表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

第一話 マスカットのタルト



 ちゅんちゅんと小鳥の鳴く声をアラームに目を覚ます。伸びをした体がぱきぽきと悲鳴を上げた。

 二段ベッドの上では妹がまだかわいらしく寝息を立てていて、起こさないようにと静かに部屋を出る。

「ふぁ、あ。……ゎふ」

 大きなあくびに滲んだ涙を拭いながら廊下を突き当りまで進んで、広い出窓に腰を下ろした。

 寒々しい家の中で唯一、ぬくもりを感じられる東向きのその窓を大きく開いた。

 音を立ててカーテンを巻き上げる強い風、雨の後の胸が苦しくなる匂い、薄い雲に覆われた暗い空。

 うん、今日もいい日になりそう。

 生まれ育った国とは違って、幾らか住み慣れたとはいえ異国の情緒があふれる街並みはいつまで眺めていたって飽きない。

 少し田舎寄りの住宅街に建つ一軒家は、この国へ越す時に父が建てたもの。

 丸く張り出した出窓は、母が気に入るようにと父がこだわったらしい。

 日当たりが良くて、風通しもいい。

 だからわたしは、この場所が大好きだった。

 まるでここだけ、時間がゆっくりと流れているように感じられるから。

 淡く色を変える日常に早起きすぎる隣人が溶けこんでいくのを見届けて、ぱん、と太ももを打って立ち上がる。

「うん、行くかぁ」

 少しの間の、なんて事の無い特別に別れを告げた。


 今から何年か前。

 わたし、楠本クスモトユズと妹の椿ツバキが父の転勤について引っ越してきた先は、言語も文化もまるで違う、海の向こうの遠い国。

 四季ははっきりとしていて母国と似ているけれど、それ以外には全くと言っていいほど似ているところが見つからない。お金の形や数え方、人の性格に、食生活まで。

 様々な格差が激しいこの国はすこしだけ、生活していくのに不便を覚える。

 絵本で読み聞かせしてきたような王子様が実在して、教科書の一文でさらっと学んだだけの、タオルを引きずった物乞いもいる。

 そんな過ごしにくい国で、海外勤務なんて栄転のような響きにまんまと騙された父とわたしたちの生活は、貧しい側に属しているのだと思う。

 せっかく建てた理想の家なのに、父が帰ってくる日は少ない。

 ここに来てからずっとそう。新築の臭いばかり、ずっと住み着いている。

 妹とふたりで暮らすには広すぎる家は、家賃だけでも息が詰まって。おかげで母国での蓄えも早くから白旗を振っていた。

 雑に髪の毛をまとめて薄手の上着を羽織り、階段を駆け下りる。

 家は軋むことなく玄関まで誘導してくれて、財布と合わない大きさの紙幣を握るわたしの背中を見送ってくれた。

 白み始めた空の下、新聞配達のバイクが驚くほど近くを走り去っていく。

 しばらく歩いていると、手を油まみれにしながらパンを食べ歩く男性とすれ違って喉が鳴る。

 焼き立てのパンのいい匂いに、お腹が空いていることを思い出してしまった。

 バタールのかけらが落ちていて、先ほどの男性がどの道を辿ったのかがよくわかる。

 ヘンゼルとグレーテルさながら、着いた先は目的地。やっぱり、と口元を隠して笑った。こんなにも早くから開いているパン屋はここくらいしか、わたしも知らない。

 かろんかろんと軽い鈴の音、ふわりとあたたかさが胸いっぱいに香る。もう美味しい。

 入り口から見えるレジカウンターで、薄い化粧の女性が大きく伸びをしながら客を迎えた。

「んー、ん。おぁはよ、ユズ。今朝も早いねぇ」

「おはようございます。クロエの方が早いじゃない!」

「こっちゃ仕事だかんねぇ。はい、いつもの」

 店主のクロエは背後のショーケースから取り出した袋をがさりと机に置くと、そのまま怒っているのかと疑う手付きでレジを叩く。きれいに結ばれた金髪も勢いに乗って揺れている。

