素質を垣間見る。

 はじめての経験に、伸ばした足と同じ方の腕を大きく振って教室に入る。後ろからは静かに扉の閉まる音、あまりにもスマートで居心地が悪い。気恥ずかしいような、どうしたらいいのかわからない感情に目を閉じて、どこかへ逃がそうと拳を震わせた。

「お、広いなあ!」

 ルイの言葉につられて目を開くと、少し暖かい教室内は驚くほど広くて、壁一面、前から後までぎっちりと詰まった本棚が並んでいる様子は壮観だ。

「おわあーー! ほんとだ、ひろーーーい。これ、一番後ろは黒い、プランシュ? プラック? 見えないんじゃない?」

「あは。そこまで遠くはないだろお」

 黒板を親指で指しタブローな、と訂正しながら教室を見渡していたルイが、自分の席は何処だろうかと席順表を探しに教卓に向かうわたしの背を覆った。

「あー、いや。やっぱそうかもお。声も聞こえないみたいだしなあ」

「確かに。先生のど、枯れちゃうねぇ」

 空気のこもった室内は広さの割に天井が低く、長机と椅子が後ろまでずらりと三列並んでいる。その最後列の廊下側には一人、生徒が座っていた。

 一番後ろ、まっすぐと背筋を伸ばした生徒は、賑やかに入室したわたしたちに目もくれず、静かに読書を続けている。ここからでもわかるほど、座高が高い。

 ルイは何故か視線を遮るようにわたしとその生徒の間に立っており、その行為に見えていないふりで応えた。

「ユズ、前の方座ろ」

「あ、どこ座ってもいいんだ?」

「ダメなの?」

「日本だと決まってたよ。座る場所」

「えー、なにそれ。やだなあ、なんか。自由がないっていうかあ。周り、嫌いなやつだったらどうすんだ?」

「んぇ、我慢。たまぁに椅子交換があるから、それを待つ」

「たまにって?」

「え、えー。月に一回とかだったかなあ。もう覚えてないや」

「へえ、それもそれで。落ち着かないなあ」

 母国の話題で懐かしい気持ちになりながらルイに背を押され、最前列の真ん中の席へと進んだ。

 目を大きく開いたり、細めたりと変顔をしてうん、と頷く。わたしのその動作を不思議そうに見ていたルイが問う。

「何してんだあ?」

「んー、ここなら黒板見えるなあって」

 覚えたばかりの言葉を慣れたようにドヤ顔で言って見せる。

 え。と瞬きをしたルイの目が、透き通るように綺麗だった。

「目、悪いのか?」

「うん。あ、あと左耳もね、あんまり聞こえてないんだ。だから右側にいてくれると助かる」

「ええ! 病院は? 行ってる?」

「んー」

 ぼんやりと否定すると窘めるように彼は声を荒げた。

「すぐ行けよお!」

「んぇ、お金かかるじゃん」

「そ、う、だけどお」

 わたしを説得しようにも彼自身にも経験があるのか。顰め面で唸っていたルイの背後から突然、大きな舌打ちが響いた。

 驚いたルイのおおきな瞳には、同じように驚いた顔をするわたししか映っていない。

 確か、マーシャの持っていた名簿に書かれた名前は合計4つ。

 最後のクラスメイトからの初めての声掛けは舌打ちだったという事か、と理解した時にはルイの瞳は瞼に隠されていた。

「えー、マジー? こわあ……」

「邪魔。退けや」

 声を震わせながら、振り返りたくないなあ、と顔を顰めるルイの後ろから、再びきれいな舌打ちが聞こえた。

 がたん、と近くの椅子が倒れる音がして、ルイはもう一度「えー、マジー? こわあ……」と、顔をぎゅっと寄せた。

 そっとこちらに歩み寄り、通路を開けたルイの後ろを通り過ぎていく男は、ルイに隠されていたわたしを一瞥すると、頬を痙攣させ再三の舌を鳴らす。

 わたしよりも小さく細い体をした彼の傷んだ茶髪は重たく、目元隠して敵意隠さず。

 嵐が去るのをじっと待つルイを押しのけ、わたしは強引に彼に手を伸ばした。

「よろしく! わたしはユズ。ユズ・クスモト。あなたは?」

「ユズ、えっ、ユズ? え? ねぇ、なにやってんのユズ、えっ? なん、えっ?」

 寮でルイがしてくれたように、怖いもの知らずに笑って彼にずいと寄ってみせる。

