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第二話 リンゴと栄養ドリンク



 バス停には数人が、買い物帰りのラフな格好でトートバッグからパンやらネギやらを飛び出させて賑やかに並んでいた。朝市で安かったのだろう、ネギが特に目に入ってくる。

 同じように列を伸ばすとすぐ、わたしの後ろにも数人が緩いカーブを帯びて並ぶ。

 あと9分で到着すると表示された電光掲示板を確認して、初めての場所に辺りを見渡した。

 大きなビルが立ち並ぶ、家の辺りよりも栄えたこの場所は、近くに大きなマルシェがあるから、多くの人がパンパンに膨れた買い物袋を抱えて歩いていた。

 飲食店もいくつかあって、カフェのテラス席のすぐ近くを食べ歩きには向いていないだろう丼物をスプーンでかきこむ男の人がネクタイを靡かせ走っていく。あ、パン屋発見。

 眺めているだけで楽しい街並みを遮るバスが、想定していたよりも早く到着した。

 ぎゅう、とちいさな紙の回数券を握る。

 手を挙げ、機械にカードを翳す前の人に倣って同じように乗りこもうとしても、大きな音と共に券がはらりはらりと手から逃げて行った。

「ぉわっ! っと、えっと!?」

 慌てて拾い上げ、じっくり確認するとわたしの持っているものは翳す物とは違ったようで。誰かの手本が見たい、なんて考えながら恐る恐る平べったい穴に差し込もうとすると、後ろから急かす声。

「後ろ! つっかえてるよ!」

「あっ、すみません! あーーーっ、ちょっと待ってくださいね、ほんっとすみませんっ!」

 女性の苛立った声にびくりと体が跳ね、思い通りの場所に入らなかった紙の券が再び地面を舐める。

 どうにか乗り込むことはできたものの、時間のかかった乗車に外から中からいただいた舌打ちと侮蔑の視線に耐えられず、小刻みに体を揺らしながら足早に席を探した。

 ありがたいことに中程まで進むと一人掛けの椅子が空いており、そそくさと座って鞄を抱きしめホッと息を吐く。恥ずかしさで顔が熱い。

 手の甲で頬の熱を冷ましているうちに全員の乗車が終わり、ひどく勢いのあるドアが閉まるとバスが変な音を立てて走り出した。

 目的地を繋いで行ったり来たりを繰り返す、このバスの停留所はたったの四ヶ所。

 わたしの乗り込んだアーケード街から始まり、長く揺れたバスは病院近くの大きな教会の入り口で停まる。杖を突いたおばあさんと、補助をする若い女性だけが降りて行くのを心配しながら見守る。

