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第94話 公爵とは何のためにいる?

 九の月十八日。

 バルモア領都ゴルトフェルトの大火は、三日にわたって燃え続けた末にようやく鎮火した。

 だが火が消えたことは終わりではなく始まりだった。


 マティアス・プレストン司教は聖堂の鐘楼に立ち、かつてゴルトフェルトであった場所を見下ろしていた。

 倉庫街は跡形もなく焼け落ちた。

 商店が軒を連ねていた石畳の大通りは、黒く焼けた瓦礫の山に埋もれていた。

 焼け焦げた柱が折り重なり、崩落した壁や天井が道を塞ぎ、そこかしこにまだ薄い煙が立ち上っている。

 街の西半分が焼失し、残った東半分にも煤と灰が降り積もっていた。


 そして郊外に広がっていた麦畑――ゴルトフェルトの誇りであり、バルモア領の富の源泉であった黄金の穀倉地帯は、見渡す限りの焼け野原と化していた。

 収穫を待つばかりだった麦は黒く焼け焦げた灰となり、土の上に灰の層を作っていた。


「女神よ……」


 六十数年の人生で、これほどの惨状を目にしたことはなかった。

 司教という地位にありながら、掛けるべき言葉も、捧げるべき祈りも、何も出てこなかった。

 ただ茫然と、焼け落ちた街を見下ろすだけだった。


 ――このまま立ち尽くしていても、何も変わらない。

 マティアスは深く息を吐き、鐘楼の階段を降り礼拝堂に戻る。そこは既に避難所と化していた。


 長椅子の間に敷かれた毛布の上に、焼け出された人々が横たわっている。

 子供の泣き声と老人の咳と低い呻き声。煤と汗と血の匂いが聖堂の冷たい石壁に染みついている。

 聖堂は幸いにも火の手を免れたが、ステンドグラスの窓には煤がこびりつき、光の色が濁って見えた。


「司教様、水が足りません。井戸の水を汲みに行くので少し持ち場を離れます」


 若い修道士が駆け寄ってきた。

 顔は煤で汚れ、修道服の裾は破れている。

 この三日間、火災の消火と被災者の救助に走り回っていたのだろう。

 すでに疲労困憊のはずだったが、それ以上に義務感が彼を突き動かしていた。


「ああ、行ってきなさい。それと地下倉庫から保存食を運び出してくれ。粥を炊く準備を」


「かしこまりました。ただ、司教様……食糧の残りは、そう多くはありません」


「わかっている。だが今は出せるものを出すしかない。公爵閣下からの配給が届けば――」


 そこで言葉を切った。

 公爵閣下からの配給。

 大火から三日。バルモア公爵の居城からは未だ何の動きもなかった。


 マティアスはこれまでバルモア公爵に対して特段悪い印象は抱いていなかった。

 温厚で穏やかな人物。領民に慕われ、教会にも敬意を払ってくれる。

 しかし、この三日間、公爵家からの救援物資は一袋の麦も、一樽の水も届いていなかった。


 城門は閉ざされたまま、公爵軍は城の周囲を固めるばかりで、市街地の救援に動く気配がない。

 きっと、城の中で対策を練っているのだろう。

 マティアスは自分にそう言い聞かせた。

 これだけの災害だ。対応に時間がかかるのは当然だ。

 公爵閣下はきっと、領民のために最善を尽くしてくださるはずだ。


 ――そう信じたかった。


 ※


 聖堂を避難所として開放してから数日が経った。

 被災者の数は日ごとに増えていた。

 聖堂だけでは収まりきらず、付属の修道院、施療院、そして教会の倉庫までもが避難民で溢れている。

 マティアスは自ら粥をよそい、怪我人の包帯を替え、死者のために祈りを捧げた。

 ここでは司教も修道士も同じ。二本の手と足と声がある者は、すべて働き手だった。


 炊き出しの列が聖堂前の広場にまで伸びた、ある昼のことだった。

 マティアスが鍋の前に立ち、一人一人に粥をよそっていると、列の中から明るい声が聞こえた。


「爺さん、そんな顔するなよ。飯はまだあるんだから悩む前に腹ごしらえだ」


 声の主は、二十代半ばほどの青年だった。

 煤で汚れた顔に、疲れた表情を浮かべているが、それでも笑顔で周囲に励ます言葉を投げかけていた。

 日に焼けた肌と、がっしりとした体つき。火災前はどこかで荷運びの仕事をしていたのだろう。


 声をかけられた老人が力なく笑った。

 青年は老人の肩を軽く叩き、前に進むよう促す。


「まだ鍋にはたっぷりあるって。大丈夫大丈夫、今日は腹いっぱいとは言わねえけど、明日も明後日もまだ粥があるんだ。だから今日はその分をちゃんと食っとけよ。そうすりゃ力も出るって」

