第83話 静かな領地と遠い嵐の予感
六の月中旬――私は二ヶ月近くに及ぶ王都生活を抜け出し、アッシュフィールド領に帰還してから二週間が経っていた。
帰った日のことを思い出す。
エルベ修道院からイリヤたちと共に領都グレイヴィルに到着したのは、日が傾き始めた頃だった。
二ヶ月ぶりのアッシュフィールド邸。門をくぐった瞬間、玄関広間に立っていたのはヴェルナーだった。
彼は私の姿を認めると一瞬だけ目元を緩め、すぐにいつもの恭しい所作で深く一礼した。
「――ただいま、ヴェルナー」
「お帰りなさいませ、お嬢様――」
言葉は少なかった。いや、多くの言葉は必要なかった。
彼はただ、そこに立って、私を出迎えてくれている。
それだけで、私は本当に家に帰ってきたのだと実感した。
その後、執務室で紅茶を淹れてもらいながら王都での経緯を一通り説明した。
ひさしぶりのヴェルナーが淹れてくれた紅茶。ステラの淹れるものとはまた違った、彼独特の落ち着いた味わいだった。
叙爵式、瘴柱事件、晩餐会、婚約破棄、半軟禁。
ヴェルナーは黙って聞いていた。途中何度か眉をひそめ、何度か小さく頷いた。
手紙やリュシアに使わせてもらった聖声盤である程度は伝えていたことだが、改まって私自ら口頭で説明するのはこれが初めてだった。
そして――脱出の経緯――侍女に化けてエセルの移送に紛れた話を聞いた時だけ、ヴェルナーの目が丸くなった。
「……まさか、お嬢様がそのような大胆なことをなさるとは」
「計画はエセル、協力者はリュシア。私はそこに乗っかっただけよ」
そう言ってヴェルナーの目を見ると、彼は少しの間黙って、それから苦笑した。
だがすぐに背筋を正して、いつもの穏やかな口調で言った。
「ともあれ、ご無事でお戻りになられて何よりでございます。それ以上は問いませぬ」
二ヶ月近い不在に最後は詳細を伝えず突然の帰領、侍女に化けてのほとんど夜逃げ。
だけどヴェルナーは何も問わなかった。
彼は昔からそうだ。主の判断を信じ、結果を受け入れ、自分はただ支える側に徹する。
「しかし――王都はやはり魑魅魍魎の巣窟でございますな。私めはお嬢様が王都での権力闘争に巻き込まれるのをずっと心配しておりました」
ヴェルナーは穏やかな顔で、でもはっきりとそう言った。
「ですが、お嬢様はご自身の力で道を切り開いてお帰りになりました。これも全て、アッシュフィールドの土地の恵みでございます。王都でのご経験を糧に、これからもこの地をお守りくださいませ」
そして――アルフレッドの紹介。
ブラックウォール公爵の次男がしばらく滞在すると告げた時、ヴェルナーは一瞬だけ瞬きを多くしたが、すぐに「かしこまりました。客室の手配をいたしましょう」と応じた。
公爵家の御令息に相応しい部屋があるかは甚だ心許ないが、と付け加えたヴェルナーに、アルフレッドは「布団と屋根があれば十分です」と即答した。
その返事にヴェルナーは少し目を細めて「ご謙虚な方でございますな」と呟いていた。
――以上が、帰還当日のこと。
※
アッシュフィールド領は初夏の盛りを迎えていた。
前世の日本と違ってここには梅雨というものはない。じめじめしたあの夏は嫌いだったから、この世界の夏は過ごしやすくて気に入っている。ただ冬の寒さは本格的だから、そちらは辛いのだが。
この日の午前中、私は執務室でヴェルナーとイリヤを交えた定例の報告会議を行っていた。
壁際の椅子にはアルフレッドが座っている。
彼にはこうした場に同席させて、領地運営というものを肌で感じてもらうことにしていた。
ステラが皆のカップに淹れた紅茶の香りが広がる。
「ではお嬢様不在の二ヶ月の総括を改めて」
ヴェルナーが手元の帳簿を開いた。
「まず財政でございますが、大きな支出はございませんでした。領税の徴収も滞りなく、港湾関税も予定通りの収入を確保しております」
「穀物の備蓄は?」
「こちらはイリヤ様から」
ヴェルナーの視線を受けてイリヤが煙草を咥えたまま口を開く。
