第75話 船を降りる者たち
晩餐会の夜からおよそ十日が過ぎた。
私はまだ王都にいた。
本来であれば、叙爵式を済ませた翌日か翌々日には、荷物をまとめて領地に向かう馬車に乗っているはずだった。
それが宮廷晩餐会などという思いもよらぬ予定を差し込まれて一月近く王都に留められ、そしてあの夜を経た今なお、王都を出られずにいた。
名目は瘴柱事件の事情聴取。
王都近郊のホルン村で発生した瘴柱の件で、私は現場に居合わせた当事者の一人である。
よって一連の事件について宮内府が事情を伺いたい――というもっともらしい理由で、私の別邸には宮内府から一片の通達が届いていた。――届いていた、のだが。
「何で誰も何も言ってこないのよ!?」
私は執務机にどさりと突っ伏した。
通達が届いたのは晩餐会の翌日。
それから十日近く経つというのに、一度も宮内府から役人が訪れてもいないし、宮内府への召喚命令も届いていない。
ただ「事情を伺う可能性があるので、それまでは王都を離れぬように」という指示だけが、ぽつんと私の行動を縛り続けている。
「今日も来ないと思う」
「こんなんじゃいつまで経っても領地に帰れないじゃない! 何なのあれ!?」
執務机の向かいで紅茶を淹れているステラも、苛立ちを隠せないのか白い狼耳がぴくぴくと揺れていた。
私と一緒に半軟禁状態に置かれている彼女もまた、この十日の怠惰な時間にさすがに辟易しているのだ。
「……ねえステラ。これってもう、事情聴取なんて本当はどうでもいいんじゃない?」
「ん、たぶんそう」
ステラはポットを静かに置いた。
執務机にはステラが淹れてくれたばかりの紅茶が湯気を立てている。
「最初は本当にやるつもりだったのかもしれない。でも今となっては、召喚した本人も半分忘れている可能性がある」
「忘れてる?」
「そもそもこの召喚、ジークハイトの勅命というよりは、宮内府の誰かの発案じゃないかな」
ふと、ステラは顔を上げた。金色の瞳が、部屋の天井のどこか遠いところを見ていた。
「瘴柱事件の件で、本当はブラックウォールを事情聴取するつもりだったのかもしれない。でも相手は公爵家、たかだか宮仕えの役人が直接問いただせるほどの度胸もない。そこで――」
「――現場に居合わせた私に、形だけの聴取をさせようとした」
「うん」
ステラは小さく頷いた。
「辺境の新参伯爵なら、呼び出して何を聞いてもあとで揉めにくい。そこから現場の様子を聞き出して、ついでにブラックウォール家が何をしていたかを遠回しに洗う。手柄欲しさの役人が上にそういう『賢い提案』をした」
「そして上も手柄欲しさに乗っかったと?」
「たぶんね。ただこの件は晩餐会前に案件として承認されたんじゃないかな。そして例の婚約破棄の騒ぎで、ブラックウォールは腫れ物扱い。そんな状況では宮内府も下手に触って火傷したくないと、手を引いた」
「――つまり宙ぶらりんで放置?」
「うん、もう誰もそれを執行する気がない。かといって取り下げる誰かもいない。忘れられてる」
机に突っ伏したまま、私は唸る。
これで名目上だけでも「王都に留まるべし」と命じられているのだからたまらない。
私の意思ではここを動けない。書類一枚、役人の一筆で、私は領地に帰れない。
領地のことを考える。ヴェルナーとの手紙のやりとりも、リュシア経由でやり取りしている聖声盤越しの報告のことも。
幸い領地は今のところ平穏を保っているが、領主がこれだけ長く不在にすれば、領地に動揺が生じる可能性はある。
そして――エセル。
あの夜以降、私はエセルに会っていない。
会いに行っていない、と言うほうが正確だ。
ブラックウォール邸にアポを取ればたぶん彼女は会ってくれるだろう。
あるいは、会ってはくれなくとも、丁寧な返事くらいは届くだろう。エセルはそういう女性だ。
でも――何を言えばいいというのだろう。
