第90話 顔はやめなさい、痕になるから
布告から五日後の朝、イリヤが私の執務室を訪れた。
その表情は渋く、話す前から良い報告でないことは明白だった。
「お嬢、一匹引っかかった」
その声色はどことなく疲れたようで、しかし予想通りだとでも言いたげな響きがあった。
まあ……出るよね。こういう時は、必ず出てくる。
「昨夜、うちの若い衆が西街道で荷馬車を押さえた。小売商人のベルクマンって男だ。領内販売用として卸した麦を、夜中に領外に運び出そうとしてた。行き先はヘルマンシュタイン領の穀物仲買人だ。あっちじゃうちの倍近い値がついてるからな」
たった五日で密輸者が出た。
出ないはずはないと分かっていても、その早さには苦いものがある。
儲け話の誘惑に抗える人間は少ない。それが金の匂いに飢えた商人ならなおさらだ。
「ベルクマンの身柄は?」
「うちの商会で預かってる。そのまま領兵に引き渡す」
「じゃあ。私も取り調べに立ち合うわ」
この日の午後、私とイリヤは商人ベルクマンの取り調べに臨んだ。
動機はいわゆる出来心だ。市場で領外での高値を聞いて、つい手を出してしまった。それだけ。
……別に動機なんてどうでもいい。
大事なのは事実と、それに対する裁きだ。私は粛々と、そして冷たく、彼を裁いた。
だが――取り調べの際のベルクマンの顔を見て、私は渋い表情にならざるを得なくなった。
左の頬が腫れ上がり、左目の周りに青い痣を作っていた。
明らかに殴られた痕だった。
私はベルクマンの取り調べの後、イリヤを執務室に呼んだ。
「イリヤ、ベルクマンの顔は何?」
「ん? ああ、荷馬車を止めた時に暴れてな。若い衆がちょっと手荒になった」
悪びれることもなく、あっさりと答えるイリヤ。
ベルクマンがどこまで抵抗したかわからないが、顔に痣を作るほどの暴力を振るうのはやり過ぎだろう。
「……やりすぎないでって言ったよね」
「やりすぎてねえよ。以前の俺なら港に沈めてたところだ。伯爵様の顔を立ててこの程度で済ませてやったんだぜ?」
「……」
私の腹心の一人として領政の一翼を担う立場であるが、やはりこういう時はやくざ者の流儀で動く男だ。
わかっている。それを承知で、私はイリヤを使っている。
私の領主としての権威も、リュシアの教会の権威も、それだけで人を従えるには足りないのだ。
「あまり痛めつけないで。取り押さえたら、そのまま連れてきなさい。裁くのは私の仕事よ」
「そうかい……まあ、お嬢がそう言うなら」
イリヤは煙草に火をつけて、紫煙を吐いた。
それから、少しだけ声のトーンを落とした。
「ただな、お嬢。一つだけ言っておく。お嬢の部下が捕まえた。それが顔に傷一つなく丁重にお届けされました――なんてのは、舐められるぞ」
その言葉に、私は返す言葉を持たなかった。
「あの商人だけじゃない。今この領地で商売してる連中全てがお嬢を見ている。伯爵の布告を破ったらどうなるか、丁重に扱われて罰金払って物品没収と営業停止で済む。ああ、普通のやつならそれは罰則としての抑止力になるだろうよ。だがな、“俺側”の人間は罰則ではなく費用で計算する。罰を食らってもそれ以上の利益が見込めるなら、躊躇なく手を出す。そういう連中だ」
「……」
私が何も言えずにいると、イリヤは煙草の火を灰皿に押し付けた。
「お嬢にナメた真似した阿呆は顔の形が変わる――そう思わせて初めて、抑止になる連中もいるんだ」
……わかっている。わかっているわよ。
この世界には前世のような警察も検察も裁判所もない。
法の執行力は、最終的には暴力に裏打ちされている。
イリヤが商人たちに対して持っている影響力の源泉は、商会の経済力だけではない。「逆らったら怖い」という裏社会の暴力装置としての存在感そのものだ。
それを利用している時点で、私の手も綺麗ではない。