 上手くできたと思ったのだけれど、ルイは混乱を隠し切れないと素直な言葉でわたしの肩を揺すった。その動きに合わせて、わたしの視界も揺れる。

 少し驚いて後ずさった茶髪の彼は、伸ばされたわたしの腕を睨みつけた。

 きっと、相手を女だと理解したのだろう。意気を取り戻し、馬鹿にするようにハッと笑う。

「クロットゥ!」

 それだけを言い捨て、教室の後ろへと向かった彼は先客のいない窓側の席へと腰を落ち着けた。

 机に足を乗せ、いかにも自分は悪いですよと語る座り方にルイは辟易しながら、腰が抜けたみたいにへなへなと座り込んだ。

「こっわあ。というかユゥーーズーーー、なあんでそんな怖いことすんのお? やめてえ? まじでえ!」

 ルイの言葉に、何が怖いのだろうと首を傾げる。

 虚勢で恐怖を紛らわせているかのような、そんな行動はどちらかと言えば可愛らしいものに思えるけれど。

 袖を引っ張り、怖いから早く座れ、と促すルイの瞳をまっすぐと見つめた。

 新緑の瞳で見る世界は、どんなにきれいなんだろう。わたしは黒の瞳でしか見たことが無いから。

「クロットゥって何? 知らない言葉」

「えーーー、全ッ然話聞いてないじゃんもーー。仲良くなりたくないって。な、座れってえ」

「え、残念。友達になって家に呼びたかったのに」

「距離の詰め方バグりすぎじゃない? 家なら俺が行くからあ」

 立ったまま、細めた視界でクラスメイトを観察するわたしを座らせたのは、電子的なチャイムの音。

 なんだ、あの鐘は鳴らないのか。

 隣の男が安堵して息をついているのに気が付かないまま、口をへの字に曲げる。

「クラスメイト、少ないねぇ」

「まあ、そりゃあ? ヒーローリセだからなあ」



 ルイの声は、白衣を纏った男の入室音にかき消された。

「入学ありがとう。私は担任のテッド、よろしく。今から時間割の変更点と注意事項、しばらくの追加授業の予定表を配る。まずは変更点から。月曜日、」

 入ってきた瞬間、簡単に名乗った白衣の男はそのまま単調な声でこちらの返事を求めることなく言葉を紡いだ。

 クラスメイト同士の自己紹介だとか、親睦を深めるためのレクリエーションだとか、入学式だとか。そういったものは無いみたいだ。残念、はやくみんなと仲良くなりたいのに。

 つらつらと一方的に話を進め、同時に黒板に内容を書き記していくテッドの背中では、ルイと同じ色の髪が一つに結ばれ、腰のあたりまで細く揺れていた。

「ユズより長いなあ」

「ほんと。それに綺麗。ルイと同じ金色だね」

 二人して頬杖をついて、担任を観察するのに大忙しで話なんて半分も入ってこない。

「俺、黒髪好きだよ」

 照れもせず、わたしの髪に触れたルイがそのまま、綺麗とは言い難いそれに口付ける。

 あまりにも自然な所作に思わず声が漏れた。さすがは愛の国、子供であろうと女性の扱いは叩き込まれているらしい。

「んおー、5点」

「それは何点で満点?」

「100」

「欠点かあ」

「早退でーす」

「退学な。なんで早退は知ってんだよ」

 堂々と最前列で私語を慎まない二人を咎めることなく、テッドは続ける。

「最後に、追加授業の予定表を配る。来月の初めまではこの通りだが、それ以降は変更が加えられていく可能性があるから、そのつもりでいるように。では、呼ばれた者から前へ。まず、ユズ・クスモト」

「あ、はい」

 話半分以下のところに自分の名前を呼ばれ、慌てて立ち上がる。

 てっきり男子生徒から呼ばれるものだと思っていたので、心も体も準備が出来ていなかった。

 薄い用紙をちらつかせる担任に近づく。そういえば、教卓ってどこの国でも一緒なんだなあ、なんてくだらないことを考えていると、伸ばした手首がぐいと強く引き寄せられた。

 ガタン、と胸が詰まる。

「え」

 戸惑うわたしの手は引かれたまま。体制を崩した拍子に咄嗟についた反対の手には、一回り以上大きな掌が重なった。身動きの取れない、緩やかな拘束。見事な手腕に体が硬直する。