 この国の人は、何もかもが豪快で見ていてすっきりする。母国じゃクレームものだと驚いていた頃が懐かしい。

「いつもありがとうございます。すっごく助かる!」

「こっちこそ。アンタ以外、白パンなんて買っちゃあくれないからねぇ。助かってるよ」

「えぇー、こんなに美味しいのに! みんな損してるなあ」

「はいはい。残りもんばっか買う人のお世辞は沁みるねぇ」

「えっへへぇ。いつもありがとうございます」

 気の置けないクロエとの会話に自然と頬が緩んだ。

 深夜のピッキング作業が終わって、早朝の清掃バイトまでの短い時間。その時間に開いているパン屋なんて、殆どなくて。クロエのお店には本当にお世話になっていた。

 何せこのお店は、この辺りでいちばん早くから開店してくれていることに加えて、前日に残ったパンを翌日に安く売ってくれるのだ!

 たった一晩眠っただけで、品質の落ちるパンは売れないらしい。味は変わんないのにね。

 でもそのおかげで、我が家はいつもその恩恵に預かっていた。むしろ、その恩恵のみを享受していた。

 味の違いも品質の違いもわからないわたしは毎日、美味しくありがたくいただいている。

 軽口を叩き合いながらレジに表示された金額よりほんの少しだけ多くを支払うと、引き換えに受け取ったビニール袋がいつもよりも重たい。ぞっとして中を覗き込んだ。

 軽い白パン二つに埋もれるように体を隠している、鮮やかな緑色。明らかに重量も質感も白パンには似ても似つかない。

 浅い呼吸を吐いて、クロエに袋を突き返した。

「クロエ、袋間違えてますよ。なんかすっごいの入ってる!」

 仕事は終えたと言わんばかりに頬杖をついた彼女は、レジ横に置かれたキャラメルを片手で転がして言う。

 良い香りが心を刺す。

「間違ってるもんか。さっきも言ったけど、白パンなんてアンタ以外買わないよ」

「ぁ、でも」

「昨日、売れ残り多かったんだよ。だからオマケ」

「そんな、貰えないです! こんなに立派なもの」

「いぃんだよ。いつもの残飯処理さ」

 しっしと犬でも追い払うかのように手を払うクロエがニヤリと笑い、銀紙から剥がしたキャラメルを口に含んだ。

「それとも、白パン以外はお口に合わないかい?」

 そうではないことを、わかっているから彼女は楽しそうに言う。「ウチのウリは白パン一本じゃないんだけどねぇ」なんて茶化して。

 つやつやと輝くマスカットのタルト。

 この感情が間違っていることはわかっていても、心が冷えていくのが止められない。

 この店で一番安い白パンを、それも定価を下回った金額でしか買えないわたしが、こんな高価なものをおまけでもらうなんて。こんな施しが受けたくて、通っていたわけじゃない。

