第85話 うちのメイドは元暗殺者、うちの執事は元伝説の傭兵疑惑?
ハーラルの指導のもと、アルフレッドが側面から回り込む動きを反復している間、私はステラの横に腰を下ろして見学していた。
ステラは私の横で黙ってアルフレッドの稽古を眺めている。
いつものように感情の読めない金色の瞳。
だがその視線の先は、アルフレッドではなくハーラルを追っていた。
アルフレッドの打ち込みを受け止める時の体捌き、重心の位置、力の受け流し方。
無意識にか、ステラの指先がかすかに動いている。自分の中で動きをなぞっているのだ。
「……ステラ、あの人の動き気になってる?」
「べつに」
「嘘。目がずっとハーラルを追ってる」
「……観察してるだけ」
へえ、私を差し置いて他人の動きを観察するなんてね。
前にハーラルの手合わせの願いを一度断っているステラだったけど、ハーラルの動きを見たことで同じ戦闘のプロとしての性を刺激されているみたいだ。
稽古が一段落し、アルフレッドが水場で息を整えている頃合いだった。
ハーラルが木剣を片手にぶらりとこちらに歩いてきた。
虎の獣の目がステラを捉える。
「――どうだ。今日は逃げるか?」
挑発、というほど棘はない。だが明らかに試している声音だった。
以前修道院で手合わせを断られたことをしっかり覚えているようだった。
ステラは一瞬黙った。
それから、ちらりと訓練場の木剣の架台を見た。
「……意味ある? 体格差は縮まらないけど」
「意味があるかどうかはやってみなけりゃわからん。それに――お前の動きがどの程度のものか、俺もきちんと見てみたい」
「…………」
ステラの狼の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
迷っている。合理的な判断では断るべきだと分かっているような視線。
だが――その目の奥にあるのは、きっと戦闘者としての純粋な好奇心だ。
「ステラ、やってみたら?」
私が軽く背中を押すと、ステラはちょっとだけ唇を尖らせた。
「剣術なんて子供のころにお稽古としてやったくらいなのに……」
ぼやきながらも、ステラは架台にかけられた木剣を手に取った。
少しぎこちない握り方、ナイフと違って剣だと手応えが違うのだろう。
だが木剣を手にした瞬間、ステラの纏う空気が変わった。
レオニスが「おっ」と身を乗り出す。
水を飲んでいたアルフレッドも手を止めて振り返った。
ハーラルが木剣を構える。正眼。どっしりと腰を落とした、隙のない構え。
対するステラは――構えない。
木剣を体の横にだらりと下げたまま、脱力した姿勢で立っている。
構えがない。読みようがない。
「――始め!」
私が開始の号令を出した瞬間、ステラが消えた。
いや、消えたように見えただけだ。
低い姿勢から一気に間合いを詰めたステラの動きが速すぎて、私の目が追いつかなかったのだ。
剣が右から来ると見せかけて、足の軌道が途中で変わる。
体軸がぶれないまま、打ち込みの角度が二度、三度と変則的に切り替わる。
フェイントじゃない。
これはステラがハーラルの反応にリアルタイムに反応して、その都度軌道を修正しながら踏み込み続けているのだ。
ハーラルの耳がぴくりと動いた。
だが――虎頭の偉丈夫は動かなかった。
ステラの変幻自在な動きに、一切付き合わない。
惑わされない。目で追わない。体を振らない。
ただ、じっと待っている。
ステラの剣が最終的な軌道に入った瞬間――その一瞬だけ、ハーラルの剣が動いた。
がんっ、と硬い音が訓練場に響いた。
打ち込みの瞬間だけを狙った、最小限の動き。
どれだけ変則的に動こうが、当てに来る瞬間だけは直線になる。
ハーラルはそこだけに意識を絞っていた。
受け止められたステラが体勢を立て直そうとしたが――遅い。
ハーラルがそのまま押し込む。
その圧倒的なフィジカルによる体重の乗せ方に、ステラの小柄な体は明らかに耐えきれていない。
がくっと腕が折れるように崩れ、ステラの体が後方に弾き飛ばされた。
二歩、三歩と後退して、ようやく止まる。
木剣は辛うじて手の中に残っていた。だが腕が微かに震えている。
「……ったぁ」
小さく呻いて、ステラは手首を振った。
痺れが残っているのだろう。
「もう一度やるか?」
ハーラルが問うた。
ステラは首を横に振った。
