第110話 煮られた狗(前編)
かつてバルモア救国軍と名乗っていた集団は、ローゼンシルト公セレスティーヌの麾下に編入されてからは『エーデルガルド救国軍』と名を改め、王都郊外に駐屯地を構えていた。
駐屯地を構えていた、と言えば聞こえはいいが、実態は王都郊外に数千人の元民兵がキャンプを張っているだけのことだった。
セレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルトは、執務室の窓から王都の街並みを眺めていた。
冬の陽光が石畳を白く照らしている。王都の秩序は安定し、民は日常を取り戻しつつある。
だが窓から見えない城壁の外側には、彼女の頭を悩ませる厄介な集団が居座っていた。
机の上には、正規軍の指揮官から上がってきた報告書が数通。
そのいずれもが、救国軍に関する苦情だった。
救国軍の正規軍編入計画は、当初の想定通りには進んでいなかった。
本来であれば駐屯地で基礎的な調練を施し、段階的に正規軍の各部隊に編入していく予定だった。
だが現実はそれを許さなかった。
正規軍の兵は何年もかけて訓練を受けた者たちだ。
隊列の組み方、武器の扱い、命令系統の遵守。
それらを体に叩き込まれた者たちの中に、ついこの間まで鍬や棒切れを振っていた元民間人を放り込んでも、まともに機能するはずがなかった。
個々の体力や気力に問題があるわけではない。
バルモア領から王都までを歩き通した者たちだ。体力の不足はない。
日頃農作業などで鍛えられていた者も多く、基礎的な体力面で正規軍の兵に劣っているわけでもない。
だが軍としての練度は絶望的に低く、何より軍規という概念がほとんど浸透していなかった。
報告書の一つを読み上げるまでもなく、セレスティーヌはその原因を知っていた。
――ニコラス・ドレフュス。
バルモアの焼け跡から民を率い王都まで歩いてきた男。
救国軍の精神的な柱であり、実質的な指導者。
そして――セレスティーヌの頭痛の種。
ニコラスは根っからの扇動家だった。
集団の中でぼんやりと共有する感情を言語化する能力だけは非常に優れていた。
『俺たちは裏切られた』『貴族たちは腐っている』『王は俺たちを見捨てた』。
そうした感情を的確に言葉にして訴えかければ数千の民兵が彼に従う。
だがその才能は、軍規とは最も相性が悪い種類のものだった。
正規軍の教官が調練の指示を出しても、ニコラスが「今日は休もうぜ、みんな疲れてるだろ」と言えば兵たちは教官ではなくニコラスに従う。
上官の命令より仲間の声に従う。それが救国軍の体質であり、ニコラスがその体質を体現していた。
そして最近、ニコラスは新たな行動に出ていた。
セレスティーヌの許可を得ることなく、救国軍の中から有志を募って“自警団”を組織し王都の街中を練り歩き始めたのだ。
名目は『ローゼンシルト閣下のために王都の治安を守る有志の集い』。
実態は武器を持った元民兵の集団が王都の通りを闊歩しているだけのことだった。
幸いにも、今のところ住民との深刻なトラブルは報告されていない。
ニコラス自身が「住民の迷惑にはならないように」と繰り返し言い聞かせているおかげだった。
その点だけは評価できるだろう。
だが正規軍からの評判は最悪だった。訓練をサボタージュした挙句勝手に街を武装して徘徊する。
王都の治安維持は正規軍の任務であり、セレスティーヌから正式に命じられた職責だ。
そこに得体の知れない民兵集団が勝手に割り込んできて、しかも住民に「ローゼンシルト閣下の命令で巡回しています」などと吹聴している。正規軍の指揮官たちが苦情を上申するのも当然だった。
セレスティーヌは報告書を机の上に置き、目を閉じた。
ニコラスに悪意はない。それはわかっている。
彼はただ、セレスティーヌのために何かをしたいのだ。
バルモアの焼け跡で差し伸べられた手への恩義を、自分なりの方法で返そうとしている。
粥を与えてくれた恩人のために自分にできることをしたい。それだけの動機だ。
――だからこそ厄介なのだ。
悪意のある人間は処罰の大義名分が立てやすい。
だが善意で暴走する人間を止めるのは難しい。
止めれば『恩人のために尽くしているのになぜ悪く言うのか』と反発される。
放っておけばその行動は認められたと受け取られ、ますます好き勝手な行動に走る。
ニコラスの善意は、薪の山に放り込まれた火種のようなものだった。
本人に燃やす気はなくても、燻ぶり始めれば火の勢いは制御できなくなる。
そしてもう一つ、セレスティーヌの神経を逆撫でする問題があった。
ニコラスは繰り返し、救国軍を“懲罰軍”として使うことをセレスティーヌに上申していた。
