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第92話 黄金の海が燃えた朝

 九の月十五日、朝。

 秋の空気が窓から吹き抜ける執務室で、私はいつも通りの朝を迎えていた。

 前世の日本はまだ残暑が厳しい時期のはずだが、アッシュフィールド領は緯度が高い地域のため、すっかり秋めいてきた。


 アッシュフィールド領は備蓄放出と食糧統制令のおかげで穀物価格は何とか高値止まりで済んでいた。

 領民の生活が破綻することはなさそうだが、それでも庶民の財布に厳しい状況が続いている。

 収穫さえ始まれば、収穫さえ始まればと、毎日祈りのように願っていた。


「――それで、先週の違反件数は?」


「ゼロだ。ベルクマンの一件以降、目立った不届き者はいねえよ。お嬢の威光に震えあがってんだろうな」


「私の威光ねえ……まあ“極端”に手荒なことはしてないようね」


 定例の報告会議。

 執務室にはイリヤ、ステラ、そしてアルフレッドが同席している。

 イリヤからの市場報告を聞きながら、穀物価格の値動きを記した帳簿に目を落としていた。


「で、領外の相場は?」


「上がり続けてる。バルモア発の高騰が周辺領にも飛び火して、どこも高値だ。だが、大体の領地は自前の耕作地を抱えているからな。うちよりは高騰してるが、ギリギリ暮らしが立ち行かなくなるほどではない。問題は――」


「王都ね……」


「ああ。王都周辺は大規模な農地が無いからな。周辺領主も自領が何より大事だ、王都向けの穀物の流通は最低限だ」


 どこの世界も大都市は物流の巨大なハブではあるが、都市そのものは自給力を持たないことがほとんどだ。

 王都エーデルシュタットも例外ではない。

 穀物価格の高騰でうちも含め各地の領主が領外への穀物の流通を制限している。

 その影響をまともに受けるのが、王都の住民だ。


 ふと、王都に残ったクルトの顔を思い出す。

 彼は今何をしているだろうか。ホルン村に帰っただろうか。

 心苦しいが、王都から遠く離れたアッシュフィールドにいる私ができることはほとんどない。

 今はただ、自分の領地に集中するしかない。


「俺たちのせいで王都が飢えてると思うと気が重いな……」


 アルフレッドが苦い顔をして呟いた。

 自領より王都暮らしのほうが長いブラックウォール家の人間として、王都の状況が心配なのは当然だ。


「親父や兄貴は、たぶん王都の食糧調達で頭を抱えてるだろう――ってごめんっ、別にリリアーネが悪いって言いたいわけじゃないから」


 アルフレッドは慌てたように手のひらをぶんぶんと振った。

 私は苦笑して首を振る。


「いいのよ、アルフレッド。気にしないで。きっかけが私のせいなのは確かだもの……」


「お嬢は悪くねえよ。あんたは非常時の備えとして必要なことをしたまでだ。バルモアの商人がそれを勝手に投機として利用しただけだ」


 イリヤが淡々と言い切った。

 確かにそうだけど――やはり背負ってしまったものは重い。

 ――と、執務室の扉をコンコンと品よくノックする音が響いた。


「失礼いたします。アルフレッド様にお手紙が届いております」


 ヴェルナーが銀盆の上に封書を載せて入ってきた。

 封蝋の紋章を見て、表情が少し明るくなる。


「兄貴からだ」


「レオフリックから?」


「うん、ちょっと……読んでもいいか?」


「もちろん」


 アルフレッドは封を切り、手紙を読み進めていく。

 私はその彼の表情が気にはなったが、勝手に手紙の内容を詮索するのも失礼だと思い、机の上の書類に視線を落とす。


「――リリアーネ、親父たちが王都を離れた」


「何があったの?」


 その言葉に、思わず顔を上げる。

 アルフレッドは少し間を置いてから、手紙の要旨を口にした。


「親父と兄貴がブラックウォール領に引き上げるそうだ。穀物の高騰で領内が不安定になっていて、王都に留まっている場合ではなくなったと」


 穀物高騰の影響がブラックウォール領にまで――と思ったが、考えてみれば当然だった。

 ブラックウォール領は王都を護る盾として重要な位置にあるが、バルモア領のような一大穀倉地ではない。

 他領と同じように麦の自給率は高くはない。

 流通が細り、価格が高騰すれば直撃を受ける。

 エルウィンたちが領地に戻るのは当然の判断だろう。


「……そうだ。それと兄貴は俺のことも書いてる」


 アルフレッドの声が少しだけ柔らかくなった。


「『お前はそのままアッシュフィールドに留まり、しっかり学べ。伯爵様のご厚意を無駄にするな。剣だけでなく、帳簿と政の実務を身につけろ。兄として命じる』――だそうだ」


