83 新たな暗号
華やかな香りの湯気がティーポットから立ち上る。
優雅な所作でカップにお茶を注ぎ込みながら、ニーアさんは。
「新しい暗号、でございますか」
そう言って、首を傾げた。
先々週の酒盛り以降、教皇室には誰かしらシャノンさんやら海賊やら詐欺師やらが居るようになったのだが……今日は珍しくニーアさんと二人きり。
「はい。オーブ通信は、一定距離内にあるオーブを共鳴させる仕組みである以上、オーブの形状を揃えてしまえばいくらでも傍受が可能です。なので、暗号化が必須だと思うんです」
「そうは仰いますが……わたくしの専門は暗号技術ではございません」
お茶を注いでポットを一度テーブルの上に置き、そのままニーアさんは懐から小さな瓶を取り出して……
「……その、目の前でいかにも毒っぽい液体をどぼどぼ入れるのやめてくれません? そんなのは効かないって、説明したはずですよね?」
「続けてさえいれば、いつか効くかもしれませぬゆえ」
「はぁ……」
大真面目に瓶を空にすると、毒入りの紅茶をこちらに押し出してくる。
誰がそんなのを飲むんだ。目の前で堂々と盛っておいて。
「とにかくですね、ニーアさんの発明した頻度分析によって従来の暗号は破られたじゃないですか。どうもスパイがこの技術を王国に漏らしてしまったようで……このままでは、便利なはずのオーブ通信を安全に使えないんですよ」
「新たな暗号……頻度分析の効かない、新たな暗号が必要である、と」
「そうですね。この国は裏切者だらけですから、命令を暗号に置き換えるような、いわゆるコードブックを共有されてはマズいものは使い物にならないんです。なので、出来れば文字単位で置き換えをするサイファーを考えて……」
「考えております」
……え?
急に口を挟まれて、一瞬思考が停止する。
「既に、考えております」
ニーアさんは表情を変えずに、毒々しい色のお茶を見つめながら、そんなことを。
「王国との暗号解読戦争は、頻度分析の発明以降も続いています。手を変え品を変え、頻度分析をかいくぐる方法は色々と出てきております」
「そ、そうなんですか? なら、今は王国の暗号を読めない状態なんですか? そんな話聞いてないんですけど……」
「ええ。既に破りましたので」
既に、破った……?
平然と言いますけども。
「例を上げればきりは無いですが……例えば、同音換字式暗号。これは単純に、eなどの出現頻度の高い文字を二つ以上の文字に対応させて、出現頻度を平滑にする方法です。そうすれば、頻度は均されてしまいます」
「……確かに。それだけで頻度分析ができなくなるじゃないですか。こんなんどうやって解読を……」
「これは文字の種類が少し多いことから、同音換字式暗号であることはすぐに分かります」
まぁ、それはそうだろうけど。
「分かったところで、それをどうやって解読するんですか?」
「知りたいですか」
「それは、勿論……」
「なら、一口お飲みください」
……なんなんだ。
まぁ、毒は構造的に効かないので別にいいけど。
じっとニーアさんに見つめられながら、一口煽る。
……うまい。
毒々しい色とは裏腹に、芳醇な香りが鼻に抜けて心地いい。
「……おいしいですよ。ほら、飲んだので教えてください」
「はい。この暗号は、一つの文字だけではなく、二つ以上の文字の並びに注目するのです。よく見られる並びですと、thやon、erなどがございます。これは、頻度の多い文字を置き換えたところで消せません」
なるほど。この痕跡を完全に消すことはできないのか。
よくある並びを手掛かりにする方法、これを潰すとなると……
「当然手間はかかりますが、時間をかければ解くことは可能です。これでは完全に安全な暗号とは到底言えません」
「なら……その、二つの文字の塊を一つの記号で表すとかして……それをさらに平準化すれば良くないですか?」
「文字の数が増えれば増えるほど、頻出する文字は傑出するようになります。これを均そうとすると……用意する記号が指数関数的に増えていくことになります。特に戦場で使う暗号としては、暗号化と復号化の手間を考えると不適当かと」
うーむ。確かにそうか。
オーブ通信の利点は、その速度にある。
暗号が複雑になりすぎて、結局は伝令を送った方が早い、なんてことになっては意味がない。
「じゃあ……どうすれば良いんですか」
「お茶を、もう一口」
……分かったよ。
ぬるくなってきたお茶をグイっと煽り、ニーアさんを見上げる。
「頻度分析は、記号と文字がほぼ一対一対応しているのが問題でした。一つの文字をeと断定できてしまえば、文章中に出て来るその文字は全てeなのです」
「……そりゃそうですよ。同じ文字なのに違う意味を持つ、なんてことにしたら、解読できませんし」
「それです。それが、この問題の解決策です」
……は
それが解決策……?
「これは極端な例ですが……『ZZZZ』という暗号文を見て、解読できますか?」
「は、はい? Zが四つ……? ちゃんと意味のある言葉なんですか……?」
「はい。正解の平文は『HOLD』です。鍵を『SLOW』としてこの平文を暗号化すると……先ほどの『ZZZZ』になるのです」
……どゆこと?
「暗号の仕組みは単純です。例えば鍵が『SLOW』のとき、Sは18番目の文字なので、平文のHを18個ずらしてZ。Lは11番目の文字なので、平文のOを11個ずらしてZ……という風に変換をしていくのです」
……なるほど。
この暗号文に書かれたZは、四つの異なる文字を表しているのか。
これなら頻度を見ても解けないし……thとかerとかの頻出の塊も出てこない。
「鍵が『SLOW』のときは18個ずらし、11個ずらし、14個ずらし、22個ずらしを繰り返して適用するだけです。これだけの手間なら、戦場での通信にも向いているかと存じます。内通者の問題は、鍵を頻繁に変更し、共通のものを作らないという方針でクリアできるかと」
鍵が単なる短い単語だから、それを変える手間もあまりない。
一度鍵を知られても、すぐに違う鍵を使えばよいわけだ。
……凄いな。手軽さも頑強さも、すべてそろっている。
この人、本当に暗号の専門家じゃないのか?
もはやこの世界で起きている情報戦を、一人で数百年くらい先に進めてしまっているんだけど……
「その……時にですが、体に変化などはございませんか?」
新しい暗号に感動していると、いつの間にかニーアさんが傍へ来ていた。
「変化ですか? いえ、特には。毒は効かないって言いましたよね?」
「それでも、何か気分が変わるような感じは……ございませんか」
「え? いやだから、何もないですよ」
おもむろに顔を覗き込んで来るニーアさんから、のけ反るようにしながら否定すると。
「……そうですか。失礼いたしました。わたくしはこれで……っ」
すっと立ちあがると、ニーアさんは足早に教皇室を出ていってしまった。
何だったんだ、今の。
てか教皇室に毒なんか持ち込むな。
茶葉の棚を開け、先ほどニーアさんの持っていた瓶を探す。
しばらくの捜索の後に出てきたのは。
「……精力剤?」
……なんでそんなものの空き瓶に毒を入れてるんだ、危ない。
せっかく優秀な研究者なんだから、さっさと俺を殺す事なんか諦めてくれないかな。