 ゆっくりと撫でさする乾燥した皮膚の感触に、虫の這うような不快感が手の甲から腕へ、肩へ、全身へと、痺れのように広がる。

 予想もしていない出来事に手の主を見上げると、担任のテッドは丸眼鏡の奥から目を細め、こちらを見つめていた。見覚えのある表情。見なければよかった。

 音もなく近づいてくる顔にきつく目を閉じる。甘ったるいショコラの香りが髪を揺らした。

「きみは、貴重な存在だ。きみが思っているよりもね。困ったことがあれば何でも、私に、相談すると良い」

 手入れの行き届いた金の髪が頬に触れる。くすぐるようなさらりとした感覚に大袈裟に肩が跳ねた。

 ゆっくりと言い聞かせる話し方は外国人であるわたしへの配慮にも思えるが、まとわりつく粘着質な物言いに、言葉を素直に受け取れない。

「は、い」

 細く、しなやかに見えていた彼の節くれだった手の男らしさが怖くて。しつこく撫でる摩擦と体温でうまれた熱が、気持ち悪くて。

 振り払えもせずに、解放される時を待つわたしを満足げに見下ろした彼は、案外呆気なくその拘束を緩めた。

 ぱっと距離を取ったのはテッドからで、何事もなかったかのように笑う。その灰色の瞳に先ほどまでの熱さはなかった。

「うん。これからよろしく。次、クロード・シモン」

 他人へはない、わたしにだけ向けられた柔らかな声色も、欲しくないのに押し付けられている気がして、吐き気がする。

「おーい、転びそうになってたなあ。テッドにも笑われたか?」

 嚥下の悪い喉を鳴らし、足早に戻ると楽し気なルイが耳打ちした。

 鼓膜を揺らす彼の声に少しだけ息が楽になる。嫌な拍を打つ鼓動を落ち着けるため、深く息を吸う。通路を横切る少年が風を切る涼しさが心地よかった。

「ううん、何でも相談してって。言われただけ」

「へえ。良い先生じゃん」

 何の気なしに。きっと本心からそう言ったルイの横顔を眺め、右手で頬杖をついた。

 どこか妹と似た雰囲気のある彼の、元気に跳ねる金色の髪が目に痛い。

 受け取った紙に舌打ちをしながら通り過ぎていく先ほどの男子生徒を見送って、鼻から息を吐いた。

「2点」

「え!? さっきより低い! なんでえ!?」

「次、ルイ・ロベル」

「あー、なんでえ。なにがダメだったんだあ。というか今のはなんの採点?」

 ぐずぐずと文句を垂れながらテッドの元に向かうルイに笑って、彼のいなくなった席を眺めたまま、震える手を何度も、何度も強くズボンに擦り付けた。

「最後、リュドヴィック・ヴァンサン」

 首を固定して、ルイ以外を視界に入れないと決意したのも束の間。

 しばらくの無音の後、テッドはもう一度先ほどよりも声を張る。

 名前を呼ばれたであろうクラスメイトの動きが無いことが気になって、思わず振り返ってしまった。

 わたしたちが教室に入ってきてから一度も顔を上げない彼は、名前を呼ばれたことにすら気が付いていないように読書を続けていた。

 シルバーの髪の毛は遠くからでも清潔感が伺え、俯き気味な彼の表情を、近くで見てみたくなった。

 眉間にしわを寄せ、大きく息を吐いたテッドは長い脚で後ろまで歩いていくと、彼の席に最後の紙を置く。

 その紙にすら何の関心も示さないで、彼は静かにページをめくった。

「各々確認しておくように。今日はこれだけだ、明日からは通常通り授業が行われる。パーティするなら今日中に。全員が揃うのも今夜までかもしれないからな。それじゃあ、解散」

 前の席にも聞こえるように大きく口を開いたテッドはそのままの足で後ろの扉から姿を消した。

 弾かれるように立ちあがった、クロードと呼ばれていた茶髪の生徒もその後ろを追う。

 同じタイミングで、わたしも立ち上がった。少しの駆け足で、ルイの声が遠くに聞こえる。

「うわあ、こっわ。ユズ、マジでよく声かけたなあ……、」

 クロードの態度に部屋となりじゃないと良いな、なんて顔を顰めたルイの視線が、彼の隣にいたはずのわたしとかち合ったときにはもう、目的地に辿り着いていた。

 驚きに見開かれていく彼の瞳、ばんと机を叩いて立ち上がる彼の動きが、やけにゆっくりと見えた。

「おっ、も、ぐぅ、ばかばかばかばか!」

 生真面目に、机に残してきたわたしのプリントまで回収してくれているルイを尻目に、読書を続ける彼の隣へと座った。

「わ。おっきいね」

 隣から覗き込んでも、声をかけても彼は動じない。

 ただ文字を追う金色の瞳がとてもきれいで、鼻筋の通った彫刻像のような男の子。

 顔をもっとしっかりと確認したくて、彼の髪に触れようとしたとき、大きな声がわたしの名前を呼ぶ。

「も、うぅ、ユズゥーーーーーーッ!!」

 教室に響き渡る叫び声は耳に入ったのか、驚いたように視線を本からルイに移動させた彼が、本人からしてみればいつの間にか、隣に座っていたわたしを二度見して驚いたように体を跳ねさせた。

