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幕間 成り上がり公爵は白狼を見誤る

 ゼーヴェルト公爵領の領都、北海に面した港町ノルトハーフェン。

 その丘の上に建つゼーヴェルト家の居館は、貴族の城というよりも商館に近い造りをしていた。

 かつてはノルドヘイムの海賊の脅威に晒されたこの街も、海賊が女神の教えに帰依し北方の地に統一王朝を建ててからは一転、北方への玄関口として栄えることとなった。

 そんな中で海運で富を築いた商人がゼーヴェルト家の祖なのだ。


 館の最上階に設けられた執務室にて、館の主たるカスパー・エーレンブルグ・ゼーヴェルトは、商船から届いた報告書の束に目を通していた。

 窓の外には北海の青灰色の海原が広がり、ゼーヴェルト家の旗を掲げた商船が幾隻も停泊している。

 ただの商人から身を起こした祖先は海運と貿易で財を成し、貴族にまで上り詰めた。

 その経済力で王国を支えるゼーヴェルト家は、カスパーの祖父の代でついに公爵にまで昇爵したのである。


 公爵となって僅か三代。

 祖が貴族に列せられてから二百年と経っていないゼーヴェルト家は、四大公爵の一角と名高いが――その実、家格においてはいまだ他の三大公爵家の後塵を拝している。

 古い血筋と錆びついた権威で政治の回廊を闊歩する連中は、格下の貴族でさえもゼーヴェルト家を陰では“成り上がり”と呼んで憚らなかった。


 商人上がりの新興貴族。位は公爵だが、血は商家の血。

 ――知ったことか、とカスパーはいつも思う。所詮血によって決まる家格など、血が絶えてしまえば何の価値もない。

 我がゼーヴェルトは富がある限り生き続けるのだ。血が絶えたとしても有能な人物が家を継げば、それでいいのだと――


 報告書の大半は穀物と鉱物の相場、各地の港湾の稼働状況、グランファーレンとノルドヘイムの交易動向だった。

 彼にとって世界とは、金と物資の流れによって描かれる地図であり、王家や貴族はその地図の上に載っている駒に過ぎない。

 その中に、王都からの定期報告が一通混じっていた。


 封を切り、目を通す。

 大半は既知の情報と、つまらない宮廷の噂話だったが――ある一文で、彼の目が留まった。


『アッシュフィールド伯爵、五の月末より別邸より消失。詳細不明ながらすでにアッシュフィールド領での目撃情報あり。何らかの手段で帰領した模様』


 消失。

 カスパーは報告書を持つ手を止め、その一文をもう一度読んだ。

 宮内府の事情聴取名目で王都に留め置かれていたはずの、あの田舎伯爵が。

 いつの間にか消えて、いつの間にか領地に戻っている。


 銀髪と狼耳、いやでも目を引く容姿の女伯爵が一体どうやって王都の門を抜けた?

 宮内府が留め置きの通達を出している以上、正規の手段では関所で止められたはずだ。


 だとすれば身分と姿を偽って抜け出したか、だがそれには協力者が不可欠だ――


 カスパーは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。

 指先が机の木目をこつこつと叩く。


 協力者がいるとすれば――あの娘が消えた時期にもう一つの出来事が重なって来る。

 ブラックウォール家の令嬢――エセルフリーダの出家と修道院への移送。

 あの娘はエセルフリーダと懇意にしていた。エセルフリーダの手引きで移送に紛れて王都を脱出した、という線は十分にあり得る。


 だが、ここで一つ引っかかる。

 首謀者は誰だ。


(エセルフリーダが自らの出家に乗じて友人を逃がそうとした――動機としては理解できる。あの晩餐会で公衆の面前で辱められた令嬢が、せめてもの矜持として友人に手を差し伸べた。女の友情。感傷としては美しい話だ)


 カスパーは独白するように、心の中で推理を巡らせる。

 女の美しい友情物語であるが、感傷だけで書類は誤魔化せない。

 教会の身柄移送は教皇庁の案件だ。移送書類の発行、教会公印の使用、関所通過の手続き。

 これらを手配するには教会内部に協力者が必要になる。


 ローゼンシルトならまだしもブラックウォールは名門だが、教会との繋がりは深くない。エセルフリーダ個人が教皇庁を動かせる立場でもない。


(では――誰がこの小芝居の台本を書いたのか)


 教会側の誰が、あの小娘を移送隊に潜り込ませる書類を用意したのか。

 カスパーは机の上の呼び鈴を鳴らした。

 控えの間から秘書官が現れる。


「エセルフリーダ・ルナス・ブラックウォールの修道院移送を担当した教会の責任者は誰だ。調べろ」

「かしこまりました」


 秘書官が退出する。

 カスパーは葡萄酒の瓶を引き出しから取り出し、グラスに注いだ。


 ※


 返答はその日の夕刻に届いた。

 秘書官が持ってきた一枚の紙片に、短い名前が記されていた。


『移送責任者:リュシア・バルディーニ司教。アッシュフィールド教区担当。聖銃騎士第十三位』


 カスパーは、その名をしばらく見つめていた。

 それから、ゆっくりと目を閉じた。

 灯台下暗しだった。晩餐会にあの司教は出席していたではないか。


 リュシア・バルディーニ。

 アッシュフィールド教区の司教。

 あの田舎伯爵の領地を管轄する教会の責任者が、エセルフリーダ移送の担当者だった。


 ――そういうことか。

 点と点が繋がった。

 あの娘の脱出を教会側で手配したのは、あの娘の領地の司教だったのだ。

 あの別邸で会った時、アッシュフィールドの小娘は何も知らない顔をして「陛下のご沙汰を待ちます」とこちらの申し出を断った。

 あの時すでに、バルディーニという切り札を手元に持っていたということだ。


(やってくれたな()()め――)


