第80話 姉は黒衣をまとい、弟は旅立ちを選ぶ ~ブラックウォール姉弟、それぞれの道~
エルベ修道院の高塔が丘の稜線の向こうから姿を現した時、私は思わず息をついた。
領地に帰ってきたことへの郷愁だけではなく、私が初めて経験した戦場とその鎮魂歌の地への感慨が混ざり合った。
あの日々がまだほんの数ヶ月前のことだなんて信じがたいけれど、こうして修道院の姿を目にすると全身の力が抜けるような安堵を覚えた。
馬車が修道院の門に近づくと、こちらに気づいた人影が二つ門の外に出てきた。
一人は粗末な修道服を纏った青年司祭フランツ。
もう一人は金色の髪に猫耳を揺らし、修道女のヴェールをなびかせて全力疾走するアストリッドだった。
「バルディーニ司教様ーっ! おかえりなさーいっ!!」
アストリッドの声が丘の上まで響き渡る。
先頭の馬車が停まるより先にアストリッドが駆け寄り、降りてきたリュシアに飛びつくように抱きついた。
「こらっ、アストリッド。司教に抱きつく修道女がどこにいるの」
「ここにいまーす!」
リュシアの呆れ声とアストリッドの天然が早速かみ合っていない。
でもリュシアの口元がほんの少し緩んでいるのを、私は見逃さなかった。
「お帰りなさいませ、バルディーニ司教」
小走りでやってきたフランツ司祭は息を切らしながらも礼儀正しく一礼する。
しかしその顔色はお世辞にも良いとは言えなかった。元々線が細く、神経質そうな印象の彼だが、今日はさらに頬がこけて見える。
元・公爵令嬢エセルフリーダ・ルナス・ブラックウォールを修道女として迎え入れるなどという教皇庁の通達が、この小さな修道院を預かる司祭にどれだけの胃痛をもたらしたかは想像に難くない。
「ミュラー司祭、顔色が悪いわよ。朝食はちゃんと食べたのかしら?」
「は、はい! 食べてますとも、バルディーニ司教! し、しかし……! このエルベ修道院で公爵家のご令嬢を修道女として迎え入れるなどという大任を、私ごときが……!」
「あら? 女神に仕える者は全てが平等よ。これからは修道女として神への奉仕に励む者に世俗の身分は関係ないわ」
「そ、そうは言いましても、政治的な影響がまったくないわけでは……うっ、胃が……」
フランツ司祭が腹を押さえている横で、アストリッドが馬車から降りてきたエセルの前にぴょこんと立った。
ヴェールに覆われた猫耳がぴこぴこと揺れ、エセルに興味深々といった表情を向けている。
「はじめまして! 私はシスター・アストリッド――アストリッド・ハーラルスドッティルです! ようこそエルベ修道院へ!」
満面の笑みで両手を差し出すアストリッド。
初対面の相手が元公爵令嬢だろうと婚約破棄された傷心の女性だろうとお構いなしの、暴力的なまでの明るさだった。
エセルは一瞬きょとんとした後、柔らかく微笑んでその手を取った。
「ありがとう、アストリッド。エセルフリーダ・ルナス・ブラックウォールです。これからお世話になりますわ。ところでその姓――ノルドヘイムの出身ですか?」
「はいっ! その通りです! よくご存じなんですね。やっぱり公爵令嬢様は物知りなんだー!」
「ふふっ、私はもう公爵家の娘ではありませんわ。あなたと同じ女神様に奉仕する者よ」
「そ、そうですか!? そ、そうですよね、エセルフリーダ様――いえ、エセル様とお呼びしてもいいですか!」
「ええ、もちろんですわ。でも“様”はいりません。エセルとお呼びください」
「はい! エセルさん!」
うおっ、まぶし!
