第77話 突然の胡散臭い訪問者
翌日。
リュシアとアルフレッドが訪ねてきた次の日の昼下がり。
明後日に控えたエルベ修道院への出立に向けて、私とステラは別邸の片付けにかかっていた。
とは言っても、運び出すものは少ない。
元々家具のほとんどは別邸に元から備え付けられていたものだし、こちらから持ち込んだのは衣類と書類くらいのもの。
実質夜逃げするような形なので、持って帰るものは最小限に留めたい。
クルトにも夜逃げ計画と彼をブラックウォール家で匿ってもらうことをすでに伝えてある。彼は困惑していたが、匿い先がブラックウォール公爵家と聞いて恐縮しながらも頷いてくれた。
書類を仕分けながら、私はぼんやりと考えていた。
明後日の朝、私はもう伯爵ではない。ブラックウォール家の侍女として、エセルの馬車に乗り込む。
私服と言えど貴族らしい煌びやかなドレスではなく、侍女の地味な衣服を纏い、馬車に乗り込む。
不思議な気分だった。
身分を偽って密かに王都からの逃亡劇。
まるで映画のワンシーンを自分が演じるようになるとは、と私は少しわくわくしている自分自身の姿に苦笑した。
「リリアーネ」
ステラが書斎の入り口から声をかけてきた。
彼女の声色がいつもより硬かった。
「来客」
「来客? 今日は誰の予定もなかったはずだけど」
私は書類を置いて立ち上がった。
アポ無しの来客は貴族社会で珍しいわけではないけど、いち地方伯爵の私にわざわざ予定の調整なく会うなんて……もしかして事情聴取の件でやっと役人が――?
応接間に向かう途中の廊下で、クルトと出くわした。
普段は穏やかな表情の彼が、明らかに緊張した面持ちで私の前に立った。
「リリアーネ様」
「クルト、お客様は?」
「あの……ゼーヴェルト公爵閣下が、お一人でお見えです」
その言葉に一拍足が止まった。
ゼーヴェルトが? わざわざ私のところへ? しかも一人で?
そもそも先日王都を発ったと聞いたばかりなのに――
混乱しかけた私の腕を、隣に立つステラがぎゅっと握って引き戻した。
「リリアーネ、ここではいくらでも動揺してもいいけど、ゼーヴェルトの前では動揺は抑えて。動揺した時こそ相手が聞いてないことをべらべら喋ってしまいがち。まずは落ち着いてゼーヴェルトの話を聞いて。彼に渡す情報の主導権は常にこちらが握っていなければならない。探りに来ただけなら、こっちは適当に相槌すればいい。彼が私たちの動きをある程度掴んでいるなら、核心的な部分は絶対にこちらから喋ってはいけない」
「わ、わかった……ありがとうステラ」
工作員仕込みの尋問対策というわけか。
ゼーヴェルトが何を知りたがっているかわからない。が、動揺して聞かれてもいないことを自分から話すことだけは避けなければいけない。肝に銘じておこう。
応接間のソファに腰掛けていたゼーヴェルトは、私が入っていくと優雅に立ち上がって一礼した。
彼は軽装の旅装で、今日が出発の日でたまたま私の屋敷に立ち寄った――そんな体を取っている。けど、絶対に偶然じゃない。
「これはこれは、アッシュフィールド卿。突然のご訪問お許しください」
「ゼーヴェルト公爵閣下にお目にかかれて光栄でございます。どうぞお掛けくださいませ」
形式的な挨拶を交わし、私もゼーヴェルトの向かいに腰を下ろした。
ステラは私の斜め後ろに静かに立つ。給仕の動作に入る前に、ゼーヴェルトが小さく手を振った。
「お気遣いには及びません。すぐに失礼いたしますゆえ」
すぐに失礼するつもり、と。
その言葉を真に受けて茶を出さないという選択肢はない。
お茶も出さずに公爵を帰すわけにはいかない。ほんとこういう形式ばった社交辞令って本当に面倒よね……
私は「さようでございますか」と微笑みで応じ、何事もなかったようにステラは紅茶を淹れてゼーヴェルトの前に置いた。
