第112話 その要求は初めから宣戦布告にすぎなかった
一の月も二十日を過ぎた。
ブラックウォール公爵領はこの冬いちばんの冷え込みを迎えている。
執務室の窓は内側まで白く曇り、指でなぞれば水滴が筋を引いて流れ落ちるほどだった。
レオフリック・マルス・ブラックウォールは、机の上に広げた物資の集計表に目を通していた。
鉄鉱石・皮革・食糧。
バルモア大火以前の水準と比べればまだまだ足りないが、それでも毎週まとまった量が確実に届くようになった。
それだけでも今のレオフリックにとっては大進歩だった。
昨年の暮れは納入の目途が立たず、冬をどう乗り切るかと頭を悩ませた。
しかし、アッシュフィールド領とヘルマンシュタイン領と共に締結された通商協定が功を奏し、年明けからはヘルマンシュタイン領を経由したアッシュフィールドの隊商が定期的に訪れるようになった。
交わされた納入書通りに物資が届き、次の物資がいつ届くかもわかる。
これまで当たり前に出来ていたことが再び当たり前にできるようになった。それだけで、どれほど心強いか。
(――ひとまず、最悪は避けられた)
最善ではない。ただ、最悪ではない。
今の状況ではそれだけで十分だ。
この協定を取りまとめてくれたアッシュフィールド伯には、いくら感謝しても足りない。
この協定の発案者はレオフリックである。
しかし公爵家が主導して王都の新政権に依らない経済圏はあらぬ誤解を招く可能性があった。
それを避けるために、アッシュフィールド伯が自ら矢面に立って協定の主導者となった。
アッシュフィールド伯にいくつ借りを作ったのやら。いくらでも返したい気持ちだった。
当然、今のブラックウォールには十分に報いるだけの物はない。
いずれ返さねばならないと思いながら、返せる目処が立たないこともまた承知していた。
「――若様。宮内府より書状にございます」
扉の外から家令の声がした。
レオフリックは入れと応じる。
家令から差し出されたのは一通の書状だった。
封蝋は宮内府のもの。もう一つ印が押されている。
見覚えのある印――ゼーヴェルト家の印だった。
※
宮内府名義で送られてきたゼーヴェルトの書状の内容は、三領協定によって往来する物資の確認についてだった。
品目・数量・経由地・最終用途を書類にまとめて宮内府に提出するように、とのこと。
やはり――疑われている。
しかし、レオフリックは意外にも安堵にも似た感情が胸に広がっていた。
これまでのブラックウォールを苦しめてきたものは、明確な証拠のない圧力だった。
鉄が届かない、食糧が届かない。理由を問えば「仕入れ先の都合」と返される。
抗議したくとも、抗議すべき相手がいない。証拠もない。名指しできるものが何一つない。
誰も何もしていないのに確実に首が絞まっていくばかりだった。
だがこれは違う。
差出人がいる。名義がある。根拠がある。
書面で来たものには書面で応じられる。
(我が領に疚しいものは何一つない、きちんと書類を提出すればゼーヴェルト公も納得するはずだ)
そう思った自分に、レオフリックはわずかな照れくささすら覚えた。
武門の嫡男が、剣ではなく書類を前にして安心している。
揶揄されてきた通りの男だ、と自嘲する。
だが同時に、これが自分の戦場なのだという自負もあった。
剣の才がないことは、とうの昔に諦めがついている。
その代わりに書類なら誰にも負けない。数字は嘘をつかない。
正確な書類を出せば疑いは晴れる。晴れなければならない。
レオフリックは書状を持って、父の執務室へ向かった。
エルウィン・ガレス・ブラックウォールは暖炉の前の椅子に腰を下ろしていた。
巨躯の武人が火を眺めている。
その手には何も持っていない。書類も、杯も。ただ火を見ている。
最近、彼はこうしていることが多くなった。