まだ臣従を明らかにしていない諸侯のもとに救国軍を派遣し力で屈服させろ、と。
『閣下、俺たちを使ってください。あいつらはのうのうと領地に閉じこもって閣下に従おうともしない。バルモアの民を見殺しにした連中と同じだ。俺たちが行って目を覚まさせてやりますよ』
駐屯地の視察にセレスティーヌが訪れる度に、ニコラスはそう訴えてくる。
その場では穏やかに「時期を見て考えましょう」とだけ答えるに留めていた。
だが内心では冷ややかな思いが彼女に募っていた。
つい先日、ゼーヴェルトにも同じ類の話をされたばかりだった。
態度を決めない諸侯への圧力を強めろ。反ローゼンシルト同盟の芽は摘まれなければならない。
方法こそ違えど、大局を見ずに目の前の脅威に即座の対処を求める姿勢は同じだ。
どちらもセレスティーヌが描く『王都の実効支配を確固なものにする』という長期的な視点からは外れている。
(――ゼーヴェルト公爵にはまだ使い道がある。だがあの男は……)
セレスティーヌは目を開け、別の報告書を手に取った。
それは救国軍から上がってきた日次報告書だった。
救国軍の日々の状況、調練の進捗、物資の消費量、兵の健康状態。
報告書の作成者はオスカー・テュラム――救国軍のもう一人の指導者。
あのバルモア城の守備隊を任され、そして城門を開けたとされる男だ。
最近はニコラスの影に隠れがちで、救国軍の実務担当という立ち位置に押し込まれていた。
報告書の備考欄には救国軍の一部による自警活動への憂慮が記されていた。
セレスティーヌはこの男を高く評価していた。
バルモアの混乱の中で、限られた手段で最低限の秩序を保ち続けた実務家として。
略奪を止められなかった時も、無秩序な暴力を『指向性のある接収』に変えることで被害を最小化した。
それは決して称賛される判断ではないが、現実を直視し最悪の状況で最善ではなく次善を選べる人間だということ。
そしてオスカーはニコラスの危険性を理解している。
ニコラスの行動を制御しきれていないことへの焦りと、しかし救国軍の中で唯一ニコラスに意見できる立場にある自分がその役目を全うできていないことへの自責の念。
報告書の行間からそれは明らかだった。
(この男には――話が通じる)
セレスティーヌは侍女を呼び、一つの指示を出した。
「救国軍のオスカー・テュラム隊長を、明日の夕刻に王宮へお招きしてちょうだい」
翌日の午後。
オスカー・テュラムは王宮の一室に通された。
会議室ではなく執務室に隣接した小さな応接間だった。
調度品は質素だが趣味がよく、暖炉には薪がくべられて部屋は温かい。
二人分の紅茶が用意されていた。
セレスティーヌは既に席についていた。
護衛も侍女もいない。二人きりだった。
「お忙しいところお越しいただいて、ありがとうございます。オスカー隊長」
「こちらこそ、お招きいただき光栄でございます」
“オスカー”と親しみが込められた名で呼ばれたことにオスカーは少し動揺したが、それを悟られないよう控えめに一礼をする。
その立ち振る舞いは救国軍の中で数少ない軍人のそれだった。
「単刀直入にお話しさせてくださいね。――オスカー隊長、あなたの報告書はいつも拝読しております。とても助かっていますわ」
「恐縮です」
「その中で、一つお聞きしたいことがあるのです」
セレスティーヌは紅茶のカップを手に取った。
「ニコラス・ドレフュスの自警団活動について、あなたは報告書に『深く憂慮している』と記していらっしゃいましたわね」
「……はい。あれはニコラスが独断で始めたことです。私は何度か中止を求めましたが、聞き入れられませんでした」
「彼は何と?」
「ニコラスは『閣下のためにやっているんだ』と言って譲りませんでした」
オスカーの声は淡々としていた。
だがその淡々さの裏に諦めに近いものがあった。
「あなたは救国軍の中で、唯一ドレフュスさんに意見できる立場にいらっしゃいますね」
「……立場としてはそうかもしれません。ですが聞き入れられるかと問われれば」
オスカーは言葉を切った。
セレスティーヌは急かさず、紅茶を一口含んで待った。
「……正直に申し上げます。救国軍の兵たちにとって、指揮官は私ではありません。ニコラスです。私は事務処理と規律の維持を担っていますが、彼らの心を掴んでいるのはニコラスの言葉です。私が命令してもニコラスが別のことを言えば、兵はニコラスに従います」
「それは辛いことでしょうね……」
「……もう慣れました。それで救国軍がまとまっていられる部分もありますので」
オスカーの顔には疲れが色濃く出ていた。
これまで何度もニコラスを諫めることができず、そしてそれでも組織をまとめるため、彼を否定することもできなかった。
