第113話 父と同じ場所で
二の月十二日、最初の報せが届いたのは明け方だった。
ブラックウォール領西部街道の先にあるキーファー砦の伝令が、息も絶え絶えに領都の門を叩いた。
夜を越えて馬を飛ばし、最後は馬が潰れたので徒歩で走ってきたという。
伝令は門番に一言だけ告げて、その場に崩れ落ちた。
『ゼーヴェルト軍……キーファー砦を包囲……!』
レオフリックが報告を受けたのは、日の出からまもなくのことだった。
執務室にその報を持って駆け込んできた家令の顔は蒼白だった。
「包囲ということは現在すでに守備隊は交戦状態に?」
「おそらくは――」
家令の言葉が途切れた。
言わなくてもわかっている。
伝令が砦を発ってから数時間が過ぎているのだ。
包囲はもう攻撃に変わっていると見るべきだろう。
レオフリックは机の上に広げた領内の地図に目を落とした。
キーファー砦はブラックウォール領西端の要所で、王都との境にもっとも近い。
「侵攻の経路は」
「ラングタール男爵領からです。男爵領内に設営された駐屯地から――」
レオフリックの手が止まった。
ラングタール男爵領――ブラックウォール領の北西に位置する小さな領地だ。
代々の男爵家が細々と治めてきた土地で、ブラックウォール公爵家とは家格による上下関係はあるにせよ、特別友好的というわけでもなかった。
「ラングタールが……ゼーヴェルトに加担したのか」
「加担というよりは……拒めなかったのでしょう」
家令が苦い顔で言った。
「あの男爵家の領地はゼーヴェルトの流通網に完全に依存しております。領地を貸せとさもなければ物資を止めると言われれば、断るわけにはいかないでしょう」
レオフリックは口を閉じた。
この二ヶ月、ブラックウォール自身がゼーヴェルトの経済圧力に苦しめられてきた。
公爵家ですら抗いきれなかったものを、一介の男爵家が拒んで耐えられるはずもない。
ラングタール男爵を恨む気にはなれなかった。
その結果として、ゼーヴェルトはブラックウォールの喉元に駐屯地を得た。
だが、この事実はレオフリックに一つの推測を抱かせた。
(この侵攻はローゼンシルトの命ではないのか……?)
ローゼンシルトがもしこの軍事行動を事前に承認しているならば、王都から直接攻め込むのが合理的だ。
だがゼーヴェルトはラングタール領から侵攻してきた。
つまりこの侵攻は、王都に兵を集められない状況で行われているということだ。
ローゼンシルトの許しなしに動いている――ゼーヴェルトの独断だということ。
(あの男は何が望みなんだ……)
レオフリックには理解できなかった。
ゼーヴェルトがローゼンシルトに反してまでこの戦を望む理由。
――それがただの私怨でしかないものにレオフリックは気づく由もなかった。
理由はともあれゼーヴェルトは目と鼻の先で兵を集め終えていた。
配置転換の号令を出してから、まだ間もない。
東部の守備隊は移動を開始したばかりだ。西の守りはまだ薄い。
キーファー砦はほぼ孤立無援の状態でゼーヴェルトの攻撃を正面から受けている。
「父上は」
「既に起きておいでです。大広間に」
レオフリックは地図を掴んで部屋を出た。
※
大広間には、すでにエルウィンがいた。
甲冑こそ着けていないが、腰に剣を帯びている。
つい数日前まで暖炉の前で火を見ていた男が、広い卓の前に立って家臣たちに指示を飛ばしていた。
それは見違えるような姿で、レオフリックが良く知る父の姿だった。
「レオフリック。キーファーの報は聞いたな」
「はい。しかし配置転換がまだ――」
「もう間に合わん、こちらが動く瞬間を奴は待っていたのだ」
ブラックウォールの動向を逐一監視し、圧力をかけ続ける。
その末が領主としての主権の放棄を迫るものだとわかれば、剣で応じるのは必然。
鞘から剣を引き抜く瞬間こそゼーヴェルトは待っていたのだろう。
レオフリックは返す言葉がなかった。
ゼーヴェルトは査察を通じてブラックウォールの内側を見尽くしている。
兵の配置も、各砦の規模も、移動にかかる時間も。
ブラックウォールの軍事力は丸裸にされていた。
「申し訳ございません……私が査察に応じていなければ」
「お前は何も悪くない。お前は戦を回避しようとこの家にできる最善を尽くしてきた。ただゼーヴェルトは最初から戦を望んでいた、それだけのことだ」
どうしようもなかったのだ。
きっとエセルフリーダが婚約破棄を言い渡された時点で、ブラックウォールの命運は決まっていた。
大きな歴史の流れは、そう簡単に一つの家の意思で変えられないのだ。
「父上、今からでも西方の各砦から増援を――」
「遅い。おそらくキーファー砦以外の――バンバス砦、プラウム砦にも間もなく来る。あの男ならそうする。複数から同時に仕掛けて各個撃破していくだろう」
エルウィンの読みが正しいことを、レオフリックは数刻後に思い知ることになる。
※
正午を待たずに二つ目の伝令が来た。
バンバス砦にゼーヴェルト軍が迫っているとの知らせだった。
続けてプラウム砦からも急報が来た。
規模は不明。だが常備の守備隊だけでは太刀打ちできないことは明白だった。
増援は出せない。配置転換が間に合ってない状況では出す兵がいない。
出せたとしても今の状況では戦力の逐次投入という下策にしかならない。
領都に留まっている守備兵は領都の防衛のためのものであり、今ここから引き抜けば領都が裸になる。
「全砦の守備隊に伝達。砦を放棄して領都シュバルツフルスまで後退せよ。敵の攻撃をいなせばいい。死守するな」
「はい――」
ここで死守命令なぞ出したら、全ての砦で守備隊は全滅する。
残存兵力を全て領都に戻し、全軍で決戦の態勢を整える。
それが今の状況で取れる唯一の策だった。
レオフリックは即座に動いた。
文官を集め、書状を書かせ、早馬を仕立てる。
『砦を放棄し、兵をまとめ領都に撤退せよ』
一枚書き上げるごとに、レオフリックは地図を見た。
各砦までの距離と、伝令の到達にかかる時間を計算する。
同時にゼーヴェルト軍が各砦に到達する時間も。
おそらく最初に攻撃を受けたキーファー砦はもう手遅れだろう。
それでも他の砦には間に合うかもしれない。
(少しでも多く兵が戻ってくれば……!)