 

 その声には不思議な温かみがあった。

 大した言葉ではない。気の利いた冗談でもない。

 だが、暗い顔をした列の人々の間に、ほんの少しだけ空気が和らぐのを感じた。

 青年が列の先頭に来た。マティアスが粥をよそって差し出す。


「ありがとうございます、司教様。毎日毎日すみません」


「いいのです。これは女神の教えに従っているだけですから」


「そうかもしれませんが、それでも司教様が自分の手でよそってくれるってのは、やっぱりありがたいですよ。偉い人ほど手を汚したがらないもんだからさ」


 青年はおどけたように笑い、深々と頭を下げた。

 

「……お名前は?」


「ニコラスです。ニコラス・ドレフュス。倉庫街で荷運びしてましたが、全財産燃えちまいましたよ、倉庫ごとね」


 肩をすくめて笑う青年だが、その目はどこか自暴自棄で、明るく振舞うことで自分自身を勇気づけているようにも見えた。


「食い終わったら、片付けの手伝いでもしますよ。何もしないで待ってるのが一番しんどいですから」


「ありがとうございます。人手はいくらあっても足りませんから」


「任せてください。力仕事なら得意なもんで」


 ニコラスは右手で粥の器を受けとると左腕で力こぶを作って見せる。

 青年は粥を受け取り、広場の隅に腰を下ろした。

 周囲の被災者に声をかけ、隣に座った子供の頭を撫で、向かいの女性の荷物を持ってやっている。

 自然と人が彼の周りに集まっていく。


 ニコラスという青年はその日から聖堂の常連になった。

 毎朝一番に来て、修道士たちと一緒に粥の準備を手伝い、市街地の瓦礫の撤去にも率先して加わった。

 力仕事を厭わず、誰にでも声をかけ、暗い空気の中で冗談を飛ばしてはほんの少しだけ人々の顔を明るくさせた。


 マティアスは彼を頼りにし始めていた。

 教会の人手だけでは到底追いつかない被災者の対応を、ニコラスは自然と引き受けてくれる。

 何かを命じたわけではない。彼自身が進んで動いていた。

 こんな状況でもなお、他者のために手を差し伸べられる青年。

 女神はこの地を見捨ててはいないのだと、マティアスは心から感じた。


 ※


 大火から一週間が過ぎた。

 公爵家からの支援は、依然として届かなかった。

 正確に言えば、城から使者が来なかったわけではない。文官が一人、聖堂を訪れ状況の報告を求めただけだった。

 そして去り際に「公爵閣下は善処なさるとのことです」とだけ告げ、物資は一つも持ってこなかった。


「善処って何だよ。麦の一袋も持ってこないで善処もクソもあるかよ」


 文官が去った後、広場でニコラスがぼそりと呟いた。

 声は大きくなかった。隣にいた数人にしか聞こえない程度だった。

 だが、その数人が深く頷いた。


「ニコラスの言う通りだ。一週間だぞ。一週間、城からは何も来ねえ」


「穀物だって城の中にはあるはずだろう? あの城壁の中には備蓄倉庫があるって聞いたぞ」


「なのに城門は閉めっぱなしだ。兵隊は城の周りを固めるばかりで、街には来やしない」


「教会の配給も日に日に量が減ってる。このままじゃメシが尽きるぞ……!」


 小さな不満が、小さな声で交わされる。

 それを聞いていたマティアスは、何も言えなかった。

 事実、教会の備蓄は底をつきそうだった。

 

 だが二日後――思いがけない救いの手が差し伸べられた。


「司教様! ローゼンシルト公爵家からの救援物資が届いております!」


 修道士の報告を受けて聖堂の裏門に出ると、数台の荷馬車が停まっていた。

 荷台には豆類、乾燥肉、塩、薬草の袋が積まれている。量は多くはないが、今の状況では黄金にも等しい。

 荷馬車の護衛と共に、ローゼンシルト家の紋章が刺繍された外套をまとった使者が立っていた。


「バルモア教区マティアス・プレストン司教でいらっしゃいますか。ローゼンシルト公爵セレスティーヌ閣下より、被災民の救援にと物資をお届けに参りました。配布は教会を通じてお願いしたいとのことです」