「ぇ、?」

 小さな声が確かに、彼の口から零れた。

 大きな彼の、小さな声に気を良くして、口元が緩む。

「はじめまして! 私はユズ・クスモト。あなたは?」

 彼に向けて名乗ったわたしの声は響くことなく壁へ床へと飲み込まれ、教室はしんと静かに。

 枝毛の一つもない清潔な銀髪をさらさらと振って、彼は辺りを見渡す。

「ぁ……、え……?」

 戸惑いながら誰を探しているのか、忙しなく視線を彷徨わせる。誰が見ても歓迎されていないその態度に、それでもいいと腕を伸ばしたまま言葉を続けた。

 どうせ失って困るものなど、ここに持ってきていない。

「でも私、実は知ってるんだ。リュドヴィック・ヴァンサン! さっきテッド先生が呼んでた!」

「え」

 名前まで呼ばれ、逃げ場のなくなった彼の瞳にようやくわたしが定まった。金色に輝く視界だと、こんな自分でもきれいに見えるもんだ、なんて。彼を見つめ返した。

 突然ぐわん、と視界がブレて、彼が消える。もっと見ていたかったのに。

「もーーーーっ、ユズ! 危ないことすんな! 帰るぞお!」

 見つめ合うわたしたちを引き裂くように、ようやく辿り着いたルイが腕を引いてわたしを立たせた。

 ふらつきながら立ち上がったわたしの視線と、ほぼ同じ高さに彼の頭があり、座ったままのリュドヴィックの頭に手を添えた。ふわっふわの銀色の髪の毛が指の間を流れていく。

 わたしの手に怯えたように、彼は首を竦めた。

「ゎ、あ」

「わ、ね、ね! 見て! ルイ見て! すごくない!? え、立って立って!」

「もーーー、いいから! ほんと! 帰る! わかったあ!?」

「ぉわっ、あー。今度立ってるとこ見せてねー!」

 聞き分けの悪い子供に言い聞かせるように簡単な言葉で窘めるルイに先ほどよりも強引に腕を引かれ、抵抗することも出来ないまま大人しく髪を梳いていた手を離して彼に向ってばいばいと振る。

 残念だと、惜しむわたしの言葉に適当な相槌を返すルイに抗議をしていると、ぐん、と後ろに体が引かれる感覚。叫ぶように必死な声が背後から響いた。

「まっ、待って!」

「ぐわっ?」

 咄嗟に可愛らしい声も用意できないで、強い力に肩が外れそうだ。

 急に綱引きの対戦相手となったリュドヴィックをにらみつけたルイは、負けじと同じくらい強く引く。綱役は、わたし。

 両側から男性二人に腕を取られ、そんな状況じゃないとわかっていながらも、昔、日本で友達に借りて読んだ少女漫画のワンシーンを思い出した。

 一人のヒロインを取り合う俺様ヒーロー二人の会話が、脳内に蘇る。

 これは俺の女だ。いいや、俺のだ。バチバチ。

「おわーー! 人生初のモテ期だ! 学校ってたのしーーーーっ!! あっ、ちょ、待って。まっ、一旦離し、まじ、腕千切れるこれマジのやつ!」

 互いに反対方向へ引っ張るものだから、腕が変に捻れていくのが視覚よりも先に、痛みで伝わってきた。俺の女だー! の典型例かと思っていたけれどよくよく考えれば牛裂きの刑か、これは。あれは足だったか? 何でもいい、痛い。流石は処刑方法なだけある。わたしに抵抗の術が一切ない。

 わたしが叫んだのは母国語で、彼らは理解できていないだろうけれどルイは要望通りに手を離してくれた。

 それからわたしを守るようにリュドヴィックとの間に立ちはだかっては、語気を強めて言う。

 多分、ルイが、メインヒーロー。幼馴染で、家が隣の、メインヒーロー。

 腕を曲げ伸ばしして確認しながら、そんなことを考えられるくらいには余裕が戻る。

「おい、困ってるだろ。離せよお」

「え、君も!?」

 噛み合わない言葉は、彼の心の底から出たと言わんばかりの声で紡がれており、変人を親指でさすと、ルイは絡まれてしまった責任を負わせるべくわたしに向かって非難の声を上げた。