 アルフレッドはそこで苦笑した。


「相変わらずな兄貴だよ。俺の身を案じつつ、同時に叱咤するんだから」


 アルフレッドのレオフリックへ向ける想い。

 歳が近い兄で、何かと口うるさい。でも信頼はしている。

 そんな気がして笑みがこぼれる。


「あとリリアーネへの伝言もある――『リリアーネ様、我が家で匿っていたクルト殿ですが、あれから三ヶ月、宮内府は貴方様の帰領にかこつけて彼を拘束するような動きは見せておりません。ゆえにホルン村に送還しました。念のため、我が手の者をホルン村に常駐させておりますのご心配なさらぬよう』――だそうだ」


「よかった……クルトは無事なのね」


 私もほっと胸をなでおろす。

 クルトがホルン村に帰り、ブラックウォールの護衛もついているなら心配はない。

 私を逆恨みした宮内府が、彼をもう拘束するようなことはないだろう。


「兄貴からもう一つ――『弟の我が儘にお付き合いいただき、ブラックウォール家一同、深く感謝申し上げます。アルフレッドをどうかよろしくお願いいたします』――だってさ」


 レオフリックらしい、几帳面で礼儀正しい心遣い。

 王都で会った時の印象そのままの、真面目で誠実な青年の言葉だった。


「律儀なお兄さんね」


「だろ? 真面目すぎるんだよ、昔っからさ」


 ――ブラックウォール家の当主と嫡男が、不安定化する領地に戻る。

 それは領主として正しい判断だ。だが四大公爵の全てが王都を離れることとなった。

 これを各地の諸侯はどう捉えるだろうか。

 今の穀物価格高騰と合わせて、国内情勢は少しずつ不安定になってきている。

 漠然とした不安を覚えながら、それを振り払うように私は言葉を発した。


「さて、来週の備蓄放出量についてだけど――」


 その時だった。

 廊下を走る足音が聞こえた。

 執務室の扉がノックもせずに勢いよく開かれる。


 金色の長い髪が乱れ、白い法衣の裾が翻る。

 息を切らし、血相を変えたリュシアが、執務室に飛び込んできた。

 あのリュシアがただならぬ様子でいることに、この場にいる全員が息を呑む音が聞こえた。


「リュシア……?」


「落ち着いて聞いて、聖声盤(アルカ・タブレット)の緊急声明よ」


 聖声盤(アルカ・タブレット)

 教皇庁が管轄する遠距離通信の魔導設備。

 通常は年始の教皇の祝辞にしか使われないその通信設備。

 まあ私はリュシアに頼んで何度かこっそり使わせてもらったことがあるけど。


 ――とそれはさておき、聖声盤の緊急声明とは。


「バルモア教区からの緊急連絡を受けた教皇庁が、全教区に臨時の緊急声明を発出したわ」


 リュシアの声は、いつもの皮肉めいた余裕を完全に失くしていた。


「昨日夜、バルモア領都ゴルトフェルトで大規模な火災が発生。倉庫街が全焼、市街地にも延焼が広がり火はまだ鎮火していない。死傷者多数の模様だが、正確な数は不明。そして――」


 リュシアが一瞬言葉を切った。

 その間が、次の言葉の重さを物語っている。それこそが本題かのように。


「収穫直前の穀倉地帯にまで延焼が及び、甚大な被害が出ている模様、よ――」


「は――?」


 素っ頓狂な声を上げたイリヤの口元から煙草がぽろりと落ちて、絨毯に小さな焦げ跡を作る。

 私も、リュシアの言葉を理解するのに数秒を要した。

 こういう会議の場ではあまり口を開かないステラですら、その事態の重大さを悟ったのか、瞳を大きく見開いている。


「穀倉地帯の被害状況は……?」


「情報が錯綜してわからないわ。ただ、声明の文面から察するに……バルモア教区側は相当の被害を見込んでいる。そうでなければ聖声盤を使ってまで緊急声明を出す判断にはならないわ」


 リュシアの推測は正しいだろう。緊急声明は国内全土に発せられている。

 つまりそれは、()()()()()()()()程度の軽い話ではないことだ。


 穀倉地帯の被害がどの程度かは分からない。

 だが、王国最大の穀物生産地の被害が“甚大”だとすれば、それが意味するのは――


「終わった……」


「リリアーネ!」


 私はへなへなと椅子に崩れ落ちそうになり、ステラが支えてくれた。

 自分の口から漏れた言葉の意味を、私は正しく理解していた。

 原作のこの世界において内乱へと続く決定的な出来事。


 ――飢饉。

 王国の食糧庫とも言えるバルモアの穀倉地帯が収穫前に焼失。

 穀物の供給は今の高騰どころではなく、今後深刻な不足に陥る。

 原作と違う形で飢饉が――訪れる。

 

