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第87話 アルフレッドの社会見学(後編)

 港を後にして、馬車は街の別の場所へ向かった。

 石畳の道がいつしか土の道になり、建物の質が目に見えて落ちていく。

 壁のひび割れた家屋、洗濯物がぶら下がった路地、道端に座り込む老人。

 ――貧民街だった。


「ここがグレイヴィルのもう一つの顔だ」


 イリヤが馬車を止めた。


「港は街の心臓、ここは街の影だ。どんな街にもある。目を逸らしたくなる場所だがな」


 馬車を降りると、空気が違った。

 潮風の代わりに、生活の匂いが立ちこめている。すえた汗と、煮炊きの煙と、汚水の臭い。

 ブラックウォールの領地でも同じような場所はあった。街を歩いているとこういう場所に行き当たる。

 親父も領主として何とかしようとしているが、根本的な解決にはなっていない。

 ここも、きっとそうなのだろう。


 俺の姿は明らかに浮いていた。

 場違いな身なりの良い服。

 公爵家の令息がこんな所に何の用だと言いたげな視線が四方から刺さる。

 だけど、イリヤが隣にいるおかげで、それ以上のものにはならなかった。


 この男がこの街で持っている影響力の大きさを、肌で感じた。

 貧民街の広場に出ると、そこには行列ができていた。

 粗末な鍋から湯気が立ち上り、並んだ人々に粥が配られている。

 炊き出しだった。


 その列の中心に、一人の青年司祭がいた。

 粗末な修道服。線が細く温厚そうな垂れ目。純朴そのものの笑顔。

 住民たちと一人ひとり言葉を交わしながら、丁寧に粥をよそっている。


「あれがカルロス・アセンシオ。慈善団体『麦の穂』の代表だ。って坊主はお嬢と一緒に会ったことあるんだってな」


 俺は頷いた。

 穏やかで線が細く、どこか幸薄そうな――失礼だが、未亡人のような雰囲気を漂わせた青年司祭。

 だが住民たちが彼に向ける目は、親しみと信頼に満ちていた。

 伯爵の名前より、この青年の名前のほうがここでは重みを持っている――そう感じさせる。


「ようカルロス」


「イリヤさん。おはようございます。おや、そちらの方は確か――」


「先日ぶりですカルロスさん。アルフレッドです。しかし……改めて活動を見るとすごいですね。これだけの人に毎日炊き出しを行えるなんて」


「ええ、これも私たちの活動を伯爵様を始め支援してくださっている方々のおかげです」


 カルロスは謙虚に微笑んだ。

 物資は有限で、善意だけでは腹は膨れない。

 彼はそれを身をもって知っているのだ。


 炊き出しを手伝わせてもらった。

 俺が粥をよそうと、受け取る住民たちは不思議そうな顔をした。

 だが「カルロス様のお知り合い」と分かると、すぐに態度が和らいだ。

 ここではカルロスの名前が通行証なのだ。


 ひとしきり配り終えた頃、一人の壮年の男が近づいてきた。

 日に焼けた顔の労働者風の男は、カルロスに深々と頭を下げた。


「カルロス様、いつもありがとうございやす。あっしらはカルロス様のおかげで生きていけてます」


「そんな、頭を上げてください。私は大したことはしていません」


「いんや、本当にありがてえんです。カルロス様が言ってくださるなら、あっしらは何だってしますよ」


 男は目に涙を浮かべてそう言った。

 純粋な感謝だった。打算も裏もない、素朴な民の声。

 カルロスは困ったように微笑んだ。


「ありがとうございます。でもどうか、そんなことはおっしゃらないで。皆さんが毎日を穏やかに過ごせること、それだけが私の願いですから」


 カルロスは権力も武力も持たないが、人の心を動かす力がある。

 俺がどんなに鍛錬を積んでも手に入れられない、別の強さだった。


 ※


 貧民街を後にして、イリヤは黙って馬車を走らせた。

 しばらく無言が続いた後、イリヤが口を開いた。


「……さっきの男の言葉、覚えてるか」


「カルロスさんに感謝してた人ですか?」


「ああ。『カルロス様が言ってくださるなら、何だってする』――あれをどう思った?」


「素朴な感謝の言葉だと思いましたけど」


「そうだな。あの男に悪意はない。だがなアルフレッド、善意から出た言葉が、一番怖いんだよ。『何だってする』ってのはな、裏を返せば『カルロスが号令をかければ、何百人もが一斉に動く』ってことだ。カルロス本人にその気がなくてもな」


「……」


「カルロスは善人だ。それは間違いない。だが善人が善意で集めた人間を、悪意ある誰かが利用しようとしたらどうなる?」


 俺は言葉を失った。

 さっきの光景が、急に違う色を帯びて見えた。

 あの男の涙も、カルロスの微笑みも、変わらない。

 だがそれを悪意で塗り替えたら――


「実際、数ヶ月前にあったんだ。外から来た連中がカルロスを慕う人間に取り入って、麦の穂を反乱組織に作り変えようとした。カルロスの知らないところでな。お嬢が監視を強化しなきゃ、今頃グレイヴィルは火の海だったかもしれねえ」


