第65話 温かなお茶会に現る水差し野郎(後編)
「そういえば――先日、王都近郊の村で瘴気騒ぎがあったそうだな」
空気の温度がさらに一段と下がった。
エルウィンの表情は微動だにしない。だが、その沈黙に含まれる緊張の質が変わったのを私は感じ取っていた。
「冒険者ギルドの記録では腕利きの冒険者が処理したことになっているが……ずいぶんと手際がよかったらしい。宮内府が調査の準備すら整えないうちに、もう片がついていたそうではないか」
ジークハイトの口調は軽い。世間話のような声色。
だがその言葉の一つ一つが、エルウィンに向けられた刃だった。
「宮内府の対応が遅いのは余も遺憾に思っておる。しかし――ギルドは王権を蔑ろにしている。そう思われても仕方のない振る舞いではないか?」
名指しはしない。決めつけもしない。
ただ言外に「ブラックウォール家の仕業だろう」と言いたげに圧力を与える物言い。
冒険者の名前がエルウィンだったなどという確証は持っていないだろう。
だが疑ってはいる。そしてその疑いを、こうして直接本人の前でちらつかせることで釘を刺している。
「宮内府の負担の一部をギルドが引き受けるようになったとは言え、あくまでもそれは王権を補佐するためのものであるはず。……違うかね?」
「――仰せの通りでございます」
ジークハイトは追及はしない。
あくまでギルドの先走りはいかがなものかとだけに留めている。
ブラックウォールを追及して白黒付けてしまうと、自分が手を打てなかった無能が露見する。
だからこうして「知っているぞ」とだけ匂わせて、相手を萎縮させる。
まさに嫌味な職場上司レベル255の振る舞い。
エルウィンは一礼したまま顔を上げない。
その拳だけが、ほんの僅かに握り込まれていた。
ジークハイトの視線が再び室内を巡り――今度は私を捉えた。
「……ほう。アッシュフィールド卿もいたか」
目の前に最初からいたでしょうに。
いちいち人の感情を逆撫でないと会話もできないのかこの王は。
……なんて言えたらどれほど気が楽でしょう。
「光栄にございます、陛下。エセルフリーダ様のお招きで茶の席に預かっておりました」
最小限の応答。余計な言葉は一切つけない。
叙爵式の時のような切り返しはしない。今日は透明でいると決めたのだ。
だが、ジークハイトは私を見つめたまま、口角をわずかに持ち上げた。
嫌な予感。
「アッシュフィールド卿も王都での尻尾の振り方をようやく学んだか?」
「……ッ」
一瞬、意味が分からなかった。
いや、分かった。分かってしまった。
――尻尾の振り先。
ブラックウォール家に取り入ったことへの揶揄。
そして同時に――私の腰から伸びる狼の尻尾そのものへの嘲り。
主人に尻尾を振る狼――否、犬。二重の意味を一言に込めた侮辱。
何度冷えたかわからない大広間の気温が、また一段低くなった。
近衛兵もエルウィンもエセルも誰も微動だにしていない。
私は――笑った。
いや、笑みの形を作った。口角を引き上げ、目元を細め、完璧な令嬢スマイルで応じた。
「もったいないお言葉にございます、陛下」
それだけだった。
中身のない返答。肯定でも否定でもないただの受け流し。
ジークハイトの瞳がほんの一瞬だけ面白くなさそうに揺らいだ。
叙爵式の時のように私が反応してくれることを期待していたのかもしれない。
期待通りの反応を返さない相手はつまらないのだ。この男にとっては。
「まあよい」
興味を失ったようにジークハイトは視線を逸らした。
それからブラックウォール邸の調度品を値踏みするようにもう一巡し、退屈そうにため息をついた。
「ブラックウォール公。伝えておくことがある」
「はっ」
「二十日後に宮廷晩餐会を催す。先王の喪が明けて初の公式行事だ。王国に連なる諸侯は一人残らず出席せよ。……アッシュフィールド卿、そなたもだ。子細は追って書状にて通達する」
「畏まりました。謹んでお受けいたします」
エルウィンが応じ、私も頭を下げた。
――二十日後。宮廷晩餐会。ようやく日程が出た。
だがこの状況で素直に喜べるはずもない。
ジークハイトは用件を告げ終えると、最後にもう一度エセルに視線を向けた。
そして――何を思ったのか、唐突に口を開いた。
「エセルフリーダ。お前はいずれ王妃となる身だ。近頃は体を冷やしてはおらぬだろうな」
その言い回しの含意に、エセルの肩が僅かに強張った。
体を冷やすな――それは王家において決まった一つの意味しか持たない。
世継ぎを産む体を大事にしろ、という意味だ。
「はい、陛下。お気遣い痛み入ります」
エセルは動揺を見せずに応じた。
さすがと言うべきか、武門の娘として鍛えられた精神力だった。
だが異変はエセルではなく、言い出した張本人の方に起きていた。
――ジークハイトの顔が、自分で口にした言葉に反応するかのように強張っていた。
唇を噛みしめるように結び、視線が一瞬だけ虚空に泳いだ。
まるで自分が発した言葉の先にあるものを想像してしまい、それに怯えたかのような。
(……?)