※
その日の夕刻、キーファー砦が陥落した。
報せを持ってきたのは伝令ではなく、砦から逃れてきた兵の一団だった。
彼らは現場判断で砦を放棄し、生き延びた者たちをまとめて領都まで戻ってきたのだ。
守備隊はほぼ壊滅。生き残った者も負傷者が多く、次の戦闘へ参加できる者は一握りだった。
やがてプラウム砦からも生存者が戻ってきた。
ゼーヴェルト軍の包囲網を突破し、何とか砦を脱出したという。
だが、バンバス砦からは誰一人、戻ってくる者はいなかった。
レオフリックは大広間の卓上に広げた地図を見つめていた。
燭台の火が揺れるたびに、地図の上に置いたチェスの駒の影が動く。
キーファー砦:陥落
プラウム砦:陥落
バンバス砦:連絡途絶
地図の上で、ブラックウォール領の輪郭が西から削り取られていく。
避難民も続々と領都へ流れてくるようになった。
翌朝までに、東部から配置転換した守備隊の先発が領都に到着した。
疲弊し切った顔の隊長が、レオフリックの前に立った。
「ヘルマンシュタイン方面守備隊、八十三名帰還いたしました。しかし行軍の途中、ゼーヴェルトの別動隊に襲撃を受け――」
その先は聞きたくなかった。
言われずともわかる。兵の数を見ればわかる。
東部守備隊はゼーヴェルトの別動隊により分断され、残りがまだ残存しているのかもわからない。
零れ落ちた兵を集めて何とか領都までたどり着いたのだろう。
レオフリックは隊長に労いの言葉をかけ、先に休むよう命じた。
その後も断続的に東部守備隊の帰還が続いた。
どの部隊も定数を欠いていた。
西部の守備隊は壊滅し、東部の守備隊も半分以上が失われた。
レオフリックは帰還した東部守備隊のための宿営地と食事の準備を手配した。
帰還してきた兵の休養を優先し、戦力の回復を待つしかない。
宿営地の割り振り、食糧の割り振り、負傷者の対応。
剣を振るのは苦手だが、集まってくる人間を捌く仕事ならこの家で誰よりも速くできた。
※
二の月十五日。ゼーヴェルトの侵攻が始まって三日が経った。
西方の各砦から退いてきた残存部隊。
東部から移動してきた守備隊の一部。
領都に元からいた守備兵。
予備役の招集に応じた領民兵。
それらを再編し、レオフリックは急造の戦力を編成した。
合わせて――エルウィンが残存兵力の集計を見て、短く息を吐いた。
かつてこの王国の東方を守った黒い壁は無惨に打ち砕かれていた。
「ゼーヴェルトはどこまで来ている」
「最新の斥候の報告では、キーファー砦に部隊を集結、再編し東進を続けています。このまま進めば領都の西方に展開するのはそう遠くないかと」
大広間に集まった家臣たちは皆、沈鬱な表情を隠さなかった。
この状況でゼーヴェルトを迎え撃たなくてはならないのだと。
「閣下、申し上げます。我らは領都シュバルツフルスに篭り、守りを固めるべきです。腐ってもヴァリャーグの侵攻から王都を護るために築かれた街です。ゼーヴェルトとて容易に攻め落とせるはずはありません」
重臣の一人が進み出た。
東の脅威のために建造された城塞都市が、西から攻められるという皮肉な現実だった。
「ゼーヴェルトの行動から、ローゼンシルト公の承認は得られていないと見て間違いないでしょう。籠城し時間を稼げば何らかの介入を期待できましょう」
別の重臣が続ける。
「また三領協定に基づいて、アッシュフィールド伯からの支援も期待できます。かの女伯は若年なれど聡明でなにより大胆、あの方ならば協定を理由にして我が領を助ける義理があると――」
家臣の一部は籠城の利を説いた。
それは正しい戦略だった。
守る側の利を生かし、外部からの支援を待つ。時間稼ぎをする。
それが現状を打開する最善の策であることは間違いない。
しかし、それに反対する家臣の声も少なくなかった。
「ローゼンシルトの介入、アッシュフィールドの援軍。どれも希望的観測に過ぎません。そのようなものを当てにして街を焼くわけには参りません」
正論だった。希望的観測は希望的観測でしかない。
ローゼンシルトがゼーヴェルトの独断を追認すればどうする?