この男は私の執務室でも平然と煙草を吸う。何度注意しても直らないので、もう諦めた。
「穀物の広域買い付けは計画通りだ。グランファーレンとノルドヘイムからの分も含めて、領内の倉庫は七割方埋まってる」
「良い感じね。相場への影響は?」
「今のところ目立った動きはない。去年が豊作だったぶん、今年の相場は正常に戻りつつあるってだけだ。うちの買い付け量が市場全体に占める割合はまだ微々たるもんだから、目ざとい連中に気づかれてる気配もねえ」
「ゼーヴェルト公爵の動きは? 私の買い付けに反応した素振りある?」
「ゼーヴェルト? ああ、あの成金公爵殿か。いや、特に変な動きはないな。あそこは相場操作を嫌うからな。やるとしても物流を操るほうだ」
へー、あの公爵は商人としては保守的なのね。
意外というか、堅実というか。
まあ金を腐るほど持っていたら何もしなくても金が集まって来るから相場操作してまでリスクを負う必要はないのだろう。
「まあ俺たち商人からすると物流を押さえられるほうが厄介なんだけどな。お嬢、例えば穀物を買い占めて値を釣り上げるとするだろ? すると買い占めた穀物はどこかに必ず保管せにゃならん。倉庫をいくつも必要になるわけだ。で、倉庫を押さえられちまうと、買い占めた穀物が腐って売り物にならねえ、そうなったら大損だ」
「確かにそれは厄介ね……」
言われてみればネットで株や仮想通貨のように取引だけで済むものと違って、穀物は現物を受け渡しするからその保管場所がいる。
保管場所を押さえて、その賃料を高くふっかければ投機のチキンレースに参加しなくても利益を得られる。
さすがだわ。目先の利益には飛びつかず、堅実なやり口。
……なるほど、ゼーヴェルト公爵は侮れない相手だ。
「次に治安でございますが」
ヴェルナーが帳簿を捲る。
「こちらも特段の問題はございません。麦の穂の活動も安定しておりまして、カルロス様からの定期報告では、貧民街の炊き出しも滞りなく続いているとのことでございます」
「貧民街の失業者の改善は?」
「二ヶ月では大きな変化は見られませんでした。ただカルロス様の懸念は麦の穂の炊き出しのおかげで働かずとも飢えることはなくなった結果、今度は怠け者ばかりになってしまうのではないか、と危惧されておりましたが……」
それは前世の日本でも言われた問題ね……
失業保険とか生活保護が充実すると働かない者が増えるという議論。
怠け者に税金を注ぎ込むなんてとんでもない、という意見はネットでは常に見られた。
カルロスってお人好しなだけど思っていたけど、自分の活動の功罪に自覚あるのね。
「そうね……確かにそれを心配するのはわかるわ。でも、飢えた結果犯罪に走る者を減らすことが先決だと思うの」
「左様でございます。実際、当領内の窃盗といった犯罪は減少傾向にありますので、失業者を放置したままにするよりはよほど良い結果と言えましょう」
「そうね。今のところはそれでいいと思う」
でも難しいよね雇用創出って……
前世でも難しい課題をこの世界で簡単に解決できるとは思っていない。
だけど、何もしないよりは少しでも改善できる方向に動きたいし、動き続けたい。
「麦の穂の帳簿は?」
「直近の会計報告書も確認済みでございます。不審な寄付金の流入もなく、健全な運営が続いております」
かつてヴァリャーグの工作拠点にされかけた麦の穂だが、あの騒動以降は落ち着いた運営がされており、カルロスの善良さに付け込もうとする外部勢力の気配も今のところないようだ。
「福音劇の収益は?」
「先月のエルベ修道院での公演は過去最高の動員を記録いたしました。寄進額も右肩上がりでございます。イリヤ殿の屋台村も好調とのことで」
「おう、エルベの公演は商売的にも上々だ。次の公演は来月の予定だが、フランツから『新しい演目を準備中』って連絡が来てたな」
フランツの新しい演目。もしかして、エセルの出演を念頭に置いた企画だろうか。
あの小心者の司祭は、こと興行の企画に関しては妙に行動力がある。
「軍事面ですが――」