 ずっしりと重たくて、片手に余るほどのそれを返そうと持ち上げ、じっと見つめた。

 半分にカットされたマスカット達がお行儀よくタルトの上に整列して、黄色味の強いカスタードを華やかに彩っている。

 母国ですら手にしたことも無いようなこんな立派なものを、クロエは無償で、くれると言う。

 ちっぽけで、くだらないプライドなんて捨ててしまえばいい。そうすれば素晴らしいご馳走を持って帰ることが出来る。

 甘い香りに、美味しいねと笑う妹の顔が浮かんだ。

 力が抜けるように、自分の意志でタルトを握った手を袋に沈めた。

 キャラメルを飲み込むクロエの喉が鳴る。きっと、それも美味しいんだろうな。

「わたし、クロエのタルト食べてみたかったんです。だから、すっごく嬉しい! 本当にありがとうございます!」

「そ。そんな大層な期待に沿えるかはわかんないけどね」

「……ありがとうございます」

 言葉とは裏腹に、得意げな顔で鼻を鳴らしたクロエに深々と頭を下げ、そのまま続けた。

 いまだけは、彼女に顔を見られたくなかった。短く息を吸う。

「じつは、今日からわたし、リセに入学するんです。クロエには言ってなかったのに、入学祝いをくれたのかと思ってビックリしちゃった!」

「へぇ、そりゃおめでとさん。ここいらの近くにリセってあったっけ?」

「ヒーローリセです」

 ゆっくりと、息を飲む音が聞こえた。

 喉を絞るような母音に顔をあげ、もう一度同じ言葉を紡ぐ。無知な顔をして、堂々と。

「ヒーローリセです。わたし、ヒーローになってきます!」

 外は風が強いのだろうか。扉が揺れ、鈴の音が大きく響いた。


 ヒーローリセ。それはヒーローの職業訓練校と銘打った人体実験の施設。との噂は、当のリセからほど近いこの街で知らない人は少ない。

 こんなわたしですら、知っているのだから。

 仮にも職業訓練校、リセなのに。入学金は必要なく、在学中に多額の給金と呼ばれる謝礼金が支払われるらしくて、わたしはまんまと飛びついた。なんせ、父の娘だから。

 病気の特効薬や、人体に害の少ないサプリメントなど。様々な新しいものを産み出すために必要なのは、知識や素材にモルモット。

 より良いものを提供したい企業の意識の高さと、知識欲の押さえられない研究者。それから、金に困った失うもののない人間。

 すべてがそろっている国だからこそ、この制度は簡単に実現したのだろう。

 そんな人体実験のために身を差し出す学生たちをヒーロー、英雄だなんて囃し立てて。

 都会から少し離れたこのあたりでも、王族なんて雲の上の存在の話は耳に入ってくる。

 それ以上にわたしに近い存在なのは、外国人観光客を対象にした押し売りや、道端で動くこともままならなくなった足萎えの物乞い。

 例え自分の命をなげうってでも、残される家族に今日のパンを食わせてやりたいと思う者は少なくないだろうことは、わたしにだって理解できる。

 未来に希望のない若者は進んで自らを、家庭に余裕のない親は苦肉の策で自分の子供を、リセへと遣る。生きて戻ってくる保証はないと知っていても、知っているからこそ。

 もちろん、中には二年間のリセの課程を終えて、無事にヒーローとして活躍している人がいることだって知っている。

 医療機器組み立ての工場仕事の休憩中、誰かがチャンネルを変えたテレビ番組の、自販機を持ち上げてネコを探す一人のヒーローの特集を思い出してくすりと笑って顔をあげた。

 命懸けでようやっと就いたヒーローという職の実態は、素人の探偵と変わらないものだった。

 だからこそ、割のいい就職先、と。割り切ることが出来るのならば、きっと構わない。

 まともに学校に通えるのであれば、選択肢の候補にすら上げないその学校へと入学するのだと、わたしはクロエに隠すことなくはっきりと告げた。

 もう会うことはないのだと、借りは返せないのだと、この街に住むクロエに言葉の意味は汲めただろう。


 狼狽えるクロエの表情は複雑なものだった。

 驚いて、怒って、悲しんで、悩んで。

 そんな難しい顔して、ぐしゃりと銀紙をつぶす。

「アンタ……、そこまで、金に困ってたの」

 言ってくれたら、なんて。言ったところで何もできなかっただろうに。

 彼女の言葉に瞳を伏せて息が漏れる。なんでだろうか、鼻の奥が痛かった。

 言ったところで、何か変わったというのだろうか。

 いつからか、ひねくれた考え方しかできなくなってしまって、誤魔化すことも出来ないままクロエに向き直った。

 誰かに言ったところで父の給料が上がるわけでもなく、減った腹が満たされるわけでもない。

 肩を竦めたわたしに、ずっと言おうと思っていたんだ、とクロエは一つの策を提示した。

 断られるのが嫌で、口に出せなかったこと。こんなことになるのであれば、早く言っておけばよかったと、遅すぎる後悔に駆られるようにクロエは口を開く。

「ウチで働けばいい。朝強いだろう、そうしたら良いじゃないか。残ったパンはいくらでも持って帰っていいし、給料だって言ってくれたらその時に渡せる。そしたらそんなとこ、行かなくて済むだろ」