「父上。宮内府から――正確には通商監督府というゼーヴェルト公が設立した部署からの書状ですが――」
レオフリックは書状を差し出した。
エルウィンは受け取り、一読した。
顔色は変わらなかった。
眉が動くこともなく、息の乱れもない。
ただ書状を持つ手がわずかに長く止まっていた。
「……応じるつもりか」
「はい。拒めば疑われるだけです。記録はすべて残しております。品目も数量も、後ろ暗いものは一つもありません」
「……後ろ暗いものは一つもない、か」
エルウィンは書状を机に置くと、レオフリックを見た。
それは何か言いたそうで言えないような、苦い眼差しだった。
だがやがてエルウィンは息を吐き、一言つぶやいた。
「……すまんなレオフリック。俺が腑抜けているせいで、お前に苦労をかけている」
「何を仰いますか父上、私は公爵家の一員として務めを果たしているだけです。苦労などした覚えはございません」
婚約破棄の夜から、父は言葉数が減った。表情に常に翳りが見えた。
当然だとレオフリックは思っている。あの夜、公の場であのような屈辱を味わえば誰でもそうなるだろう。
父はまだブラックウォールを背負っている。背負い方が変わっただけだ。
※
ゼーヴェルトに提出する書類は協定発効以降の全取引を網羅した。
品目、数量、日付、受領者。何一つ漏れがないよう記入し、完成した書類を宮内府に提出した。
だが――突き返された。
中継地点の記載が不十分だと言う。
レオフリックはヘルマンシュタイン伯に使者を送り、中継地点を明記した書類を再び作成した。
突き返された。
鉄鉱石の最終用途が不明瞭だと言う。
領内十数軒の鍛冶場の受注記録をすべて取り寄せ、鉄の流れを一貫して追えるようにした。
突き返された。
出荷量と受領量に不一致があると言う。
レオフリックはその一行を読んだ時、初めて背筋に冷たいものを感じた。
その時の天候で、貨物の重さが変わるのは当たり前のことだ。
湿気で塩の重量が変わる。紙の重量も変わる。数値が完全に一致することなどあり得ない。
それを理由に突き返すなど、嫌がらせ以外の何物でもない。
それでもレオフリックは、誤差の理由を逐一記入して書類を再作成した。
もうこれ以上出せるものはない。
隠しようがない。隠すものが何もないのだから、隠しようもない。
※
返答が届いた。
ゼーヴェルトは納得していなかった。
書面だけでは確認が不十分であるため、査察団を派遣する。これに応じよ、と。
レオフリックはその日のうちに領内すべての関所と備蓄庫の責任者宛てに命令書を書いた。
一、査察団の立入りを妨げるな。
一、要求された記録はすべて提示せよ。
一、いかなる挑発があろうとも応じるな。
耐えろ。今は耐えるしかない。
このような屈辱を受けても、ブラックウォールは疑われることなど一つもない。それだけは確かだ。
好きなだけ蔵を開けるがいい。
好きなだけ帳簿を調べるがいい。
訪れた査察団は関所を検め、備蓄庫を開けさせ、蔵の中身を一つ一つ数えた。
レオフリックの命令通り、ブラックウォールの者は誰一人として抵抗しなかった。
査察が終わっても、彼らは帰らなかった。
引き続き監視が必要であるとして、ゼーヴェルトの人間が主要な関所と備蓄庫に居座った。
名目は通商監督の延長だった。
次に来たのは、取引に関する事前承認制の通達だった。
軍需転用の可能性がある品目については取引の都度、監督府の承認を得よという。
鉄と皮革はわかる。しかし項目には食料品も記されていた。
無茶苦茶だ。では食料品すら取引にゼーヴェルトの許可が必要になるのか。
レオフリックは、それも呑んだ。
ゼーヴェルトの狙いは明白だった。
こうして圧力をかけ続け、最終的にこちらが剣を抜くのを待っているのだ。
なぜゼーヴェルトはそこまでして、ブラックウォールを潰そうとするのか。
