第109話 焦る商人公爵
年が明け、新たな一年が始まった王都エーデルシュタットは穏やかな冬晴れの陽光に包まれていた。
セレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルトの治世が始まって二ヶ月近く、王都の秩序は驚くほど安定していた。
市場は再開し、不足していた物資も徐々に行き渡り始めたこともあってか民は新たな支配者の下で日常を取り戻しつつあった。
だがカスパー・エーレンブルグ・ゼーヴェルトの心中は穏やかではなかった。
セレスティーヌの治世で最初に臣従の意を示した彼は王都に常駐し、主に経済面に新たな政府の中枢を担う立場にあった。
そんな彼を不機嫌にさせるもの、それは手元に届いたいくつかの報告書である。
ゼーヴェルトは自らの別邸から王宮に向かう馬車の中で、何度も報告書に目を通していた。
彼が持つ物流を支える商人たちの情報網から日々寄せられる報告。その中のひとつがゼーヴェルトの機嫌を著しく損ねていた。
エーデルガルド東部三領の通商協定の締結。
アッシュフィールド伯爵領を主導とし、ヘルマンシュタイン伯爵領を中継地として、ブラックウォール公爵領との間に直接交易路を開く。
名目は冬季の物資不足に対応するための近隣救荒協定。
品目は塩、鉄鉱石、皮革、食糧、燃料。
ゼーヴェルトは報告書を閉じ、馬車の窓に目を向けた。
冬の王都の街並みが流れていく。
その目に映る穏やかな風景とは裏腹に、腹の底で不快感が煮えたぎっていた。
――またもや出し抜かれた。
ゼーヴェルトは意図的にブラックウォール領への物流を絞っていた。
直接止めては角が立つ。ゆえに少しだけ流通を滞らせ、供給が安定しないように調整する。
証拠の残らない圧力でブラックウォールを経済的に追い詰め、ローゼンシルトへの臣従を促す。
領民を第一に優先するブラックウォールならば、膝を屈するのも時間の問題だと思っていた。
ところがブラックウォールは、ゼーヴェルトの流通網を迂回する交易路を構築してみせた。
しかもヘルマンシュタインまで巻き込んで、だ。
あの小心者の伯爵を説き伏せて三領の通商網を組み上げるなどという芸当を、あの古臭い誇りに縛られたブラックウォールがやってのけた。
いや――報告書を読む限り、主導したのはブラックウォールではない。
アッシュフィールド伯爵。リリアーネ・アッシュフィールド。
東の辺境の、若い女伯爵だ。
彼は以前王都にて彼女と会ったことがある。
年端も行かぬ娘にしてはよくやるほうだった。
しかし、若さゆえに王都に渦巻く権力の力学には成すすべもなかった。
現に公女エセルフリーダの婚約破棄の原因となったブラックウォールの独断専行に関わった人物として、宮内府によって事情聴取という名の半軟禁状態に置かれていた。
ゼーヴェルトは世間知らずの小娘に恩を売るつもりで接触し、宮内府に口利きを提案したがアッシュフィールド伯は丁重に断った。
――所詮は王都の力学を知らない田舎貴族の娘だと思っていた。
だがあの娘は、その次の日まんまと王都を脱出し自領に引き上げた。
その事実がゼーヴェルトのプライドを傷つけた。
そして今度は、ブラックウォールを経済的に支援するために通商協定まで結んだというのだ。
一度ならず二度までも出し抜かれた。
戦争で負かした相手の領地を中継地として利用し、ゼーヴェルトの経済封鎖に穴を開けた。
しかも協定の名目は『冬季救荒』と政治的な批判を受けにくい名分まで掲げているときた。
(――小賢しい真似を)
ゼーヴェルトは報告書をもう一度開いた。
協定に参加した三領の代表者の名前を確認する。
アッシュフィールド伯リリアーネ。ヘルマンシュタイン伯ローマン。
そして――ブラックウォール公爵家名代としてレオフリック・マルス・ブラックウォール。
ブラックウォール公爵エルウィンではなく、その嫡男が名代として交渉に出てきている。
つまりブラックウォール家の実務はこの若造が仕切っているということだ。
あの王家への忠義だけは一級品の化石貴族が、息子に実権を委ね始めているとなれば、家の内情に何か変化が起きているのだろう。
ゼーヴェルトは報告書に記された一文にさらに不快感を催す。
『ブラックウォール公爵家次男アルフレッド・テルス・ブラックウォールは、現在アッシュフィールド伯爵領に滞在中。通商協定の交渉にも同席した模様』
あの白い犬娘はいつの間にか公爵家の次男を抱き込んでいた。
自分の与り知れぬところでアッシュフィールドはブラックウォールとの繋がりを深めている。
酷く、不愉快だった。
気づけば馬車は王宮の前に到着していた。
ゼーヴェルトは報告書を懐に仕舞い、馬車を降りた。
※
セレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルトとの会談は、前回と同じ宮内府の会議室で行われた。
相変わらず謁見の間は使わない。簒奪者としての立場を弁えた配慮か、あるいはそもそも玉座に興味がないのか。
どちらでもいい、ゼーヴェルトにとって重要なのはこの女が自分の話に耳を傾けるかどうかだ。
「ゼーヴェルト公爵、ようこそお越しくださいました。新年のご挨拶が遅れましたわね」
セレスティーヌは穏やかな笑みで出迎えた。
紫紺のドレスに包まれた姿は相変わらずの艶やかさだ。
侍女が紅茶を運んできた。ローゼンシルト領で生産された茶葉だという。
――いちいち説明されなくとも知っているが。
「新年のご挨拶もそこそこに、本題に入らせていただきたい」
「あら、そう慌ててどうなされましたか?」
ゼーヴェルトは懐から報告書を取り出し、テーブルの上に広げる。
その報告書にセレスティーヌの目が細められた。
「東部三領が通商協定を結んだことはご存知か」
「ええ、報告は受けております。アッシュフィールド伯爵が主導した冬季の救荒協定でしたわね」
セレスティーヌはカップを手に取りながら穏やかな口調で答えた。
その平静さが、ゼーヴェルトには物足りなく癪に障る。
「救荒協定という名目ですが、品目を確認なさいましたか。塩と食糧はともかく――鉄鉱石と皮革が含まれている。鉄は武器の原材料であり、皮革は馬具や防具に不可欠な軍需物資です。冬の飢えを凌ぐために鉄鉱石を融通する道理がどこにありましょう」
その指摘そのものは正しい。
鉄鉱石と皮革は確かに軍需物資に転用できる。
それをローゼンシルトへの態度を明らかにしていない三つの領地が融通し合うとなれば、軍事的な備えと見做されても不思議ではない。
「名目は救荒でも、実態は軍需物資の備蓄と流通網の構築です。これは反ローゼンシルト同盟の萌芽と見るべきではないでしょうか」
セレスティーヌはカップを一口含み、ゆっくりとソーサーに戻した。
「ゼーヴェルト公爵のご指摘は理解できますわ。確かに鉄と皮革は軍需物資としての側面を持っています。ただ――その鉄と皮革の流通が滞っている原因について、公爵はどのようにお考えですか?」
ゼーヴェルトの眉がわずかに動いた。
そして内心で舌打ちする。
この女は気付いている。ブラックウォール領の流通を意図的に絞っていることに。
「ブラックウォール領では鉄と皮革の納品遅延が常態化していると聞いておりますわ。複数の取引先で同時に、ゼーヴェルト公爵の流通網を経由する品目に限って。不思議な偶然ですわね」
声は穏やかだった。
だがその一言一言が、ゼーヴェルトへの牽制の刃に聞こえてくる。
「彼らが自衛的に代替の交易路を求めたのは、そもそも既存の流通が不自然に細った結果ではなくて? 軍需物資を融通していると見ることもできますが……あなたが川の流れをせき止めたせいで、彼らが水路を新たに開いたとも言えるのではありませんか?」
胸の内で、冷たい不快感が広がるのを抑えられない。
この女は自分のせいで三領が結束したとでも言いたいのか。
「では、圧力を緩めろとおっしゃるのですか」
ゼーヴェルトは切り返した。
声に感情を乗せまいと努めたが、それでも僅かに苛立ちが混ざっていた。
「態度を明らかにしない諸侯に対して経済的な圧力をかけることは、新体制を安定させるために必要な措置だと考えております。それを緩めてしまっては、彼らに誤った意図を伝えかねません」
セレスティーヌは微笑んだ。
否定でも肯定でもない曖昧な微笑みだった。
「圧力をかけること自体が間違いだとは思いません。ただ――急ぎすぎではないかしら。ブラックウォールは確かにまだ態度を明らかにしておりません。けれどそれは敵対を意味するものでもない。時間をかければ彼らが自ら歩み寄ってくる可能性は十分にあります。けれどあなたが性急に締め上げれば、追い詰められた相手は自衛に走る。自衛はやがて結束を生み、結束は対抗勢力へと育つ。――今回の三領協定が、まさにその過程ではありませんか?」
「それは結果論です。私の判断が――」
「結果ではなく因果の話をしておりますの」
セレスティーヌの声は柔らかいものの、ゼーヴェルトの言葉を続けさせない強い意志が感じられた。
「私が今この協定を問題にしないのは、少なくとも現時点では名目通りの救荒協定として扱えるからです。辺境の伯爵が近隣と冬の物資を融通し合っている。それだけのこと。ここで私たちが過剰に反応すれば、態度を決めかねている他の諸侯にまで『様子を見ている者は敵と見做される』という誤った意図を伝えかねません。それこそ新体制にとっての害ですわ」
ゼーヴェルトは黙った。