「やらない。同じ結果になる。正面からは無理」
即答だった。
冷静な判断――だが、その声にはほんの僅かに悔しさが滲んでいた。
暗殺者として培われた戦闘能力と、傭兵として鍛え上げた戦闘能力にはそれぞれの違いがあるのだろう。
奇襲ならば勝算はあっただろうが、正々堂々と向かい合ってはステラには分が悪すぎるということだ。
ハーラルは木剣を下ろし、腕を組んだ。
「稀にいるんだ。こういう本物が」
それはアルフレッドに向けた言葉だった。
「さっきのを見ていたか、坊主。あの動き、剣術の型は一つも入っていない。だがこの女は体そのものが最適な答えを弾き出す。俺がかろうじて受けられたのは打ち込みの瞬間を待ったからだ。待ちに徹していなかったら、俺は何発か貰っていただろうな」
「……はい。正直、目で追うのがやっとでした」
アルフレッドが青い顔で頷いている。
さもありなん。今のを間近で見たら、自分の鍛錬は何だったんだと思うかもしれない。
「だからこそ言っておく。この女の真似だけはするな。死にたくなかったらな」
「……はい。なんと言うか、次元が違いすぎて真似しようとも思えません」
ハーラルの忠告にアルフレッドが生真面目に頷いた。
まあそうだよね。ステラの動きは赤い眼での壮絶な訓練の賜物であって、剣術として学べるものじゃない。
「……リュシアには戦わず降参したくせに」
あっ、負けたのよっぽど悔しかったのね、ステラさん。
「バカ言え、あれに正面からぶつかって勝てるわけがないだろうが。それを言うなら俺よりはお前のほうがあの女に分があるだろう?」
「たぶん……最初の一撃で首を落として即死できたら私の勝ち。できなかったらこっちが即死」
戦闘のプロ同士すら、リュシアは規格外の存在と認めるしかないらしい。
女神の祝福で身体能力と再生能力を底上げされた人間を倒そうと思ったら、物陰からのアンブッシュで首を切り落として即死させるくらいしか方法はない――そういう意味でハーラルよりはステラのほうが勝算があり、逆に言えばそれしか方法はないのだろう。
というかうちの担当司教に何物騒なこと言っているのよ。
「……なあお嬢様」
「なに」
「うちのメイドさん、一体何者なんですかね」
「ああ、そういやレオニスは知らなかったわね。あの娘、元ヴァリャーグ“赤い眼”の工作員」
「なるほど~! ってなんでそんな怖いのうちにいるんですかねえ!」
「まあ、色々事情があったわけで」
レオニスは呆れたように「お嬢様の周りって変なのばかりっすね」と天を仰いだ。
大丈夫、あんたもその変なのの一人だから。
「お嬢様、俺の強化弓でも見ていきません?」
「あなたの弓は訓練場でぶっ放せるものじゃないでしょう……あなたの実力はエルベ谷の戦いでよく知ってるわよ」
「実戦以外出番のない隊長ってどうなんですかねえ……」
少しレオニスが拗ねていた。
※
ステラとハーラルの手合わせの余韻が訓練場に残る中、思いがけない人物が姿を現した。
「おや、お嬢様ここにいらしたのですか。随分と賑やかでございますな」
穏やかな声と共に、訓練場の脇の通路からヴェルナーが現れた。
いつも通り、執事服を着こなした瀟洒な老紳士。彼の銀盆には私のためと思われるティーセットとお菓子が乗っている。
「ふむ……申し訳ございません。ここにいる全員分の紅茶と菓子をご用意すべきでしたね」
「あー、爺さんお気になさらず。俺たち別にいいから」
「そうだな、俺も構わん。伯爵殿に頼む」
さすがに全員分の紅茶と茶菓子をヴェルナーに用意させるのは気が引けたのだろう
灰狼たちとレオニス、ハーラルが遠慮した。
アルフレッドとステラも頷く。
私だけ頂くのも悪いなと思いつつ、用意してもらった紅茶を口に含む。香りも味も絶品。
ふと彼の視線が架台の木剣に留まった。
何かを思い出すような、遠い目だった。
「ヴェルナー?」
「……いえ。少々、懐かしくなりまして」
ヴェルナーは銀盆を脇に置くと、武器架から木剣を一本、丁寧に取り上げた。
まるで壊れ物を扱うような所作で。
だが木剣を握った瞬間――空気が変わった。
「何十年ぶりでしょうか」
穏やかな声のまま、ヴェルナーが一歩踏み出した。
木剣が弧を描く。
ゆったりとした、しかし鋭さの滲む振り。
だがその一振りの軌道に、微塵の狂いもなかった。