「閣下が王都にいらっしゃるとは存じ上げませんでしたわ。先日伺ったお話では、すでにご領地にお発ちであるとお聞きしましたので、てっきり――」
「はははっ、いやはや、話に尾ひれがついていたようでございますな」
ゼーヴェルトは朗らかに笑った。
相変わらず目元は笑わず、私を値踏みするかのような鋭い眼差しだ。
私はただ彼の笑いに合わせ、にこやかに返す。
「いえ、嘘ではないのですよ。三日前に出立の支度を整えた、というのは事実でございます。ただ、あれこれと用が重なりましてな。本日いよいよ発つつもりでおりますが、ご出発前にどうしても、と思い立ちましてこちらへ」
「まあ、わざわざこのような新参者の屋敷に」
「いえいえ、新参者などとんでもない。アッシュフィールド卿のご活躍は、王都でも諸方面で評判でございましてな」
はいはい。私の活躍とやらがどこでどう評判になってるのかしら、と笑顔のまま心の中で突っ込む。
ここで自分から余計な話を膨らましてはいけない。相槌を打ちつつ彼の言い分に耳を傾ける。
「お褒めにあずかり恐縮でございます」
「いや、本当のことですゆえ。さて――」
ゼーヴェルトが少し身を乗り出した。
「この頃の王都はどうも、空気が澱んできた気がいたしませんかな。アッシュフィールド卿はそうお感じになりませんか」
「と、申されますと?」
「いえ、大したことではございません。商人どもの噂話、街角の与太話、その類でございますよ。流言飛語と申しますか。陛下のお振る舞いをあれこれと取り沙汰する声が、ここのところ無視できぬほどに増えておりまして」
ゼーヴェルトは穏やかに、軽い世間話のように語った。
けれどその「流言飛語」という単語の重みは、私には十分に伝わってくる。
あの婚約破棄の一件が貴族社会だけでなく、市井の人々の間でも噂になっているということ。
市井の民ですら、王の振る舞いをあれこれと噂するまでになっている。
それは王権の威光が底から抜け始めている――ゼーヴェルトはそんなことを言いたいのか。
「とはいえ噂は噂、人の噂なぞ真に受けた振る舞いなどを貴族が取るべきではないと存じます」
「ははっ、全くもって仰る通り。我々貴族は貴族としての矜持を持って、流言飛語に惑わされずに陛下をお支えせねばなりますまい」
ゼーヴェルトは小さく笑う。
まるで私の反応を試すような言葉だった。何を聞きたいのか。
私がこれに食いつけばゼーヴェルトはどこまで喋るのか気にはなるが、ステラの言う通り聞かれてもいないことをこちらから喋るべきではない。
「ところで――もう一つ、近頃耳にした話がございましてな」
ゼーヴェルトが、わずかに身を寄せた。
「ブラックウォール家のご息女様におかれましては、教会へお身を寄せられるご決意を固められたとか」
心臓がどくんと跳ねた。けれど表情に表すわけにはいかない。
この情報は別に極秘というわけではないだろう。エセル本人やブラックウォール公爵が公式に発表していないだけで、すでに流れている可能性はある。
どうする? しらばっくれるか――? いや、私がエセルと懇意にしていることぐらいはゼーヴェルトも知っている。流石に知らないふりをするのは不自然かもしれない。
「アッシュフィールド卿は、エセルフリーダ様とご親交がおありとお聞きしておりましたゆえ。何かお耳に入っておられはしまいかと思いまして」
なるほど――そういうことか。
彼はエセルの出家自体の情報はすでに持っているが、それ以上の情報――いつ、どこへ、という部分が知りたいのだろう。
「……お話としては、わたくしの耳にも届いておりますわ」
私は穏やかに頷いた。
「エセルフリーダ様ご自身が、お心の整理のために修道女としての道をお選びになった、と。ご立派なご決断と存じております」
「ほう、やはりアッシュフィールド卿のお耳には届いておりましたか」
「ええ。ただ、それ以上の詳しい話となりますと、わたくしのような者の耳には」
