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第79話 侍女リリー、最後の関所で詰む

 旅は順調だった。

 王都の南門を発ってから六日目の朝を迎えた時点で、私たちの一行は予定通りの行程を進んでいた。

 毎日の流れは単調ではあったが、緊張が途切れることはなかった。

 宿場では私とステラは侍女として振る舞い、エセルの身の回りの世話をしつつ人目を避けた。

 最初の二日は偽名で呼ばれるたびにぎくっとしたけれど、三日目にはだいぶ慣れた。


 エセルは申し訳なさそうな顔をして私を侍女として扱う一方で、リュシアのやつはこれ幸いとばかりにあれこれ雑用を押し付けてくる。お茶を淹れろだの、肩を揉めだのといったものだ。

 つい本音を言ってしまいそうになりながらも、そこはなんとか無言で押し通す。くそ、覚えてろよリュシア。


 王都へ向かう途中にも通った土地――ブラックウォール領も今回は通った。

 普段の公爵一家は王都に住んでいるとはいえ、本拠地では今も領民のために働く家臣が残っている。

 エセルとアルフレッドの里帰りの挨拶が、出家の報告だなんて家臣の胸中は穏やかではないだろう。


 私も王都の行きがてらに立ち寄ったブラックウォール城の家令の人と挨拶をしたかったのだが、あくまで今の私の身分は侍女のリリーであるため、エセルの侍女に徹して彼との面会は遠慮した。

 城の窓から見える中庭を眺めながら、「次にこの土地を訪れる時は、堂々と名乗れるといいわね」とステラに呟いたら、ステラは「その日が来れば」と短く応じた。


 ブラックウォール領を抜けると、次に訪れるのは因縁のヘルマンシュタイン領だ。

 ここに足を踏み入れるとアッシュフィールド領までもう少し、ではあるがヘルマンシュタイン領はやたら東西に長い。ふと前世の記憶が蘇り、高速道路で静岡県を走り抜けるあのうんざりする長さを思い出した。