 カスパーは、嗤った。

 あの日の会話を思い返す。あのアッシュフィールド邸の応接間で向かい合った、銀髪の小娘の顔を。

 何も知らない顔。何も持っていない顔。ただの田舎伯爵の、従順で退屈な顔。

 ――あれが演技だったのか、それとも本当に何も考えていなかったのか。


 後者のほうがありそうだ、と彼の理性は告げていた。

 あの娘が自分を出し抜こうと計算していたとは思えない。

 おそらくバルディーニとエセルフリーダが段取りを整え、あの娘はただそれに乗っただけだろう。

 女三人の身内庇い。くだらない話だ。

 だが――くだらない話が、上手くいってしまったのだ。


 結果として彼の目が届かなかったのは事実だった。

 それが――酷く不愉快だった。


 カスパーは紙片を畳み、引き出しにしまう。

 不機嫌な心を洗い流すように別の書類に視線を移す。

 それには他の三公爵の動向が記されていた。


 体調不良を理由に帰領したバルモア公爵――あの老公爵は先見の明があるのではなく、ただ臆病なだけ。

 数百年続く筆頭公爵家の実態は、最も古い、ただそれだけの権威。

 古いというだけで人が従う時代は、もうとうに終わっている。


 ブラックウォール家は王都に残留。公爵エルウィンと嫡男レオフリックに動く気配はない。

 あの愚直な武門の家は、娘が辱められたにもかかわらず、まだ錆びついた剣を振り回して王家に忠誠を捧げるつもりらしい。

 東の脅威が消えた今、あの家に残されたのは“忠義”という名の惰性だけだ。

 市場価値のない商品をいつまでも棚に並べている時代遅れ。


 そしてローゼンシルト。

 南方の教区の巡察という名目で、あの女公爵も自領に戻った。


 セレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルト。

 “信仰の守護者”などという大層な称号を戴く、女公爵。

 だがあの称号の本質を、カスパーは知っている。教会との取り引きで手に入れた政治的な商標に過ぎない。


 金で教会に近づき、教会の権威を世俗の道具に変える。やっていることは商人と同じだ。

 ただし、商人としては二流。自前の商品を持たず、教会の言い値で商売をしているだけ。

 ゼーヴェルト家の祖先とは、商いの質が違う。


 兄たちが生きていれば公爵令嬢のまま、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 それが偶然の不幸で家督を継ぎ、女の身で公爵を名乗っている。

 あの女公爵殿が何を企んでいようと、教会の傘がなければ何もできまい。


 ――女というものは。

 カスパーは葡萄酒を一口含み、軽く息を吐いた。


 彼は今年で四十二になるが、妻はいない。

 周囲からは縁談の話が絶えないが、そのすべてを断ってきた。

 理由は単純だった。釣り合う女がいない。

 商才においても、知性においても、この自分と対等に会話できる女に彼はついぞ出会ったことがなかった。


 どの令嬢もどの貴婦人も、差し出されるのは血筋か美貌か愛嬌か、そのいずれかであって、知性ではなかった。

 ゼーヴェルト家の当主にふさわしい伴侶とは、自分と同じ水平線を見渡せる目を持つ者でなければならない。

 そしてそのような女は――存在しない。少なくとも、彼はそう信じていた。


 今回の一件もそうだ。

 アッシュフィールドの娘も、ブラックウォールの娘も、教会の女司教も。

 女同士の感傷が、たまたまこちらの盲点を突いた。それだけの話だ。

 これを「政治」とは呼ばない。ただの「小細工」にすぎない。

 政治とは、利害と利害を突き合わせ、金と物資の流れを操る場のことだ。

 ゆえに感傷は再現性を持たない。再現性を持たぬものは政治の道具にはならない


 グラスの葡萄酒を飲み干す。

 辺境の小娘に出し抜かれた。不愉快だが、所詮は些事。

 アッシュフィールドの伯爵が領地に逃げ帰ったところで、この王国の大局に何の影響もない。


 バルモアとローゼンシルトは王都から去った。それ以外にも王都を去った貴族は少なくない。

 ブラックウォールはまだ忠義面で王都に座り、あの虚勢だけの若造に尻尾を振り続けている。


 船は沈みかけている。それは確かだ。

 だが沈む船からどれだけの積み荷を自らの船に移し替えることができるか。

 それが、カスパー・エーレンブルグ・ゼーヴェルトの、これから始まる商い(ビジネス)なのだ。


 カスパーは新しい報告書の束を手に取り、穀物相場の数字に視線を戻した。

 そういえばあの女伯は年明けからずっと少しずつ穀物を買い集めていた、と彼はふと思い出した。

 相場に影響が出ないよう、注意深く、小口で。

 余程備蓄が心持たないのか、あるいは――何かを見据えてのことか。


(まあいい――)


 彼はその思案を振り払った。

 たとえあの娘に何かしらの思惑があろうと、田舎伯爵家ができることなどたかが知れている。

 彼が操る王国全体の物資の流れの前に、辺境の一伯爵など泡沫に過ぎない。


 窓の外ではグランファーレンに向けて出航する船の帆が、初夏の海風を捉えて白く膨らんでいた。

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