ここで一度、肩をすくめてみせた。
知っているのは出家するという事実だけ。
「わたくしも晩餐会以来エセル様にはお目にかかっておりませんし、ブラックウォール邸の方々から具体的なお話を伺うような立場でもございませんわ」
晩餐会以来エセルに会っていない、というのは事実だった。だから嘘ではない。
しかし、昨日リュシアとアルフレッドが訪ねて来たことは完全に伏せた。
このやりとりで察したが、ゼーヴェルトは私とリュシアが繋がっていることまでは知らないようだ。
なんでもかんでもお見通しですよツラした態度だけど、そこは盲点のようだ。
ゼーヴェルトは、しばらく私を見ていた。
私の答えが本当に「それ以上知らない」なのか、それとも「知っているが言わない」なのか。判別しようとしている目。
「……左様でございますか」
彼は、納得したのか、納得しないまま諦めたのか、表情を緩めて頷いた。
しかし、声色には薄っすらと不満を含んでいるように思えた。
「それはそうと――お話は変わりますが」
ゼーヴェルトは、改めて声の調子を落とし直した。
不満げな声色もなりを潜めている。
「アッシュフィールド卿は、まだ王都にいらっしゃるご様子で?」
「……はい」
「失礼を承知でお尋ねしますが、ご事情がおありでいらっしゃると、宮内府の方面から漏れ伺っております。瘴柱の件で事情をお伺いしたいとかなんとか。それで領地に帰れぬままというご様子で」
来た来た来た。これが本題か。
今までは絶妙に私と直接関わらない出来事の話だったが、とうとう核心に近い部分に踏み込んできた。
彼は自分の情報網が宮内府の内部に届いていることを、さりげなく示している。
「漏れ伺っております」という言い方も、私の事情は把握しているぞと暗にマウントを仄めかす言い回し。
さて――私にそのことを聞いて、どうしたい。どうしてほしい?
ゼーヴェルトは笑みを浮かべて言葉を続けた。
「もしご差し支えなければ、私の方から宮内府の方面に一言、口添えをしてみてもよろしゅうございますよ」
ゼーヴェルトは、にこやかに提案した。
「私とて多少は王都に顔も利きます。瘴柱の件など、もう収束した話でございましょう。事情聴取が形ばかりであれば、書類一枚で片が付くお話。その書類を促す程度のことならば、私から宮内府の知人に声をかけてさしあげられます。アッシュフィールド卿のお時間を、これ以上不当に縛り付ける必要もございますまい」
ほう――そう来たか。
昨日までの私なら、こんな胡散臭い男に借りなんて絶対に作りたくないと警戒するだけの言葉だった。
しかし――彼のその言葉は私が知っていて、彼が知らない“ある情報”を決定付ける言葉だった。
――ゼーヴェルトは私の夜逃げ計画を知らない。
知っていれば、この提案には意味がない。私は二日後には王都を発つのだから。
軟禁が解けようが解けまいが関係がない。それなのに彼が「口添えしましょうか」と申し出ているということは、彼の情報網にはエセルがリュシアを通して立てた計画が入っていないということ。
だが――この問いへの答えは慎重に選ばなければならない彼の“毒”だった。
借りを作る――これが第一の毒。彼の口添えで軟禁が解けたとなれば、私は彼に相応の借りを背負う。
後日彼から「先日のあの件で少しお話を」と呼ばれた時、断りにくくなる。
陣営の色に染められる――これが第二の毒。「ゼーヴェルト公の口添えで救われた辺境伯爵」という形で、私は周囲から見られる。
私の意志に関係なく、ゼーヴェルトの息がかかった者だと思われる。
そして本心を引き出される――これが第三の毒。彼の提案にどう反応するかで、私の立ち位置が透けて見える。
即座に飛びつけば王家への不満が確定する。慎重に断れば警戒心の高さが分かる。反応の取り方そのものが彼への情報になる。
