第78話 さよなら王都、夜逃げ大作戦――開幕
ブラックウォール邸の客室で目を覚ましたのは、夜が明けきる前のことだった。
昨夜のうちに人目を避けて移動してきた身としては、慣れない寝床でもよく眠れたほうかもしれない。
窓の外はまだ薄暗い。鳥の声がぽつりぽつりと聞こえ始めたばかりの時刻だった。
「リリアーネ、起きてる?」
「ええ、起きてるわ」
扉の向こうから声をかけてきたのはステラだった。
既に身支度を整えた彼女が腕を通しているのはいつものメイド服ではなく、地味な色合いの旅装だった。侍女と偽るために必要な最低限の装いだった。
「はいこれ。リリアーネの分」
「ありがとう」
私もステラと同じ服を手に取る。
前の晩にリュシアが用意してくれた移送隊の侍女としての制服だった。
「……うわ、本当に侍女服ね。メイド服よりずっと地味」
「リリアーネは今日からただの侍女のリリー。私はエステル」
「リリーとエステル、本名とほとんど変わらないじゃない」
「偽名に凝るより、自分の名前に近い方がつい言い間違えない。だからこれくらいがちょうどいい」
私は侍女服に袖を通していく。
メイド服とデザインが違うのは狼耳を隠すためのフードを違和感なく合わせるためだった。
フードのついた服は、一見して見ればメイド服より地味で動きやすいものに見える。
「ずっと貴族の娘やってたからこういう服は初めてかも……」
「それって私への当てつけ?」
「あはは、ステラもそういう冗談言えるようになったのね」
「私としては、こういうこと言ってもリリアーネが軽く流すようになったのが進歩かも」
ステラが口元を軽く綻ばせる。
言われてみればそうかもしれない。稀にステラは自分の生い立ちを自虐したようなブラックなジョークを言うことがあるが、その度に反応に困っていたと思う。
確かにステラは過酷な人生を歩んできた。革命によって滅んだ亡国の皇女として。
私がその生い立ちに重い気持ちになるのは当たり前だけれど、過度にその過去を気に揉んでしまうのはきっと彼女自身が望まない。
ステラ自身が皮肉と冗談で軽く流そうとしているのなら、こちらも一緒に軽く受け流すのがちょうどいい距離感なんだろう。
「……身分なんて、衣服一枚で簡単に変わるものね」
「まあ、見る人が見れば平民らしからぬ垢抜けさに気づくかもしれないけど。こればかりは一朝一夕でどうにかなるものじゃない」
「ステラは“本職”だったものね。身分相応の気配の作り方はお手の物、と」
「まあね。そこは職業意識」
軽口を交わしながら着替えを済ませる。
貴族の服に比べたらずっと簡素な造りのため、あっという間に身支度が済んでしまう。
姿見の前に立った私はただの侍女。ぱっと見で正体がばれる要素は無さそうだ。
「リリー、よく似合ってる」
「やめてよ、その呼び方」
「練習しないと、本番で反応に遅れる」
「……うう、それもそうね」
ステラの言うとおりだった。慣れない名前で呼ばれて反応できなければ、関所で命取りになる。
私はもう一度、鏡の中の自分に向かって「リリー」と小さく呼びかけてみた。
ぎこちなく、けれど確かに、それがアッシュフィールド領に帰るまでの私の名前だった。
※
階下に降りていくと、玄関広間の方からかすかに人の気配がした。
昨夜のうちに私たちと一緒にここへ移ってきていたクルトが、廊下の隅で所在なげに立っていた。
私が現れると、彼は深く頭を下げた。
「リリアーネ様」
「クルト」
「お屋敷を空けてしまうこと、改めてお詫び申し上げます」
「あなたが詫びることじゃないわ」
私は彼の前に立ち、まっすぐに目を合わせた。
ホルン村の異変を最初に私に伝えてくれたあの日と、ほとんど変わらない真摯な表情。
ただあの時は彼が故郷のために頭を下げていて、今度は私のために頭を下げている。
「あなたはホルン村の異変を知らせてくれた。あの一報がなければ、瘴柱は手遅れになっていたかもしれないのよ」
「もったいないお言葉でございます」
「ブラックウォール家にしばらく厄介になるけれど、公爵様が必ずあなたを守ってくださるわ」
「……はい」
クルトはもう一度深く頭を下げた。
私は彼の肩に軽く手を置き「また、いつか会いましょう」と微笑んだ。
玄関広間に出ると、エルウィンとレオフリックがすでに待っていた。
二人からはあの晩餐会の日のような悲壮感は感じない。ただ、出家するエセルを見送る、親族としての静かな雰囲気だけが二人を包んでいた。
「よお、リリアーネ殿はよく眠れたか?」