だが、その手には何としても乗らない。乗るわけにはいかない。
帳簿を出すのは耐えた。蔵を開けるのも耐えた。
常駐されることも、取引の自由を差し出すことも、歯を食いしばれば耐えられた。
すべて、戦を避けるためだった。
譲れるものを譲り、耐えられる屈辱に耐え、そうすることで領民を守れると信じていた。
新たに書状が届いた。
備蓄物資の領内における配分について、その適正を確認する必要がある。
ゆえに主要品目の領内移動に際しては監督府への届出と承認を求める、と。
――そんなバカな。
レオフリックは読み終えてもしばらく立ち尽くしていた。
どの村にどれだけの麦を回すか。鍛冶場にどれだけの鉄を回すか。
冬の最中にどの集落に薪が運ばれるか。
そんなものを監督させろと言うのか。
つまり、自分たちの領地のことを自分たちで決める権利を寄越せと――
それを渡すということは、事実上ゼーヴェルトがブラックウォールを統治するということだ。
レオフリックはここ一ヶ月少しを振り返った。
報告書を出した。突き返された。作り直した。蔵を開けた。関所を通した。
査察団を受け入れ、取引の自由を差し出した。
すべて戦を避けるためだった。
だが譲り続けた先にあるものが、ようやく見えた。
ゼーヴェルトの目的は最初から査察でも監視でもなかった。
ブラックウォール家の主権そのものだ。
この家が領主であることを一枚ずつ剥がしていく。
帳簿を渡せと言われて渡し、蔵を開けろと言われて開け、取引を差し出し、配分を差し出し、最後には何も残らない。
残るのは名前だけの飾りと、ゼーヴェルトの匙加減一つで生かされる領民だ。
あの男がブラックウォールの民に何の義理も持たないことは、これまでのやりとりで証明されている。
紙切れ一つで物流を止め、領民を困窮させるような人間が、民のために心を砕くはずがない。
その男の慈悲とやらに領民を委ねることが、これまで戦を避けた先にある未来だった。
領民を守るために、譲ってきた。
だがこれ以上譲れば、守るべき領民そのものが手の届かない場所に行く。
戦を避けるために譲るか。
領民を守るために戦うか。
どちらも同じ場所から出ていて、もう両立しない。
レオフリックは通達を机に置き、立ち上がった。
※
父は――エルウィンはそれを待っていたかのように、書状を一読した。
言葉は要らなかった。
息子が何を言いに来たのか、父にはわかっていた。
「――これ以上は、譲れません」
「……そうだな」
エルウィンは短く頷いた。
手にしていた書状を机に置いた。
「お前に、一つ詫びねばならん」
レオフリックは目を瞬いた。
父の口から詫びなどという言葉が聞こえるとは思っていなかった。
「通らぬと思っていた。最初の要求の時点で奴の狙いはブラックウォールそのものだと思っていた」
エルウィンの声は静かだった。
恨みもなく、悔いもなく、ただ事実を述べる声だった。
「それでもお前に任せたのは、あれらの書類がいつか要ると思ったからだ。この家が誠実に応じたということを、記録の上に残しておきたかった」
レオフリックは声が出なかった。
ゼーヴェルトの納得を得るため奔走した毎日。
あれはすべて事態を収めるための書類ではなかった。
最初からこの家の潔白を記録するための紙束だった。
「内心、俺の杞憂であってくれ。俺のただの疑心であってくれ。ゼーヴェルトが納得してくれるならそれでいい。そう願っていた」
「……詫びていただくことは何もありません。あの書類は正確です。どこに出しても恥じるところはありません。ブラックウォールの誠実さを証明するために作った甲斐がありました」
エルウィンは黙って頷いた。
それから立ち上がり、壁にかかった剣を見た。
長く手入れだけが続けられてきた、実戦から遠ざかった家宝の剣だった。