 背中を悪寒が走った。

 慕われる者が知らぬ間に反乱の旗頭に仕立て上げられる。

 平和な貧民街が、一瞬で反乱の牙城になる。

 そんなことがありえるんだと、俺は想像すらしていなかった。


 ※


 最後に訪れたのは、グレイヴィルの教会だった。

 領都の教区教会は、エルベ修道院とは違った佇まいの建物だった。

 すでに一般開放の時間は終わったようで、礼拝堂には誰もおらず、静かだった。

 そんな礼拝堂の片隅の長椅子に一人の女性が帳簿を広げていた。


 金色の長髪、翠の瞳。修道服ではなく司教の白い正装。

 リュシア・バルディーニ。アッシュフィールド教区担当の司教にして――聖銃騎士。


「あら、アルフレッドくん。イリヤと一緒とは珍しい組み合わせね」


「あ、その。この度は姉上がお世話になりました」


「お気になさらず。エセルは向こうで肩の力を抜いて暮らせているわ」


 バルディーニ司教は優雅に微笑んだ。

 姉上に勝るとも劣らない美貌の女性。まさに宗教画から抜け出した聖女のような佇まいだった。

 でもこの人リリアーネとは互いにタメ口で話してるんだよな……


「それにしても司教さんよお、そんなところで帳簿広げて何やってんだ?」


「気分転換よ。執務室に篭ってばかりじゃ、気が滅入るわ。この広々とした礼拝堂のほうが落ち着くの」


「全然いいけどよ……まあ、いいが――何の帳簿なんだ?」


「麦の穂の月次報告。カルロスは真面目に出してくれるけど、確認は怠れないわ」


 リュシアの手元には、びっしりと数字が並んだ帳簿があった。

 寄付金の収支、食料の入出庫、活動日誌。

 善意の団体の活動が、こんなにも細かく記録されている。


「あの……一つ聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「慈善団体にも、帳簿が必要なんですか」


「私は善意を疑っているわけではないの。善意に集まる人間を疑っているのよ」


 さっきイリヤから聞いた話が、頭の中で繋がった。


「カルロス本人は間違いなく善人よ。同じ女神に仕える者として羨ましいぐらい真っすぐで誠実。でも善人の周りには、その善意を利用したい人間が寄ってくる。寄付金の流れを追えば、外部から不自然な資金が入っていないか分かる。活動日誌を精査すれば、カルロスの知らない集会が開かれていないか分かる。帳簿はカルロスを守るための盾でもあるの」


「守るため……」


「ええ。数ヶ月前、ヴァリャーグの工作員がカルロスを慕う人たちに接触して、麦の穂を反乱組織に作り変えようとしたの。カルロスの善意につけ込んで、彼を知らぬ間に反乱の旗印に仕立て上げようとした。帳簿と監視の体制があったから早い段階で食い止められたけれど」


 イリヤが語った話の詳細だ。

 まさか隣国がそんなことを企てていたとは――


 ヴァリャーグ連邦共和国。

 かつては帝政として隣国にあったが、俺が物心つくかつかないころに革命が起きて帝国は滅んだ。

 今では王ではなく民が国を動かしている国だと聞いていた。

 そんな国でも、裏でこのような工作をしているのか。


「武力で攻める前に、反乱を煽って内部から崩す――そんな戦のやり方があるんですね……」


「飲み込みが早いわね。リリアーネが預かっただけのことはある」


「いえ、俺なんてまだ……」


「謙遜しなくていいわ。その若さでそれだけ物事が見えてるなら、大したもの」


 バルディーニ司教は帳簿に視線を戻しながら、最後にこう言った。


「政治は綺麗事だけでは回らない。けれど、綺麗事を捨てた政治も長くはもたない。リリアーネはその両方を分かっている。でもあの娘は根本的なところでお人好しで、人の善意を信じようとする。だから私やイリヤのような悪人が必要なの」


 司教様が悪人――?

 思わず聞きそうになったが、やめた。


 ※


 帰り道、イリヤの馬車に揺られながら、俺は黙って街を眺めていた。

 グレイヴィルの街並みが夕日に染まっている。

 朝見た時と同じ街のはずなのに、違って見えた。

 港の荷、倉庫の帳簿、貧民街の粥、教会の監査。

 全部、リリアーネが積み上げてきたものだ。


 剣を振るのではなく、帳簿と交渉と人の繋がりで、一つずつ。

 リリアーネとは二歳しか違わない。

 なのに、彼女はすでに領主として、この街の全てに責任を負っている。


 リリアーネが背負っているものの重さに、言葉が出なかった。

 尊敬、というのとも少し違う。

 憧れ、に近いのかもしれない。

 あるいは――自分もそこに並びたいという、焦りにも似た感情。


 屋敷に戻った時、リリアーネは執務室で書類に埋もれていた。

 ステラが淹れた紅茶を片手に、何かの報告書を読んでいる。

 俺の姿を見て、紅い瞳がこちらを向いた。


「おかえり。どうだった?」


「……色々、考えさせられた」


「そう。ゆっくり考えればいいわ」


 リリアーネはそれだけ言って、また書類に目を落とした。

 俺の中で咀嚼しろ、という無言の信頼。

 その距離感が、この人の優しさなのだと思った。


 自室に戻った俺は、机の引き出しから帳簿を取り出した。

 リリアーネの執務を手伝っている時に使っているもので、アッシュフィールド領の基本的な収支が記録されている。

 今までは数字の羅列でしかなかったそれらが、今は違って見えていた。

 

 この数字のひとつひとつ向こうに、人の顔が見える。

 港で荷を運ぶ若い衆の顔。粥を受け取る老人の顔。カルロスの穏やかな笑顔。


 俺は蝋燭の灯りの下で、帳簿に目を通す。

 今日学んだことを一つずつ、自分の中に刻み込むように。

次話の投稿は6/11を予定しています。

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