 車体を揺らすほど強く扉が閉まり、これまた長く揺られていると、広い住宅街と近いバス停。

 停車と共に、車内に残っていた人たちが立ち上がった。出口に急ぐ姿を眺める。乗り込む人もおらず、バスに残るのはわたし一人だけ。今からは貸し切りだ。

 お金持ちにでもなった気分で、椅子とズボンに残った靴跡を払って広く座り直した。

 空ぶかしのエンジン音が轟く中、扉まで進んでいた一人が車内へと戻る姿が見えた。忘れ物だろうか、とバスの床を見渡す。

 見渡す限りは何も落ちていなかったので、きっと席だろう。諦めて前を向くとその人はこちらへと向かってきていた。

 しかもその相手は、入り口で迷惑をかけてしまったあの女性。

 慌てて体を縮めて頭を下げるとその人はいや、と首を振った。

「あんた、本当にここで降りないのかい」

「エト、いいえ、わたしが降りるのはここじゃありません。わたしは次に降ります」

「騙されたり、……いや」

 渋い顔で、深いため息を吐いて首を振る彼女が、小さい声で関係ない、と呟く。

 それからがさがさと紙袋の底から青リンゴを取り出して、それをわたしの膝の上へ乗せた。

「これ、持っていきなさい」

「えっ!」

 厳しい言葉をいただくものだと思っていたから、予期せぬ親切に頭が追い付かず大きな声が出てしまった。

 ハリのある、太い枝の付いた立派なリンゴ。きっと、家族に食べさせてあげるために買った物だろうに。

「いいんですか!? ご迷惑おかけしたのに。すみません、ありがとうございます!」

「あんたの残りの人生が良いものになるよう、祈っているよ」

「ありがとうございます! お姉さまも、良い一日を!」

 ガクンガクンと挙動の可笑しな扉が閉まっても、その女性は停留所から片手をあげたまま見送ってくれていた。

 お姉さまが見えなくなって、窓から見える風景が住宅街から畑へ変わって。それ以降、眺めに変化はない。

 上り気味の狭い農道をふらふらと走る。背丈のばらつく茶色い畑に、いつから使われなくなったのだろうか、屋根の沈んだ赤いトラクターが斜めに刺さっていた。

 その道を抜けると、次に現れたのは緑の木。単色ばかりが並ぶ、田舎にドがつくような所。

 平穏な坂の一番高いところで、聳え立つ鐘楼はバスを静かに迎え入れた。

 教会の見た目をした建物は、そこに行くまでの道中に大きな畑を抱えていて豊かだったんだろう。子供達が笑いながら汗を流して畑仕事をしている。そんな、見ていない景色が浮かんだ。

 いまはもう、使われていないようだけれど。

 リンゴを膝であたため始めてから、本当に長い時間揺られていた気がする。

 ふと、視線を上げる。

 運転席の上部にガムテープで張り付けられたデジタル時計の数字は、そんなに進んでいなかった。

「ありがとうございました」

 足元のふらつく体で、髪も髭も白い運転手に頭を下げて降りようとすると、ちょいちょいと招かれ運転席へと近付いた。

 眉毛まで白い毛虫みたいなおじいさんが、ドリンクホルダーから小さな栄養ドリンクを取り出すとこちらに向かって放り投げる。

「えっ、わっ。え、貰っていいんですか?」

 良いとも悪いとも言わないおじいさんは、今度は追い払うような仕草を繰り返し、もうわたしを見ていない。

 それでも感謝を伝えたくて言葉と共に深く頭を下げてから降りると、直ぐに走り出す壊れかけのバスは薄汚れた緑色。

 なんとなく、マスカットのタルトを思い出してふわりと胸が温かくなる。

 今日も朝から人に恵まれすぎている。左手にはリンゴを、右手には小さな瓶を携え、気持ちだけは無敵に歩き始めた。

 敷地に入ってまっすぐに白塗りの建物、そのすぐ横に設置された折り畳み机の奥から一人の女性がこっちこっちと呼びかけていた。

 見上げた空の近くには先ほど出迎えてくれた銀色の大きな鐘のための楼、そのすぐ下の壁は十字の形の日に焼けていない跡が残っていた。わかりやすく、教会の名残がある。

 エプロン姿のふくよかな女性は、建物に見とれながら歩くわたしを急かすことなく笑顔で迎えてくれた。

「新入生さんね! 私は学生さんたちのお母さんをさせてもらうマーシャよ。新入生さんのお名前も聞かせてくれる?」

 聞き取りやすく、声を張る彼女と同じように笑って元気に声を出す。

「マーシャさん、はじめまして。よろしくお願いします。わたしはユズ、クスモトです」

「はいはい、ユズ・クスモト、合ってるわね」

 わたしをにっこりと見つめたマーシャは、ふっくらとした掌を合わせて頬ずりするみたいに肩を上げた。

「久しぶりの女の子、うれしいわあ!」

 そう言って、彼女は書類に目を落とす。後頭部に作られた銀色のお団子がぽよんとわたしの視界で揺れた。

「ユズってあれよね、ジャパンシトラス! 私大好きよお! 料理にちょっと入れたら香りも良いし、味もさっぱりして本当に素敵! とってもいい名前だわ!」

「あ、ありがとうございます! マーシャさんも素敵なお名前です!」

 やだもう、と強くわたしの肩を叩くマーシャの手の熱が心地よい。

 手元の資料とわたしの名前に間違いがないことを確認した彼女からペラペラな学生証を受け取る。簡単な個人情報をラミネートしただけのいびつな形の学生証を裏に、表に、確認する。