――かけるべき言葉が見つからない。
何を言ったところで彼女の傷心に塩を塗り込むだけだ。
そう考え始めると、私は会う勇気が持てずに数日が経ち、十日が経とうとしていた。
――情けない。
頭では分かっている。会って、何も言わずに、ただ側にいるだけでもいいはずだ。
言葉が見つからないなら、言葉なしで一緒にお茶を飲むだけでもいい。
それなのに、私は動けていない。
「リリアーネ」
ふと、ステラが声をかけてきた。
「少し外に出る?」
「――うん」
「屋敷の中を熊のように行ったり来たりしてるより、外の風に当たったほうがいいよ」
「……うん」
私はゆっくりと顔を上げた。ステラは私の外套を既に手に取っている。
手渡され、それを羽織りながら立ち上がる。
いっそこのまま、馬に乗って王都から逃げ出してしまいたい気もした。
※
別邸の門を出ると、柔らかな初夏の風が頬に触れた。
五の月も終盤。石畳の道に人影はまばらだった。
貴族街は普段からあまり人通りが多くないが、今日はいつにも増して静かだった。
通りの向こうから、車輪の音と蹄の音が重なって聞こえてきた。
視線を上げる。どこかの貴族の紋章がついた馬車を先頭に、幌をかけた荷馬車が二台、三台と連なって進んでくる。
先頭の馬車がちょうど私の屋敷の前に差し掛かったところで、御者がゆっくりと手綱を引いた。
馬車が止まる。少し間があって、扉が内側から開いた。
「おや――これはこれは、アッシュフィールド卿ではございませんか」
のんびりとした声が、馬車から転がり出てきた。
赤ら顔の初老の男性。丸めの体型。礼装ではなく旅装を纏っている。
よく手入れされた白髭の下で、見覚えのある――本当によく見覚えのある――穏やかな笑みを浮かべていた。
晩餐会で私の隣に座っていた、あの子爵だった。
「まあ、子爵様。ごきげんよう」
「これはいやはや、別邸の前で伯爵様にお目にかかれるとは何たる偶然でございますな」
子爵は馬車から御者に手伝われて降りてくる。体格の割に身のこなしは軽い。
こうした旅慣れた動き方を見るに、普段から王都と自領の間を何度も往復しているのだろう。
「本日はお日柄もよろしく、それで出立の運びと相成りまして」
「お出立……でございますか」
「ええ、自領に戻りまする。今年はどうも――不作とまでは言いませぬが、去年と比べると収穫が芳しくない可能性があると領民からの申し出がありましてな。自らの目で確かめねばと」
「それはそれは、領民の声に耳を傾けられるとは、子爵様は実に領民思いの善き領主でございますね」
「お褒めに与り、恐悦の至り。小さな領地なれど、穏やかに治めたいものでございます。それはそうと――ご出立なさるのは私共ばかりでもございませんでな」
子爵はにっこりと笑って、こちらに向き直った。
「ゼーヴェルト公爵閣下も、三日ほど前にご領地へお発ちでございまして」
「……まあ」
「北海の商いが活気づいておられるご様子で、閣下ご自身で現場をご覧になりたいとのお話でございました。いやあ、お忙しいことで。あの御方は現場主義でいらっしゃるとかねてより評判でございましたから」
子爵はうんうんと頷いてから、にこりとまた微笑んだ。
「そういえば、ローゼンシルト公爵閣下も一昨日にはご出立なさったご様子で」
「――あら、セレスティーヌ様も」
「南方の教区で巡察のご予定があられるそうでございます。信仰の守護者たる閣下のご公務でございますから、こればかりは致し方ありますまい。私などのような凡俗の貴族には、ああいったご公務の重みはついぞ想像もつきませんで、ははは」
子爵は軽く腹を揺らして笑った。
ゼーヴェルト。セレスティーヌ。
二人の名が、子爵の呑気な口ぶりで並べて語られた。
表向きの理由付きで。もっともらしい旅の目的を添えて。
――三日前と、一昨日。
同じ週に、四大公爵の二家が王都を発った。子爵の口調はそのことに何の疑問も抱いていない。
