第86話 アルフレッドの社会見学(前編)
月日が経つのは早いもので、俺――アルフレッド・テルス・ブラックウォールがアッシュフィールド領の客分として滞在するようになってから一ヶ月が過ぎた。
姉上が婚約破棄を言い渡されたあの晩餐会後、ブラックウォール家は社交界ではそれはもう腫れ物を触るような扱いだった。
家の中もみんな平静を装っていたが、みんなぴりぴりした雰囲気だったことを今でもよく覚えている。
そんな空気の中で、俺はどこか居場所がなかった。
居心地が悪い、といってもいい。
あの日感情に任せて陛下に詰め寄った俺は親父と兄貴に取り押さえられ、会場から引きずり出された。
でも――帰りの馬車の中で親父も兄貴も俺をそれ以上咎めたりはしなかった。
それが二人の立場の辛さを思い知らされたような気持ちで……だからこそ、尚更俺は居心地が悪かった。
激しく叱ってくれでもしたら、まだ楽な気持ちでいられたかもしれないのに。
次の日、家族は何事も無かったように振る舞っていた。
あの出来事を忘れたいがために、みんな無理してるのが痛いくらい分かった。
みんな仕事に打ち込むことであの晩餐会を忘れたかったんだと思う。
でも俺はまだ十五の子供で、やることも何もない。
ただ毎日の稽古で剣を打つか、書庫で読書をすることしかできない。
それが悔しくて仕方なかった。家族のために何の役にも立てない自分が本当に情けなかった。
そんな時に姉上が修道院に入ると決めた。
親父も兄貴も止めたが、姉上の心はもう固まっていた。
だから、俺は姉上の護衛を買って出た。
俺にできることはそれくらいしかなかったし、家に残って親父と兄貴の痛々しい姿をこれ以上見ていられなかったんだと思う。
そして、姉上の出家先がアッシュフィールド領と聞いて、あの銀髪の女伯爵を思い出した。
俺と二歳しか違わないのに、爵位を持ち、領地を運営し、いち領主として振る舞っている彼女。
姉上が気を許し、親父が妙に気に入っていた彼女についていけば何か変わるのでは、と思ったのかもしれない。
俺は親父にその旨を願い出たが――思いのほか、簡単に許してくれた。
親父は彼女を気に入っていたし、どうも俺を彼女の婿候補として画策していたので渡りに船だったのかもしれない。
彼女――リリアーネを異性として意識しているかは正直わからない。
ただ、俺と近い歳にもかかわらず、社会に役割を持った人間である彼女に憧れと尊敬の念があったことは確かだ。
そうして俺は姉上をエルベ修道院に送り届けた後、アッシュフィールド家に厄介になっていた。
※
「アルフレッド、今日はイリヤと一緒に領都を回ってきなさい」
朝食を終えた俺に、リリアーネが言った。
「領都を? 今日はリリアーネの仕事の手伝いをしなくていいのか?」
「ええ、執務室での実務も大事だけど、街の様子を見て回るのも領主として大事な仕事よ。書類だけじゃ見えないことも多いからね」
リリアーネの紅い瞳がまっすぐにこちらを見ている。
銀灰色の髪と狼の耳に黒いドレス。ぞっとするほど冷たい美貌なのに、口を開けば親しみさのほうが勝るのが不思議な人だ。
彼女が何を思って俺にそう言ったのかはわからないが、自分の目で見て自分の頭で考えろ、ということか。
「……わかった。行ってくる」
「イリヤが屋敷の前で待ってるわ」
屋敷の正門を出ると、見慣れた灰色の狼頭の男が荷馬車の御者台に座って煙草を燻らせていた。
イリヤ・ヴォルージン――リリアーネの腹心の一人で、領都グレイヴィルの港を仕切っている顔役。
この手の筋者はブラックウォール領にもいるが、親父とは付かず離れずの距離を取っている。
「よう、アルフレッド。乗りな」
「おはようございます、イリヤさん」
「さん付けはもうやめろ。こそばゆい。イリヤでいい」
「じゃあ……イリヤ」
「よし。まあ堅っ苦しいのは抜きでいこうぜ。今日は観光案内だ」
