第15話・視線
「あー、いや。知らない、ですね……」
視線を逸らして、慎重に、そして正直に答える。
パソコンを弄る手が止まり、女の視線が乙女に向いた。
「知らない、か。嘘では無いな?」
鋭い眼光に貫かれながら、ゆっくりと頷く。
張り詰めた空気が部屋を満たし、時計の針音だけが耳に聞こえる。
「そうか、なら現時点では不明としておく。判明次第、速やかに報告するように」
椅子の背もたれに体を預けて、女がそう口にする。
デスクに足が当たったのか、揺れた反動で缶が倒れた。
「少し待て。もうじき作業が終わる」
プルタブが開いているせいで、蛍光色に見える液体がデスクに流れ出す。
木目に出来た水溜まりを無視して、女はモニターに向き直った。
そのままキーボードとマウスに手を待っていき、素早く動かし始める。
直後、甘ったるい匂いが乙女の鼻を刺激した。
(いや、拭かないの……)
こぼれたエナドリに嫌悪感を覚えていると、キーボード音が鳴り止んだ。
「説明をする」
唐突に言い放たれた言葉に、乙女は驚いて肩を震わせた。
こちらを向いた女の無機質な表情が視界に映る。
(……いつ消した?)
さっきまで点いていたはずの画面が、いつのまにか暗くなっている。
女はデスクの上を探ると、ホチキスでまとめられた紙束を手に取った。
「資料の2枚目を見ろ」
(資料……? 資料って、さっき蘭さんに渡された?)
目線を自分の手元に落とす。
少し皺の出来た紙をめくり、2枚目を見えるようにした。
そこには、『魔法少女・新人研修――研修日程』と書かれた文字。
乙女が目を通そうとした瞬間、女が再び口を開いた。
「まず、新人は1ヶ月間の研修を行う。内容は座学と訓練、そして実習だ」
女は視線を資料に落とし、そう口にする。
「座学は6回、訓練は4回。実習は全部で3回。大体、座学は最初の2週間。訓練は3週目に、実習は最終週を中心に行う。詳細日程は資料を読み込め」
(合成音声かよ……)
その起伏の無い淡々とした語りに、乙女は心の中で毒付く。
首を少しだけ横にずらし、女の姿を視界の端に追いやる。
すると、エナジードリンクがデスクを滴り、カーペットを汚しているのが目に入った。
どこか空気がまとう不気味さに、無意識に頬の内側を噛む。
そのとき、女がふと独り言を呟いた。
「今日は……9月の6日か」
女はただ、光の消えたモニターをまばたきもせず凝視する。
その意味の分からない行動から、乙女は意識を逸らすように資料を見始めた。
(最初の講義が……来週の土曜日。その次が訓練……)
数秒ほど経った瞬間、まばたきをした女が乙女に声を掛けた。
「明日だ、新人」
誰に言ってるのか、と乙女が視線を上げると、こちらを見つめる女と目が合う。
「あぁ……明日、ですか。はい」
「明日の8時、協会の講義室12-2に来い」
そう言い放ち、すぐに視線を下げる。
女の突拍子も無い発言に、乙女は唾を飲み込むのを忘れる。
明日は土曜日だから学校はない。
それでも、朝の8時に集合というのはやり過ぎでは無いだろうか。
そもそも資料に書かれている日程では、初回講義は9月14日となっている。
おそらくだが、この課長とやらの独断に違いない。
乱れた思考を誤魔化すように、乙女は髪をかき上げた。
手を元の位置に戻し、再び女の方を向いて声を出す。
「分、かりました。必要な物とかは……ありますか?」
「大丈夫だ」
女はこちらを一瞥もせずに答えると、キーボードとマウスに手を伸ばした。
いつのまにか、パソコンの画面に明かりが戻っている。
クリック音がひとつ、またひとつと部屋の中に響く。
そして数秒ほど途切れた後、女が規則的なリズムでタイピング音を刻み出した。
(……なんなのこの人)
僅かにずれた針音との不協和音に、乙女は眉をひそめて一歩下がった。
資料を胸元に抱え、モニターを眺める女の様子を、呆然と見つめる。
(冷酷、冷酷か……)
激しく目玉を動かすその姿に、乙女は蘭とラヴの言葉を思い出していた。
(どっちかといえば……仕事中毒か?)
視線を鋭くしながら、冷え切った頭で考える。
そのとき、部屋が一気に静まり返った。
「なに棒立ちしている。他に用事か?」
女が投げやりに放った言葉に、乙女の脳が冷え固まった。
何度もまばたきをして、首を小さく傾げる。
(……え、終わりだった? あれで?)
乙女は困惑しながら、一歩、二歩と後ろに下がる。
そして背中に当たった取手を掴み、小さく口を動かした。
「あー、と……お疲れ様です。明日、お願いします」
首だけ下げて会釈をし、振り返らずに扉を押し開ける。
そのままの姿勢で後ずさっていき、全身が廊下に出た瞬間に取手を引っ張った。
微かな音を立てながら、扉がゆっくりと閉じていく。
視界が艶やかな木目で埋め尽くされて、乙女はようやく深々と息を吐いた。
乙女は背筋をぐーっと伸ばして、前髪を勢いよくかき上げる。
ぎゅっとまぶたを閉じ、落ちてきた髪の毛を払うように首を振った。
「なんか、変な疲れ方してるし……」
乙女は天井を見上げたまま止まり、数秒ほどして肩を落とした。
そして資料を両手で掴み、くるくると巻いていく。
「はぁ……帰ろ、帰ってご飯食べよ」
そのとき、何かが落下する音が背後から耳に聞こえた。




