第64話 温かなお茶会に現る水差し野郎(前編)
「失礼いたします――閣下、至急お耳に入れたいことが」
扉越しに聞こえる使用人の男性の声は落ち着いているようで、どこか声が上ずり焦りを滲ませている。
エルウィンが「入れ」と短く応じると、入室した使用人の顔は蒼白だった。
「何事だ」
静かで重苦しいエルウィンの問いかけ。
「は――ジークハイト陛下が近衛と共においでになってございます」
客間の空気が一気に凍り付いたのを感じた。誰もが一斉に表情を消している。
さっきまでの和やかなお茶会の時間から、一転してひりついた空気へと切り替わる。
エルウィンの表情から一切の色が消えた。
さっきまで息子のあれやこれやを嬉しそうに語っていた父親の顔が、瞬きひとつで公爵の厳格なものへ。
エセルのカップがソーサーの上でカチリと小さな音を立てた。彼女の手が、一瞬だけ震えていた。
「……事前の通達は」
「ございません。突然のお成りです」
公爵邸にアポ無しの突撃。
いくら王でも礼儀を欠く振る舞いでしかない。
何かマズいことが――と思いつつ、使用人の言葉を反芻する。
ジークハイトは近衛を伴ってやってきている。
王が単独でやってくるわけがないので、護衛がついていること自体に不思議はない。
そして何かしら強制捜査が行われるなら家主の許諾なしで強引に踏み込んでくるはずだ。――私もやった側だしね
そうじゃないということは、単にアポ無し視察というレベルの話だと思うんだけど……
「――大広間にお通ししろ」
「畏まりました」
使用人が退出する。
エルウィンは立ち上がると、さっきまで手を伸ばしていたお菓子の皿を一瞥し、それからゆっくりと部屋着の襟元を正した。
「リリアーネ殿、エセルフリーダ。陛下をお迎えする」
その声には命令の響きで、お茶会の柔らかさはもうない。
エセルはすでに立ち上がっていた。
その顔には先ほどまでの柔和な笑みはなく、公爵令嬢としての凛とした表情のみがそこにはあった。
私もスカートの皺を手早く整えて立ち上がる。
ステラに視線を送ると、彼女は無言で微かに頷いた。
「――ここで待っている」と目が語りかけていた。
※
大広間に移動する廊下で、私は自分に言い聞かせていた。
(余計なことは言わない。今日は黙る。何を言われても、無難な言葉を並べてやりすごす)
叙爵式ではジークハイトの失礼な物言いに皮肉を込めた切り返しで応えた。
だが今日は違う。今日の私はブラックウォール家に招かれた客人。
私の言動ひとつでブラックウォール家の名に傷をつけかねない立場だ。
だから、何を言われようともやり過ごす。そう決めている。
大広間はブラックウォール家らしい質実な空間だった。
調度品は最低限、壁には歴代当主の肖像画と古い軍旗が並ぶ。
私たちが位置につくとややって、大広間の正面扉が開かれ近衛兵に先導されたジークハイト四世が入室してきた。
金糸に彩られた真紅の外套。陽光を受けて輝く金髪。整った顔立ち。
叙爵式で見た時と変わらない若き国王は人形のように美しい容姿だった。
――そしてその美しさはやはり温もりを感じさせなかった。
「申し訳ございません陛下、このような平服でお出迎えいたします無礼をお赦しください」
膝をついたエルウィンが深々と首を垂れた。
私とエセルもその後ろにつき、同じように頭を下げて謝意を示す。
「よい、ブラックウォール公。面を上げよ。突然の来訪であるゆえ、そなたには無作法を強いたようだな。ここは謁見の間ではない。立つがよい」
「お気遣いに痛み入ります。陛下、お忙しい折にわざわざお運びいただけるとは」
余は寛大アピールをしているジークハイトに対し、エルウィンは淡々と応じてから立ち上がる。
だがその顔には笑顔ひとつもなく。声にも表情にも一点の乱れもない。
あの気さくなウィンの面影は完全に封殺され、王の前に立つ臣下としての佇まいだけがそこにあった。
「王として未来の王妃の様子を伺うのは当然の務めである。――そうだろう、エセルフリーダ?」
ジークハイトの視線がエセルに向けられた。
婚約者を気にかけているという言葉ではあるが、その響きは冷たく声色にはおよそ慈しみと呼べるものは含まれてはいない。
業務上必要だから立ち寄った――いや、まるで自分の持ち物を確認しに来たかのような、所有物に対する淡白な視線。
『――エセルフリーダ様は婚約者でいらっしゃるのに、陛下のご寵愛がいまひとつと聞きますわよねえ』
サロンでの令嬢の言葉が蘇る。
噂はあくまでも噂、と。あのときは思ったけれど今は確信に変わっていた。
この王の視線にエセルに対する愛情は微塵も感じられない。
「ありがとうございます、陛下。ご足労いただきまして恐縮にございます」
エセルが一礼した。
声は穏やかで、表情は柔和。
だが私にはそこに込められた力の入り具合が分かる。
穏やかさを崩さないこと自体が、彼女にとってどれほどの労力を要する所作であるかが。
「――相変わらずそなたは堅苦しいな」
ジークハイトが鼻を鳴らした。
褒めてもいないし、貶してもいない。ただ無関心の一歩手前のような声、投げやりな物言い。
自分のことではないのに悔しさがふつふつと湧いた。
ジークハイトは大広間を見回した。
歴代当主の肖像画、古い軍旗、使い込まれた調度品。
「相変わらず質素な暮らしぶりと見える。ブラックウォール公、貴族たるもの少し華やかにしてもいいのではないか?」
「恐れながら当家は代々武をもって王家にお仕えする家柄でございますれば。華美よりも実を重んじるのが家風にございます」
「武、か?」
ジークハイトが薄く笑った。
その笑みには何かを見下すような色が滲んでいた。
「東方の帝国は滅びて久しく、今やあの地は有象無象が治める蛮地。東にもう脅威のない今の時世に、武を誇るのもずいぶんと時代錯誤なことよな」
――やはり王国中央ではあの急進社会主義モドキの共和国を脅威とすら認識していないのか。
あの国の革命思想が王国に飛び火すればどうなるか、想像しようとすらせず、老いた帝国が下克上で消えた程度にしか受け止めていないのだ。
エルウィンは一言も反論しなかった。
反論できないのではない。反論しないのだ。
エルウィンの沈黙は忍耐だった。
王の嫌味を受け止めて、それを深い場所に呑み込む忍耐。
ジークハイトは調度品を見て回っていると、何かを思い出したように足を止め口を開いた。
否――それこそが、今日のここへのアポ無し突撃の本題だと言わんばかりに。
前後編なので明日も投稿します




