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第89話 大事なのは投機屋の利益よりパン屋の棚

 八の月末。

 イリヤの予測通り、バルモア発の穀物価格高騰は王国全体に波及していた。

 毎日のようにイリヤから届く相場の報告が、記録的な上昇を示す。


 アッシュフィールド領内でも穀物の小売価格が上がり、パン屋の店先でも値上げの張り紙が目立つようになった。

 このままでは領民の生活も苦しくなる。領内限定で備蓄の一部を放出して価格を抑えるべきか――


 ただ、あとひと月もすれば収穫が始まる。

 これは実需ではなく投機だ。収穫が始まれば新穀が市場に流れ、投機で膨らんだバブルは一気に弾ける。

 問題は弾けるまでの間に何が起きるか、だ。


 投機で吊り上がった価格は、実際にパンを買う民の財布を直撃する。

 収穫による下落まで領民に我慢を強いるべきか、少しでも備蓄を回して影響を和らげるべきか。

 私が逡巡しているうちに、イリヤが執務室に入って来た。


「お嬢、そろそろ腹を括ったほうがいい」


 執務室でイリヤが煙草を燻らせながら言った。

 いつもの癖の執務室での喫煙を咎めようとしたが、今日はその気力がなかった。


「腹を括る、って?」


「領内の穀物流通を絞るんだ。穀物が外に出ないように」


「それはつまり……市場を統制するってこと?」


「ああ」


 その言葉の重さを、私は噛み締めた。

 市場への介入。商人の自由な取引に領主が手を突っ込むということ。

 それは商人たちとの信頼関係を損なう危険もあるし、やり方を間違えれば流通そのものが萎縮する。

 けれど――


「今のまま放っておいたら、領外の投機の火がグレイヴィルにまで飛び火する。うちの商人どもだってバカじゃねえ、外で高値がついてるなら領外に流したほうが儲かるって考える奴は必ず出る」


「……そうよね」


「お嬢が穀物を備蓄してる目的は何だ? 領民を飢えさせないためだろう? だったら、その備蓄が有事に効く状態を維持しなきゃ意味がない。領内の穀物が投機筋に流出したら備蓄だけじゃ足りなくなるぜ」


 イリヤの言う通りだった。

 領民を守るためには領内の穀物流通を制限する以外に道はない。

 私は深呼吸をして、決断した。


「ステラ、ヴェルナーを呼んできて。それとリュシアにも使いを出して。今日中に布告の草案を作るわ」

「ん。わかった」


 私の隣に控えていたステラが、素早く動き出す。

 もう一度深呼吸をして、私の中の迷いを吐き出した。


 ※


 その日の午後、執務室にはイリヤ、ヴェルナー、そしてリュシアの姿が揃う。

 もちろんアルフレッドも同席させている。ステラはいつも通り私の隣に控えていた。


「これから発布する食糧統制令の骨子を説明するわ」


 私は手元の草案に目を落とした。

 ヴェルナーと詰めた内容を、一つずつ読み上げていく。


「一、領内における穀物の買い占め、売り惜しみ、投機目的の大量購入を禁ずる。二、穀物の領外持ち出しは領主の許可制とする。許可なき持ち出しは密輸として取り締まる。三、穀物の小売価格に上限を設ける。上限価格はヴェルナーとイリヤで協議の上、毎週見直す。四、収穫前の穀物の先物買取契約は、領主への届出を義務とする。五、街道、港湾、倉庫の警備を強化し、違反の監視体制を敷く」


