第93話 慈悲という名の布石
ローゼンシルト領都フィオレンツァは、南方の山懐に抱かれた都市である。
エンテレケイア聖導教会の総本山――教皇庁を抱えるアルカ聖教国へ続く峠道の北麓に位置し、古くから巡礼者と交易商が行き交う要衝として栄えてきた。
バルモアのような広大な穀倉地帯は持たないが、教会と修道院が根を張った信仰の地であり、交易がもたらす物資と山地の恵み――岩塩、酪農製品、塩蔵品などが領民の暮らしを支えている、
九の月十五日の朝、フィオレンツァの聖堂前広場には長い列ができていた。
教会が主催する施粥の列だった。
穀物価格の高騰で日々のパンに苦しむ者たちが、麦粥を得るために列に並んでいる。
その列の先頭に、一人の女性が立っていた。
艶やかな茶髪、菫色の瞳、慈愛と気品を形にしたような穏やかな美貌。
宗教画の聖女のような完成された美しさを持つ女性――セレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルト公爵が、自ら粥をよそっていた。
「お辛いでしょう。でも大丈夫、女神様はあなたを見捨てませんわ。それに私も穀物価格の安定に力を尽くします。どうかもう少しだけ辛抱して下さいませ」
老婆の手に器を渡しながら、セレスティーヌは微笑んだ。
麦粥の器を手に取った老婆は涙ぐみながら「ありがとうございます、公爵様」と手を握った。
セレスティーヌはその手を両手で包み、祈りを捧げるように目を閉じた。
広場に集まった民たちの目が、畏敬の色に染まっていく。
公爵でありながら自ら粥をよそい、民の手を取り、祈りを捧げる。
これが彼女たちの知るセレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルトだった。
“信仰の守護者”の称号を冠するに相応しい、慈悲深き女公爵の姿。
施粥が一段落し、セレスティーヌが聖堂の裏手から馬車に乗り込んだ。
馬車が動き出し、広場の喧騒が遠ざかっていく。
車窓から差し込む秋の陽光の中で、セレスティーヌの表情が変わった。
穏やかな菫色の瞳が、冷たく冴えた氷の色を帯びる。
それは慈愛の聖女の顔ではなく、冷徹な策略家のものだった。
「マルグリット」
「はい」
向かいの席に控えていた女性が応じた。
マルグリット・ケスラー。ローゼンシルト公爵家の筆頭侍女であり、セレスティーヌの秘書官を兼ねる壮年の女性だった。
灰色の髪をきっちりとまとめ上げた容貌には、長年の実務に裏打ちされた堅実さが滲んでいる。
「アルカからの追加物資の交渉はいかがかしら?」
「先週の交渉通り、教皇庁経由で豆や乾燥肉が入りました。ただし、アルカ側も自国の備えを優先する姿勢を見せ始めております。次の交渉では、条件が厳しくなるかと」
セレスティーヌは軽く頷いた。
予想の範囲内だ。穀物高騰が長引けば、どの国も自国優先に動く。
アルカ聖教国との交易は、再輸出禁止と教会監査の受け入れを条件に物資の流入を確保してきたが、それにも限界がある。
「麦以外の備蓄は」
「修道院と施療院の在庫を合算しますと、豆類、乾燥肉、チーズ、塩蔵品類を合わせて、領内の需要を少なくとも三ヶ月以上は賄える見込みです。麦の確保が滞っても、すぐに飢えが広がるような状況ではございません」
三ヶ月以上の備蓄――十分ではないが、致命的でもない。配給量を絞ればさらに猶予が作れる。
ローゼンシルト領は山地ゆえに大規模な麦作には向かないが、それが逆に麦への一極依存を避ける結果になっていた。
教会のネットワーク領内の隅々まで張り巡らされ、配給の仕組みとして機能している。
セレスティーヌが十数年かけて築いた統治基盤が、今この非常時に効を発揮している。
「商人たちの動きは」
「領外への横流しを企む者が二、三名。いずれも峠道の検問で阻止しております」
「そう、見せしめとして一ヶ月ほど岩塩の採掘場にでも送っておきなさい。この非常時に穀物を領外に転売しようとする輩なぞに慈悲はありません。民も私の処分を諸手を上げて支持するでしょう」
マルグリットは無表情のまま頷いた。
民衆はわかりやすい敵を求めている。今回は不幸にも密輸を図った商人たちがその生贄に選ばれただけ。
