第88話 点と点を繋げ星座を作る者
バルモア領都ゴルトフェルトはエーデルガルド王国西端に位置する穀倉地帯の中心都市である。
肥沃な土壌に豊かな水資源、それらがもたらす莫大な食糧生産力を持つこの地は、古くから王国にとって重要な地域であった。
穀物集積地であるこの領地には大小さまざまな穀物商が軒を連ねており、それらが生み出す経済力もまた王国の基盤を支えている。
ゆえにその統治者であるバルモア公爵家は四大公爵筆頭とされ、代々その権勢を誇ってきた。
マルタン・ベルニエは、その中でも五指に入る商家の当主だった。
五十を過ぎた今も精力的に商いの第一線に立ち、穀物相場の動きを読むことにかけては誰にも負けないという自負がある。
先祖代々の堅実な商いで築いた資産を、マルタンの代で大胆な投資でさらに大きくした。
若い頃は無謀な賭けだと周囲に言われ続けたが、結果が全てを黙らせた。
勝負所で張れる人間だけが、次の階段を登れる。マルタンはそう信じていた。
七の月の末。
マルタンは自宅の書斎で、取引先から届いた帳簿の写しに目を通していた。
作柄報告――各地から上がってきた収穫予想の数字。
あと一ヶ月少しすれば収穫期を迎える麦の生育状況、天候の状況、それらから算出されたもの。
去年は豊作だった。豊作すぎてむしろ値崩れを起こした。
だが、今年の報告には、微妙な翳りが見え始めている。
凶作ではない。
だが例年に比べて一割から二割ほど実入りが落ちるだろうという見通し。
普通の年なら、秋の収穫期に向けて穀物の価格が少し上がる程度の話だ。
大騒ぎするほどのことではない。――はずだった。
「なんだこの買い付けは……?」
マルタンの目が、帳簿に記された数行で止まった。
彼が長年取引をしているグランファーレン国境沿いの穀物仲買人から、ここ数ヶ月の取引記録が届いていた。
その中に、見慣れない買い主の名前があった。
――アッシュフィールド。
王国の東端。バルモア領から見れば王都を挟んで反対側、ヴァリャーグと国境を接する田舎。
かつて王国がヴァリャーグ帝国から独立した間もない頃は仮想敵に対する備えとして重要視されたが、帝国が東方の遊牧民の流入で疲弊し、西方の仮想敵にまで目を光らせる余裕を無くして以降は次第に戦略価値を失っていった。
――そんな東の辺境の伯爵が、なぜわざわざ西の国境沿いの仲買人から穀物を買っている?
近場で調達すれば輸送費は何分の一かで済むし、輸送費の分だけ穀物に上乗せするなら、近場の農家から直に買ったほうがいい。
遠方からの買い付けには経済的な合理性がない。
合理性がないのにやっている――つまり、近場では買えない理由があるか、あるいは近場で目立ちたくない理由がある。
(匂うな……)
マルタンの商人の勘が、この一連の不自然な取引の向こうに、きな臭いものを嗅ぎ付けていた。
翌日から、マルタンは他の取引先にも当たってみた。
グランファーレン以外にもノルドヘイムとの交易を扱う北方の仲買人にバルモア近郊の小領主たち。
一つ一つは微々たる量だった。どれも市場に影響を及ぼすほどではない。
だが点と点を繋いでいくと、線となる。線は星座のように必ず何かの意思を浮かび上がらせる。
アッシュフィールド伯爵が、年明けから半年以上にわたって王国中に分散した買い注文を出し続けている。
一度の量は小さい。地域もばらばら。相場への影響が出ないよう、明らかに意図的に分散されている。
これは偶然の買い物ではない。
計画的な備蓄だ。
アッシュフィールド伯爵。
名は確か、リリアーネ。東方系の獣人の血を引く娘で、先代の急逝後に若くして爵位を継いだ女伯爵。
少し前に王都に招かれ、正式に伯爵位を授けられたという話は商人の間でもちらほら耳にしていた。
辺境の伯爵家。白狼の血を引いた目立つ容姿をしているという噂程度で、マルタンは商人としてはさして関心を持つ相手ではなかった。
だが――この買い方は、素人のそれではない。
相場に影響を出さぬよう、時期と地域を慎重に分散させている。
仕入れ先も一箇所に集中していない。
これだけの買い付けを半年以上続けていて、マルタンが今日まで気づかなかった。
つまり――この買い付けを仕切っている人間は、市場の目を欺く術を心得ている。
(伯爵本人か、あるいは相当に腕の立つ商人が裏にいるか――)
どちらにせよ、重要なのは動機だ。
なぜ、この田舎伯爵はこれだけの穀物を集めている?