 窓の外に流れていく風景は、前回と大して変わらないように見えた。

 賠償金の支出による疲弊は続いているようだが、見るからに町が廃れていたりする様子はない。

 なんとかやりくりはしている――そんな表現が一番しっくりくるだろうか。


 気になったことと言えば、ある宿場で御者が馬の世話をしている間に、街道沿いの農夫たちが交わしている会話を小耳に挟んだことだ。


「今年の麦はどうも去年ほどじゃねえな」


「まあ去年が出来すぎだったんだろ。今年は普通ってところだ」


「去年は豊作すぎてメシには困らんかったけどあまり儲からんかったからな、今年はもうちょい値が上がってくれりゃあいいんだが」


「そら、女神様次第だぜ」


「だな」


 普通、か。

 確かにそうかもしれない。前年が豊作であれば、翌年がそれより下がるのは自然だ。

 飢饉に備えてうちもイリヤに命じて穀物を年明けから少量ずつ買い付けさせていたけど、今年の様子では不作で国全体に飢饉が来る心配はなさそうだ。


 初夏の穏やかな風が吹き抜けていく。

 もう暦は六の月に移っていた。


 ※


 旅路も七日目。

 ヘルマンシュタイン領の東端に設けられた関所。ここを抜ければもうアッシュフィールド領だ。

 エルベ修道院まではもう目と鼻の先。


「あと少しね」


「ん。でも最後まで油断はしないで」


 ステラが静かに言った。

 彼女の言う通りだった。王都の門は何事もなく通過できたし、道中の宿場でも誰にも怪しまれなかった。

 けれど、それは私たちが幸運だっただけかもしれない。最後の関所まで、気を抜いてはならない。


 馬車が速度を落とし始めた。

 関所の建物が窓越しに見えてくる。

 王都の検問所よりはずっと小さな、街道を跨ぐ簡素な木造の番所。勝手に抜けられないよう柵が設けられ、衛兵が数人、通行する旅人や荷馬車を一台一台確認していた。

 王都のような警備の厳重さはないが、だからといって手を抜いているわけでもなさそうだった。


 先頭の馬車が停まる。

 リュシアが教会公印入りの書類を差し出す声が、わずかに聞こえた。

 ややあって、先頭の馬車は何事もなく通された。

 ――次が、私たちの番だった。


 御者が書類を差し出す。衛兵が受け取って目を通す。

 私は王都の門と同じように膝の上で両手を組み、顔を伏せた。

 ここまで何度もやった動作だから、もう体が覚えている。

 しかし――今度は、すぐに「お通りください」の声が来なかった。


「――少々お待ちください」


 衛兵の声が聞こえた。

 若い声ではなかった。落ち着いた、低い声。


「書類に不備はございませんが、お手数ですが馬車の中の人員を一度確認させていただきたい」


 私の心臓が、どくん、と跳ねた。

 御者も正当な検査としか思えないこの要求を断るわけにはいかないようだった。


 嫌な予感。

 書類に記載されているのは侍女のリリーとエステルの二名。人数は合っている。

 ただ、馬車を開けさせられて私たちが外に出れば、衛兵の目に直接晒されることになる。

 この七日間、馬車を開けて中を検められたことは一度もなかった。

 どの関所でも教会公印で素通りだった。なのに、最後の最後に限って――


 馬車の外からリュシアの声が聞こえた。どうやら先頭の馬車から降りて戻ってきたようだ。


「衛兵様、教会公印が捺された身柄移送の書類でございますが?」


「重ねてのお言葉、恐縮でございます。しかしながら、こちらにはこちらの規定がございまして」


 衛兵として正当な職務を遂行しているだけ。

 その声には嫌な響きはない。真面目に職務に当たっているだけの、誠実な仕事ぶりが伝わってくる。

 ゆえにリュシアとて強引に押し通るのは憚れるのだろう。

 ステラがちらりと私を見た。


「……降りたほうがいい」


 小声で囁くステラに、私は頷いた。

 ここで拒否し続ければ、かえって怪しまれる。

 馬車の扉が開かれ、私とステラは外に出た。


 関所の前には二、三人の衛兵が立っていたが、先ほどから声を出していたのは、その中で最も年嵩の男だった。


(やっべ……この兵士、行きの時に私の応対した人だ……!)


 他の衛兵は知らない顔だったが、彼だけは面と向かって応対した。

 堂々とリリアーネ・アッシュフィールドと名乗って関所を通過した因縁の相手、その顔を覚えていないなんてことはあり得ない。

 フードを被っているから狼耳までは隠せていても、目と口元だけはしっかりと見えている。

 書類に記された人員と照合するかのように、男は私とステラをじっと見た。


「お二人が侍女の……リリー殿とエステル殿ですね」


「はい、さようでございます」


 ステラが一歩前に出て、淀みなく応じた。

 頭を軽く下げ、目を伏せ、声も姿勢もまさに「長年仕えた侍女」そのものだった。

 さすが元工作員の本領の発揮だ。


 衛兵の目がステラからゆっくりと私に移った。

 私も同じように目を伏せ、「リリーでございます」と名乗った。

 声は震えていなかったと思う。怪しいと思われてはいない、はず。

 

 衛兵は、しばらく私を見ていた。

 数秒。

 何かを確かめるように、私の全身を視線で巡っている。

 フードの下の銀髪は見えていないはずだ。狼耳もフードに収まっている。

 けれど――この男は、何かに引っかかっている。


 なんだよこいつ、こんな時に“長年の経験に基づいた勘”とか働かせるなよ……!

 そういうのは私以外の禁制品とかの密輸を見抜くときに使ってくれ!


 何が引っかかっているのか、たぶんこの衛兵自身にもわからない。

 ただ長年の勘が、この女は何かが違うと告げている――そんな引っかかり方のようだった。


「――失礼ですが」


 衛兵が一歩近づいた。


「フードを取っていただけますか?」


 心臓が跳ねた。

 フードを取れば銀髪と狼耳が露わになる。

 バレたところで即座に逮捕・拘束されるわけではない。ただなぜアッシュフィールド伯爵が、身分を偽って――しかも公爵家や教会と結託してまで関所を通ろうとしたのか、必ず王都に報告が行く。


 私への処分はいい。

 だけどこの計画を主導したエセル――ブラックウォール家がまたぞろ追及を受け立場が悪くなるのは必至だ。

 それだけは……! それだけは避けなければ……!


 何か言わなければ。何か対処しなければ。

 頭の中で選択肢が高速で回転する。

 従うか。拒むか。何か言い訳を――


「このグズ! あんたのせいでエセル様が足止め食らってるじゃないの!!」


 隣から爆発するような怒声が飛んできた。

 私は文字通り飛び上がりそうになった。

 ――ステラ?

 ステラだった。

 いつもは澄ました表情の彼女が、目を剥いて、私を睨みつけ怒声を浴びせていた。


「昨日の宿場でも荷物を取り違えたばっかりでしょう!? 今日は今日で衛兵様のお手まで煩わせて! いつになったら一人前になるの!?」


「ぇ、あ、も、申し訳ございませ――」


 ステラは腰に手を当てて私を叱り飛ばしていた。

 声量も表情もまるで別人。普段のステラからは想像もつかない、先輩侍女の凄まじい剣幕だった。

 だがその片方の瞼が、ウインクをするように閉じられた。「合わせて」――その意図はすぐに伝わった。


 しかし、しかしだ。

 今私はステラの剣幕に本気でびびっている。演技だと分かっているのに怖い。

 衛兵は明らかに困惑していた。

 書類確認の現場で突如始まった侍女同士の内輪揉めに、職業意識の高いベテランとしてどう対処すべきか戸惑っている。

 護衛として随行してるアルフレッドもどうすればいいか判断しかねているようだった。

 リュシアというと――これが関所をやり過ごすための芝居だと見抜いているようで、口元に薄笑いを浮かべて腕を組んでいた。


「言い訳するな! 今までいったい何回あんたの失態でエセル様にご迷惑をおかけしたと思ってるの!?」


 激高したステラは手を振り上げた。

 マジ? 演技といえ殴られそうだけど!?


