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幕間 翳る王権、芽吹く覇道

 舞踏の間に、何事もなかったかのようにワルツが満ちていく。

 楽団の弦が柔らかで優美な旋律を奏で、貴族たちは笑顔を絶やさずに踊り、歓談していた。


「ローゼンシルト公、大変なことにございましたなあ」


 すっとゼーヴェルト公が声をかけてきた。

 口調こそ陛下の「ご決断」への驚きを示していたが、その口元はわずかに笑みを浮かべている。

 相変わらず白々しく、嫌な男だ。

 常に周囲を値踏みする目でしか見ていない。もちろん、わたくし――セレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルトも彼にとっては値踏みされる“周囲”の一つに過ぎないのだろうが。


「ええ、まさか陛下がエセルフリーダ様との婚約を破棄されようとは――」


「そうでしょうかね? ブラックウォール家の振る舞いを鑑みれば、当然のご決断と存じます。王権を蔑ろにしたとも取られかねない行いをした公爵家を反逆罪とせずに、あのようなお手打ちを下されたのですから」


 ゼーヴェルトは、大げさな身振り手振りでまるで他人事のように言った。


「しかし――あれはよくない。いくらブラックウォール家に非があろうとも、エセルフリーダ様にその責はございません。それなのに公の前であのような辱めを受けさせては、諸侯たちも複雑な思いでございましょう」


 やはり、ゼーヴェルトの考えはそちら側が。

 もっとも、この男がブラックウォール並みに王家への忠義に篤ければ、そちらのほうがかえって恐ろしい。

 王家の権威は重んじる。しかし――それは自らの利益のためであり、自らの権益のためである。

 彼にとって忠義とは取引相手と交わす信用契約である。

 

 では、わたくしが王家への忠義に篤いと言えばそうだろうか? 答えは――否。

 わたくしが王家に尽くすのは、あくまでも王家という存在そのものへの忠義である。

 王自らの権威を高めるための忠義ではない。

 そういう意味ではゼーヴェルトと同類かもしれないし、バルモア公とて同じだろう。


 純粋に王家と王に忠義を尽くすのは、ブラックウォール公ぐらいなものだ。

 諸侯たちはそれぞれ、自らの領地の安定のために王家を必要とする――それこそ重要な取引相手として。

 だが、今宵あの若き王は諸侯たちの前で、古くからの取引相手であるブラックウォール家を公然と辱め、傷つけた。


 その行為は、多くの諸侯たちに静かな不安を植えつけただろう。

 ――この取引相手は信用ならない、と。


「……ゼーヴェルト公は何を仰りたいのかしら」

「ははっ、何も。私はただ、一介の領主として陛下のご決断を冷静に受け止めております。この王国が安定した政を執り行うためには、諸侯の忠義が何よりも重要でございましょう。もしその忠義が揺らげば、この国は危うくなりますからな」