「もぉ~~ほらあ! ユズが変なのに構うからあ!」

「ルイ、人を指さしちゃダメ」

「なんで今更常識人ぶるの!?」

 わたしの注意に何故か怒りが爆発したルイの指を、リュドヴィックが包み込んだ。

 ルイよりも大きな掌が、確かめるように彼の指をぎゅっぎゅっと移動して声を上げる。

「ふたりには、私が見えるの?」

 息を深く、吸って。細く、長く、吐いて。ルイはさめざめと泣いた。

「なんでまともなクラスメイトいないのお」

 かわいそうに。わたしはクラスメイトに恵まれたと思っていたけれど、ルイは違ったようだ。

 自分で招いた混乱に、何故泣いているのだろうかと言わんばかりに慌てているリュドヴィックをまじまじと見つめて、わたしは初めてみた、と呟く。

「お化けって午前中でもいるんだ」

「あ、お、おばけじゃないっ」

「じゃあ幽霊?」

「ち、ちがう……」

「んー、ヨウカイ?」

「なんで化け物縛りなんだよお」

 鼻を啜るルイまで呆れた声で、わたしの全ての選択肢を潰した。むう、と唇を突き出す。

「えー、だってじゃあ。見えるってどういうこと? この国だと見える人と見えない人がいるってこと? 不便じゃない?」

「いない……、いや、知らない! 俺が知る限りでは初めて会った。というか、俺にはずうっと見えてたぞ」

「うん。わたしにもはっきり見えてる。足がない、とかでもないもんね。うん、ダイジョーブ! 見えてる見えてる!」

 彼の隣に座り直し、ぱんぱんと確かめるように太ももを叩いて親指を立てて見せる。

「わ、あ!」

 その態度に興奮した高い声で顔を赤らめ、熱に浮かされたように瞳を潤ませたリュドヴィックは、掴んだままだったわたしの手を握り直した。

 この国で、グッドサインとは何か性的な意味を持つのだろうか。明らかに反応がおかしい。

 そっと親指を握り込む。静かに行動して欲しいのに空気の読めない関節が気泡を潰した。

「おー? 告白されちゃうかもー!」

「楽しそうで何よりい」

 居心地の悪い空気に、冗談を飛ばすぐらいしかもうできることは無い。

 呆れながら合わせてくれたルイの努力もむなしく、リュドヴィックは真剣な表情で続けた。

 何故か雰囲気を合わせたかのように、カーテンがぶわ、と風をはらんで膨らんだ。

「幸せにするっ! 、から……、ずっと一緒にいて……っ!」

 献身的な祈りを捧げるように目を閉じ、わたしの手ときつく絡めた指を額に押し当てる彼は大きな体を縮めて、強く懇願した。

 その手を、顔を、ルイを振り返り、叫んだ。

「プロポーズされた!!」

「距離の詰め方バグってんじゃん……」

 想像よりも段階を飛ばした愛の告白に、いっそこの状況が楽しくなってきた。

 そんなわたしとは対照的に頭痛でもするのだろうか、頭を抱えるルイの手も遠慮なくつかみ取ったリュドヴィックは机から身を乗り出した。

「君も、幸せにする」

 両手に花ならぬ、両手に同級生を握った彼は勢いに身を任せていて、わたしもまた、関西人として負けられないという気持ちになってしまう。

「ハ? 早速不倫されたんだけど。どこの女よそいつ!」

「ふ、不倫なんかじゃない! 二人とも、必ず幸せにする!」

「いやよ! わたしは唯一じゃなきゃ! わたしだけを愛してくれる人を探すわ! 離してちょうだい!」

「ぅ、わ、わかった。君だけを愛すと誓う! だから、ずっと一緒にいて。離れないで」

 昼ドラよろしく振り払おうともがいた腕は全く動かず、純粋な力量差に自然と体が硬直してしまう。

 冗談などではなく、本気で離してほしいと恐怖が襲う。敵わない、離れられない。

「ふたりとも一回黙って! ていうかなんでユズはそんな言葉ばっかり知ってんだよお!」

 ルイの声に、世界が開けたように感じられた。第三者がいる安心感からほっと息を吐く。

 素直にんぐ、と口をつぐんだ彼は力加減が分かっていないだけのこどもの顔をしていた。

 ゆっくりと、カーテンが幕を閉じていくように空気を逃がした。

「まずお前は手、離して」

「え」

「えっ、じゃない。拘束すんな。対等にしゃべろう、なあ?」

 信じられないことを言われたかのように悲愴な表情で、名残惜しそうにそっとルイの手を解放した男はすかさずそのまま、わたしの空いている手を何の迷いもなく握った。

「いや、だから。捕まえんな、クラスメイトを」

 はねのけるようなルイの口調に、ためらったのか少しだけ拘束が緩む。

 わたしだって、離してほしい。それでもリュドヴィックの迷子のような表情を見ていたら、勝手に口が言葉を紡いでいた。わたし本当は、弟もほしかったんだ。

「いいよー、わたしは別に。それで落ち着くんなら握ってなよ」

「ありがとう!」

「あは、返事はやーい」

 了承を得た途端に指を絡め、頬ずりをして嬉しそうにルイに向き直って次の言葉を待つ彼がかわいらしくて、宙に浮いたままになった腕のだるさも気にならない。