「ローゼンシルト公爵が……なんとありがたい」


 マティアスは使者の手を取り、深く頭を下げた。

 南方の山を越えた先の公爵が、わざわざ救援物資を送ってくれた。

 領地を接していないのに、自分たちのために手を差し伸べてくれた。

 折からの穀物価格高騰で先方も大きな負担を強いることに違いない。


「ローゼンシルト閣下に、心からの感謝をお伝えください。この恩は忘れません」


「――閣下は、苦しむ民を見捨てることは女神の教えに反すると仰っておいでです。公爵の地位は民のためにこそあると」


 救援物資の配給が始まると、聖堂の広場は久しぶりの活気に包まれた。

 豆と乾燥肉を煮込んだ汁物は、ここ数日の薄い粥とは比べものにならない滋養がある。

 受け取った人々の顔に、僅かだが血色と笑顔が戻っていく。


「ローゼンシルト様が助けてくれたんだって?」


「ああ、南の公爵様だ。山を越えて物を送ってくれた」


「よその公爵が助けてくれるのに、うちの公爵は――」


 ――ローゼンシルト様に引き換えうちの公爵は。

 自然とそうした比較が口に乗るようになった。

 よその公爵は手を差し伸べてくれた。なのに自分たちの公爵は、城門を閉ざしたまま何もしない。


 感謝と怒りは、同じ場所で同時に生まれた。

 ローゼンシルトへの感謝が深まるほど、バルモア公爵への怒りが際立つ。

 二つの感情が互いを映す鏡のように不満を増幅させていった。


「……」


 ニコラスは配給の列に並びながら、周囲の会話に耳を傾けていた。


 ※


 ローゼンシルトからの救援物資は、およそ一週間にわたって届いた。

 教会を通じて配給され、被災民たちの命を繋いだ。

 だが――月末に差し掛かる頃、 使者がマティアスに告げた。


「申し訳ございません。閣下も最大限の努力をなさっておりますが、ローゼンシルトにも領民がおります。これ以上の供出は、我が領の民を飢えさせることになると……」


「いえ……むしろここまでしていただいたことに、感謝しかありません」


 マティアスは頷いた。

 当然の判断だった。ローゼンシルトはバルモアの領主ではない。ここまで助けてくれたこと自体が異例の厚意だ。

 それを責める道理はどこにもない。

 しかし、理屈と感情は別のもの。

 物資が途絶えた翌日の炊き出しの列で、早速怒声が上がった。


「救援物資の打ち切りってなんだ! もっと頼めなかったのか!」


「あいつらは十分持ってるんだろ! 俺たちは畑が灰になっちまったんだぞ!」


「ローゼンシルトも結局、俺たちを見捨てたんだ」


「最初から助ける気なんかなかったんだろ。恩を売りに来ただけだ」


「公爵だの貴族だの、どいつもこいつも自分のことしか――」


 広場の片隅で、男たちが唾を飛ばしながら毒づいている。

 飢えは人の心から真っ先に感謝を奪う。なまじこれまで支援を受けられたことゆえに、支援の打ち切りに裏切られたと感じたのかもしれない。

 一週間前に涙を流して受け取った粥のことも、山を越えて届けられた豆や塩漬けの肉のことも忘れたかのように男たちは口々に叫んでいた。

 

 見かねたマティアスが口を挟もうとすると、その男たちの輪に割って入る影があった。

 ――ニコラスだった。


「おい、それは違うだろ」


 ニコラスの声は穏やかだったが、はっきりと芯のある声で言った。

 男たちが振り返る。


「何が違うってんだ、ニコラス」


「ローゼンシルトを恨むのは筋違いだって言ってんだよ。あの公爵には自分の領地がある。自分の領民がいる。その中からわざわざ物を削って、俺たちに送ってくれたんだ。山をわざわざ越えてだぞ。それが一週間で終わったからって、恩知らずなこと言うもんじゃねえ」


「だけどよ、結局打ち切ったじゃねえか」


「当たり前だろう。向こうだって苦しいんだから。よその公爵がいつまでも面倒見てくれるわけがない。大体向こうも苦しいのは誰のせいだ? 麦を使ってわけのわかんねえ博打やってたうちの商人どものせいだろうが」