 何度もユズ、ユズ、とわたしの名前を呼びながら、マーシャは名簿表にチェックを付けると机の下から重たそうな段ボール箱を持ち上げた。

 ちらりと見えた名簿表に名前は四つ、既に全てにチェックが入っていた。

「ヨイショ、っと。はー、いやねえ、歳取ると荷物持ち上げるのにも一苦労だわ。あっ、これは部屋の鍵。まあ部屋って言っても個室には鍵、ないのよ。フロアごとに大きくお部屋が区切られていてね、その中に共有のスペースと個人のお部屋が用意されているのだけど、その扉にしか鍵はつけていないの。もしお部屋にどうしても鍵をつけたいなら、勝手にして。許可は取らなくてもいいけど、費用も個人負担でね。女の子だもの、必要だったら早めに付けちゃいなさいな」

「はい」

「でもねぇ、むかーしはねぇ、個室なんてなかったのよ。男の子も女の子もみぃんな仲良く雑魚寝。そうでもしないと入らないくらい、生徒さんの数も多かったの!」

「へえ、マーシャさんは長く働いてるんですね」

「そうなのよお! でも、女の子の学生さんは本当に久しぶり。ユズに会えるの、楽しみにしてたの。お母さんに何でも相談してね!」

「わあ、ありがとうございます!」

 快活な声でまくしたて、どんと鈍い音で胸を叩いたマーシャに口元を隠して笑う。

「ええ。で、これが連絡用の電話。最初から登録してあるのは私のだから、いつでもかけてちょうだい。必要に合わせて連絡先は増やしてね。でもあんまり増やし過ぎちゃうと、私を探すのが大変になるわ。ほどほどにね。それから、」

 マーシャはお話をするのが好きなようで、箱の中身を全部ひっくり返してその一つ一つに説明を加えてくれた。楽しそうな声色にこちらまで楽しくなってくる。

 彼女の言葉を聞きながら、音に乗るみたいに軽く横に揺れる。

 中身は携帯電話と授業用のタブレット、それから当分の消耗品と、制服、体操服と靴。それ等のリストと、注意事項の書かれた用紙が数枚。

 リストに記載のあるものはマーシャに伝えると交換の形で新しいものを支給してくれるらしいが、読めない文字がたくさん並んでいて、彼女の言葉に目をぱっちりと開いて頷くことで何とか乗り切った。

「はい。じゃあ、荷物になっちゃうけど全部持って行ってね。早く着替えないと授業に遅れるわ。それじゃ、私は行くわね。朝ごはん食べなくちゃ! 朝ごはんが一番大事なのよ! ユズは食べた? 食べなきゃだめよお、女の子はただでさえ繊細なんだから! 食べて力付けて、授業頑張るの!」