 なんだかひどく疲弊したルイが、わたしたちの前の席に座ってこちらに向いた。

「それで、お前は何がしたいわけ。何を、言いたいわけ?」

「あ、ふっ、二人を、幸せにしたい!」

 大きな声での宣言に、だからあ! とルイも負けず劣らず声を張る。

「違う! 飛ばすな! 過程を!!」

「お前らなぁにしてんだあー!? 二限始まんぞ!」

 二人の声よりももっと、太く響く声が扉を勢いよく開いた。

 出入り口付近での大騒ぎに、通りすがりの体格の良い教師が様子を見に来たらしい。

 見慣れない三人組に目を凝らし、頭だけを外に出して教室のプレートを確認した教師は「新入生か!」と声のトーンを落とさないままに言った。

「入学ありがとさんよ! 話しすんなら帰寮してからやれ! 今日は一年も座学ないからなあ、もう施錠の時間だ! 帰れ帰れ!」

「うあっ、はあい! 出るぞ、迷惑かかってる」

 慌てて立ち上がったルイに急かされながら、もつれた指をリュドヴィックから解く。

 紺のジャージの上からテッドと同じ白衣を纏った教師は、わたしたちが教室を出るまで扉の外で待ってくれていて、横切るリュドヴィックの大きさに感嘆の声を上げた。

「でっけえなあ! お前!」

 自分の背と比べ手をひらひらと翳した教師の楽しそうな声を華麗に無視して、リュドヴィックは先に教室を出ていたルイを駆け足で追いかける。

 その態度に気を悪くした様子はないが、弟の名誉のためにとわたしは教師に声をかけた。

「あの、彼、耳が悪いみたいなんです。すみません」

「おー、そうか。お大事にって伝えてやってくれ!」

「はい、わかりました」

 明朗な言葉に思わず笑ってしまうと、どうかしたか? と聞かれて首を横に振った。

「優しい先生がいて、安心しました」

 わたしの言葉に太い声で笑う。

「おお、仮にも先生だからな。生徒に優しく! こりゃあモットーだ!」

 良い先生というのはこの人のようなことを言うのだろう。ルイに教えてあげなくては。



   ×   ×   ×

「ユズ、早く帰るぞ」

「あ、うん! 失礼します」

「おう、授業頑張れよ!」

 気が付けば距離の出来ていた男子生徒二人が振り返り、女子生徒を呼んだ。

 ぺこりと深く頭を下げる様子は明らかに外国人の仕草で、足音を立てて離れていく少女に目を細めて、三人の後ろ姿を眺めた。

 ガタイの良い欠陥男と、見た目も性格も平凡な男。それから、入学してきたのが烏滸がましいような小さくて頼りがいのない女。

「んー、二年と、一年ちょいは行くかな。女は……、三ケ月は持つか? あー、クッソ、あっこでピュイ出すんじゃなかった。テッドの野郎いっつも美味しいとこ持ってくんだよなあ……あーあ、女使いたかった!」

 左から順に値踏みをし、苦々しく溜息を吐いて鍵の束を鳴らした。



   ◀   ▽   ▶

 数時間前よりも勢いをなくした風は冷たさを増してゆったりと流れていく。

 今日だけで三回も踏みしめた道を、大して幅もないくせに三人で広がって歩く。

「それでえ?」

 薄い生地のワイシャツに少しの寒さに腕を組み、俺は語尾を上げた。

「お前は何者なわけ? 見えるとか、見えないとか」

 俺たちを追い抜いた風よりも冷たい声に貫かれて、話を振られた緊張感から肩を上げた男は喉を震わせた。

 立ち上がった彼は当然の如く座っていた時よりも大きくて、自分とそこまで背丈の変わらないユズが縮んだかのようにも見える。

「あ、えぇと。私、のことを見て、話しかけてくれた人が、久しぶりで。あ、ぇと、次に、そんな人が現れたら、絶対に幸せにするんだって。決めていたから! 二人の事は、私が幸せにする、したい、……する!」

「えぇ、もしかして重い話? 初対面で?」

「うーん?」

 淀みながら、自身の決意を熱く語った彼の言葉に見え隠れする闇に、否定も肯定も言い難い。

 こちらから聞いた手前、聞きたくなかったとも言えず、風で逆立った髪の毛を撫でつけながら誤魔化す。半歩後ろで唸るユズの方を見ると、考えるように眉を寄せていた。

「話、難しかったかあ?」

「あ、ううん。大丈夫、ありがとう。うーん、ヴァンサンの言葉、考えてたんだけど」

 名を呼ばれ、何が気に食わないのか渋い顔を作った男は言い出しにくそうに目を瞑った。

「あ。えぇと。ヴァンサンと呼ばれるのは、好きではなくて。リュドヴィックと呼んでもらえ、たら。嬉しい」

「あぁ、ごめん。リュドヴィック?」

「っ、うん!」

「わたしの事もユズって呼んで。彼はルイ」

「わ、わかった、ユズ、とルイ」

「うん」

 下から随分と高くを見上げニコリとほほ笑むユズと、それにぎこちなく返す男は、傍から見ていて何とも奇妙な光景だ。

「勝手に紹介すんなよお」

 なんて言ったところでもう過ぎた話。

 柔らかな応酬にほんのりと空気が温まって、動きやすくなった表情筋で上手に微笑むユズとは対照的に、憧憬を抱いて熱を帯びた視線で彼女を見つめる男は不器用に頬を痙攣させていた。

