第91話 バルモア燃ゆ
九の月に入ったバルモア領都ゴルトフェルト郊外は、黄金色の穂に覆われていた。
収穫を今か今かと待ちわびた金色の麦穂は、ずっしりと頭を垂れて初秋の風を受けている。
豊穣の象徴であるはずのその光景は、しかし今年に限っては街の中の空気とは無縁のものだった。
ゴルトフェルトの倉庫街では、昼夜を問わず厳重な警備が敷かれていた。
商人たちが競って押さえた倉庫には、まだ売られていない穀物が山と積まれている。
いつ売るか。誰が先に売り抜けるか。誰が最後まで握り続けていられるか。
穀物の街は、穀物ではなく商人たちの駆け引きと疑心暗鬼で満ち満ちていた。
マルタン・ベルニエの書斎には、重い沈黙が漂っていた。
帳簿を前にした番頭のモーリスが慎重に、しかし明確に言葉を選んでいる。
白髪交じりの痩せた男は、マルタンが若いころからベルニエ商会の帳簿を預かってきた古参だった。
「旦那様。数字をご覧ください」
モーリスは帳簿を主人の前に広げた。
買い付けた穀物の総量、仕入れ値、倉庫の賃借料、借入金の利息、そして現在の市場価格。
几帳面に整えられた数字の列が、明確な結論を示している。
「現時点で全量を売却した場合、借入金の返済と諸経費を差し引いても、十分すぎる利益を得られます」
モーリスから提示された利益額は、ここ数年のベルニエ商会の年間利益を遥かに上回るものだった。
利確してしまえばマルタンの手元には、商会の何年分もの利益が転がり込むことになる。
どの商人に聞いても“大成功”と言うだろう。モーリスの声にも、抑えきれない安堵が滲んでいた。
「ただし――」
モーリスの声が、僅かに硬くなった。
「収穫が始まれば新穀が市場に流入します。早ければ十日以内に価格は反転するでしょう。今の価格を維持できるのは長く見積もってもあと一週間。旦那様、ここが手仕舞いの潮時かと」
モーリスは帳簿の数字を指で押さえ、主人の顔を窺った。
長年この商会に仕えてきた番頭の目には、懇願に近いものが浮かんでいる。
だが、マルタンにはその利益が酷く軽いものに見えていた。
「モーリス、この相場を最初に読んだのは誰だ」
「――旦那様でございます」
「アッシュフィールドの買い付けに気づいたのは」
「旦那様です」
「倉庫を押さえ、農家との契約を結び、借入を起こしてまで張ったのは」
「……旦那様です」
「ならば、この相場で最も大きな果実を手にするのは、誰であるべきだ?」
モーリス答えなかった。答えられなかった。
主人の目が帳簿に記された利益ではなく、もっと遠くの何かを見ていることに気づいていたからだ。
「この程度の利益で降りた商人を、世間は何と呼ぶ。『賢明』か? 『堅実』か?」
「それは――」
「そんな利確なぞ子供でもできる。誰でもできる利確で終わったベルニエの名なぞ半年もすれば忘れられる」
「旦那様――」
「この相場を作ったのは俺だ、モーリス。俺が火をつけ俺が膨らませた。ならば最後の一滴まで搾り取るのも俺でなければならん」
モーリスの顔から血の気が引いていた。
だが、老いた番頭は最後の抵抗を試みた。
「旦那様、収穫が始まれば相場は必ず崩れます。これは予測ではなく自然の摂理です。どうか――」
「わかっている。ああ、収穫が無事に始まればな」
その言葉の意味をモーリスは理解できなかった。
理解できないまま番頭は書斎を後にした。
理解していたら、何ができただろうか。
※
九の月十四日の夜。
ゴルトフェルトの倉庫街は、乾いた風が吹いていた。
昼間はまだ暑いくらいの気温だが、夜は秋の涼しさを感じさせる。
倉庫街を巡回する夜警の動きをマルタンは慎重に見計らっていた。
粗末な外套で顔を隠したマルタンの手には、油を染み込ませた布と火打ち石があった。
標的はすでに決めてある。
ゴルトフェルト第二の穀物商、ランブラン商会の倉庫。
マルタンに次ぐ規模の在庫を抱え、この投機遊戯の降り時を窺う最大のライバルだった。
この在庫が焼ければ、市場に供給不安が走る。
相場はもう一段跳ねる。その隙に、自分の在庫を売り抜ける。
計算は完璧だ。これで自分が“相場の勝者”となる。
放火に人を雇うことは最初から考えていなかった。
人を雇えばどこから足がつくかわかったものではない。
それ以上に、この相場を最初に読んだのは自分だ。倉庫を押さえたのも、資金を投じたのも、すべて自分だ。
ならば最後の一手を打つのも、自分の手でなければならない。
他人に任せた時点で、この勝負は自分のものではなくなる。
おおよそマルタンに正常な判断力は残っていなかった。
どんな手段を使おうと最後の勝者となる。自分が作った相場を自分で完成させる。
儀式にも似た衝動が彼を凶行に駆り立てていた。
倉庫の裏手から忍び込む。警備は倉庫内も巡回するため鍵はかかっていない。