 彼女の金髪がオレンジの照明に照らされて、目を細めて笑った。

 本当に、お店の在り方にも滲んでいる人の好さが、眩しすぎて目が焼ける。

「お金、も。そうなんですけど」

 わたしが話す度、動く度にがさがさとタルトが揺れる。

 わかりやすい表情のクロエが唇を嚙んで、薄い口紅を前歯がこそいだ。清潔に整えられた装飾のない爪が机を掻く。派手に飾らなくても、きれいな人。

「せっかくだから、学校にも通ってみたくて。それに、もしかしたら本当にヒーロー、なれるかも! そうしたら、わたしの名前がテレビで流れて、ママも気が付いてくれて。ヒーローリセに通うことって実は、わたしからしてみたら色々と都合がいいんです」

「だからって、本当に通う必要はあんのかい。今までだって何とか生きてきたんだろう」

 必死に食い下がるクロエに、その通りだと頷いて見せた。

 お世話になっているパン屋さんの店主が、安い買い物しかしないこんな小娘ごときをよく気にかけてくれて。なんて親切なことだろう。

 わたしと年の近い娘がいると言っていたから、重なって同情してくれているのかもしれない。

「そうなんです。今まで、なんとか生きてこられたんです。ここに来てからずっと、なんとか」

 ほんの少しだけ、声が震えた。首を軽く横に振って誤魔化す。

 毎日、毎日、ぎりぎりの生活をしている。それは、金銭面だけの話じゃない。

 重たいビニールを持ち上げて、与えてくれた相手へと見せびらかした。

「ほら、ブドウのタルト。こんな形でしか手に入らないの。ほんとはレモンのパイだって買ってみたかったし、イチゴのデニッシュによだれ垂らしてたんですよ。そういう、あったらすごく嬉しいものを自分で手に入れるため、っていうのもあるんです」