 綺麗な垂れ気味の金の瞳に、ふわふわの銀の髪。薄桃色の頬にスッと高い鼻、その中で不格好に歪んだ口元だけが、画家の手が滑ったかのように歪で浮いている。

 視線を逸らしたのはユズからで、何故か苦し気に胸を抑えて眉を下げていた。勝手に彼の背景でも捏造したのだろう。おやさしいことで、うんざりする。

「ぁ、それでさ。リュドヴィックはさっき、教室出ていけって言ってた先生覚えてる?」

「えぇと、うん」

「じゃあ、担任のテッド先生は?」

「あ、えぇと」

 ユズの言葉に、思い当たらないのだろう、男の視線がうろつく。

 まっすぐと男を見つめ、ユズは「あのね、」と続けた。

「二人とも、リュドヴィックのこと見てたよ。それで、話しかけてた。リュドヴィックはそれに気が付いてた?」

「え、? ぃいや、そんなことは、」

「うん、呼んでた。テッドは名前もなあ。お前、本読んでたから気づいてなかったけど。良くないぞお、ああいう態度」

 ユズの言葉を引き継いで、口を開いた。

 鬱陶しい。自分ばかりが被害者の気持ちでいる。こいつも、俺も。

 信じられない、と半笑いで否定しようとした男の非を難ずる。

 信じたくない、と冷たい空気をたくさん吸う呼吸音だけがずっと続く。

 俺たちの訂正の言葉を待っているのだろう、いつまで待っても静かに鼓膜を揺らすのは、近くの体育館から聞こえる微かな話し声のみ。

「全然、気が付かなかった」

 ふらりと巨体がよろめいて、長い脚が地を踏みしめる。それに合わせて立ち止まったユズに肩を竦めた。

 嘘つけえ、なんて軽い冗談のつもりで言ったのに、ユズは俺を窘める。

 急に、彼の手を握るユズに驚いて男は大袈裟に震えた。

 そんな態度が、ユズには可哀想に見えるのだろう。細い瞳いっぱいに、慈愛の精神を浮かべていた。

「多分、リュドヴィックの事を見て話しかけてくれる人って、これからいっぱいいると思う。もしかしたら今までだって。リュドヴィックが誰にも相手にされないって思いこんで、見逃した人たちがたくさんいるかも」

「ゆ、許されないことを、してしまった」

「んな、大袈裟なあ」

 今だってお前はユズから憐みを受け、罪の許しを受けて大切にされているじゃないか。

 そうやって目の前の何にも気が付くことなく生きて、死んでいくんだろうな。

 俺ばっかり、何ももらえない。与えられない。これまでと同じく。

 可哀想だと同情されたいわけじゃない。ただ、目の前の男に腹が立つ。

 わがままで、自己中心的な、自分と似た男に。

 自分だけが被害者だとそう思い込んで生きていられたことは、さぞかし楽だったろう。

 自分だって加害者の立場になり得るのだと。知ることが出来たのは幸せなことだ。

 ユズが優しく調子に乗せるから、男が俺に向かっても期待の瞳を向ける。

 別に、お前の味方をするつもりもない。鼻を鳴らして首を振った。

「許されない、なんて程の事じゃないだろ。一回、二回、無視されたくらいで永遠に引きずるやつの方がめんどくさい。ま、お前の株は下がってるだろうけどさあ」

「そうだね。これから気をつければいいだけだよ。それにね、縁が切れる人って、遅かれ早かれいつかそうなるんだって。だから、その時が来るのが早いか、遅いか。それだけなんだって、昔お母さんが言ってたんだ。だからお母さんは……、」

 調子よく話していたユズの言葉を遮るように強い風が一度吹いた。

 何かに気が付いたみたいに言葉をとどめたユズは数度瞬きを繰り返すと、言葉を探すように母音を重ねる。

「えっと、そう! だから、わたしは、リュドヴィックに幸せにしてもらわなくても一緒にいるよ! ずっとは難しいかもしれないけど、幸せじゃないから一緒にいるのやめる、なんて言わない」

 長い黒髪が風を切って、小さな体で力強く言い切る彼女にだって、外国の地でヒーローリセに入っただけの理由がある。

 貧相で頼もしいユズに向かって、恵まれた立派な体格で弱々しい男が幼い口調で肩を落とす。

 ぽつぽつと、三人は小さな歩幅で踏み出した。

「ほんとう?」

「うん、もちろん!」

「でも、無視、して、しまうかも」

 俺らよりも大きな図体で、俺らよりも小さな歩幅で踏み出した男は、先ほど知ったばかりの自分の加害性を訴える。

 その言葉に対してユズは、被害を受けてもいいと笑いとばした。

「全然大丈夫! もしそうなったら、無視できなくなるまでわたしから話しかけるよ!」

 はっきりとそう告げるユズは、大きさの違うつま先を揃えて俺を覗き込み言う。

「ね。ルイもそうでしょ?」

「えーーー」

 何を期待しているのか、ユズは俺を随分と信頼してくれている。

 唇を尖らせ、言葉にせずに不服を訴える俺の仕草に、ユズがあはは、と笑いながら遠慮も容赦もなく下唇をつまんだ。

 もう、毒気が抜かれてしまうから、やめてほしい。

「もーー! 俺はあ! 無視されたら嫌だし、お前の事、苦手だなってあんまり関わり合いたくないなあって思った。今も思ってる。でも、お前が仲良くしたいっていうなら、俺から積極的に無視するようなこともしない。けどお、」