積み上げられた麦袋の隙間に、油がしみ込んだ布を押し込む。
火打ち石を擦る。
ぼっと火が灯った。赤い炎が布に燃え移り、麦袋へ這い上っていく。
乾いた麦はさぞかし燃え盛るだろう。
自分の勝利の炎を前に、マルタンは恍惚とした表情を浮かべながら倉庫街を後にした。
倉庫一つが燃えて、朝には消し止められる。――それで終わりだと。
※
乾燥した穀物が保存されている倉庫はあまりにも火が好む環境だった。
乾いた麦袋、麻布、木の梁、床に散った籾殻。
燃えるものしかない空間で、炎は一つの生き物のように膨れ上がっていく。
灼熱地獄と化した倉庫の炎は、出口を求めて通気口の窓から炎の舌を伸ばした。
強い風が吹いた。
乾いた夜風。
火の粉が舞い上がり、隣の倉庫の屋根にはらりはらりと舞い落ちた。
乾ききった木の屋根板が、火の粉を受け止め、赤く光り、燃え上がった。
夜警の鐘が鳴り響く。
一つ、二つ、三つ。危急を告げる連打。
住民たちが飛び起き、水桶を手に駆けつける。
だが、倉庫街の火は水桶で消せる規模をすでに超えていた。
二つ目の倉庫が轟音とともに崩落した時、火の粉の雨が倉庫街全体に降り注いだ。
三つ目。四つ目。
倉庫と倉庫の間隔は、荷馬車が通れる程度しかない。
一つが燃えれば隣へ。隣が燃えればその隣へ。
火はもう、マルタンが思い描いていたものではなかった。
倉庫街に隣接する商店が燃え始めた。
粉挽き場の小麦粉に引火し、轟音とともに爆発的な炎が噴き上がる。
民家の屋根が次々と火を受け、細い路地を吹き抜ける風はふいごから空気を送り込むように炎の勢いを増幅させていく。
子供を抱えた母親が裸足で石畳を走る。老人が燃える店先で立ち尽くしている。
火だるまとなった馬が暴れながら通りを駆け抜け、民家に突っ込んでいく。そして炎上。
ゴルトフェルトの夜空が、赤く染まっていく。
月よりも明るい光が、街の輪郭を浮かび上がらせていた。
※
自宅の書斎に戻ったマルタンは、窓の外の異変に気づいた。
空が赤い。夜鐘がけたたましく鳴り響いている。
倉庫街の方角が、闇の中にあるべき時間なのに昼のように明るく燃えている。
書斎を飛び出し、屋敷の屋上に駆け上がった。
そこから見えた光景は、マルタンにとって現実のものではなかった。
倉庫街が燃えていた。
一つではない。二つでもない。否――街そのものが燃えていた。
赤い竜が街を巻き込みながら這い回っているように、炎は街を飲み込んでいく。
人々の悲鳴が風に乗って届き、黒煙が空を覆う。
「違う……」
マルタンから力なく声が漏れた。
「俺は――倉庫を一つ――一つだけ――」
風向きが変わった。南から吹き抜ける風が西へと向きを変えた。
火の粉が街を取り囲む城壁を乗り越え、郊外へ舞い散っていく。
まるで蛍の群れが秋の訪れを告げるかのように。
その先にあるのは、収穫を待つ麦畑だった。
黄金色の穂が月明かりの下に広がり、刈り取りを待っていた。
あと数日で農夫たちの鎌が入るはずだった麦の海。
赤い蛍の光が、黄金の海に落ちた。
乾いた穂が赤く光った。
一つ、二つ。
そして、火は麦の海を走り始めた。
マルタンの喉から、枯れた声が絞り出された。
「やめろ……やめてくれ……!」
だが、火は彼の言葉を聞かない。風が止むわけもない。
麦畑が燃える。麦の穂がパチパチと弾け、その火が次の畑に飛び火していく。
風が炎を運び、炎が風を生む。
赤い竜は黄金の海を貪り這い回る。
彼はようやく理解した。
自分が火をつけたのは倉庫ではない。
ライバル商会の在庫でもない。
王国の食糧に、火をつけたのだ。エーデルガルドの食糧庫へと。
マルタンは屋上の手すりに崩れ落ちた。
赤く染まった夜空の下で、ゴルトフェルトの黄金の実りが灰の野に変わっていくのを、ただ見ているだけだった。
※
火は三日にわたって燃え続けた。
倉庫街は全焼。ゴルトフェルト市街地のおよそ西半分が焼失。
民家数百戸が灰と化し、死傷者は数百人をゆうに超え、行方不明者も多数。
そして城壁の外に広がっていた麦畑――バルモア領の穀倉地帯の七割が、焼け野原と化した。
三日後の朝、ベルニエ商会の書斎で一人の男が首を吊って死んでいた。
マルタン・ベルニエ。
五十を過ぎた恰幅の良い体は、梁をぎしぎしと軋ませながら揺れていた。
遺書はなかった。
自身の商会の倉庫も大火で全焼しており、全資産を失ったことを悲観しての自死――そう処理された。
バルモア大火。
後にそう呼ばれることになるこの大火は、発生から一両日中に教会による聖声盤の緊急声明によって王国全土が知ることになる。
次話の投稿は6/21日を予定しています。
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