民衆という怪物は恐ろしいが、上手く手綱を握れば有用な武器にもなり盾にもなる。
セレスティーヌは信仰と権威で、その怪物を長らく手懐けていた。
馬車が公爵邸の門をくぐった。
セレスティーヌは車を降りるとき、一瞬だけ振り返ってフィオレンツァの街並みを見渡した。
聖堂の尖塔、修道院の屋根、教皇庁へと続く石畳の街道。
穏やかな山の都市。彼女が守り、そして足場とする街。
※
公爵邸の執務室。
窓から差し込む陽光の中、セレスティーヌは机の前に座り、各地から届いた報告書に目を通していた。
マルグリットが黒く香しい液体に満たされたカップを運び、その脇に控える。
「バルモアの状況を」
「穀物相場の高騰は依然として続いております。バルモア公爵は特段の統制策を講じておらず、市場は投機筋の動きに翻弄されている状況です。公爵家は収穫期の到来による価格の自然下落を待つ方針のようですが――」
「つまり何もしていない、と」
セレスティーヌの声に、かすかな呆れが混じる。
「バルモア公爵閣下は温厚な方として知られておりますが――」
「マルグリット、穏やかであることと、統治者であることは同じではありません」
セレスティーヌは報告書をめくる手を止め、カップを手に取る。
普段口にする紅茶とは違った黒い液体――コーヒーだった。
「今日はグランファーレンのよい豆が手に入りましたので、かの国では紅茶派とコーヒー派で分かれるようですが」
「ふふっ、確かに茶とは違った香りですわ。その気持ちもわかります」
コーヒーを一口含み、その苦味を舌先で転がす。
この苦さが好きだ。頭が冴えるような気がする。
ふうと小さく息を吐き、話を戻す。
「バルモア公爵は善人でしょう。温厚で慈悲深く、領民にも慕われている。けれど善人であることと統治者であることは別。非常時に決断を下せない善良さは、静かなる怠慢と何も変わりません」
その声に感情はなかった。
他者を断罪する熱も、蔑む冷笑もない。
ただ、事実を述べているだけだった。
「ゼーヴェルト公爵の状況は」
「ゼーヴェルト領は穀物高騰の影響を比較的軽微に抑えている模様です。北海の海運網と交易拠点を活かし、ノルドヘイムやグランファーレンからの物資を確保しているとのこと。そして他領よりも王都に物資を多く回している様子も窺えます」
王都への支援に動くゼーヴェルト公爵。
あの狐が善意などで動くはずがない。王以外の誰かに恩を高値で売りつけているのだろう。
セレスティーヌの唇の端が、わずかに動いた。
「あの方は血統も信仰も歯牙にもかけない。けれど船と倉庫と信用状の価値を見誤ったことはない。俗物ですが、有能な俗物ですわ」
ゼーヴェルト公爵――カスパー・エーレンブルグ・ゼーヴェルト。
四大公爵の中で最も歴史が浅く、公爵となって三代目。
貴族社会では『成金公爵』と揶揄されることもあるが、北海の海運を掌握する経済力は侮れない。
セレスティーヌは彼を好みはしないが、軽くも見ていなかった。
「ブラックウォール公爵は」
「エルウィン公と嫡男レオフリック殿は、領地に帰還されました。さすがに国内の穀物相場が安定するまでは自領の治安維持を優先されたようです」
「当然の判断ですね。これで四大公爵全てが王都を離れました。陛下の求心力が目に見えて薄れていきますね」
「陛下はこの事態に何か手を?」
「打てるものがあれば、とうに打っています」
セレスティーヌはコーヒーに自領で育てたミルクを落とした。
グランファーレン向けに『コーヒーに合うミルク』と売り込んだ商品だが、彼女自身も気に入っている。
「それから、アッシュフィールド伯は?」
「――アッシュフィールド伯爵……ですか?」
マルグリットにとっては想定外の問いだったようで、一瞬の躊躇があった。
他の公爵家ならともかく、一介の伯爵――それも東の田舎の動向など、通常は気にも留めない。
だが彼女の主人は、以前からその辺境の小領主の情報を求めていた。
「えー、はい。リリアーネ・アッシュフィールド伯爵は、六の月にすでに帰領済みです。確か宮内府から何らかの要請で王都に留め置かれていた――のですが、それを無視して帰られたとか」