「ええ、おかげさまで。お世話になりっぱなしで申し訳ございません」
「気にするな。まあエセルからあんたを王都から連れ出す話を聞いたときは俺もびっくりしたがね」
エルウィンは苦笑する。
確かに彼らも半軟禁状態に置かれている私の事情は把握していただろうが、晩餐会のこともあって私の拘束を解くような動きはできなかったはずだ。それをまさか強行突破を図ろうなんてことを娘が提案してくるなんて、きっと予想外だっただろう。
「姉上の大胆さ、やはりブラックウォールの血を一番に濃く受け継いでいらっしゃるなと存じます」
「そこは跡取りとしてもう少し悔しんでくれよ、レオ」
「残念ながら私は臆病な人間ですので。姉上には姉上の、私には私の、それぞれにやるべきことがございます」
レオフリックは微笑み、エルウィンは肩を竦める。
晩餐会で退場していった彼らにその後どんな会話があったのかは知らないし、聞くつもりもない。
けれどこのやり取りが、彼らの家族の絆の強さを感じさせるものだった。
「リリアーネ様。姉上とアルフレッドのこと、どうかよろしくお願いいたします」
「ええ――と言ってもエルベ修道院に着くまではこうして侍女のふりをするだけどね。むしろ私がエセルとアルフレッドに守られる立場よ」
「はは、確かに」
レオフリックが頷いて微笑む。
和やかな雰囲気の中、広間の奥の扉が開く。
そこから現れたのは、優雅な足取りで歩くエセルと、その後ろに控えるアルフレッドとリュシアだった。
地味な紺色のドレス。装飾は何もない。髪は結い上げず、後ろで一つに束ねただけ。
まだ修道女の装束ではないが、もう公爵令嬢の華やぎはどこにもない。
その中間の、これから別世界へ渡る者の装い。それでも優雅さだけは変わらない、凛とした姿だった。
「お待たせしてしまいましたわ、リリアーネ」
いつもと変わらぬ、清らかで穏やかな声。
あの晩餐会の夜、毅然と王に礼を返したあの声と、何一つ変わっていなかった。
私は何かを言おうとして、けれど言葉が出てこなかった。
ごめんなさい、ありがとう、申し訳ない、お元気で――頭の中をいくつもの言葉が駆け抜けて、どれも口にする前に消えていった。
「エセル……」
ようやくその名前を呼ぶことしかできなかった。
エセルは私の元に歩み寄り、そっと両手で私の手を取った。
「そんなお顔をなさらないで。今日はわたくし、ようやく旅に出られて嬉しいくらいですのよ」
「……エセル、私は」
「お礼を言わせてくださいませ」
エセルは少し首を傾げて、いたずらっぽく微笑んだ。
「ただの出家にあなたを巻き込むことができて、本当に嬉しく思っています。貴族社会を捨てるわたくしは、貴族として、友人として、あなたをこれ以上助けることができません。それでも最後に領地に帰れなくて困っているあなたのお役に立てる――これ以上嬉しいことはありません」
エセルは、私の手をぎゅっと握った。
温もりを手に感じて、涙がこぼれ落ちそうになるものを必死に堪える。
「エセル、私……あなたに何もできなかった」
「いいえ。あなたがいてくださるから、わたくしは胸を張ってエルベ修道院の門をくぐれます。これから同じアッシュフィールドの地であなたの無事を女神様に祈って過ごさせていただきますわ」
ほんと……この期に及んで私のために祈りを捧げてくれるなんて。
エセルは本当にいつもそうなのね。自分のこと以上に、周りのことを考えて。
「姉上もリリアーネ様も、俺がしっかりお守りします」
「アルフレッド……姉上とリリアーネ様を頼んだぞ」
「ああ、兄貴も親父を頼む」
後ろでエセルと私を見守っていたアルフレッドとレオフリックが、互いに頷き合う。
男子三日会わざればなんとやら、カフェで会った時のアルフレッドと比べたらずいぶん顔つきが変わったように思えた。
エルウィンも二人の後方で腕を組みながらうんうんと頷いていた。
「ふふっ、リリアーネのその装い、よく似合ってますよ」
「もう、エセルまで」
「本当よ、リリアーネ。あなたはどんな服でも似合うわね」
エセルに続いてリュシアも軽口を叩く。
むっ……エセルは本心から似合ってると言ってくれたようだけど、リュシアが言うとからかってるようにしか聞こえないぞ。
「はいはい、リュシアが言うと説得力に欠けるわよ」
「そう? まあ、それはさておき。あなたがしっかりアッシュフィールド領に帰るまでが私のもう一つの仕事よ。関所でヘマしないように」
「わかってるって」
※
