84 零と壱の計算
「……新たな暗号?」
朝日の照らす港に、人々が満ち始めてきた頃。
問われた獣人は、すっと海を眺めながら報告を続ける。
「はい。この新たな暗号の導入により、王国は情報を得ることが困難になりました。また、王国はこの新たな暗号の仕組みを未だ解明できていないため、解読の危険から、オーブの利用も封じられている状態にあります」
「忌々しい……。これは魔族が発明したのか?」
「それは……」
少し口ごもる獣人に、相手は眉を寄せるも。
「そこまでは調査していないのか、重要な情報ゆえ、調査を進める事だ」
「……はい」
大通りは徐々に人だかりが増え始めている。
複雑な表情で頷く獣人に、相手は大通りの向こうを見つめ。
「しかし……こんな暗号ひとつで戦況を変えたというのか? 情報通信が武器になるのは理解できるが、それでも彼の王国軍の守る砦を陥落させるとは……」
「はい。攻城戦は防衛側が圧倒的に有意であると、歴史的にはそう考えられてきました。しかしこの戦いは相手が固定されているため、より緻密な弾道計算が活きる戦場だったようです」
「……緻密な弾道計算? まさか、対数表が……?」
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西区の通りに面する、こじんまりとした薬屋。
細長い通路を通ってカウンターの裏へと歩み入れると、そこはあらゆるものがごちゃごちゃと置かれた倉庫になっている。
ひっくり返った大釜や、高く積まれたガラスの器、色とりどりの薬草、そして……
「コレが……? 本当に?」
床を満たす、小さなオーブの数々。
よく見れば、オーブが無数に並んだものが木の板に接着されていて、その木の板が床に並んでいるようだけど。
「二か月前に来た時は、悪魔召喚でもしようとしてんのかと思いましたけど」
「その方がマシだ。悪魔の召喚ならば、もう少し省スペースに出来ただろうからな」
皮肉交じりにそうこぼすイグナート先生に、隣で腕に引っ付いているシャノンさんがむっとしながら。
「……ちがう。これが、計算をしてくれる」
とそう、小さく呟いた。
ぴりっとつねられた感覚を我慢しながら足元のオーブたちを眺める。
「どういうことですか。こいつらが、計算を……?」
軽く混乱しながら俺が尋ねると、シャノンさんは腕を揉みながらしばらく考え込んでから口を開く。
「最初は、ドミノ倒しみたいなかんじで、光を繋げるのがおもしろかった」
言いながら屈みこみ、足元の一つのオーブを指先で包むと。
ぶわっとその周りのものが光る。
なるほど。オーブの光は連鎖するのか。
「色々遊んでたら、条件で分岐を作れるってことに気づいて」
言いながらシャノンさんは三つ並んだオーブのうち、一つを抑える。
その状態では何も光らないが……もう一つも一緒に抑えた瞬間、最後の一つも同時に光った。
なるほど。AかつBを抑えた状態であれば、Cが光る、みたいなことが出来るわけか。
「そこまでは平和に遊んでおったのだが……儂が余計なことを言ったせいで、オーブどもに倉庫が侵略されることになったのだな。時を戻せるのなら、わしはそのときの儂を殺してやりたいわ」
「……そこまで絶望するような事ですか」
「二進算術っていう数学の理論に、しくみが似てるって。そう聞いてしらべたら……たしかに似てた。論理学の真偽を、0と1で表すりろんなんだけど……」
ん? 二進算術? 0と1……?
「ああ……かわいそうな三年前の儂よ。二進算術の最も単純な構造を作った頃はまだ良かった。それが桁上がりの構造を付け足してみたり、より多くの桁の和算をやってみたりとこのオーブどもは爆発的に増えて行き……今も痘の培養に倉庫を使いたいのに、その場所もなくなってしまった……」
頭を抱えるイグナート先生に、俺は言葉を失っていた。
もしかしてこの人……ゼロから計算機回路を作っちゃったのか……?