「予備役を集め、領民を避難させろ。ゼーヴェルトにとって民は大事な商売道具、奴も手荒な真似はしないだろう」
その声には迷いがなかった。
「ヴァリャーグの脅威が去ってから数代。我が領は兵を減らしてきた。王がそれを望みこの家はそれに従った。錆びついた盾だのと揶揄されてきた。おかげでこの家には名誉しか残っておらん」
エルウィンは振り返り、息子を見た。
「――だが名誉だけは、残っている」
レオフリックは深く頭を下げた。
顔を上げた時、父の背が真っ直ぐに伸びていた。
この数ヶ月、どこか小さく感じた背が再び高く大きく見えた。
幼い頃、練兵所で何度も見た父の姿だった。
※
ブラックウォール公爵家が兵を集め始めている。
予備役を招集し、東部領境の守備隊の配置転換を開始した。
カスパー・エーレンブルグ・ゼーヴェルトはブラックウォール領に隣接する小領主の領地を間借りした駐屯地でその報告を聞いた。
少しばかり圧力をかければここの領主は快くこの土地をゼーヴェルトに差し出した。
(――ようやく剣を抜いたか)
笑みが溢れそうになった。配下の前でそれを堪えるのは大変だった。
遅い、とゼーヴェルトは思った。
報告書を何度突き返しても、あの愚直な嫡男は律儀に作り直してきた。
蔵を開けろと言えば開け、査察団を常駐させろと言えば黙って受け入れた。
取引の自由を差し出せと言えば差し出した。
このまま最後まで首を垂れるのかと、半ば呆れかけていたところだ。
このまま主権を放棄するのではと内心不安に思っていた。
主権を放棄してもらっては困るのだ。
膝を屈し、頭を垂れた公爵家には相応の遇をしなければならない。
旧公爵家を丁重に遇し、領民に宥和を示し、諸侯に寛大さを演出する。
そんな余計な費用を払うくらいなら、戦場で名誉ごと燃え尽きてくれた方がいい。
そしてブラックウォール家はゼーヴェルトの目論見通り、ようやく剣を抜いた。
名誉だの誇りだのと美しい言葉を嘯きながら、最後は民よりも自らの椅子を明け渡したくないがために剣を抜く。
愚かな家だ。民のためと言うのならば、全てをこのゼーヴェルトに託せばよかったものを。
その選択をできないのが、ブラックウォールの限界なのだ。
――もっとも今さら降伏されても困るが。
ゼーヴェルトは天幕の中に備えられた執務机に向かいペンを取った。
文面は簡潔だった。
通商監督府の査察に対し、ブラックウォール公爵家が武力による抵抗の意思を示したこと。
勝手に予備役を招集したこと。領内に武装勢力を集結させていること。
これは新体制に対する明確な反逆であり、断じて容認できるものではないこと。
よって、ブラックウォール領の秩序回復および通商監督府査察団の安全確保のため、必要な軍事措置を執る。
ローゼンシルトはやたらとこのブラックウォールを重要視するが、大したことのない錆びついた盾にいつまでこだわるものか。
あの女狐には事後報告でいい。あの女とて、反逆者を討った結果に異を唱えるはずがない。
(――むしろ感謝されてしかるべきだろう)
面倒な廃屋を一つ撤去してやるのだから。
解体費用までこちらが負担してやるのだから、むしろローゼンシルトは感謝するべきである。
ブラックウォールが消えればアッシュフィールドもヘルマンシュタインもおのずと膝を屈するだろう。
三領協定などという小賢しい枠組みは瓦解し、物流は再びゼーヴェルトの手に戻る。
古い家が一つ消える。
ただそれだけのことだ。
王家が消えた時と同じように、誰も長くは悼まない。
名誉では腹は膨れない。
名誉では兵は養えない。
名誉では――勝てない。
それを教えてやるのだ、とゼーヴェルトは嘲笑うのだった。
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