ヴェルナーが次の項目に移る。
「灰狼隊長レオニス様からは定例の報告が上がっております。訓練は通常通り。ハーラル様の鉄の牙も領内の巡回警備を請け負いながら、練度の維持に努めているとのことです」
「今のところ領軍を動かすような案件はない、ってことね」
「左様でございます」
ここまでは順調。
二ヶ月の空白を感じさせないほど、領地は安定して回っている。
これはヴェルナーの実務能力とイリヤの商才、そして各部門の責任者たちがそれぞれの持ち場をしっかり守ってくれたおかげだ。
「最後にもう一つ。王都の方面からの動きですが――」
ヴェルナーが少し声を落とした。
「宮内府からは、何もございません」
「……何も?」
「はい。お嬢様が王都を去られてから三週間以上、事情聴取の名目で留め置いた伯爵が消えたにもかかわらず、召喚命令も追手も、抗議の書状すら届いておりません」
――やはりそうか。
ステラが以前分析した通り、点数稼ぎのために私を王都に留め置いておきたかったかだけ。
下手にジークハイトに報告しようものなら咎められるのは役人たち。それなら報告しない方が身のためだ。
こうして官僚は自分の保身のために事実を握り潰し、上には何も伝えない。
……それは組織として相当末期的な状態なのだけど、今はそれに助けられている形だ。
「つまり、王都は私のことをもう放っておくつもりということね」
「そのように判断してよろしいかと存じます。ただし、何かの拍子に蒸し返される可能性は否定できません」
「分かってるわ。当面は大人しくしておきましょう」
私は資料を整理して背もたれに身を預けた。
領地は安定している。穀物備蓄も順調。王都からの追及もない。
今この瞬間だけ見れば、何も心配することはない。
――のだけれど。
胸の奥にある漠然とした不安は消えない。どこか嵐の前の静けさのような感覚。
この平穏がいつまでも続くとは思えない。でも今は、この平穏を精一杯守ることしかできない。
「あのさ」
壁際で黙って聞いていたアルフレッドが、遠慮がちに声を上げた。
「ここまで全部うまくいってるのに、リリアーネの顔がすごく渋いんだけど?」
イリヤとヴェルナーが、ほぼ同時にこちらを見た。
私は一瞬言葉に詰まった。
前世由来の知識は誰にも言えない。だが、今この世界は原作から大きく離れ、未来の予測は難しい。
だからこうして飢饉に備えて動いているのだけれど――
「あなたのお姉さんの婚約破棄よ」
「えっ、姉上の?」
「そ、王が衆目の前で婚約者である公爵家の娘を捨てた。それが貴族のたちにどんな影響を与えたか――あなたも知っているはずよ。あの後ブラックウォール家を訪れる者が増えたって」
「あ――」
アルフレッドは顔を曇らせた。
エセルの婚約破棄は、単なる一貴族家の私的な出来事ではない。
王家の、王の権威を大きく揺るがしかねない問題だった。
「他の貴族たちがどう動くか……それが分からないから不安なのよ。当然、いきなり王家に反旗を翻すようなバカな真似なんてするはずがない。でも何かきっかけがあれば――」
「この国は壊れると?」
「そうなる可能性も、十分あるわ」
私の言葉にアルフレッドは静かに頷いた。
嵐が来る。いつか来る。
でもそれがいつなのか、どこからなのか、私にも分からない。
分かっているのは、その時に備えて今できることを一つずつ積み重ねていくしかないということだけだ。
「さて、報告は以上ね。ヴェルナー、午後の予定は?」
「カルロス殿との面会が入っております。麦の穂の次期活動計画についてのご相談だそうで」
「わかった。アルフレッド、あなたも同席する?」
「いいのか?」
「勉強よ。領地運営は会議室だけで動いてるわけじゃないから」
アルフレッドが椅子から立ち上がって頷く。
彼がここで何を学び、何を持ち帰るのか。
それはきっと、ブラックウォール家の未来にとっても無駄にはならないはずだ。
私とアルフレッドの仲は――
……まあ、そのへんはゆっくり考えましょう。