アッシュフィールドが援軍を送らずに様子見に徹したらどうする?
民を経済活動の道具として接収したいゼーヴェルトとて、街を戦に使われれば容赦なく焼き払うだろう。
「民と共にあるのが我らがブラックウォールの矜持。籠城するということは民を戦火に晒すということ。我らは城に篭るのではなく、敵の前に立ち民の盾となるべきではございませんか」
その声にいく人かが頷いた。
ブラックウォール公爵家は代々民と共にあることを家訓としてきた。
戦う時は先頭に立ち、領主自らが戦地に赴き、民の盾となり、剣となる。
それがこの家の誇りであり、誰もが心に刻まれた家の矜持だった。
家臣たちはエルウィンに視線を送った。
数十の視線が、その一言を待っていた。
「――我らは民の盾とならん」
短い一言だったが、それ以上の言葉はいらなかった。
民の盾となるべく、守るべき場所に向かって戦う。
そして、エルウィンはさらに言葉を続けた。
「皆の者、これまで我が家に尽くしてくれたことに感謝する。だが我が家の矜持のためだけに死地に向かわせるわけにはいかん。臣の籍を抜け離れていく者は今申せ。これに咎めは負わせぬ」
重臣たちは大きく目を見開いた。
それがエルウィンの本心から出た言葉であることは誰の目にも明らかだった。
この戦に万に一つの勝ち目もない。
ほぼ確実に生きては帰れない。
それでもこの場に留まるか、それとも離れるか。
家臣たちの間にしばしの沈黙があった。
誰もが深い思考の海に沈み、己の心を探っているようだった。
やがて一人が、ゆっくりと進み出た。
高齢の老将だった。彼は膝をつき、公爵に手を添えた。
「閣下、今さらこの老骨にどこへ行けと申すのですかな。この地に骨を埋めさせていただきます」
その言葉を皮切りに、家臣たちは一人、また一人と前に進み出た。
「ブラックウォールの死出の旅路、我らも共に参ります」
「たとえ勝ち目なくとも、我らは剣を振るいます」
「我らの覚悟、ゼーヴェルトに見せてやりましょう」
大広間に響く声は、みな同じ決意だった。
民の盾となり、戦場で命を捧げる。
それがブラックウォール家臣の望んだ死に場所だった。
※
「レオ」
出陣の準備が進む中、エルウィンは息子を呼んだ。
大広間の隅、人の耳が届かない場所だった。
父の顔は穏やかだった。そして晴れ晴れとした、という表現がふさわしい表情だった。
「レオ、お前はアッシュフィールドに行け」
レオフリックは最初、聞き間違えたかと思った。
「アッシュフィールドにはエセルがいる。アルもいる。あの伯爵の下でならお前の力は活きる。レオフリック、お前は優秀な実務家だ。この家で一番の書類屋だ。剣もまともに振れぬ軟弱者は戦にいらん」
今さら何を言っているのだろうか。レオフリックは一瞬、困惑し笑いそうになった。
取ってつけたような「お前は軟弱者だから戦に出るな」など、今さらどんな冗談だ。
エルウィンはわずかに笑った。
不器用な、しかし温かい笑みだった。
レオフリックは父の顔を見た。
この人は、自分を逃がそうとしている。
実務家として必要だからではない。息子だから逃がそうとしている。
実務だの軟弱者だと理屈をつけているが、父の目を見ればわかる。
――まったく、この人は。
レオフリックは深く息を吸った。
「――お断りいたします」
エルウィンの眉が動いた。
「ブラックウォールの名は、アルフレッドが継ぎます。アルは優秀です。アッシュフィールド伯の薫陶を受ければ、公爵家を再建するだけの力は十分にある」
「では、お前は――」
「父上を一人で死なせるわけには参りません。それに家臣を死地に追いやると決めた者が、自分の息子だけは安全な場所に逃がすなど、恥知らずな真似は末代までの笑い物です」
「レオ――」
「私はブラックウォールの息子です。民の盾となるために戦場へ向かいます。父上のお傍で、父上と同じ場所で」
「――わかった」
それだけだった。
それ以上は何も言わなかった。
レオフリックは一礼した。
顔を上げた時、父が手を伸ばし、息子の肩を一度だけ叩いた。
力強い手だった。
武人の手だった。
窓の外に目を向ければ、雪はいつの間にか止んでいた。
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