 ニコラスは腕を組み、男たちの目を真っ直ぐに見据えていた。


「恨むなら恨む相手を間違えるなよ。ローゼンシルト様は助けてくれた。山の向こうの、会ったこともない公爵様がだぞ。じゃあ聞くが――俺たちの公爵は何をした?」


 男たちが黙った。

 彼らも自分たちの怒りが筋違いだとどこかでわかっていたのだろう。

 ニコラスは溜息を吐いて言葉を続けた。


「一袋の麦も来なかった。一樽の水も来なかった。善処するって言葉だけ寄越して、城門は閉めっぱなしだ。よその公爵がくれた一週間分の飯と、うちの公爵がくれた一週間分の無視。どっちが悪いかは明白だろ」


 沈黙が広がった。

 男たちの顔から怒りが消えたわけではない。

 ただ、その怒りの矛先が変わっていくのをマティアスは見ていた。


「……そうだよな。ローゼンシルト様は関係ない。悪いのは――」


「俺たちの公爵だ。俺たちが税を納めて、俺たちが麦を作って、この街を支えてきた。その俺たちが焼け出されて飢えてるってのに、城の中から出てきもしない。そして麦の値を釣り上げて儲けてた商人どももだ」


 誰かが漠然と思っていたことを、ニコラスははっきりと口にした。

 その言葉が静かな波紋のように周囲に広がっていく。


「ニコラスの言う通りよ」


 別の女が近づき頷いた。

 彼女は腕に幼い子供を抱えていた。


「ローゼンシルト様には感謝しなきゃ。あの粥がなかったら、この子は持たなかったかもしれない」


「ああ。恨むなら、助けてくれた人じゃなくて、助けなかった奴を恨むべきだ」


 男たちは互いに顔を見合わせ、ばつが悪そうに黙り込んだ。

 一人が「すまねえ、ちょっと頭に血が上ってた」と頭を掻いた。

 それに釣られるように、他の者たちも「悪い」と謝り始めた。


 ※


 ある夕暮れ、マティアスが聖堂の片付けを終えて広場に出ると、いつもの焚き火の周りに人だかりができていた。

 中心にいたのはニコラスだった。

 焚き火を囲んで座り込んだ十数人の被災民たちと、ただ話をしている。

 だがその声は、焚き火の爆ぜる音の合間を縫って、不思議なほど遠くまで通った。


「俺さ、別に贅沢がしたいわけじゃないんだ。毎日パンが食えて、たまに腹一杯肉が食えりゃ最高で、それでいいんだよ。前はそれができてた。俺たちはこの街で働いて、麦を運んで、倉庫に積んで、それで暮らしてた。なのに気づいたら穀物の値段がとんでもないことになって、ようやく収穫だって時にみんな燃えた」


 ニコラスの声には怒号もなかった。

 煽るような抑揚もなかった。

 ただ、静かに、率直に、事実を並べていた。


「ローゼンシルトの公爵が物を送ってくれた。ありがたかったよ、心底な。山の向こうの会ったこともない公爵様がだぞ? それなのにうちの公爵は城の門を閉めて出てこない。善処するって? 善処って何だ? 飯か? 水か? 布団か? 何か一つでも届いたか?」


 焚き火の周りの人々が、黙って頷いている。

 ニコラスは誰かを名指しで責めているわけではなかった。

 ただ問いかけているだけだった。

 だがその問いかけは、全員が胸の中に抱えていた疑問そのものだった。


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 焚き火が爆ぜた。

 赤い火の粉が夜空に舞い上がり、すぐに闇に溶けていく。

 マティアスはその光景を、聖堂の入口に立って見つめていた。


 何かが変わり始めている。

 ニコラスの周りに集まる人の数が、日ごとに増えている。

 彼の言葉は怒声ではない。ただ静かに皆が思っていることを、皆が聞きたかった言葉で、語っているだけだ。


 ……彼を止めた方がいいのだろうか。

 そう考えたが、マティアスにはその自信がなかった。

 止めたところで、人々の不満は消えない。

 むしろ、司教が口を封じれば、人々の怒りは教会に向かうかもしれない。

 

 そんな小さな恐れが、マティアスを足止めさせた。

 目の前の人々を助けること。それだけが今の自分の務めだ。

 明日もまた粥を炊き、怪我人の手当をし、死者のために祈ろう。

 それが司教として、聖職者として、できる全てだと――

次話の投稿は6/27を予定しています。

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果たしてこのニコラスは天然のアジテーターなのかはたまたお隣の国の工作員なのか…?
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