 綺麗に整頓されていた箱の中身を乱雑に突っ込みなおして、満足げなマーシャは話しながら背を向ける。

 すぐ後ろの建物に姿を隠した彼女はすぐに、忘れてた、とひょっこり顔をのぞかせて左を指さした。

「新入生さんの寮はあっちね。地面の矢印を見たら迷わずに行けると思うわ。でももし困ったなら連絡してちょうだいね。あら、私ったら携帯電話、何処にいれたかしら」

 もう一度マーシャがおしゃべりな背を向け、今度こそ本当に段ボール箱とふたりきり。

 持ち手の短い鞄を肩にかけ、よし、と声に出して重たい箱を抱えた。



 マーシャの言っていた通り、草の踏み荒らされた地面に雑に置かれた矢印に従って道と呼ぶにはお粗末な林を進む。

 目の前には草と花と木と実。爽やかな空気に体が軽くなっていく気がした。

 ざあ、と音を立てて木の葉がわたしにアピールをするものだから、すこしだけ寄り道。

「わ、洋梨だ。これ勝手に食べてもいいのかな? 他はなんだろ」

 不自然な自然に、観察しながら歩いていくと開けた場所に出て、高さと太さのある建物へ辿り着いた。看板にはご丁寧に学生用と書かれてある。

 看板に書かれた簡単なフロアマップによると、結構な高さに見える建物は意外と四階までと少ないフロア数で、その図の下にコピー用紙で手書きのメッセージが貼られていた。

「学生、新しい……、はじめまして。ああ、こんにちははじめまして。……部屋何階だ? 数字が見つからん」

 律儀な文字列に挨拶を返して、文字を指でなぞる。朝露でしっとりと指が濡れた。

「んあー、これ、かなあ? 1? っぽいよなあ? ってことは2階か?」

 睨みつけた言葉の群れから、理解できそうな文字だけでなんとか答えを導き出す。間違っていたら仕方がない。謝罪の準備ならいつだって整っている。

 慣れない文化を考慮して、少ない階段を不安ながら登る。

 すぐに辿り着いた部屋の扉に触れると、鍵はかかっておらずにすんなり入ることが出来た。

 ワンフロアに個室は4つ。マーシャの説明通り、真ん中の共用スペースを囲むように二部屋ずつ、左右の壁に扉が設置されていた。

 入ってすぐの左側手前、扉に貼られたこれまたコピー用紙に書かれた自分の名前を見つけた。

 フロアの出入り口から最も便の良い部屋割りに喜びながら部屋に入る。

 くぐった扉から壁、床、天井、すべてが淡いベージュ色。

 どこか肌寒い部屋は、これまで暮らしてきたところよりも狭いけれど、正真正銘、わたしひとりだけのもの。

 一人用のベッドと机と、椅子に本棚。それからクローゼットと、必要最低限のものだけで構成されたそこは、これ以上ないくらいに立派な城だった。

「よっしゃよっしゃー。うっしっし、おいらの城だーい」

 飾り気も何もない部屋と揃えて誂えたようなカーテンを広げると明るく印象を変える様子に、浮かれ心地で勢いよくベッドに飛び乗った。

 固い。強く鼻をぶつけたけれど構わず、両手両足をばたばたと思うままに弾ませる。

「わたしだけのベッドだもんねー。わたし以外乗せないからねー! わたしだけが使うからねぇー! そうだ、名前つけたげよ! んんーー、キミは今日からトモダチイチゴウだ! トモダチイチゴウ、よろしくうー!」

 ひとしきり騒いで、シワだらけになったシーツの上に座りこんで息を整える。興奮で落ち着かない。

「え」

 突然、実感がわいてきて部屋を見渡す。埃が舞って、きらきらと光っていた。

 荷物を広げていないため、生活感は一切ないが何故か居心地がとてもいい。

 少し暴れてしまったから、外にも物音が聞こえているだろう。もし、これが家なら、すぐにでも心配した家族によって部屋の住人は増えている頃だ。

 ドキドキと痛い心臓が落ち着くまで浅い呼吸を落ち着ける。

 見つめる扉は開かれる様子も、近くに人のいる気配もなく、静かにわたしの奇行を隠してくれていた。

 どれだけ経とうと扉は、いや。トモダチニゴウは、こちらが求めている仕事を全うしてくれている。なんて誠実な仕事ぶりだろうか。

「うれしーーーーーーー! う、ぅ」

 妹が嫌いなわけじゃない。むしろ大をいくつ付けても足りないくらいに大好きだ。ずっと一緒にいたいと本気で思っていた。

 それでも、ひとりというのはいいものだ。

 自分に関心のある人間がいない。姉として、娘として、妻の代わりとして、役割の決まったユズを求める相手のいない環境。

「うれしーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」

 自分のためだけの、本当のわたしが許されたような気がして、とてつもなく嬉しかった。

 叫んだあとの静けさが、耳鳴りと一緒にわたしに現実を見ろと冷めたことを言う。

「あーーーーーーっ、……イチゴウから離れたくないなあ」

 ばふ、と薄い布団に倒れ込む。

 視界の端には段ボール箱。

 途端に、やらなければならないことに目が向いて、面倒くさい気持ちが襲ってきた。二度寝と呼ぶには出来事を挟み過ぎたか。

 ため息を一つ、離れ難いイチゴウから渋々起き上がった。


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