汚れ仕事をイリヤに任せて、自分だけ清廉を気取るのは欺瞞だ。
「そうね……あなたの言うことはよくわかる。でも、私は法の手続きをきちんと守りたい。だから――」
イリヤの目が細められる。
私が何と言うか見定めるように、まっすぐに私を見据えてきた。
「――殴るなら顔はやめなさい。痕にならないよう腹とか」
イリヤの目が見開かれる。
まるで予想外の言葉だったかのように。そして、込み上げる笑いを必死にこらえているのが分かった。
「クッ……クハハハッ! 言うに事欠いて顔はやめろかよ! それは予想してなかったぜ!」
「そ、そうかしら……」
「お嬢のことだ。『それでも殴らないで』とでも言い出すと思ってたんだがな」
「だって……イリヤが言うこともよくわかっている。綺麗ごとだけで済ませられないこともわかるわ。だから……あなたが殴っても私は領主として認知しない、イリヤが勝手にやったことにする」
我ながら最低な発言だ。
けれど、これが私にできる最大限の妥協点だった。
その言葉にイリヤは腹を抱えて笑った。
苦笑も混じりながら、煙草を取り出して火をつける。
「……ククク、いざとなったら俺を尻尾切りしようとするか。お嬢は悪辣だが人が好すぎるところがあるが――ああ、それでいい」
「でも……基本は手荒なことはしないで」
「了解だ、お嬢」
イリヤは私の部屋を出ていくとき、小さく笑っていた。
隣のステラは肩を竦めて口元に微笑を浮かべ、アルフレッドは私とイリヤのやりとりにきょとんとしていた。
※
「お嬢様、来週の備蓄放出量についてですが――少々お時間をいただけないでしょうか?」
「ええ、付き合うわ。アルフレッド、ステラ、私は少し席を外すから」
そう言ってリリアーネはヴェルナーと共に執務室を出ていった。
後に残されたのは俺――アルフレッドとステラだった。
ステラは主が席を外したことで少しリラックスしたのか、ソファに座るとナイフの手入れをし始めた。
彼女の白い手が銀色の刃を布で丁寧に拭いている。その動きには無駄がない。
金色の瞳は手元のナイフに向けられ、こちらを見ようとしない。
……気まずい。
そう言えばステラと二人きりになる機会はほとんどなかった。
常にリリアーネの傍らに控えるメイドは影のようにその存在を空気に溶け込ませ、基本的に誰とも喋ろうとはしない。
悪い人間ではないとは思う。
出自があのヴァリャーグの“赤い眼”だということをレオニスから聞かされた時は驚いたが、あの佇まいを見れば納得がいった。
ただ――この間、ハーラルと手合わせした時の彼女の動きは元暗殺者だけでは説明つかないような、天賦の才を感じさせる剣技だった。
なぜ彼女がそこまでの戦闘の才能を持っていて、なぜリリアーネに仕えているのかはわからない。
レオニスもそこはよくわからないと言っていたし、だからと言ってリリアーネに聞いてみるのは憚られた。
(――暗殺者に身をやつした人間の過去を興味本位で詮索するような真似ができるほど、俺も無神経じゃないしな……)
……今の兄貴が聞いたら少し褒められそうかも。
それはそうとして、リリアーネが席を立ってから五分も経ってないはずなのに、もう三十分は待っているかのような気分だった。
結局、俺は沈黙に耐えかねずステラに声をかけることにした。
「……ステラ、一つ聞いてもいいか」
「ん、ごめん。お茶のおかわりが欲しかった?」
ステラのナイフを拭く手が止まり、金色の目がこちらを見る。
「いや……そうじゃないんだけど。リリアーネとイリヤの会話のことなんだけど――」
「何?」
「リリアーネはなんでイリヤを咎めていたんだろうって。痛めつけずに引き渡して欲しかったって」
「うん」
「でもイリヤは、あれぐらいしないと舐められると言っていた。正直――俺もイリヤの言い分のほうが分かる。うちの領地でも、布告を破った者には相応の扱いをする。親父も兄貴も表立っては命じないが必要とあれば黙認していたと思う」