観光案内、と言いながらイリヤの灰色の瞳はまるで笑っていなかった。
こちらを値踏みする商人の目。
何を見せて、何を考えさせるか。この男もまた、リリアーネと同じ意図を持って俺を連れ出しているのだろう。
馬車が走り出す。
グレイヴィルの街並みが流れていく。朝の光に照らされた石畳の通り、開き始めた商店の軒先。
決して大きな街ではないが、活気があっていい街だ。
最初に向かったのは、港だった。
グレイヴィルは北西側を海に面した領都で、港がこの街の心臓だとイリヤは言った。
「うちの商会――グレイハウンド商会が、この港湾の管理をお嬢から委託されてる。関税業務、通行証の発行、荷の検分。全部うちの仕事だ」
港に着くと、そこは想像以上に忙しなく賑わっていた。
沢山の船が碇泊しており、船員が港に揚げた荷を検分していた。
荷馬車が行き交い、若い衆が声を張り上げながら樽や木箱を運んでいる。
帳簿を手にした商会の者が船長と書類のやり取りをしている光景は、商売というより行政事務に近い。
「……商会が関税業務まで?」
「ああ。普通は領主が直接やるか、役人に任せるところだ。だがお嬢はうちに委託した。理由は分かるか?」
「人手が足りないから?」
「まあそれもあるだろうな。だがそれ以上に――俺たちのようなやくざ者を管理下に置きたい――しっかり首輪を付けたい、ということだ」
「……そのためだけにここまでの権益をグレイハウンド商会に差し出したと?」
「ああ、そうだ。おかげでみんな真っ当な商売をせざるを得なくなった。お嬢は言ったよ、『不正はやるなとは言わない。やるなら完璧に帳簿を偽装しろ』ってな。下手なちょろまかしでお嬢のメンツを潰したらこれだとよ」
そう言ってイリヤは自分の首を横に払う仕草をした。
「だからこそ、みな必死に帳簿を綺麗にする。俺の商会が何を動かしたか、帳簿上では全部筒抜けだ。お嬢はその帳簿を精査することで俺の首根っこを掴んでいる」
莫大な権益を渡すことで、商会の指導者をしっかり手中に納める。
互いに首輪をかけ合った共犯関係。
だがそれが結果として健全に機能している。
ブラックウォール家では見たことのない統治の形だった。
倉庫に入ると、天井まで積み上げられた穀物の袋が目に入った。
麦、豆、乾燥肉に保存食の山だ。
「これは?」
「備蓄だ。お嬢が年明けからコツコツ買い集めてきた」
「こんなに? 今は別に不作でもないのに」
「ああ。今はな」
イリヤの声が、少しだけ低くなった。
「いいか、アルフレッド。相場ってのは面白いもんでな、豊作の時は誰も穀物を買い溜めしようとしない。だから安い。安い時に買って、高くなった時に売る――商売の基本だ。だがお嬢がやってるのは売るための買い集めじゃない」
「じゃあ何のために?」
「備えだ。何が起きても領民を飢えさせないための」
俺は倉庫の穀物の山を見上げた。
これだけの量を、相場に影響を出さないように少しずつ買い集める。
そうまでして彼女は何を備えようとしているのだろう。
「飢饉が起こるとでも?」
「さあな。それか――戦が始まるかもしれない。その火種は王都に撒かれたばかりだろう? あの王さんがお前の姉貴を修道院に追いやったんだからな」
俺はごくりと唾を呑み込んだ。
リリアーネも同じようなことを言っていた。
もうすでに各地の有力者たちはそれを見越して静かに動いてもおかしくないと。
リリアーネの場合は食糧の備蓄というわけか。
「何にせよ、お嬢は驚くほど先を読む。この備蓄が俺たちの命綱になる日が来るかもしれないな」
「……俺はそんな日が来てほしくないけど」
「そうだな。無駄な備蓄で終わればいいんだがよ」
イリヤは肩をすくめた。
彼の言葉の端々に、リリアーネへの信頼が滲んでいるように見える。
何だかんだ言って損得だけの関係ではないんだろうなって。




