第111話 煮られた狗(後編)
二日後の夜。
オスカー・テュラムは駐屯地の焚き火の前に座り、夜空を見上げていた。
澄んだ冬空に星々がぎらぎらと輝いている。
まるでこれからの運命を暗示しているような不穏な星空だった。
同じ星空なのに、バルモアからの行軍中に見た星空とは全く違って見える。
あの時は疲弊しきった仲間たちが焚き火を囲み、ニコラスがくだらない冗談を言って皆を笑わせていた。
あの頃は明日の食い扶持すら怪しかったが、皆がまだ生きていることに安堵できた。
「隊長、どうしたんすか。難しい顔して」
焚き火の向こうからニコラスの声がした。
硬くなったパンを頬張りながら、気楽な顔でこちらを見ている。
「……別に。考え事だ」
「隊長の考え事って大体ろくでもないことだぜ。飯の配分とか、調練の日程とか。閣下に提出する報告書とか。もっと楽しいこと考えようぜ」
「お前は楽しいことしか考えないから問題なんだ」
「ひっでえな。俺だってたまには真面目なこと考えるぜ?」
ニコラスはからからと笑った。
子供のように屈託のない笑い。
この男はいつもそうだ。
焼け跡でも、行軍の最中でも、王都の郊外でも笑っている。
その笑顔が周囲の人間を安心させる。この男についていけば大丈夫だと思わせる。
オスカーは知っていた。
その笑顔がどれほどの力を持っているか。
そしてその力が、どれほど危ういものであるか。
「――明日の夜、ローゼンシルト閣下がお前に直接話があるそうだ。王宮の離れに来てほしいと」
その言葉にニコラスの目が輝いた。
焚き火の光を反射して、子供のように瞳がきらきらと光る。
「マジかよ。閣下が直接俺に? やべえ、何の話だろ!」
「……気になるか?」
「もちろん! あれか、気に入らねえ貴族どもを懲らしめてこいってことか? 前から何度か提案してたけど、いまいち閣下は乗り気じゃなかったもんなあ。でもようやく俺たちの力が必要ってわかってくれたんだろ!」
ニコラスは嬉しそうに拳を握り締めた。
やはり――ローゼンシルト閣下の言う通り、態度を明らかにしない貴族たちへの懲罰を彼は望んでいた。
「そうだな……まずはアッシュフィールドだな。田舎貴族のくせになんかコソコソやってるらしいぜ。隊長も聞いたことあるだろ? バルモアで最初に商人どもが麦を買い漁ったのは、アッシュフィールドが値を吊り上げたのが原因だって話」
「……ああ」
「許せねえよな! あいつら田舎なのを良いことにたんまりメシを溜めこんでるらしいぜ! バルモアが燃えてみんなが困っていた時にぬくぬくと領地にこもってたってことだろ? てめえらだけがいい思いしてやがってよ!」
オスカーはその言葉に呆れるしかなかった。
アッシュフィールドを攻める? アッシュフィールドがどこにあるのかこの男は知っていて言っているのか。
あの領は東の辺境だ。間にはブラックウォール領とヘルマンシュタイン領があって、どちらもセレスティーヌへの臣従を曖昧なままにしている。
アッシュフィールドに行くためには、二つの領地を通らなければならないのだ。
武装した民兵上がり数千人による領地の通過を認めるとは思えない。
よしんば通過できたとして、アッシュフィールド領の伯爵はやり手の女伯爵と噂されている。
去年、ヘルマンシュタイン伯爵と領地を巡る小競り合いを起こし、地の利を活かした戦術でヘルマンシュタイン軍を追い返したという話は王都にも届いている。そのような人物が率いる軍にまともな調練もこなせていない救国軍が勝てるとは思えない。
「……王都の自警団だけで救国軍は十分役に立っていると思うが」
「全然足りねえよ。閣下はお人好し過ぎるんだ。甘い。このままだと貴族どもに舐められて、結局は閣下が傷つく。そんなの俺は見たくねえ」
オスカーは深く息を吐いた。
もうわかっている。
この男を説得するのは不可能だということを。
「いやー嬉しいな、閣下が俺の話を聞いてくれるなんて。ちゃんとした格好していかねえと、いやでも一人じゃ不安だから隊長も一緒に来てくれよ」
「……ああ、そうする」