 ――これからこの国は面白くなる。

 そう言いたげなゼーヴェルトの瞳が、楽しそうに細められた。


 ※


 夜が更け、諸侯の間に静かに動揺が広がった舞踏会も閉幕を迎え、各人はおのおの帰路へと付いてゆく。

 わたくしも馬車に揺られながらローゼンシルト邸への道を戻る。

 馬車が邸の車寄せに滑り込む。扉が開けられ、差し出された従者の手に指先を預けて降り立つ。

 玄関広間のシャンデリアは既に灯が絞られ、控えめな燭台の光だけが白い大理石の床に影を落としていた。


「お帰りなさいませ、セレスティーヌ様」


「ただいま戻りました。皆、下がってよろしくてよ」


 侍女たちが一礼する。

 わたくしは小さく頷き、彼女たちにも休息を命じると、一人階段を上る。

 衣擦れの音だけが回廊に響く。二階の自室の扉を開けると内側から閉めた。


 鍵をかける。

 それから、ようやく息を吐いた。


 一人になるということは、こんなにも静かなことだっただろうか。

 耳の奥で、舞踏会の楽団の旋律がまだ微かに鳴っている気がする

 あのワルツ。婚約破棄の宣告の直後に何事もなかったかのように奏でられた、あのひどく美しいワルツ。


 姿見の前に歩み寄る。

 鏡の中には、ローゼンシルト家の女公爵がいた。晩餐会のために整えた髪、煌びやかなドレス、品のよい化粧。

 それらを纏った女公爵はいつも通り。

 わたくしはいつものように、鏡の中の自分に微笑みかけた。


 あの婚約破棄の瞬間、わたくしは冷静に状況を受け止めていたかと言われると嘘である。

 あの瞬間、わたくしは静かに法悦を感じていた。

 わたくしが望んでも手に入らなかった地位を失った彼女。

 わたくしが常にそうあろうと務めてきた完璧な淑女の姿を、息をするかのごとく体現する彼女。


 それが、あの王の手によって、醜く惨めに引き裂かれていくさまに、わたくしは一抹の悦びを覚えたのだ。

 エセルフリーダ・ルナス・ブラックウォールが王妃の座から転落した光景に、わたくしは悦んでいたのだ。


 ――なぜ、あなたは悦んでいるの?

 鏡の中の自分が問いかけてきた。

 嫉妬していたから、と答えを返す。あまりにも素直に、あまりにも速やかに。


 ああ、そう。嫉妬。嫉妬だ。

 わたくしはエセルフリーダが王妃の座に就くことを羨んでいた。長い間、ずっと。

 アッシュフィールド卿に漏らした「兄たちが健在であれば、わたくしも王妃候補と呼ばれえたかもしれない」という一言。あれは、わたくしの本心だった。

 もちろん、あの目敏い辺境の女伯爵にあえてわざとらしく漏らして見せるという社交の一手でもあったが、その根にあるものは紛れもない本心だった。


 あの言葉はするりと出てきた。

 社交の駆け引きのために用意した台詞――というよりは、胸のうちに抱え込んでいた羨望が、隙をついてこぼれ出たような言葉だった。

 十数年前、公爵位を継いだ長兄と次兄が立て続けに病で斃れ、わたくしが家督を継ぐことになった。

 女だてらに公爵を継いだ。

 周囲の同情の眼差し。「お可哀想に、嫁ぎ先も決まらぬうちに家督を背負って」という囁き。


 あの頃のわたくしは、確かに嫁ぎたかった。誰かの妻になりたかった。

 いずれは王妃に、と幼い頃から母に言い聞かされて育ってきたから。

 しかしその夢はエセルフリーダが婚約者に決まった時点で潰えたわけではあるが。


 ――わたくしは、本当に王妃になりたかったのだろうか。

 本当に、そう?


 エセルフリーダは、今宵、王妃の座から転落した。諸侯の眼前で。

 あれほどまでに完璧な淑女が、あれほどまでに王妃に相応しい娘が、あれほどまでに武門の誉れ高い家に生まれ気品に満ちた姫君が。

 無様に、王の手によって、破り捨てられた。

 ブラックウォール公の忠義を嘲笑うかのように。


 ――つまり、王妃の座とはそういうものだったのだ。

 胸の奥で、何かが静かに組み変わる音がした。


 王妃とは、王の妻。王の所有物。

 王の機嫌で立たされ、王の機嫌で消される存在。

 わたくしが長年羨んできた座は、そんなものだったのだ。

 今宵、エセルフリーダがその脆さを証明してくれた。


 ではわたくしは、そんな脆いものを本気で欲していたのだろうか。

 答えは、否だ。鏡の中のわたくしが小さく、首を振る。

 わたくしが――私が真に欲していたのは――


 ()()()()|。


 私と、鏡の中の女が同時にその一言を呟いた。

 声には出さなかった。けれど、はっきりとそう言葉になった。


 王。

 私が欲していたのは最初から、王の座だった。王妃というのは、その言い換えに過ぎなかった。

 女の身に生まれ、女の規範に縛られて育ったがゆえに、私は自分の渇望を「王妃になりたい」という形でしか言語化できなかった。それが許された欲望の最大値だったから。けれど本当は――本当は、違った。

 気づいてしまえば、あまりにも単純な話だった。


 ローゼンシルト家の公爵として、私は長年家を率いてきた。領地を治め、民を慈しみ、教会との繋がりを守り、サロンを主催し貴族社会の中心に居続けた。これらの全ては、私が「女公爵として立派である」ために必要な試練だと、自分に言い聞かせてきた。