 原稿を読み上げ終えると、しばしの沈黙が落ちた。

 最初に口を開いたのはイリヤだった。


「……お嬢がここまで市場に手を突っ込むとは思わなかったぜ」


 その声には、驚きが混じっていた。


「お前さんは法やら手続きやら正当性やらにうるさい女だ。商人の自由な取引に権力で介入するのを嫌う女だとな」


「嫌よ。本当なら市場原理に任せたい。でも今は非常時よ。投機で穀物の値段が跳ね上がってる時に自由取引を守っても、守られるのは投機屋の利益だけで民の食卓は守れない」


 自分で言いながら、喉の奥に苦い味が広がった。

 こういう時私の中に染み付いた前世の価値観がちくちくと胸を刺すのだ。


 政府の市場介入なんて資本主義社会では邪道だ。

 自由経済、市場原理、規制緩和こそが経済を活発にする――自然とそういう価値観を内面化してしまっている。


 けれど“ここ”は資本主義の世の中ではないし、私は“領主”だ。

 目の前の民を飢えさせないのが最優先で、経済学の教科書で腹を満たすことはできない。


「それと、もう一つ。価格上限を設けるだけじゃ足りないわ」


「あん?」


「値段だけ抑えても棚が空っぽじゃ意味がない。上限価格で穀物が実際に買える状態を維持しなきゃ、統制令は何の意味もない」


 イリヤの耳がぴくりと動いた。

 私が何を言おうとしているか、察したのだろう。


「――備蓄を放出するのか」


「一部だけ。収穫期まであとひと月。その間の領内需要を賄える量を計算して、計画的に卸す」


 イリヤは煙草を咥えたまま、しばらく黙った。

 先日、備蓄の放出は本末転倒だと言ったのは彼自身だ。

 だがあの時と今では、前提が変わっている。

 あの時は『放出して王国全体の相場を抑える』話だった。

 今は『統制令で領内市場を隔離した上で、その中に現物を流す』話だ。


「……なるほどな。王国全体の相場を抑えるのは無理だが、領内だけなら話は別か。……まあ、筋は通ってる。ただし放出量は絞るぞ。今の備蓄を全部吐き出したら、収穫後に万が一のことが起きた時に手元に何も残らねえ」


「分かってる。放出は収穫期までの需要分だけ。それ以上は出さない。ヴェルナー、領内の世帯数と一日あたりの穀物消費量から、ひと月分の必要量を算出してちょうだい」


「かしこまりました。今晩中には数字をお出しいたします」


「それと放出の方法だけど、グレイハウンド商会の通常の卸売りルートに乗せる形でいい?」


「ああ、そのほうがいい。特別な配給所なんか作ったら、かえって領民の不安を煽る。普段通りに市場に穀物が並んでいて、普段通りの値段で買える。それが一番の安心材料だ」


 イリヤの判断に私も頷いた。

 非常時こそ、日常を維持することが大事だ。

 特に領主は常に余裕を持っていることを見せて、民の不安を和らげる必要があるのだから。


「妥当な判断だと思うわ」


 リュシアが帳簿から顔を上げて言った。


「教会としても、領内の食糧が安定して供給されることは望ましい。麦の穂の炊き出しだって穀物の安定供給あってこそよ。布告の発布にあたっては、教会からも私の権限で支持する旨の声明を出しましょう」


 さすがリュシア、この布告には私以外の権威からの後ろ盾が必要なところに気づいている。

 領主一人が市場に介入すれば商人たちの反発を招くが、教区教会としても安定した食糧供給の市場統制は望ましいという形のお墨付きを出せば、領民全体からの受け止めも違うものになるだろう。


「ありがとう、リュシア。教会の後ろ盾があると助かるわ」


「ただし、価格統制も備蓄放出も、あくまで一時的な措置にすべきね。長期化すると商人が離れるわ。あくまで非常時の臨時措置であること、収穫期が過ぎて相場が安定したら撤廃することを明記したほうがいい」


 リュシアの指摘は鋭かった。

 統制が常態化すれば、商人たちは規制の緩い他の領地に流れてしまう。

 あくまで今この瞬間を乗り切るための措置であって、恒久的な制度にしてはならない。


「その通りね。布告には期限を明記する。収穫期後の相場安定を確認した時点で撤廃、と」


「お嬢様、仔細は私の方で詰めさせていただきます。布告の文面、各所への通達、違反時の罰則規定。明日の朝までにはお嬢様のお手元にお届けいたしましょう」


「ヴェルナー、いつも負担をかけてごめんなさい」


「とんでもございません。これが私の務めでございますから」


 穏やかに微笑むヴェルナーに頭が下がる思いだった。

 私が決めたことを形にしてしてくる実務家がいてこそ、私が領主であり続けるのだから。


「で、取り締まりの実行部隊はどうする? 灰狼と鉄の牙を動かすか?」


「ええ、街道と港の警備強化には灰狼と鉄の牙を使うわ。レオニスとハーラルに指示を出す。でも市場の監視と卸売の管理は――」


「うちのグレイハウンド商会の仕事だな」


「お願いするわ。ただし――」


 私はイリヤの目をまっすぐに見た。


「やりすぎないで。あなたの力で商人を脅すのは構わない。でも暴力はできるだけ控えて。あくまで法に基づいた取り締まりよ」


「はいはい、分かってるよお嬢」


 イリヤは肩をすくめたが、その返事がどこまで本気かは怪しかった。

次話の投稿は6/17を予定しています。


たくさん読んでいただきありがとうございます。お気に入り登録や評価、とても励みになっています。

引き続きこの物語の応援よろしくお願いします。

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