オスカーは焚き火から目を逸らした。
炎が揺れている。
その向こうでニコラスが仲間に「明日閣下に呼ばれたんだ!」と嬉しそうに話しているのが聞こえた。
※
次の日の夜。
ニコラスはオスカーと共に、王宮の離れに赴いていた。
それは川沿いに建てられており、かつては王族の私的な茶室として使われていたらしいが、今は使われておらず人の気配はない。
川のせせらぎだけが夜の静寂の中に響いていた。
オスカーはニコラスと共に、離れの前に立っていた。
扉の前には一人の侍女が立っていて、二人を中へ案内した。
侍女は部屋の蝋燭に火を灯すと、一礼して退出した。
小さな部屋だった。
椅子が二脚と小さなテーブル。
長年使われていない部屋らしいが、毎日の清掃はされており埃はかぶっていなかった。
暖炉には火がくべられていて、部屋は暖かかった。
セレスティーヌの姿はなかった。
「あれ、閣下まだ来てないのか。早く着きすぎたかな」
ニコラスは部屋を見回しながら、気楽な声で言った。
椅子に腰を下ろし、テーブルの上に置かれた水差しから木のコップに水を注いでいる。
侍女が氷室から取り出したばかりなのか。水はよく冷えていた。
「隊長、座れよ。立ってると疲れるぜ」
「……ああ」
オスカーは座らなかった。
扉の前に立ったまま、ニコラスの背中を見ていた。
その背中を、オスカーはよく知っていた。
ゴルトフェルトの焼け跡で路頭に迷った皆を励まし笑顔で導いていた背中。
王都への行軍で倒れた仲間に肩を貸して歩き続けた背中。
あの背中がなければ、バルモアの民はとうに散り散りになっていただろう。
あの背中がなければ、オスカー自身もここにはいなかったかもしれない。
善い人間だと思う。
本当に、善い人間だと思う。
飢えた人間のために誰よりも先に立ち上がり、誰よりも大きな声で叫んだ。
その善さに嘘はない。ニコラス・ドレフュスという人間の本質は、どこまでも善意だ。
だがその善意は方向性を持たない。
独善的で、衝動的で、そして時に破壊的だ。
バルモアで何が起きたか、オスカーは知っている。
供出が略奪に変わった。略奪が焼き討ちに変わった。
マティアス司教は首を吊った。
全てはニコラスの善意から始まった。
誰も飢えさせたくないという、ただそれだけの気持ちから。
そしてニコラスは今、同じことを繰り返そうとしている。
臣従しない諸侯を懲罰しろ。救国軍を使って目を覚まさせてやれ。
その言葉の裏にあるのは、またしても素朴な感情だ。
閣下のために力になりたい。仲間を守りたい。敵を倒したい。
善意で武器を取り、善意で村を焼き、善意で人を殺す。
それがニコラス・ドレフュスという人間だった。
もしニコラスが独断で軍を動かせば、救国軍は反逆者として処断される。
いや、その前に練度の低い救国軍は領主の軍に完膚なきまでに打ち負かされるだろう。
ニコラスは命を落とす。そして彼についていった多くの仲間も命を落とす。
バルモアから共に歩いてきた仲間たちの命が、消えてしまう――
(……仕方がないんだ)
その言葉が、胸の内に浮かんだ。
バルモアで略奪を追認した時と同じ言葉。
あの時も「仕方がない」と自分に言い聞かせた。
無秩序な暴力よりは指向性を持たせた方がマシだ。そう言い聞かせて手を汚した。
今度もまた「仕方がない」のか。
仕方がないのだ。そうしなければ多くの仲間が死ぬ。
セレスティーヌは直接は言わなかったが、論理の行き着く先はそこにしかなかった。
オスカーは腰の短剣に手をかけた。
柄が冷たく手に馴染んだ。
「なあ隊長」
ニコラスが振り返った。
水を飲み干して、いつもの笑顔でこちらを見ている。
「閣下って、何の話をしてくれるんだろうな。ほんと楽しみだぜ」
「……ああ。そうだな」
「隊長、なんか顔色悪くないか?」
「……問題ない」
「本当かよ。さっきから妙に静かだし。まあいいか、閣下が来るまで待と――」
ニコラスが再びテーブルに向き直ろうとした。
その背中に、オスカーは一歩踏み込んだ。
とすっと静かな音が響き、短剣がするりと背中からニコラスの心臓を貫いた。