「二進算術は、普通の十進数の計算に対応してる。だからこれを使えば計算ができる。へんたいは、計算を早くしたい、でしょ?」
「そ、そうです! 対数表を作るのに必要で……。こ、この回路は……複雑な乗算も、全部勝手にやってくれるってことですか……?」
「いや。ほんとは足し算だけ」
「……じゃあだめじゃないですか」
なんだよ。一瞬前までの興奮を返せ。
「シャノンも和算ができるようになった後、すぐに乗算に取り掛かったのだがなぁ……」
「いちおう、足し算をその回数分繰り返す機構を作ればいいだけ……」
「ばかたれ。そんなのを作っては、倉庫どころか生活空間全てを支配されてしまうわ」
まぁ、そうだよな。
5×5は5+5+5+5+5でもあるだろうが、この調子で桁を大きくしてしまっては、回路が膨大な大きさになってしまう。
「……じゃから、わしが二進数の乗算を和算に変換する方法を教えてやったのだ。……これも、先人の研究の受け売りだがな」
言い訳がましくイグナート先生は言う。
これ以上家を散らかされては本当に困るのだろう。
「我々の使う十進数では、十倍の計算はとても簡単だろう? 78×10は?」
「お、俺ですか? そりゃあ、780……ですよね?」
「ならば、78×100は?」
「7800ですよ。これが何なんですか」
「そうだ。物凄く簡単に、ケツに0を付け加えれば済む。これは二進数でも同じでな、二進数の世界では二の累乗倍の計算が物凄く簡単なのだ」
「2は(10)で、4は(100)、8は(1000)……みたいに」
シャノンさんはいつの間にか、手元にメモ紙を携えている。
なんで俺が二進数の知識がある前提なのかは知らんが、まぁ雰囲気で理解すればいいか。
「つまりだな。数をかけるとき……例えば、6(110) ×5(101)をかけたいときは、始めにこう分解すると良い」
イグナート先生が震える手で101 → 1×(2^2)+ 0×(2^1)+ 1×(2^0)と紙に書き込む。
なるほど、二の累乗倍の計算が楽なら、かける数を二の累乗だけに分解してしまえば良いのか。
「だから、110に二回0を付け加えた数と、ゼロ回付け加えた数を足せば答えがでる。桁上がりと足し算さえあれば、かけ算はいらない」
言いながらシャノンさんは床に膝を折ると、手書きの文字で『一桁目』と書かれた部分の『6』を抑え、同時に『5』を抑える。
と、同時に床中のオーブに光が広がる。
「けっかは、これ」
シャノンさんが顎で指す場所を見ると、確かに『結果』と手書きで書かれたところの『3』と『0』の部分が光っている。
詳しい理論まではぱっと理解できなかったが、これは……
「これ……もっと桁の多い計算も出来るんですよね?」
「いまは四桁までの入力にたいおうしてる。理論上、桁を増やすのはただの労力の問題。やろうと思えば増やせる」
「バカを言うな! 頼むからこれ以上スペースを取らないでくれ……!」
泣きつくイグナート先生に、シャノンさんは手を払って立ち上がり、くいと袖を引く。
「……どう?」
自慢げにこちらを見上げて来るシャノンさん。
これは……ヤバいな。言葉を失ってしまうほどにヤバい。
もちろん、これで色んな計算が高速化され、対数表ができる事も凄い。
が、計算機というのはつまりコンピュータだ。
これが高度化していけば……百年後にはITの時代になっていてもおかしくない。
「これで、今日から毎日計算をする……んだよね?」
「そうなりますね。これから計算を担当する方が、ここに来ると思います。拡張のためにこの木の板ごと、もっと広いところに移すことになると思いますが……」
「……? けいさんを担当するひと? へんたいが、まいにち来てくれるんじゃないの?」
何故か急にきゅっと眉を下げてこちらを見上げるシャノンさん。
「俺が、ですか? いえ、俺は計算要員じゃないので」
「きて、くれないの……?」
「えぇまぁ、もっと専門的な知識を持った方が来る予定で……あ、あれ? シャノンさん?」
言っている途中で、シャノンさんは俯いてしまった。
な、なんで……
「おい小僧貴様! シャノンを泣かせるな!」
「な、何で俺が怒られてるんですか? しゃ、シャノンさん⁉ ほ、本当に泣いて…………⁉」