まあ、第一と第二の毒は夜逃げする私にとってもはや意味の無くなる毒だ。
まさかゼーヴェルトとて私が夜逃げするなんて思ってもみないだろう。
その計画を立てたのが婚約破棄された公爵令嬢と、教会の不良聖女だなんて想像もつかないはず。
第三の毒だが――こればかりはどうしようもない。
私は一度、心を落ち着かせて呼吸を整える。
少しでも動揺して無駄な情報を与えてしまわないように。
「ご厚意は誠にありがたく存じますわ、閣下」
私は丁寧に頭を下げた。
「けれど――陛下からの正式な沙汰を、わたくしのような新参の伯爵が他の方々のお口添えで急かすのは、いささか礼を欠くように思われましてございます。瘴柱の件で陛下のお手元の判断をお待ち申し上げるのが、わたくしのなすべきことかと」
大人しく王家の沙汰を待つ。
これが私の答えだった。私はあなたの提案より陛下の御意向を尊重します、と。
王家への従順を装いつつ、彼の介入を断る。借りも作らず、敵にも回さず、けれど彼の影響圏には入らない。
「閣下のお心遣い、誠に痛み入ります。けれどこの件、わたくしは静かに王家のご沙汰を待たせていただきとうございます」
ゼーヴェルトは、しばらく無言で私を見た。
数秒。
その数秒の間に、彼の目元から何かが冷えていったように感じた。
先ほどまでの朗らかさを持った雰囲気が完全に抜けて、別の人間がそこに座っているような印象に変わった。
「……左様でございますか」
短い返事だった。
「アッシュフィールド卿は、お若いのに陛下への礼節を実によくわきまえておられる」
淡々とした声色で、私に何かを諦めたような、あるいは何かに見切りをつけたようなことを言う。
「恐れ入ります、閣下」
「いや、こちらこそ失礼を申しました」
ゼーヴェルトは口元だけで笑みを作り直すと、ティーカップに口を付けた。
形式的に一口だけ。それから席を立った。
「お時間をいただき、誠にありがとう存じました。本日は出立の挨拶代わりに伺わせていただきましたまでですので」
私は立ち上がり、玄関まで彼を見送ろうとしたが、ゼーヴェルトはやんわりと手を振った。
「いえ、お見送りは結構でございます。外で従者が待っておりますゆえ」
社交辞令の見送りも不要か。
なるほどね。彼の中で私はすでに無視してもいい存在なのだろう。
今まで私を何かと嗅ぎまわってきた彼が、私に興味を失った瞬間だった。
彼にとって、私はもう利用価値のない人間になった――そういうこと。
それがわかってすっきりした。
応接間の入り口で、私は丁寧に頭を下げた。
「閣下のご道中のご無事をお祈り申し上げます」
「アッシュフィールド卿も、くれぐれもお健やかに」
最後のひと言だけは、また朗らかな声だった。目元は変わらず冷たかったが。
彼は背を向け、ステラに案内されて応接間を出ていった。
扉が閉まる。しばらくして、玄関の扉が開閉する音が遠くで聞こえた。
ややあって、応接間に戻ってきたステラが扉を後ろ手で閉めた。
「……行ったわ」
「うん」
私はソファに崩れるように座り直した。
ステラも向かいに腰を下ろす。さっきまでゼーヴェルトが座っていた席に。
「ゼーヴェルト、内心かなりイライラしてたみたい。リリアーネが彼の望みに沿わない答えしか返さないから」
「そりゃどーも。ったく……あの男はそもそもなんで私に興味を持ったのかしら」
「何かと目立つ存在だったからでしょ? 瘴柱事件を機にブラックウォール家に近づいた辺境の新参伯爵、リリアーネは何も思っていなくても、他から見れば胡散臭い動きをする者に見えるもの。胡散臭いもの同士、利用価値があるか見極めようとするのは自然な流れ」
やだやだ、私が胡散臭い女だなんて――と苦笑するしかなかった。
ステラも苦笑して肩を竦めてみせる。
ティーカップに残ったゼーヴェルトの紅茶は、もう冷め切っていた。