アストリッドの暴力的なまでの明るさに、エセルの聖女のような包容力が加わって眩しさが倍増どころか乗算だ。
うん……ここならきっと大丈夫。この天真爛漫な光の塊が、エセルの傷を少しずつ癒してくれるだろう。
さて――私もいつまでも侍女のふりをしているわけにはいかない。
私はフードに手をかけて、ゆっくりと下ろした。
抑え込まれていた銀髪と狼耳が、初夏の風を受けてふわっと揺れる。
「おひさしぶりです。フランツ司祭、アストリッド」
「あっ! リリアーネ様だ!」
「え――、伯爵……様!?」
フランツが固まった。
目の前の侍女が、こともあろうにアッシュフィールド伯爵リリアーネその人であることに、彼の脳が追いつくまで数秒を要した。
「り、リリアーネ様……!? な、なぜ侍女のお姿で……!?」
「いろいろあったのよ。長い話になるから後で説明するわ」
「いろいろって、何が……えっ、ではこちらの方は……」
フランツの視線がステラに向く。
ステラもフードを外し、無表情のまま「ステラです。おひさしぶりです」と名乗った。
「ス、ステラさんまで侍女の……えぇぇ……」
フランツが頭を抱えた。
公爵令嬢の預かりだけでも胃に穴が開きそうだったところに、領主まで侍女に身をやつして来た。
そりゃ混乱するのも無理はない。
ごめんねフランツ。でも事情があったのよ、本当に。
※
修道院の客室に荷物を運び入れ、私たち一行はひとまず落ち着いた。
私もようやく侍女服を脱ぎ、伯爵としての普段着に着替えることにした。
侍女リリーの旅はこれでおしまい――これからはアッシュフィールド伯爵リリアーネ。
一方、アストリッドに案内されたエセルは、彼女が使うことになる小部屋を確認した後、静かに一つの願いを口にした。
「そろそろ世俗に別れを告げようと思います」
「あ、はい。わかりました……」
アストリッドはその言葉の意味に気付いたようだった。
「そうですね……ではアストリッド、あなたの手で髪を――私に世俗への別れを告げさせてください」
「……いいのですか私で?」
「はい。お願いします」
アストリッドはうなずくと、エセルと共に小部屋に入室する。
アストリッドの腕にはエセルが腕を通すこととなる修道服が抱えられていた。
エセルに用意された部屋の扉が、静かに閉じられた。
壁一枚隔てた向こう側で、二人が何をしているのか。
私たちの誰もが、分かっていた。
私はリュシアやアルフレッドと共に、修道院の渡り廊下で待つ。
夕刻の柔らかな光が、回廊の石壁に影を落としていた。
そして――扉が、開く。
最初に目に入ったのは、黒い修道服だった。
エルベ修道院の修道女が着るものと同じ、質素で飾り気のない黒衣。
白い襟が首元を包み、修道女のヴェールが額を縁取っている。
そして――髪。
背中まで流れていたあの艶やかな黒髪が、肩口で切り揃えられていた。
エセルフリーダ・ルナス・ブラックウォール――ブラックウォール公爵家の長女として、王妃候補として、王国随一の淑女として生きてきた彼女の象徴だった長い黒髪はその役目を終えていた。
代わりにそこに立っていたのは、一人の修道女だった。
肩口で揺れる短い黒髪。修道服の黒と白。
けれどその瞳は、変わらなかった。
瑠璃色の瞳は晩餐会であの宣告を受けた夜と同じ光を湛えていた。
揺るがない、静かな、毅然とした光。
「お待たせしてしまいましたわ」
エセルは微笑んだ。
まるで、ただ着替えてきただけのように。
声も、所作も、何一つ崩れていなかった。
「――姉上」
アルフレッドが、かすれた声で呼んだ。
彼は目を見開いたまま、神に仕える者となった姉の姿を言葉もなく見つめていた。
やがてその目元に涙が滲み、唇が震えた。ぐっと唇を噛み締め、涙を拭おうともしない。
ただ静かに、涙を流した。
「……綺麗だよ、姉上」
震える声で、それだけを言った。
エセルは弟の元に歩み寄り、手を伸ばして彼の頬に触れ涙をそっと拭った。
「ありがとう、アルフレッド。あなたがここまで送ってくださったおかげで、わたくしは胸を張って新たな道を歩めますわ」
アルフレッドは何か言おうとして、言葉にならず、ただ頷いた。
リュシアも何も言わず腕を組んでいる。
フランツはハンカチで目頭を押さえていた。
アストリッドは――涙こそ流していなかったが、いつもの無邪気さが静まり、ただまっすぐにエセルを見つめていた。
私は何も言えなかった。
言葉が見つからない。どんな言葉も、この瞬間には足りない。
だから私はただ、エセルの姿をしっかりと目に焼き付けた。
公爵令嬢エセルフリーダの最後の姿ではなく、修道女エセルフリーダの最初の姿として。
※
日が落ちるまでの短い時間、アストリッドはエセルの手を引いて修道院を案内して回った。
薬草園、礼拝堂、食堂、洗濯場。そしてチーズやビールの工房。
二人が廊下の角を曲がって見えなくなる直前、エセルがふとこちらを振り返った。
その顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
大丈夫ですわ、と。その目がそう言っているように見えた。
「ところで、バルディーニ司教」
エセルが修道院の案内に出ている間、フランツが恐る恐るリュシアに話を切り出した。