 違ったのだ。

 あれらはすべて、王になるための予行演習だった。

 私は今、それをようやく理解する。

 けれど――王。女の身で王の座を望むなど、正気の沙汰ではない。この国に女の王が立った前例はない。正統性の根拠もない。


 正統性だと? そんなもの笑わせる。

 正統性なぞ今宵、王自身が投げ捨てたではないか。

 古くからの忠義の家を辱め、王家と諸侯の繋がりを傷つけた者に正統性などない。

 ああ、確かにゼーヴェルトが言わんとしたことはそういうことなのだ。


 ジークハイト・アルベリヒ・エーデルガルド。

 哀れな男だと思う。

 あの男には王という役割を演じる才はあった。

 普段の振舞い、儀礼的な場での所作――凡庸ながらも、国の頂点として立つに足る振る舞いを身に付けていたのは立派な才能だろう。


 けれど、あの男はその役割を受け入れられなかった。

 役割を演じる才はあったのに、自分がその役割に値するのかと問われ続けることに、耐えられなかった。

 劣等感、虚栄心、怯え――それらが積み重なって、王としての才を、王としての醜態で上塗りしてしまった。

 そのような王には遅かれ早かれ、諸侯の忠義も民の敬意も失われるだろう。


 その時は――私が、その座を受け継いでやろう

 自らの欲望を、自らの野心を、鏡の中ではっきりと見つめる。


 ああ、やっと、自らの真の望みに気づくことができた。

 二人の兄の墓前で、自らの境遇を呪ったあの日。

 あなた方が生きていれば、私はただの公爵令嬢でいられたのに。

 どこかの名家に嫁いで、静かに母となり、穏やかに老いていけたのに、と。


 嘘だった。

 今、それが分かる。

 兄たちが生きていたなら、私は自分の本当の渇望に、永遠に気づけなかっただろう。

 ただの公爵令嬢として、ただの妻として、ただの母として、与えられた役割の中で一生を終えていただろう。自分が何を欲していたのかも知らぬまま。


 ありがとう、兄上方。

 あなたたちの死が、私を本当の私にしてくれた。

 あなたたちの死がなければ、私はこの道を歩けなかった。どうかお許しを。

 そして――どうか、私をご覧になっていて。あなた方の妹が、これからどこへ向かうのかを。


 目を上げる。

 鏡の中の女は、何も変わっていなかった。

 慈愛の微笑みも、気品のある佇まいも、何一つ。

 私は姿見の前に立つ、ローゼンシルト家の女公爵だった。今宵までと寸分違わぬ、完璧な女公爵だった。


 ただ――内側だけが、反転していた。

 コンコン、と扉を叩く音がした。


「セレスティーヌ様、夜着のご用意に参りました」


 若い侍女の声。毎夜、私の就寝前の世話をしてくれる娘だった。


「お入りなさい」


 鍵を開ける。侍女は一礼して部屋に入り、私の髪飾りを外しにかかった。

 慣れた手つきで一本ずつ、丁寧に。鏡の中で、彼女の手が動く。


「本日はお疲れでございましたでしょう。晩餐会は夜半までかかりましたもので」


「ええ、少し疲れたわ。でも、とても有意義な一夜でしたよ」


「それは何よりでございます」


 彼女は気づいていない。私が今夜、何者になったのかを。気づくはずもない。

 外側は何も変わっていないのだから。明日も、その次の日も、私はローゼンシルト家の女公爵として振る舞う。

 サロンを開き、世間知らずの貴族令嬢たちを慈しみ、民に施しを与え、信仰を守り続けるだろう。

 それらはもう、今までのそれらとは別のものになる。けれど、見る者にはそれが分からない。


「お休みなさいませ、セレスティーヌ様」


「ええ、お休みなさい」


 侍女が部屋を去る。扉が静かに閉じられる。再び、静寂が戻った。

 私は鏡の中の女を、最後にもう一度だけ見つめた。

 微笑んでいた。

 ずっと、変わらず、微笑んでいた。

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