 つい、癖で浮いた右手の親指を下ろす。

 ユズ越しにリュドヴィックを一瞥して、直ぐに逸らした。居心地が悪いような、もやもやとした心のまま、ようやく辿り着いた寮で学生証を取り出した。

 エントランスで、管理人のマーシャに手を振るユズを階段まで引きずってから、続けた。

「お前ももうちょっと周りに目え、向けろよ。何にも関心ありません、みたいな顔して、人から与えられるの待ってるだけの奴とは仲良くしたいなんて思えない。多分、そう思うのは俺だけじゃないぞ」

 言いたいことを言って、胸ポケットに学生証を突っ込んだユズを半目で見た。

 黒い瞳がどうしたの? とでも言いたげに俺を吸い込む。

「……まあ、ユズは行ってたけどお」

「ん、だって、クラスメイトとはお友達になりたいじゃん」

「参考にならない意見をありがとう。助かるう」

「折角会えたんだから、仲良くならなきゃ損だって!」

 眩しいほどお綺麗な持論を言うとユズは弾かれたように階段を駆け上がり、廊下を曲がる。

 分かりやすく彼女から用意された静けさに、後ろから小さな声が謝罪を紡いだ。

 一段、二段、階段を上がる。

「別に、謝って欲しいわけじゃなくて。俺だって最初は思い込みで避けようとしてたし、お互いさまってことでこの話は終わり。な」

 一足で二段、彼も踏み出した。

「うん、ありがとう」

 三段、四段、五段。やっと、彼と同じ目線に立った。

 表情筋はやはりあまり働いていないが、声色と顔色の良くなった彼は感情が分かりやすい。

 それからこれだけは言っておかないと。と、ユズが見ていないことを確認してまっすぐと彼を見つめた。

 正面から見た彼は恐ろしいくらいに整った容姿をしていた。

 長い脚に広い肩幅、羨ましくなるような体格の良さに、透明感のある白い肌。透き通るような銀の髪は粉雪のように柔らかく、どこか温もりさえ感じさせる。

 ひときわ、目を引くのは。

「友達くらい、なるけどさあ。俺も幸せにしてもらわなくていいから。その代わり、俺もお前の事を幸せにしてやれないと思うけど、文句言うなよなあ」

 否定するように首を振った彼の、きらきらと夜へ誘うような満月の瞳。穏やかな瞳で微笑むリュドヴィックが、一足で身長を伸ばして隣に立った。惜しむらくは、その笑顔がヘタクソなことか。

「友達になってくれるだけで、十分に幸せだよ」

 ふわりと清潔な石鹸の香りがして、小さな針で心を刺されている気分になる。

 ほんのもう少しだけでも性格が悪ければ、お互いに排他して生きていけたのに。

 自分と同じだと思っていた彼の、素直な性格は自分にはないもので、完全に憎しみをもって接することなど、今となってはもうできそうにない。

「的確に俺の罪悪感ついてくるじゃん……」

 知っていれば、こちらの出方も少しは変わっていた。今更だけど。

 ちくちくと痛む胸を知らんぷり、元通りになった視線の高さで廊下に出ると、汚れひとつない白い壁にもたれかかったユズが靴の汚れを床に擦り付けていた。

「お」

 なんて。

 女の子らしからぬ声で、取り繕いもしないで彼女はぴょんと体を起こす。

「仲良くなった?」

 二人の間にわざわざ挟まれに来たユズは眠たそうな重たい瞳を向けた。

 朝、初めてこの部屋の中で出会った彼女は何処か、危うい雰囲気を纏っていた。

 こんなところまできてから覚悟が揺らいだのか、扉に縋りついて怯えていた外国人の少女の姿を思い出して、たった数時間で印象かわったなあ、なんて深く息を吐いた。

「おかげさまでえ」

「うん。友達になってもらったよ」

 それぞれの返答に、にっと笑みを深めたユズが俺の背をバシバシと叩く。

 リュドヴィックにも同じようにしているが、彼の尻を叩いている事には気が付いていない。

 本当に、初対面の時と印象が違い過ぎる。

 一生懸命に自己紹介をしていたか弱そうな少女ならきっと、人の尻を叩かない。

「何より何より! ナカヨキコトハ、ウツクシキカナ!」

「え、ぇと。どういう意味?」

「さあ? 俺にはわかんない」

 部屋の扉を開いたリュドヴィックに首を振る。

 ユズの母国語も、ユズの性格も。今は何も知らない。

 それでも案外、良いクラスメイトに恵まれたのかもしれないと思えた。


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