「エステル、おやめなさい」


 振り上げられたステラの手を、穏やかな声が制した。

 先頭の馬車から降りてきたエセルが、ステラに近づいてくる。

 穏やかだが、有無を言わせぬ響きを持つ声。

 公爵令嬢として培われた、場を支配する声だった。


「リリーは初めての長旅で緊張しているのですよ。あなたも初めて私に仕えたころは失敗してばかりでした。そうではありませんか? 先輩として気持ちは分かりますけれど、衛兵殿の前で見苦しい姿をお見せしてはいけませんわ」


 ステラは「……失礼しました」とぴたりと口を噤んだ。

 私も「申し訳ございません」と深く頭を下げた。

 エセルは衛兵に向き直って、穏やかに微笑んだ。


「衛兵殿、お騒がせして誠に申し訳ございません。この娘は新参の粗忽者ゆえ、私がきちんと叱っておきますのでどうかお許しを」


 エセルが小さく会釈する。彼女は完全に場を支配していた。

 さしもの職務に忠実な衛兵も、公爵令嬢自ら頭を下げられてはこれ以上強くは出られない。


 そこにリュシアが歩み寄った。

 エセル移送の全責任を負った司教としての威厳を纏い、衛兵の正面に立って静かに口を開いた。


「衛兵様。あなた様のご職務熱心には、誠に頭が下がりますわ」


 柔らかな声。けれど、目が笑っていなかった。リュシアは鋭く衛兵を見据めている。

 その眼光の凄みに、衛兵はひゅっと息を呑んだ。


「しかし、ご存知かと思いますが、私たちの目的は衆目に晒すべきものではございませぬゆえ。傷心のエセルフリーダ様を晒し者にすることはできません。エセルフリーダ様の思いに応えるため、一刻も早くエルベ修道院へ向かわねばならぬのです。これ以上の遅滞となれば教皇庁としても看過できぬことになりますので、どうかご高配くださいますよう」


 衛兵の表情が強張った。

 リュシアは遠回しに「これ以上は教会案件になるぞ」と脅した。

 たとえ自分の判断が正しかったとしても、教会が直々に正式に抗議を寄せでもしたら、末端の衛兵なぞたちまち職を追われるだろう。

 ベテランの彼はそれくらいのことはすぐに察した。

 長年の経験で、自分が踏み込んでいい一線というものをしっかり理解していたのだろう。


 関所を通る人々が私たちに注目している。

 ヒソヒソと「あれはエセルフリーダ様? 噂はやはり――」「お労しや……」などと囁き声が聞こえてくる。

 エセルはそんな声などどこ吹く風のようだった。


 沈黙が、数秒流れた。

 衛兵は深く息を吐いた。


「……失礼いたしました。書類で確認は取れております。どうぞ、お通りください」


 その声にはまだ納得しきれない何かが残っていた。

 けれど彼は馬車隊に通行の合図を送る。


 私たちは急いで馬車に乗り込んだ。

 エセルが先頭の馬車に戻り、リュシアがその後に続く。

 扉が閉まり、御者が手綱を振る。

 馬車が動き始めた。関所が、背後に遠ざかっていく。


 ※


「……ステラ」


「ん?」


「本気で怖かったんだけどアレ」


「演技。リリアーネがパニックになってたのわかったから、とりあえず衛兵の意識を逸らすため」

「そりゃあそうだけどさ、叩こうとしてたよね!?」


「エセルが止めた」


「エセルが止めなかったら私殴られてたよね!?」


「うん。その時はしょうがない」


 相変わらず涼しい顔で返すステラに、私はため息をつくしかなかった。

 私は肩を抜いて、座席の背もたれにどさりと体を預けた。


「でも助かった。ステラがいなかったらどうなっていたか……あとエセルもリュシアも」


「さすが。すぐに私の意図に気付いて動いてくれた」


 ステラはふっと口元に笑みを浮かべる。

 窓の外に広がる景色が、見慣れたものに変わり始めていた。

 なだらかな丘陵。深緑の針葉樹林。遠くにうっすらとエルベ谷に続く山の稜線。

 アッシュフィールド領。

 私の領地。


 ――帰ってきた。

 口にはしなかったけれど、およそ二か月ぶりの帰還に胸の奥からじわりとこみ上げるものがあった。

 エルベ修道院まで、あと少し――

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