「宮内府の反応は?」
「少なくとも私共に入ってくる情報では何も」
「出せなかったのでしょう。伯が強硬に帰領を押し切ったとなれば、宮内府の失態ですからね」
はてさて、あの目立つ容姿の女伯が、どうやって王都をすり抜けたのだろう。
宮内府の怠慢か、それとも――何か別の力が働いたのか。
興味深いが、今はそこに深く踏み込む時ではない。
リリアーネ・アッシュフィールド。
白狼の血を引くとされる狼少女。王都のサロンで皆の注目を浴びていた娘。
他の有象無象とは一線を画す怜悧な光を紅い瞳の奥に宿す少女だった。
だが、王国の大局を左右する大勢力ではない。それでも視界の端に留めておくべき存在ではあると、セレスティーヌは判断していた。
※
昼――そろそろ昼食の時間だと、セレスティーヌが書類から顔を上げた。
そんな時だった。執務室の扉が急に叩かれた。
マルグリットが扉を開けると、息を切らした侍従が立っていた。
「公爵様、教区教会から急使です。聖声盤の緊急声明が――」
聖声盤の緊急声明。
その言葉を聞いた瞬間、セレスティーヌの羽ペンを持つ手が止まった。
聖声盤が緊急で使われることの意味、使わねばならない事態が何かが起こったことの意味。
「内容は」
「バルモア領都ゴルトフェルトにて昨夜大規模な火災が発生。倉庫街全焼、市街地にも延焼。そして――収穫直前の穀倉地帯にまで引延焼、甚大な被害が出ている模様。死傷者多数、全容は不明――とのことです……!」
侍従の声が震えている。
マルグリットの顔からも血の気が引いていた。
皆それが何を意味するかを理解していた。
セレスティーヌは、動かなかった。
カップを持つ手も、姿勢も、表情も。
菫色の瞳だけが、わずかに揺れた。
数秒の沈黙の後、セレスティーヌは茶杯を静かに受け皿に置いた。
磁器がかちりと小さな音を立てた。
「穀倉地帯の被害はどの程度か分かりますか」
「まだ……情報が錯綜しておりまして。ただ、聖声盤を緊急で使用したということは――」
「壊滅的、ということでしょう」
セレスティーヌの声は静かだった。
震えもしなければ、取り乱しもしない。
ただ、“天啓”を得たと言わんばかりに、鋭く澄み切った声を上げた。
「マルグリット」
「は、はい」
「アルカ聖教国への使者を即刻手配しなさい。追加の物資交渉です。条件は先方が提示するものをほぼ飲む覚悟で。値切っている暇はありません」
「かしこまりました」
「峠道と倉庫の警備を倍に増やしなさい。今日中に。領内の全ての食糧備蓄の所在を改めて確認させて」
「はい」
「商人たちへの通達。領外への穀物持ち出しは即日より全面禁止。違反者は財産没収の上、岩塩坑にて強制労働を命じます。即時発令」
「直ちに」
「教区の司祭たちを集めなさい。今夜中に。明日の朝の説教で、民に伝えるべきことをまとめます。不確かな噂が広まる前に、教会の口から正しい情報を、正しい形で届けなさい」
「正しい形、とは?」
「恐れるな、女神はあなたを見捨てない、ローゼンシルトの公爵が守ってくださる――そういう形よ。民を安心させられそうなら何でも構いませんわ」
淀みなく指示を出すセレスティーヌの姿に、マルグリットは一瞬呆気に取られていた。
大火の報を聞いてからまだ一分と経っていない。
にもかかわらず、彼女の主はすでに三手も四手も先を読んで動いている。
「バルモア方面からの流民に備えて、領境の受け入れ態勢を整えなさい。ただし無制限には受け入れない。受け入れ数に上限を設け、教会の管理下で保護する形を取ります」
「流民をお受け入れに……?」
「こればかりは止められません。追い返せば恨みを買い暴徒化する。しかし無秩序に流れ込まれれば、我が領の備蓄が食い潰される。だから限定的に、恩として受け入れる。助けられた者は助けた者に従う。これは慈悲ではなく投資です」
指示を出し終えると、セレスティーヌは席を立ち、窓辺に歩み寄った。
フィオレンツァの街並みが眼下に広がっている。
だが彼女の目に映っているのは、この街ではなく――王都エーデルシュタットだった。
「マルグリット。この先、何が起きるか分かりますか」
背を向けたまま、問いかけた。