「そんなのっ、」

 カウンターから身を乗り出したクロエと目が合って、ゆっくりと暗くなっていく彼女の表情を眺めていた。

「そんなの……」

 いつも通り、作り上げたほほえみを浮かべたわたしにクロエは、思考より言葉が先走ってしまったと言わんばかりに息をついた。

 言いたいことがいくつもあるのだろう。

 けれどクロエは何も言わない。

 わたしを見つめていた瞳がゆっくりと下を向く。口元が、力なく下がる。

「……そう」

 ため息と共に腰を落ち着けたクロエの声は、彼女自身も驚くほどに諦めの色をしていた。

「だから、次に来たときは白パン以外のパンも、いっぱい買わせてください! タルトの感想も伝えたいし!」

「楽しみに待ってるよ」

 なんて空々しい。

 落ち込んでいるクロエを元気付けようと、やけに明るい言葉を重ねて。

 約束をしたそばから、心はとっくに破っている。

 誤魔化せない息苦しさでクロエをまっすぐ見られない。

 どんどんと深みにはまっていく沼みたいだ。もう、何を言っても挽回のしようはないのに、何かを言って、取り繕いたい。腕を伸ばしてもがくのは、悪手だとわかっていても。

 目を細め、浮かぶ言葉を全て捨てて深く頭を下げた。

「今まで、本当にありがとうございました」

 扉が閉まりきる直前、震えるようなため息が鈴の音に混ざって聞こえたような気がした。



 いつの間に、家まで帰って来ていたのだろうか。気が付けば玄関に凭れかかっていた。

 痛い心臓と同じテンポで呼吸が続く。

「おかえり、お姉ちゃん。走ってきたの?」

 顎を伝う汗を拭うと、かわいらしい足音が、いつまでも玄関から動かないわたしを出迎えに来てくれた。

 寝起きのとろけるような瞳を傾け、さらりと烏の濡れ羽色の黒髪が顎の横で揺られている。

 幼い少女にしては落ち着いた声が、不思議とこの子をより引き立てる。

 わたしを姉と呼び慕う、この子と幸せに生きるためならば、わたしは何だって捨てられる。

「ただいま、椿。おはよう!」

「うん、おはよ。朝から元気だね」

「ふふ。だってねぇ、今日はねぇ?」

 たくさん息を吸って、全て吐いて。ツバキの目の前に袋を掲げた。

「クロエがオマケくれたんだぁ!」

 あんなにも重たく感じていたすべてが、妹を前にするとどうでも良くなってしまった。

 なんて素敵なプレゼントだろう。タルトも、妹も。

「おまけ?」

 まだ眠たそうなぽやぽやの表情で、不思議そうに瞬きを繰り返す仕草がとても可愛くておもわず笑いがこぼれる。

「そう! ふふっ、顔洗っておいで。朝ごはんで一緒に食べよ!」

「食べ物なんだ。嬉しい」

 食べ物だと聞いた途端、喜色を浮かべたツバキにわたしも笑みが深まる。

「ね! わたしも手洗おーっと」

 段差のない玄関で、乱雑に靴を脱ぎ捨てスリッパに履き替える。

 パタパタと歩く足音は重なってひとつに、薄暗い家の中に笑い声がふたつ、こだました。

 蛇口のコマを回す音を、勢いよく流れる水の音が掻き消す。冷たい水で洗っただけの妹の顔が隣に並んで、ツバキは鏡越しに自分を見つめる姉へと笑いかけてくれる。

 母に似たわたしと、父に似た妹は、本当に血が繋がっているのかと疑われるほど似ていない。

 こうやって並んだ姿を見ると、その疑いを抱くことも納得だと鏡越しの自分たちを見つめた。

 平々凡々と言った言葉がこれでもかと似合う母親譲りのわたしは、鼻が低くて目が細い。傷んだ長い髪の毛は海苔のように緑がかっていて毛先が絡まりお世辞にも綺麗とは言い難いけれど、目を背けるほど醜悪なものでもない。と、自分では思っている。

 一方、そんな母にひどく執着していた父の容姿は一般的に見てもとても整っていたもので、妹はその血を濃く継いでいた。

 大きな瞳はぱっちりときれいな二重に彩られ、小さな口につるんと掛かった短い髪の毛は瞳と同じ、高級感のある紫を帯びた黒。

 同じ黒髪一つをとってもこうまで違うのかと、ぼんやりと妹の髪を掬った。

「お姉ちゃん?」

「あっ、ごめん。椿が可愛くて見惚れちゃってた!」

「はいはい。お腹すいちゃった。早くご飯食べたい」

「うん! すぐに用意するね。先に着替えておいで」

「はぁい」

 素直に返事をするツバキを見送ってからキッチンへ向かい、ただの物置になっている冷蔵庫を開いた。

 常温の水を、母国から持ち込んだ湯呑に注ぐ。うっすらと変色した細いひび割れからじんわり水が滲んだ。

 机に出しっぱなしになっていた皿の一枚にそのまま白パンを、もう一枚にはパンの入っていたビニール袋を敷いて、パンとタルトを乗せる。

 宝石のように美しいタルトに笑みが浮かんで、よし、と呟いた。

「すごい、マスカット?」

 気配もなく後ろに立っていたツバキの声に目が覚める心地でパッと振り返る。

 エコールの制服姿の妹は胸元のリボンタイを引っ張りながら、タルトに気を取られている。薄く開いたままになっている唇がとても可愛らしくて、心臓がズキズキと悲鳴を上げた。

「そう! 言ってたおまけだよぉ」

「マスカットなんてはじめて。ほんとに食べていいの? ……高いんじゃない?」

「うん、絶っっ対高いと思う! でも、もらっちゃったんだから、食べちゃお! 後で返せーって言われたときはお姉ちゃんのことフォローしてね?」

 悪だくみと、いつもより重たい皿をツバキに差し出した。

 しぃ、とジェスチャーをするわたしに、頷いていたツバキの伸ばした手は途中で止まった。

「お姉ちゃんも食べるよね?」

 じっと見つめる、真っ黒な瞳に思考が吸い込まれる。

 父親によく似た、かわいいかわいいこの子に見つめられたら、わたしは何も勝てる気がしない。

 そっと、視線をそらしてやっと笑みを作った。

「うん。半分こしようね」

 明かりの点かないキッチンで、二つに割いたタルトを皿に分けて乗せなおした。

 そうしてやっと受け取ってくれたツバキと共に席に着き、半円のタルトを一口、大げさに声をあげる。なんだかんだ言ったところで、結局タダほど美味いものはない。

「お~ぃし~~~~! サイコ~~~~!」

 桃色の薄いカーテンが揺らめく。

 渋みの一切ないマスカットと、もったりとしたカスタードを背負っていたタルトがほろほろと口の中で崩れていく。ブドウが甘い分、甘さを抑えたカスタードや、塩味の利いたタルト生地が食べやすい。