「お嬢、しっかりしろ。お前も察したな? これから――飢饉が来ると」


 イリヤの低い声に私は青ざめた顔のまま頷く。

 狼の瞳が、私をじっと見据えていた。


「バルモアは王国の穀倉地帯だ。あそこの収穫が壊滅すれば投機どころじゃねえ、実需が消えたってことだ」


 イリヤの声に、いつもの軽口はなかった。

 商人として相場の動きを読んできた男が、商売の次元で語れる事態ではないことを悟っている。


「……リュシア、教皇庁からの続報はいつ入る?」


「わからない。おそらく現場は大混乱よ。一報をこの時間に届けただけでも早かったと言えるわ」


「わかった。続報が入り次第、共有して」


「ええ」


 私は椅子の背に深く身を預けた。

 憔悴した表情で天井を見上げる。


 原作で訪れるはずだった飢饉。

 それは時期も形も違ったが、結局やって来た。

 私が備蓄に動いたことが穀物投機の引き金を引いた可能性がある。

 ならば、この災厄は回避のつもりが火種を撒いてしまっただけだったのかもしれない。


(――そんな自嘲をする暇があったら、考えて行動しなきゃ)


「全員、聞いて。これからの動きを確認するわ」


 声に出すことで、自分を奮い立たせる。

 私の声を聞いて全員の視線が集まった。


「一つ、情報収集。バルモアの被害状況を細かく把握する。二つ、食糧統制令は維持。むしろ取り締まりを強化する。領外への流出だけじゃない、うちの食糧を狙ってくる輩も出てくる可能性もあるから最大限の警戒を。三つ、領内への情報統制。大火のことは間もなく噂として広がるだろうけど、不確かな情報で領民が動揺するのが一番まずい。教会を通じて正確な情報だけを伝える形を取りたい。リュシア、教区の司祭たちへの指示をお願い」


「承知したわ」


「四つ、グランファーレンやノルドヘイムから麦、豆、芋――あらゆる食糧を仕入れる。うちは港があるのが強みよ。国外からでも輸入して食糧を確保する。それと――」

 

 私は少し逡巡する。

 アッシュフィールド領に関わる外国はその二国だけではない。

 正直あの国と貿易だけとしても深く関わりたくはないのだが――


「ヴァリャーグからも食糧を仕入れる。イリヤ、お願い」


「お嬢――うちとヴァリャーグは……」


「ええ、正直言って色々と因縁がある面倒な国よ。最近はずっと静かだけど、これを機としてまた工作を仕掛けてくるかもしれない。でも今は非常時、背に腹は代えられないわ」


「わかった。手配するぜ」


「ええ、そして聖声盤による緊急声明は、教会の影響ある全ての国に届いてるはず。そうなれば外国も自分のところの食糧の流出を恐れて輸出を制限してくるはずよ。各国で輸出制限令が出る前にできるだけ確保する」


 イリヤが黙って頷いた。

 次々と指示を出す私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

 違う――こうやって領主の仮面を被らないと、恐怖で身が竦んでしまいそうだからだ。


 指示を出し終えた後、ふとアルフレッドに目をやった。

 彼は手紙を懐に仕舞ったまま、唇を引き結んで黙っていた。


 穀物高騰でブラックウォール領が不安定化しているという報告。

 あの手紙が書かれた時点では、まだ“高騰”で済んでいた。

 だが今この瞬間、事態は“高騰”を通り越し、“飢饉”へと姿を変えようとしている。


 彼は今の状況がブラックウォール領にとって何を意味するか、わかっている。

 それゆえ自分にできることの無さを噛みしめている。


「アルフレッド……続報が来たら、あなたのお兄様にも状況を伝える手紙を出しましょう。ブラックウォール家と情報を共有しておくことは、お互いにとって大事だから」


「……ありがとう、リリアーネ」


 窓の外は相変わらずの秋晴れだった。

 何事もないような平和なグレイヴィルの朝。

 だが今この瞬間、王国の西の果てでは黄金の畑が赤く燃えている。

 

 私は絶対にこの領地を守り抜かなくては――

次話の投稿は6/23を予定しています。

お気に入り、☆評価での応援を頂けると幸いです。


最近リアクションのほうも活発に押していただきありがとうございます。励みになります。

このエピソードで幕間も含めてついに100ep目になりました! 今後とも『初手死亡令嬢』をよろしくお願いします!

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― 新着の感想 ―
これは領主の手腕が問われるところですね
大躍進、ホロドモール……歴史を見れば、既に発生した食糧不足への有効な対策は「食べる口を大幅に減らす」ことだけですが……。さて、どうする?
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