剣先が描く円弧が、寸分違わず同じ軌跡を何度繰り返しても重なる。
まるで見えない溝の上を滑らせているかのように。
ステラの剣が野生の獣なら、ヴェルナーのそれは流れる水だ。
どれだけ速く振ろうと、どれだけ力を込めようと、軌道は変わらない。
刃が決してぶれず、軌道が逸れない。
教科書から切り抜いたような――いや、教科書の手本そのものだった。
完成された型。無駄のない、そして美しい太刀筋。
訓練場が静まり返っていた。
灰狼の兵士たちも手を止め、老執事の動きに目を奪われている。
一通り型を披露してヴェルナーは静かに木剣を下ろした。
息一つ乱れていない――と思いきや、微かに肩が上下している。
「やはり年には勝てませぬな。この程度で息が上がるようでは」
涼しい顔でそう言ったが、その程度の動きどころじゃないんですけど。
あの精密すぎる動きが全身の筋肉にどれほどの負担を強いているか、私にはわからないがヴェルナーのような老体が気軽にできるものではない。
訓練場が沈黙に包まれていた。
アルフレッドは口を開けたまま固まっている。
レオニスは珍しく軽口の一つも出ない。
ステラだけが金色の瞳を細めて、どこか納得したように小さく頷いていた。
そして――ハーラルが、低い声で呟いた。
「……まさか」
虎頭の偉丈夫の目が見開かれていた。
戦場を渡り歩いてきた男が、信じられないものを見たという表情をしている。
「昔――俺がまだガキの頃、義父ラグナルから聞いた話がある。北海沿いで名を馳せた凄腕の傭兵がいたと。『凶鳥』の異名を持つほどのその傭兵はある時忽然と戦場から消えた。誰も行方を知らない。だがその男の太刀筋だけは、一度見たら忘れられないと――義父はそう言っていた」
ハーラルの視線がヴェルナーに突き刺さる。
訓練場の空気が張り詰めた。
ヴェルナーは――微笑んだ。
いつもの、穏やかで、慈愛にも似た老執事の微笑みだった。
「ほっほっほ。それはまた懐かしい名を聞きましたな」
木剣を丁寧に架台に戻しながら、ヴェルナーは言った。
「しかし残念ながら、そのような傭兵はとっくの昔に戦場のどこぞで果てました。こにおりますのは――ただの老いぼれの執事でございます」
否定も肯定もしない。
ただ遠くを見ながら、老執事は静かに笑っていた。
「……そうか。死んだのか」
「ええ。とうの昔に」
二人の間に、それ以上の言葉はなかった。
ハーラルは追及しなかった。戦場を生きてきた男には過去を捨てた者の決意が分かるのだろう。
ヴェルナーは何事もなかったかのように一礼した。
「お嬢様、昼食の支度が整いましたら呼びに参ります。皆様もどうぞごゆっくり」
そう言い残して、ヴェルナーは訓練場を去っていった。
背筋の伸びた優雅な歩み。瀟洒な立ち居振る舞い。彼が今は一介の執事であることの証。
だが今の私たちには、その背中がほんの少しだけ違って見えた。
「……なあお嬢様」
「何よ」
「うちの執事さん――何者なんですかね」
「さあ。本人がただの執事だって言うんだから、ただの執事なんでしょう」
「いやいやいや、絶対違うでしょ。どう見てもその伝説の傭兵本人ですよねえっ」
レオニスが呆れた顔をしたが、私だって答えようがない。
ヴェルナーの過去は、ヴェルナー自身が「死んだ」と言った。
ならばそれ以上詮索するのは、主としてやるべきことではない。
ステラが私の隣に戻ってきて、小さく呟いた。
「ただの執事じゃないとは思ってた」
「えっ、そうなの? いつから」
「グスタフに連れられここに雇われた日から。ヴェルナー、最初は私のこと怪しんでいたからどうしても警戒の視線を向けられるところがあった。その視線はどう考えても戦闘の素人のそれじゃなかった」
さらっと恐ろしいことを言う。
元暗殺者の観察眼は伊達じゃない、ということか。
ハーラルは腕を組んだまま、ヴェルナーが去った方向をしばらく見つめていた。
やがて、ゆっくりと息を吐いた。
「……大した家だ、アッシュフィールドは」
「そうね。私もこの家のこと、まだ全部は知らないみたい」
夏の陽射しが訓練場に降り注いでいた。
アルフレッドが「今日は色々とすごいものを見た……」と放心したように呟いている。
レオニスは「俺の弓も見てくれよ、地味に思われるの癪だから」とまた拗ねていた。
アッシュフィールドの日常は、今日も平和だった。