胃痛が少しはおさまったのか、もうお腹を押さえてはいない。代わりに両手の指をそわそわと組み合わせている。
何か言いたいことがあるが切り出しにくい、という顔だ。
「なにかしら、ミュラー司祭」
「あの……エセルフリーダ様なのですが……」
「うん」
「その、聞くところによれば、教養の一環として歌や詩の素養もおありとのことで……」
「……ふうん?」
リュシアの目がすっと細くなった。
「……もしかして、福音劇に出そうとしてる?」
「け、決してそのような不謹慎な! ただ、修道院での生活に馴染んでいただくためには、何かやりがいのある活動があった方がよろしいのではないかと……」
「やりがい、ねえ?」
「ええ! アストリッドとの共演となれば修道院のためにも、エセルフリーダ様のお心の慰めにもなりまして、ひいては教区全体の……」
「それ、修道院の収益のことでしょ」
「……も、もちろんそれも、ございます、が……」
フランツ司祭は目を泳がせた。
この兄さん小心者のくせ異常なまでにクリエイティブな才能をマネタイズする手腕がある。
アストリッドを見出した時もそうだった。財政難に苦しむ修道院を救うために、歌って踊る修道女という前代未聞の発想に辿り着いた人物だ。
そして今、傷心の公爵令嬢が修道院に来ると聞いて、即座に彼女が持つ教養を活かして福音劇を公演しようと画策している。
計算高いと言えばそうだけど、彼なりにエセルの新しい居場所を真剣に考えているのだろう。
「まあ、エセルさん本人が望むなら止めないわ。ただし無理強いは許さないからね」
「も、もちろんでございます!」
フランツが勢いよく頭を下げた。
その目には胃痛とは別種の、新しい企みへの密かな輝きが宿っていた。
元公爵令嬢がわけあってアイドル――うん、これ絶対に面白い。
※
日が暮れた。
護衛の兵士たちは明朝には王都に向けて発つ支度を始めていた。
私もここで一泊して明日領都に戻る予定だ。
彼らのエセルの護送任務は完了した。だからアルフレッドも彼らと共に王都への帰路につくことになっているのだが――
「リリアーネ様」
「なにかしら」
「……一つ、お願いがあります」
修道院の門前で、アルフレッドは私の前に立った。
夕闇の中、松明の明かりが彼の横顔を照らしている。
黒髪の端正な顔立ちの少年。兄よりも線の細い、優しげな顔立ちの少年が、静かに私を見つめていた。
その瞳は何かの決意を湛えている。きっとずっと考えていたことなのだろう。
「アッシュフィールド領に、しばらく俺を置いてください」
静かで力強い声だった。
初めて出会った時のような、どこか軽い響きはすっかり消えていた。
自分の中で考えに考え抜いた末の、覚悟を決めた声だった。
「父上と兄上はブラックウォール家を守るために残っている。姉上は修道院に入った。皆、己の役目を果たすために道を選びました。でも、俺だけが未だに立ち位置も定まらず、迷っている」
「……」
あの無邪気で率直な少年が、自分の無力さと向き合っている。
公爵家の末子として何の役割も果たしていない現実を。
きっとモラトリアムがゆえの贅沢な悩みなのだろう。しかし十五の少年にとっては切実な問いだ。
自分は何のために、どこにいるべきなのか。
だからエセルの護衛任務が終わった今、彼は新たな一歩を踏み出そうとしている。
「こちらで何か学ばせていただけないでしょうか。勝手なお願いだとは承知の上ですが――お願いします」
「公爵は――あなたのお父様はこのことを知ってるのかしら」
「出立前に伝えております。姉上の護衛が終わればあなたの下で学びを得たいと。父上は……それを承諾してくださいました」
「……そう」
ここでアルフレッドが嘘を吐くような人間ではないだろう。
エルウィンがそれを許したのだとすれば、彼なりに息子の成長を願い、そして……私に何かを期待してのこと。
この青年を預かるということの重みを、私は考える。
でも考える前に、私の中に答えは決まっていた。
「いいわよ」
「……え?」
「いいわよ。アッシュフィールドに来なさい。やることならいくらでもあるわ」
アルフレッドは一瞬きょとんとした顔をした後、ぱっと表情が明るくなった。
「ありがとうございます、リリアーネ様!」
「なら、一つ条件があるわ」
「条件?」
「様付けはやめて。他人行儀だし、こそばゆくて仕方ないわ。リリアーネ、でいいから」
「えっ、でも伯爵様に対してそんな――」
アルフレッドが慌てる。
立場が上の伯爵にタメ口だなんて真面目なレオフリックが知ったら叱るどころか卒倒ものだ。
「私がいいって言ってるのよ。それにうちの領地はね、ヤクザの親分が出入りするし、元暗殺者がメイドやってるし、不良聖女が教区を仕切ってるし。もう、あんた一人くらいタメ口で喋るなんて可愛いものよ」
「……それは、すごいですね……いや、すごいな」
ぎこちなく口調を崩すアルフレッドに、私は軽く笑った。
「じゃあ――リリアーネ、と呼ばせてもらうよ」
「うん。よろしくね、アルフレッド」
私は微笑んで手を差し出した。
アルフレッドがその手を握り返す。
まだ少年の手だった。けれど掌には剣を握り続けた硬い豆がいくつも残り、その握りは思ったよりもずっと力強かった。
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