マルタンの頭に浮かんだ答えは、一つだった。
(……穀物の値が上がると踏んでいるな)
リリアーネ・アッシュフィールドは何らかの根拠を持って、それを信じるに足りると確信し、こうして買いを続けている。
その理由は豪商たるマルタンなら一目瞭然だった。
商人にとって穀物は食糧である前に商品だ。
大量に買い集めているなら、それは値上がりを見越した先物買い。
つまり、アッシュフィールド伯爵は何らかの情報を掴んでいる。
今年の穀物が高騰する――その確信を持っている。
(この女伯爵が掴んだ情報が何かは知らん。だが、半年がかりで仕込むほどの確信があるということは――相当な根拠があるはずだ)
マルタンの胸の中で、熱い何かが湧き上がった。
恐怖ではない。興奮だ。
かつて先代から引き継いだ資産を叩いて、大胆な投資に踏み切った時と同じ熱。
あの時も周囲は無謀だと言った。だが張った者だけが勝った。
商売の勝負所が、今、目の前にある。乗るしかないこの大波に――!
(ここを獲れるかどうかだ。怯む者は永遠に二流のままだ)
マルタンは帳簿を閉じ、立ち上がった。
翌日から、マルタンは動き始めた。
まずは近郊の農村を回り、収穫前の穀物に対して前金を払い優先買取契約を結んだ。
収穫前契約は珍しいことではない。農家にとっては収穫前に現金が入るため歓迎されることが多い。
特に去年は豊作だったゆえに利益が低かった農家には、マルタンの相場より色を付けた申し出は魅力的だった。
同時に、バルモア領内の空き倉庫を押さえにかかった。
穀物は現物商品だ。買い集めたものは物理的に保管しなければならない。
倉庫の確保は、投機の成否を分ける生命線である。
この段階では、まだ商人として合理的な範囲の行動だった。
今年は微妙に不作気味で、秋には穀物価格が上がる可能性がある。
であれば、今のうちに仕入れておくのは賢明な判断だ。
だがマルタンは、そこで止まらなかった。
手持ちの資産だけでは飽き足らず、商人仲間から資金を借り入れ始めた。
さらに、バルモア領外――隣接する領地の穀物にも手を伸ばした。
(辺境の小娘が半年かけて仕込んだ勝負に、俺は数週間で追いつく。いや、追い越す)
マルタンの内なる声が囁いていた。
成功体験が彼の背中を押している。
かつて周囲が臆病風に吹かれて動けない中、自分だけが張った。
その結果が今の自分を作った。
今回も同じだ。張れる人間だけが、次の階段を登れるのだ。
マルタンの動きは、当然ながら周囲の目に留まることになる。
『バルモア領のベルニエ商会が倉庫を押さえているらしい』
この噂が、商人たちの間を駆け巡った。
バルモアは王国最大の穀物生産地だ。ここで有力商人が動けば、それだけで市場全体にシグナルを送ることになる。
「今年の実入りはやはり悪いのか?」
「ベルニエが動くなら、何かあるんじゃないか?」
「聞いた話だが、東のアッシュフィールド伯爵が年明けからずっと穀物を買い集めているらしい」
「あの田舎伯爵が? いったい何のために」
「さあな。だがベルニエはそれを見て動いたんだろう」
噂が噂を呼んだ。
実際の不作の影響は微々たるもので。本来なら穏やかな価格上昇で済むはずの状況が、投機心理によって歪み始めていた。
一人が買えば、隣の商人が動く。隣の商人が買えば、その向こうの商人も動く。
価格が上がれば「やはり上がるのだ」という確信が強まり、さらに買いが入る。
穀物が、食糧ではなく投機対象に変わる。それが市場に与える歪みは計り知れない。
八の月中旬。
バルモアの穀物相場は、先月と比べてすでに三割以上も上昇していた。
まだ収穫期にも入っていない段階での、異常な値動きだった。