「……バルモアの穀物が消えれば、王国全体の食糧が不足いたします」
「その先です」
「飢えた民が暴れ――反乱が」
「その先は?」
マルグリットは言葉に詰まった。
セレスティーヌは窓の外を見たまま、静かに続けた。
「飢えた民は、まずパンを求めて声を上げる。声が届かなければ拳を振り上げる。拳でも届かなければ武器を取る。反乱は最初に地方の領主に向かうでしょう。ああ……お労しやバルモア公。そして、民は王都に向かう。王に問うために。なぜ我々を飢えさせたのかと」
マルグリットの顔が蒼白になっていく。
だがセレスティーヌの声は歌うように口ずさむ。
「王都は自給力を持たない。各領主は自領の食糧を抱え込む。陛下が諸侯に供出を命じたところで、従う者がどれだけいるか。筆頭公爵のバルモアは自領すら制御できなかった。ブラックウォールも自領で手一杯。ゼーヴェルトは最初から王家に忠誠など誓ってはいない。誰が王都を、陛下をお守りするのか」
「……公爵様」
「王は民にパンを配れない。諸侯を束ねられない。国を守れない。ならば王権は、もう実体を失ったのと同じことです」
窓の外に目を向けたまま、セレスティーヌは沈黙した。
秋の風が窓から吹き込み茶髪をかすかに揺らした。
晩餐会の夜。エセルフリーダが王妃の座を奪われるのを見て自分の中の何かが目覚めた。
自分が欲しかったのは王妃の座ではない。
与えられる地位ではない。
自ら掴む権力の頂。
あの夜以来、心の内に灯った炎が、今日の報せを受けて、初めて形を持ち始めている。
――もはや“いつか”ではなく“今”なのだと。
「マルグリット」
「は、はい……!」
「バルモアへ救援物資を送りなさい」
「救援物資、でございますか……?」
「豆、乾燥肉、塩、薬草。麦は多くなくて構いません。すぐに集められるものを優先。配布は必ず教会を通しローゼンシルト家からの救援であると、誰の目にも分かる形で示すのです」
マルグリットは一瞬、言葉を選んだ。
ローゼンシルト領も決して余裕があるわけではない。それでも救援物資を送るという決断。
主の真意を確かめるように言葉を伺う。
「しかし、それでは我が領の備蓄が……」
「ええ。ですから十日――いえ、一週間でいいでしょう。一週間で支援を打ち切ります」
「たったの一週間……ですか?」
「ええ、それ以上は、我が領の民を飢えさせることになります。私はローゼンシルトの公爵ですから。我が民を蔑ろにしてまでバルモアの民を憐れむことはできません」
ならばなぜ、そのような短期間の支援を送るのか。
マルグリットの疑問を見透かしたように、セレスティーヌは微笑んだ。
「けれど、一週間あれば十分です」
「十分……?」
「今日のパンが誰の手から届けられるかで、民の忠誠は決まる――飢えた者は最初にパンを差し出した手を忘れません。そして明日のパンが届かぬ時、彼らが恨むべき相手は私ではない。彼らには、彼ら自身の公爵がいるのですから」
「し、しかし……中途半端な支援では逆に反感を――」
「ふふっ、そこはバルモアの民の良心に期待しましょう。どこの領主も苦しい中でローゼンシルトは手を差し伸べてくれた――感謝こそすれ、恨む道理はない――と」
主の言葉に、マルグリットは畏怖すら覚えた。
飢えた民に一時のパンを与え、そして撤退する。
その先に起こる悲劇を予見しながら。
「国が燃え始めています。この火を消せる者だけが、次の秩序を築く資格を持つ。私はその用意をするだけです」
セレスティーヌは執務机に戻り羽ペンを手に取る。
王都の有力者や教会の要職者に向けた書状をしたためていく。
一通一通が、これから始まる長い布石の最初の一手だった。
ああ、主は王冠を欲している。
マルグリットは確信した。
信仰の守護者の称号に収まらない野心が、主の中で渦巻いている。
それが正しいのか間違っているのかは、マルグリットには判断できなかった。
ただ――彼女が生涯仕える主にために尽くすことだけが自分の務めであると、心に刻むのだった。
次話の投稿は6/25を予定しています。
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