その繰り返しが、彼の心を削っているのだとセレスティーヌは見て取れた。
「オスカー隊長。あなたもご存じでしょうが、ドレフュスさんは先日私にこう言いました。『まだ臣従していない諸侯のところに救国軍を送って目を覚まさせてやりましょう』と」
「……はい」
「彼の気持ちは理解できますわ。私のために力になりたい。バルモアでの恩義を返したい。それ自体は美しいことです。ですが――」
セレスティーヌの声が、わずかに強くなった。
「――善意だけで軍を動かせば、何が起こるかはあなたが一番よくご存知のはず」
オスカーの表情が硬くなった。
バルモアでの記憶が蘇ったのだろう。
善意から始まった供出が略奪に変わり、略奪が焼き討ちになり、焼き討ちが――
その全てをオスカーは間近で見てきた。
「彼は人を導く力を持っています。ですが、その力には方向がありません。善い方向に向かう時もあれば、破壊に向かう時もある。そして本人にはその区別がつかない」
セレスティーヌは静かに言葉を続けた。
「今はまだ、自警団活動で済んでいます。住民との衝突も起きていない。ですが――もしドレフュスが私の意思と無関係に救国軍を動かし、どこかの諸侯と武力衝突を起こしたら。その時、新体制は救国軍を庇いきれません。救国軍全体が反逆者として処分の対象になりかねないのです」
オスカーの手が、膝の上で微かに震えた。
声を震わせながらも、彼は答えた。
「……ニコラスが独断で兵を動かすと?」
「これまで彼の行動を間近で見てきたあなたには、それは十分にあり得ることとお思いではありませんか?」
「……」
オスカーは彼女の言葉を否定できなかった。否定したかったができなかった。
ニコラスの性格を知っている。彼は独善的な上に行動的だ。自分の善意の正しさを疑わない。
セレスティーヌがいくら待てと指示しても、彼はいずれセレスティーヌの指示を曲解し「閣下のために行動している」と自分を正当化して兵を動かすだろう。
「あなたがバルモアから守ってきた人々、ゴルトフェルトの焼け跡から一緒に歩いてきた人々が、彼の暴走に巻き込まれて全員罰せられる。――そのような事態は私も望んでおりません」
セレスティーヌの声は穏やかだった。
脅しではない。恫喝でもない。
ただ予測される未来を淡々と説明しているだけだ。
「オスカー隊長。あなたはこれまで救国軍の秩序を守るために多くのことを犠牲にしてこられた。その献身を私は心から尊敬しています。あなたがいなければ、あの集団はとうの昔に瓦解していたでしょう」
セレスティーヌはオスカーの目を真っ直ぐに見た。
その瞳に慈愛が宿る。
何としてでも救国軍に最悪の未来を辿らせないという慈しみの目だった。
「ですから――お願いです。ドレフュスさんを止めてくださいませんか?」
「……止める、とは」
絞り出すような声だった。
オスカーはこの瞬間、セレスティーヌが何を求めているのかを理解していた。
――理解してしまった。
その瞬間――聖女の唇がにぃと三日月に弧を描いた。
ああ、この女は自分にニコラスの処分を命じているのだ。
だが言葉では言わない。命じない。ただ望むだけ。
ニコラスを説得できた試しはない。
説得が不可能であり、放置すれば全員が破滅するならば、残る方法は一つだけ。
「オスカー隊長。私はあなたに命令するつもりはありません。あなたはドレフュスさんと共に歩いてきた。バルモアの焼け跡から、ここまで。その絆は私の知るところではありませんし、口を挟む権利もない」
沈黙が部屋を満たした。
暖炉の火がぱちりと音を立てた。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「ただ、一つだけお伝えしておきたい。私が守れるのは秩序の中にいる者だけです。秩序の外で徳なき善意を振り回す者を、私は守ることができません。そしてその者に巻き込まれて秩序の外に出てしまった人々も」
オスカーは椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
やがて立ち上がり、深く一礼した。
「……失礼いたします」
その声は掠れていた。
去り際にセレスティーヌは声をかけた。
「決意が固まったら、いつでも私に申し出てください。ただ――あまり時間の余裕はありませんわ」
「はい……」
「あなたが守りたい人々のためにも、善処なさってください」
オスカーは振り返るともう一度無言で頭を下げ、部屋を出た。
セレスティーヌは彼の背中を見送ると紅茶を飲み干し、空になったカップをソーサーに戻した。
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