 美味しさのあまり、無意識に拍手をしながら向かいに座る妹を見つめた。

 一口で半分も減らした姉とは違い、上品に少しずつ食べ進めるツバキの口元がふんわりと緩む。うっすら赤みを増した頬に、瞳がきらきらと輝いていてあまりにも可愛い。小さなお口で、味わって食べている姿が可愛いオブザ我が家。今年いち。

「ん、おいしぃ」

 柔らかく笑って、誰に言うでもなく小さくつぶやいたツバキの可愛いこと。拍手は延長していた。

 ツバキのこんなに幸せそうな姿を見たのは久しぶりな気がする。その上わたしまで美味しいものを食べられて、クロエには脳内で感謝の舞を踊ることでしかお礼を伝える術が無いことが悔やまれる。ア、ソレ。

 光沢のあるタルトにそういえば、と行儀悪くナパージュを指で絡め取る。透明なそれが弾力を持って指先で震えた。

「わたし、このゼリー? 好きなんだよねぇ。つりっつりのぷやっぷやで妙~に美味しくない?」

「ん。ほんとだ。ゼリーでキラキラにしてたんだ、気付かなかった」

「ここばっか集めたやつがみかんゼリーとかの味の薄ぅい透明なやつなのかな?」

「そんなのあるんだ」

 ツバキは興味の薄そうな声で言う。あわてる気持ちとは裏腹に、落ち着いて言葉を紡いだ。

「うん、あったんだよおぅ。日本にはね、透明で薄あまぁいのがあったんだよ」

 昔、お母さんからスプーンを奪ってまで、あなたに食べさせてあげたこともあるんだよ。

 要らない事を言ってしまった口の中に隠すように、タルトと思い出をしまい込んだ。



「お姉ちゃん、今日から寮でしょ。準備終わってるの? ゆっくりしてて大丈夫?」

 美味しい食事はあっという間になくなって、ツバキは食器の食べかすをゴミ箱に落としながら尋ねた。見たことの無い食べ物への興味は失われている。これ幸いと不安定に椅子を傾けた。

「だぁいじょぶ、だあいじょ、ぶい! ブイブイ! 逆に椿はだいじょぶい~~? 今日から1人ブイよ? 寂しくて寝れないんじゃブイ?」

 両手にピースを作って、カニのように何度も挟む仕草を繰り返す。

 変な言動の姉を軽くあしらって、妹はたおやかに笑う。長いまつげで瞳に影が落ちている。まつげが長いってすごい。すごい可愛い。今年いち。

「それはお姉ちゃんでしょ」

「ほんとにぃ~~~~? ごはんも喉通んないんじゃなぁい?」

「それもお姉ちゃんでしょ。私は大丈夫」

「本当に? お食事、寂しかったらアガットさんにお願いして一緒に食べてもらっていいからね。チャイムが鳴ったら絶対にカメラで確認だよ。お花も、お菓子も、いらないからね!」