そしてぎゅっと柄を握りこんで捻る。
軍人として学んだ近接戦闘術が初めて役に立った瞬間だった。
ニコラスの体が硬直した。
コップが手から滑り落ち、床に転がってからんと乾いた音を立てた。
「……隊、長……?」
ニコラスは振り返ろうとした。
だが体が言うことを聞かない。膝が折れ、テーブルに手をついてかろうじて体を支えている。
背中から熱いものが流れ落ちていくのを感じていた。
振り返ったニコラスの顔を、オスカーは見てしまった。
怒りではなかった。
恨みでもなかった。
ただ、純粋な困惑だけがそこにあった。
「どう……して……」
その声には敵意の欠片もなかった。
なぜ自分が刺されたのか、本当にわからないという顔だった。
オスカーを信じて疑わなかった男の、最後の問いかけ。
オスカーは答えられなかった。
何も言えなかった。
ニコラスの体がゆっくりと崩れ落ちた。
テーブルの脚にもたれかかるようにして、床に転がり落ちる
瞳から生の光が消えていく。
その唇が微かに動いた。
何か言おうとしたのかもしれない。
だが言葉にはならなかった。
やがて、ニコラス・ドレフュスは動かなくなった。
オスカーは立ち尽くしていた。
ニコラスの背中に刺さった短剣から赤い血が染み出していく。
その赤がオスカーの足元にまで届き、革靴を濡らした。
どれほどの時間が経ったのか。
部屋の扉が、静かに開いた。
セレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルトが入ってきた。
紫紺のドレスに白い外套。蝋燭の灯りに照らされたその顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
まるで夜のお茶に招かれた客人のような足取りで部屋に入り、床に倒れたニコラスの姿を一瞥した。
特に彼女の表情が崩れることはなかった。
ただ、予定通りの結果を確認するような、静かな視線だった。
セレスティーヌは向かい側の椅子に腰を下ろすとオスカーの方を見て、穏やかに言った。
「お疲れさまでした、オスカー隊長」
オスカーは動けなかった。
身体が石柱のように硬直していた。
「後始末はこちらで行いますので、隊長はこれまで通り救国軍をお導きくださいませ。兵たちにはあなたが必要ですわ」
セレスティーヌの声は柔らかく温かかった。
まるで部下の労をねぎらう上官のように、慈しみのこもった声だった。
「ドレフュスさんについては――酒に酔った勢いで足を滑らせ川に転落して亡くなったということにしておきましょう」
全てが用意されていた。
この部屋が選ばれた理由。川沿いの離れである理由。
最初から、全てが。
「……承知、いたしました」
オスカーの声は、自分のものとは思えないほど平坦だった。
「オスカー隊長」
セレスティーヌが立ち上がった。
オスカーの前まで歩み寄り、静かにその手を取った。
「あなたは正しいことをなさいました。ドレフュスさんのためにも、救国軍のためにも」
――正しいこと。
バルモアで略奪を追認した時も、同じことを自分に言い聞かせた。
「仕方がない」と。「こうするしかない」と。
あの時は食糧のために。今度は――仲間の命のために。
そしてそのどちらも、本当は自分の決断ではなかった。
状況に追い詰められ、選択肢を一つだけ残され、それを選ぶしかなかった。
今回は目の前の聖女のような魔女がその状況を作った。
わかっていた。
わかっていて、それでも他に道がなかった。
「……失礼いたします」
オスカーは一礼して部屋を出た。
背後で扉が閉まる音がした。
川のせせらぐ音が、夜の闇に溶けていく。
目を閉じると、ニコラスの最後の顔が浮かんだ。
あの困惑した目。「どうして」と問いかけた声。
答えられなかった。何も言えなかった。
(……仕方がなかったんだ)
何度目かの「仕方がない」を、オスカーは自分に言い聞かせるだけだった。
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