敷地内の車寄せには馬車二台が用意されていた。
先頭の馬車は教会の紋章を慎ましく掲げ、これにエセルとリュシアが乗り込む。
二台目は荷物用の地味な馬車で、こちらには私とステラが乗り込むことになっている。
随伴する騎馬は数騎。そのうちの一騎がアルフレッドだった。
帯剣し、軽装で備えた彼はすっかり一人前の騎士といった姿で、私たちを引き連れる一行の指揮を執る。
その姿にはブラックウォール家の名を背負う者の風格がすでに表れ始めていた。
「リリアーネ様」
アルフレッドが私に気づいて、馬上から軽く頭を下げた。
「道中、命に代えてもみなさんを守ります。ご安心を」
「あはは……そこまで硬くならなくても大丈夫よ。賊の千人ぐらいならリュシア一人で退けてくれるわ」
「えっ……バルディーニ司教が?」
「あら、あなた知らなかった? 彼女の肩書き、司教だけでなく聖銃騎士ってのもついてるわよ」
その言葉にアルフレッドはぽかんと口を開けていた。
ふふっこの反応、本当に知らなかったようね。
「でも、彼女が聖銃を抜けるのは余程の非常事態だけ。だから、それまではあなたたち護衛がしっかり守ってね」
「は、はい!」
アルフレッドが慌てたように頷くのを笑って見送り、私は二台目の馬車に乗り込んだ。
「リリアーネ、そろそろ出るわよ。早く乗って」
リュシアが先頭の馬車から顔を出した。
「わかったわ。それと私のことは“リリー”って呼ぶのを忘れずにね」
「はいはい、礼儀正しいお侍女さん。いえ、“リリー”」
リュシアに偽名で呼ばれると、本当に自分が別人になったような気がした。おかしいけど、嫌いじゃない不思議な感覚だった。
私は馬車に乗り込む。本来は荷物用のため座席は簡素な造りで長時間乗ってると間違いなくお尻が痛くなりそうだ。
扉が閉まり、御者の掛け声とともに馬車がゆっくり動き始めた。
窓から外を覗くとエルウィンとレオフリック、そしてクルトの三人が並んで立っていた。
私は窓越しに小さく頭を下げるとエルウィンが片手を軽く挙げて応える。
レオフリックは深く一礼。クルトも倣って頭を下げた。
馬車が進むにつれて三人の姿が遠ざかってゆく。
「ようやく我が家に帰れるのね」
「ん……まだこれから」
私はもう一度、視界の端に消えていった三人の姿を心の中で反芻して、それから前を向いた。
※
王都の貴族街を抜けるまで、馬車隊は静かに進んだ。
窓の外を流れていくのは、見覚えのある石畳の通り。
叙爵式のために初めて通った道、繁華街でアルフレッド兄弟と出会ったコーヒー店のあった脇道、ローゼンシルト邸のあった方角、そしてエセルと共に祈った大聖堂。
およそ一ヶ月半の滞在だったけど、もう何年もここで過ごしたような感覚がある。
「リリアーネ、フードはまだ被ったままにして」
「分かってる」
ステラが小声で言った。
私はフードを目深に被り直して、視線を膝の上に落とした。
南門が見えてきた。
関所では衛兵が数人立っていて、馬車を停めて書類を確認している。
私は息を殺した。
書類は教会公印で通る、それは分かっている。けれど衛兵の気まぐれで、馬車の中を検められたら。
顔まで確認されたら、フードの下の銀髪と狼耳で正体が知れる可能性がある。
先頭の馬車が停まる。
リュシアが書類を差し出すのが、窓の隙間からわずかに見えた。
衛兵が頷き、書類を確認し、先頭の馬車に通行の合図を送る。
次が私たちの馬車だった。
御者が書類を差し出す。役人がそれを受け取って目を通す。
私は膝の上で両手を組み、顔を伏せた。
心臓の音がやけに大きく聞こえる。
ステラは隣で何の動揺も見せず、ただ侍女らしく目を伏せていた。
数秒。
永遠のように感じる数秒。
「結構です。お通りください」
役人の声がして、御者が手綱を振った。
馬車がゆっくりと動き出す。
門の下を抜ける。背後で門が遠ざかっていく。
しばらく無言で進んだ。
街道の両脇に建物が途切れ、畑と林が広がり始める。
馬車の速度が上がる。私はようやく一息つくことが出来た。
「……抜けたわね」
「抜けたね」
ステラが小さく頷いた。
その耳がフードの下でぴくりと動いたのが、私にもわかった。
エルベ修道院までおよそ一週間の旅路。
旅路はこれからなのに、王都を出た時点でその旅路はもう半分以上終わったような気がした。
次話の投稿は5/20を予定しております。
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