「もー、何回目? 私の事何歳だと思ってるの。大丈夫だってば。私の事ばっかり気にしてないでお姉ちゃんは、」

 座り直して真剣に心配する姉に向かって、妹は変なところで言葉を区切って動きを止める。瞬きを二回、視線が左下に。

 何かを隠す時のツバキのクセ。

 じっと自分の言葉を待っている姉にツバキはパッと笑顔を作った。

 ああ、もう。似なくていいところばっかり似て。

「お姉ちゃんは学校、楽しんで。ね」

「うん。お友達、出来たら紹介するね!」

「楽しみにしてる」

 何を隠したのか、何を話したかったのか。何に悩んでいるのか。

 可愛い妹の思い煩いを全て知って、全て取り除いてあげられたら、どんなに幸せか。

 ヘタクソな笑顔に騙されて、突き止めないままにそれぞれの準備に取り掛かった。



 大きくはない荷物を手に慌てて玄関へと向かうわたしを、階段から降りてきたツバキがリュックを肩から下げて、追いかけてきた。

「ごめんね、先に出るね」

「もう?」

 そう言いながらも準備の整っているツバキは、スクールバスが到着するにはまだ早い時間。わたしに合わせてくれたのだろう。そういうところが本当にいじらしくて愛らしい。

 靴を履こうとするのに、ツバキの顔を見ながらじゃ上手くできなくてもどかしい。ずっと見ていたいのに。

「うんー。寮の手続きがあるから早めに行かないとなの、すっかり忘れてたぁー」

「もー、だから言ったじゃん。気をつけてね。焦ったら転ぶよ」

「うん! ありがと。椿も気をつけてね。危ない場所には近づかないようにね。絶対だよ。遊ぶなら学校かお家で。お家にお友達呼んでもいいから。でも危ないことするようなお友達はダメだよ。戸締りはちゃんとして、窓も! あと、」

「もー、わかってるから! お姉ちゃんも危ないことしないでね」

 両手で背中を押すツバキに家から追い出される。

 鬱陶しそうに遮ったかわいらしさに苦笑いして、ぐしゃぐしゃと頭を撫でた。

 整った顔を叩いた前髪が目にかかり、ツバキは邪魔くさそうに払う。

 あぁ、切ってあげておけばよかったな。

「うん、わかってるよ。心配してくれてありがとう」

 名残惜しい気持ちで手を離し、同じ言葉を使って返事をする。

 少し進んで振り返った。

「あっ、あと! 愛してるよ!」

「もー、わかってるよ!」

 不服そうな大きな声で、それでも返事をしてくれたツバキに手を振り、未練なんてないみたいに振り返らずに走りだした。

 背の高いアパルトマンの群れを横切って、目指すは細い路地を抜けた、家からは近くないバス停。

 先ほどよりも明るくなったとはいえ、まだまだ早朝と呼べる時間帯。それも路地の中ともなると、ホームレスも眠っているのでしんと静まり返っていてすこし寂しい。

 寂しいと、妹の事ばかり考えてしまう。寂しくなくてもだけれど。

 一歩ずつ足が重たくなって、急激に進みが遅くなる。

 今日から小さくてかわいいわたしの大切な妹は、あの大きな家に一人きり。

 この辺りがキッズシッターという制度の根強い地域で助かった。

 何度も面談をして、外国人であるツバキにも気遣いを示してくれる、信頼の出来そうなアガットさんと出会えたことは幸運だったと思う。それでも、心配は尽きない。

 食事はともかくとして、事故に遭ったり、悪いお友達とつるんだりし始めたらどうしよう。そのせいでツバキが悪事に手を染めて、危ない目に遭ったりでもしたら……。

「うわあああぁぁっ! ヤンキーな椿ちょっと見たいぃ、でも危ないことはしないでっ、ああぁぁぁぁああ! ッ葛藤!」

 頭を抱え、邪な思考と保護者としての心配を混ぜ合わせた叫び声がカラフルな壁にこだまする。人の賑やかさになれているだろうホームレスが耳を抑えて寝返りを打った。

 危ないことをするお友達はダメだと何度も念を押した。本人だってわかっていると言っていた。

 何歳だと思っているの、なんて可愛らしい怒り方をするツバキを脳内に召還して、動きが止まってしまう。そろそろ人通りの多い道に抜ける。

「来年、中学生かあ。……おっきくなったなぁ」

 生まれたばかりの頃の妹は今よりも小さくて、今よりももっともっとふわふわで、頭が重たいからぐらっと何の警戒もなく倒れてしまう姿が本当に、本当に可愛らしくて。すぐに抱き起して助けてあげると嬉しそうにわたしの髪の毛を引っ張って可愛い大声を上げていた、あのツバキが。

 もう中学生になるだなんて。

 月日の流れは誰にとっても平等だ。

 それはなんて、残酷なことだろう。

 あの子はわかっていると返事をした。わたし自身が普段から意識して使っている言葉だからこそ、よく身に染みている。

 わかっているという言葉は便利で、言葉の意味を理解したことは示しているが、それに従うとも背くとも言っていない。

 妹は、どんな認識でその言葉を返してくれたのだろうか。こんなところばかりを真似して欲しくて使っていたわけじゃないのだけれど。

 こんなわたしが妹を諭すようなことは言えない。

 陰から抜ける、明るい大通りになかなか踏み出せない足を無理やり前に出した。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