会話の内容的にリリアーネも黙認を選んだようだが、それでも完全に納得はしていない。そんな感じに聞こえた。
「……普通はそうだと思う」
「だからこそわからないんだ。リリアーネは、なぜあそこまで法の手続きにこだわるんだ?」
器用に俺と喋りながらナイフを拭くステラの手が止まった。
金色の瞳が俺を値踏みするように見据えていた。
「……私も最初は変だと思ってた。ここに来た日から、あの人は変だった。領主なのに妙に法やら手続きやらを気にする。これはイリヤだけじゃない。リュシアにも同じようなことを言われていたことがあった」
普段のステラからすると饒舌に話し出す。
意外と話しかけたら喋ってくれる人物らしいと、初めて知る。
「普通、領主ってのは自分が法そのものでしょう。領主の言葉が法で、領主の裁量が正義。この国に限らず、どこも多分そんなのだと思う」
「……まあ、そうだ。親父は公正な人間だと思うけど、最終的には親父の判断が領地での法になるな」
「リリアーネは違う。自分が法であることを、怖がってる。なんといえばいいかな、人の上に法を置きたい――そんなところがある」
怖がっている。
その言葉に、俺は少し驚いた。
そして人の上に法を置きたい……? どういうことなんだろう。
「怖がる?」
「うまく言えないけど。たぶん――あれは自分を縛るための枷なんだと思う」
「枷?」
「法や手続きを守ること自体が目的なんじゃなくて、それを守ると決めておかないと、自分が楽な方に流れてしまうって。たぶんリリアーネはそれを恐れてる」
ステラの声は淡々としていた。
だがその言葉は、不思議な説得力を持っていた。
「楽な方って……例えばイリヤの暴力を黙認するとか?」
「それもある。でもたぶんもっと広い話。暴力で解決するのは楽。手続きを省くのは楽。何もかも自分の裁量一つで決めるのが楽。全部、楽。でもそっちに流れたら戻って来れない。あの人はそれを知ってるんだと思う。だから自分にきつい枷をはめてる」
ステラはナイフを再び手を動かして布で拭き始めた。
話は終わり、という雰囲気だった。
「……ステラはそれをどう思うんだ?」
「別に? あなたは私がリリアーネに仕える前のこと知っているんでしょ」
「え、まあ……」
「じゃあそんな人間が、主の判断をいちいちどうこう言うのはお門違い。法があっても人は死ぬし、法がなくても人は生きる。でも――」
ステラはそう言って立ち上がるとナイフを太股のホルダーにしまった。
あまりスカートをめくり上げて人に見せつけないでほしいところだが……
「――私を“使う”時だけはよく考えてと。それは本当にあなたがやりたいことなのか、それが正しいことなのか――それを見極めて、と。安易に私を使えばあの人は堕ちる――私はあの人が堕ちた姿は見たくない」
金色の瞳が俺を射抜いた。
その眼差しは鋭く、その奥には隠しきれない信頼と敬慕が込められていた。
「ごめんね、お待たせ。ヴェルナーとの打ち合わせが終わったわ」
何事もなかったように微笑むリリアーネに、ステラは「おかえり」と短く言った。
俺も「おかえり」と返して、手元の帳簿に視線を戻した。
俺は帳簿を見ながら、ステラの言葉を反芻した。
自分を縛る枷。楽な方に流れることへの恐れ。
なぜリリアーネがそこまで自分を律しようとするのか、まだ分からない。
でも――彼女が背負っているものの輪郭が、ほんの少しだけ見えた気がした。
次話の投稿は6/19を予定しています。
基本的に朝の七時すぎの投稿としています。
連日の応援ありがとうございます。まさかここまで読まれるとはと嬉しさと困惑の毎日です。
引き続き『初手死亡令嬢』の応援よろしくお願いします。