マルタンは書斎で帳簿を前に、満足げに顎を撫でた。
計算通りだ。いや、計算以上だ。
だが、このまま秋の収穫期になれば新穀が出回り相場は急降下するだろう。
当然、売り抜ける必要がある。
しかし、ここで暴落を恐れて早めの利確をするのは二流。
一流は相場が上昇する限り、大波に乗り続ける。
(見ていろ。ベルニエ商会の名は、今年中にバルモアどころか王国中に轟く)
彼の視線の先には、帳簿に記された数字だけがあった。
その数字の向こうにある、パンを買えなくなる民の顔は見えていなかった。
※
八の月中旬。私――リリアーネは執務室で書類に追われていた。
来月の収穫に向けて、領内の各農村から生育状況報告が上がってきている。
やはり今年は例年のよりやや少ない収穫量になりそうだ。
不作というほどではなさそうだが、去年より穀物価格の上昇は確実だろう。
「お嬢、ノックもせずに悪ぃ、ちょっとまずいことになってる」
イリヤが珍しく煙草を咥えないまま、執務室に入ってきた。
バタバタと足音を立て、扉を乱暴に開け放つ姿にステラは尻尾を逆立てて身構え、アルフレッドも何事かとペンの動きを止めてイリヤを見上げた。
「バルモアで穀物相場が跳ね上がってる。先月から三割。しかもまだ止まる気配がねえ」
焦りを含んだイリヤの声に、私の書類にサインをする手が止まった。
「ちょっと待って、どういうことなのそれ……!」
「投機だ。バルモアの有力商人が買い占めを始めたのをきっかけに、周りの商人も追従して穀物を買い漁ってる。こんなもん商いじゃねえ、誰が最後まで掴んでいられるか、誰が一番高く売り抜けるかの賭場だ」
私は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
きっかけは私か――? 私の買付けに毒電波を受けた馬鹿が出てしまったのか――
「バルモアの穀物相場が王国全体に波及するまで、どのくらいかかる?」
「もうグレイヴィルの市場でも上がり始めてる。月末には王国中の相場が暴騰するぞ……!」
「……うちの備蓄は」
「八割方埋まってる。いまの消費量なら領内の半年の需要は賄える。だが――」
「だが?」
「周辺の領地で穀物が不足し始めたら、商人たちが領外に流し始める。あるいは盗みに入られるかもしれねえ。備蓄があることはいずれ知られる。持っていること自体が危険になりかねない」
イリヤの指摘は的確だった。
周囲が不足する中で自分だけが備蓄を持っているというのは別種のリスクを生みかねない。
「追加の買い付けはどうする?」
「やめたほうがいい。お嬢の買付けは投機筋で既に広く知られた。うちが買いに出れば投機筋にさらなる燃料をぶち撒けるだけだ」
「逆に備蓄の放出して価格の安定を図るのは?」
「それこそ本末転倒だ。なんのためにこれまで備蓄していたかの意味がなくなるし、うちの放出程度で暴騰した相場を抑えられるわけがない」
動けない。あるいは何をしても事態を悪化させる。
イリヤはそう言いたいのだろう。
「今俺たちに出来るのは、状況を見守ることと、最悪の事態に備えることだけだ」
私は静かに頷いた、
相場は投機筋によって歪められた。
でも今こちらが強く動けば、さらに投機を呼び込みかねない。
だから息を潜めて監視し、暴騰がはっきり形になった時に動く準備をするしかない。
そしてこの嵐が一過性で終わればいい。それを願うしかない。
もし終わらなければ――形を変えて原作通りに“飢饉”がやって来る――
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