彼にとっては、公爵家の方々がそれぞれご都合に応じて王都を離れられた、ただそれだけの話なのだ。
「それに、バルモア公爵閣下もでございますな」
「バルモア公も?」
「ええ、昨日の朝にはもうお発ちでございましたよ。なんでも体調がすぐれぬとかで、静養をかねて領地に戻られるとのことでして。あの御方ももうお歳でございますから、無理はなさらぬほうがよろしゅうございますとも」
バルモア公爵。四大公爵筆頭。人の良さそうなふくよかな体型の老公爵。
晩餐会でも最後まで気のいい笑みで諸侯に応じていた、あの筆頭公爵。
その彼までもが王都を後にした。偶然、と呼ぶにはあまりにも揃った時期。
「残られるのは、ブラックウォール公爵閣下だけでいらっしゃいますな。御令嬢の件でいろいろとおありだったご様子で、さぞやお心労もおありでしょうに、なおも陛下のお側に残って御王国をお支えなさろうとは、まことに忠義のご一家にございますなあ」
何か、胸騒ぎがする。
ブラックウォールだけが残ったのではなく、他の三家が揃って去った。
しかもその理由は、どれも表向きのもっともらしいものだが、私にはそれが決して偶然ではないような気がしてならない。
「それに、他の御家の方々もずいぶんお戻りになっておられますぞ」
子爵は指を折りながら、次々と名を挙げていく。
東方の某伯爵家。南方の某子爵家。北方の某子爵家。
普段は王都の別邸で過ごしている中堅以下の貴族たちが、こぞって王都を離れていったという。
「みなさま理由はそれぞれでいらっしゃるのでしょうが、なぜでしょうな、この時期になりますとどうにも領地のご用事が重なるものでございますなあ。ははは」
相変わらず呑気に笑う子爵に、私は乾いた笑みを返すしかなかった。
「子爵様、長らくのお話をどうもありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ門前にてお引止めしてしまい申し訳ございません。アッシュフィールド卿、くれぐれもご壮健にお過ごしくださいませ」
「貴方様も、どうかお気をつけて」
「ははっ、この歳になりますと気をつけることが多すぎまして」
子爵は朗らかに笑うと、馬車へと戻る。
扉が閉まり、御者台の鞭が軽く振られる。連なった馬車が、ゆっくりと石畳を踏み鳴らして動き出した。
私はその背中を、門の外に立ったまま見送っていた。
やがて行列は通りの先の角を曲がり、視界から消えた。
しばらく、動けなかった。
「……リリアーネ」
後ろからステラが歩み寄ってくる気配がした。
「ゼーヴェルト、ローゼンシルト、バルモア」
ステラが低く、名前を三つ並べた。
「三家が同じ週に王都を発った。示し合わせたのか、それぞれが勝手に同じ結論を出したのかわからないけど」
「そうね……」
「王都はもう中心じゃなくなった。彼らの中では」
私は何も言えずにただ頷いた。
四大公爵のうち三家が王都を離れ、中堅以下の貴族たちも続いている。
それは沈む船から逃げ出す人々のようだった。
あの婚約破棄で、王の権威という船の底にはもう穴が開いてしまったのか。
いや……実際に穴が開いたかどうかは関係ない。そう判断した者たちが、もう船を降り始めたというのが重要だ。
風を読むというのはそういうことなのだ。そういう空気だからこそ、そうなってしまうのだ。
「あら、リリアーネじゃない。呼び出す手間が省けたわ」
不意に背後から声がかけられた。びっくりして振り返る。
そこには見慣れた白い法衣を着たリュシアと、黒髪の少年――アルフレッドという珍しい組み合わせの二人が馬車から降りて立っていた。
そして、アルフレッドは真摯な眼差しで私を見つめ言った。
「姉上から聞いたよ、王都から帰れなく困ってるって。俺たちならリリアーネ様を王都から逃がすことができるはずだ――」