何だろう、今のは。
世継ぎの話をしたのは彼自身のはずなのに、なぜあんな顔を?
エセルに子を産めと言っておきながら、その自分の言葉に自分で怯えている?
意味が分からない。
しかし、そのわずかな違和感も一瞬で消え去り、ジークハイトは何事もなかったかのように傲岸不遜な表情を取り戻すと、背中を向けた。
「邪魔をしたな。……ああ、エセルフリーダ」
立ち去り際に、振り返りもせずに言った。
「身体には気をつけよ。婚約者として、あまり余に心配をかけるな」
形だけを見れば婚約者への気遣い。
だがその声には温度がない。
書類の末尾に押す決裁印のような、義務として発した定型句。
エセルに背を向けたまま言い放ったことが、何よりも雄弁だった。
「……ありがとうございます、陛下。お気遣い痛み入ります」
エセルの声に揺らぎはなかった。
揺らぎがなかったことが、逆に痛々しかった。
※
ジークハイトの一行が門を出て完全に遠ざかったことを確認するまで、誰も口を開かなかった。
大広間には冷蔵庫のような冷え切った空気だけがある。
「……すまなかった。リリアーネ殿」
声が弱々しかった。冒険者ウィンの声でも公爵の声でもない。ただ疲れた中年男性の声だった。
「楽しい席を台無しにされた上、不愉快な思いまでさせてしまった」
「謝らないでください、閣下。あのお方はどこへ行ってもああいう水差しを好まれるのでしょう」
「ははっ……確かにな」
苦い笑い。笑えていない笑い。
あの巨躯が小さく見えた。
客間に戻ると静かにステラが佇んでいた。
ジークハイトの滞在時間はせいぜい二十分程度だったが、その疲労感は何時間も拘束されていたような気がしていた。
エセルが黙ってテーブルの上を片付け始めていた。
冷めきった紅茶のカップを一つ一つソーサーに載せ、菓子皿を丁寧に重ねていく。
その手つきは淡々として、まるで何事もなかったかのように。
私は何も言えなかった。
慰めの言葉は思い浮かばなかったし、思い浮かんだとしても今の彼女に必要な言葉ではない気がした。
ステラは影のように壁際に立ったまま微動だにしていない。
その無表情の下で何を思っているのかは聞かなかった。聞く必要もなかった。
重い沈黙が客間を満たしている中、カップの片付けを終えたエセルがふと顔を上げた。
「……リリアーネ」
「うん?」
エセルは窓の外に目を向けた。
午後の陽光がまだ残っている。斜めの光が窓枠に影を落としていた。
「この後、少しお付き合いいただけますかしら」
「もちろん。どこへ?」
「――大聖堂へ。お祈りに参りましょう」
エーデルシュタット大聖堂――王都の信仰の中心地。
王都に建設されているだけあって、うちの領地の教会とは比べ物にならない絢爛な建物だ。
「お祈りって……そんな信心深いところあったっけ?」
少し軽口を挟んでみる。
エセルはふっと表情を崩す。
「女神様に祈りでもしないと、やってられないことだってあるではありませんか?」
「……違いないわね」
エセルはそう言ってかすかに笑った。
それはサロンで見せる完璧な微笑みでもなく、今日のお茶会で見せた温和な笑顔でもなかった。
疲れた人間が――それでも前を向こうとする時に浮かべる時の表情だった。
「――うん、行きましょう」
私はそう答えた。
祈りの言葉なんて気の利いたことは知らないけれど。
今のエセルのそばにいることくらいは、私にもできる。