反論の材料はあった。だが、それを口にすればするほど、自分の圧力が裏目に出たことを認める形になる。
商人にとって失敗した取引にいつまでも固執することほど愚かなことはない。
それは理解していた。理解していたが――
「もうひとつ。報告書にブラックウォール公爵家の次男がアッシュフィールド領に滞在しているとありましたが」
ゼーヴェルトは話題を変えた。
「アッシュフィールド伯爵は公爵家との繋がりを深めようとしているようです。このままでは辺境に新たな権力構造が生まれる可能性もあります。それについて、あなたはどうお考えです?」
「アルフレッド・テルス・ブラックウォール――確かあの晩餐会の折に、姉君の件で大変取り乱していた少年ですね。――その後、姉のエセルフリーダ様がアッシュフィールド領エルベ修道院に入ったのは公爵も御承知の通りでしょう。元からアッシュフィールド伯爵は公女エセルフリーダ様と懇意にしていた。弟が姉を送り届けた流れでアッシュフィールドに身を寄せたのでしょう。さほど不自然な話ではないように思えますが」
――あっさりと片付けられた。
ゼーヴェルトにとっては不愉快な情報だったが、セレスティーヌにとっては既知の文脈の中で説明がつく事柄に過ぎないらしい。
自分は苛立っていてもセレスティーヌは苛立っていない。
自分が脅威と感じるものを、この女は涼しい顔で受け流す。
情報の受け取り方の非対称性がゼーヴェルトの苛立ちをさらに助長させる。
「ゼーヴェルト公爵。あなたはなぜ、そんなに焦っていらっしゃるのですか?」
その問いは穏やかに発せられた。
責めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただ純粋に疑問を投げかけるような声で。
だからこそ、ゼーヴェルトの胸を深く抉る。
焦っている?
自分が?
ゼーヴェルトは一瞬、自分の内側に問いかけた。
新体制を安定させるために必要な措置を講じているだけだ。
経済面での主導権を確保し、未従属の諸侯に圧力をかけ、ローゼンシルトの覇道を支える基盤を固める。
それは共同経営者として最初からの計画であり、焦りなどではない。
――そのはずだ。
だが心の奥底で、別の声が囁いていた。
ブラックウォールのような古いだけの名門が、自分の経済力に屈する姿を見たい。
ゼーヴェルトの名が、あの腐った権威の上に立つ日を早く迎えたい。
そんな声が表面化する前に、ゼーヴェルトは商人の仮面を被り直した。
「焦ってなどおりません。ただ、新体制の安定には迅速な対応が不可欠と考えているだけのこと。時間をかけすぎれば、不穏な芽を摘む機会を逸します」
「そうかしら」
セレスティーヌは微笑んだ。
その微笑みの中に何が含まれているのか、ゼーヴェルトには読み取れなかった。
「いずれにしても三領の協定については当面静観いたしますわ。今の段階で手を出す理由はありません。ブラックウォールに対する経済的な圧力は公爵のご判断にお任せしますが――くれぐれも、追い詰めすぎないようにしてくださいませ。老いた番犬とて、追い詰められれば噛み付きますもの」
最後の一言は助言か。それとも警告か。
ゼーヴェルトにはどちらとも取れた。
「……承知しました。ご助言、肝に銘じます」
ゼーヴェルトは一礼し、席を立った。
※
王宮を後にし、馬車に揺られながらゼーヴェルトは会談を反芻する。
ローゼンシルトの言い分は理解できる。
過剰な反応は逆効果であること。時間をかけて取り込む方が得策であること。
商人として、その理屈に異論はない。
だが――あの女の目が気に入らなかった。
『――あなたはなぜ、そんなに焦っていらっしゃるのですか?』
あの問いを投げかけた時のローゼンシルトの目は、ゼーヴェルトを見下ろしていた。
対等の共同経営者としてではなく、落ち着きのない部下を諭す主人の目。
それが、商人としてのゼーヴェルトの自尊心を最も深い場所で傷つけていた。
(――共同経営者のはずだ。俺とあの女は対等だ)
ゼーヴェルトは馬車の中で拳を握った。
自分は王冠に値札を付ける男だ。
権威に値段を付ける。
信頼を積み重ね、実績を示し、やがてあの女にとって自分がなくてはならない存在になる。
そうすることであの女の価値を自分が決める立場に立つ。――そう考えていた。
だが今日の会談で、ゼーヴェルトは気づいてしまった。
あの女は最初から自分を対等とは見ていない。
経済力という値札を持って参じた商人を、優秀な協力者とは認めている。
だが共同経営者ではなく仕入れ先の一つに過ぎないのだと。
(そうは――なるものか)
三領通商協定。
アッシュフィールド。ブラックウォール。ヘルマンシュタイン。
あの辺境の小娘が組み上げた小さな交易網。
今はまだ、冬を凌ぐための細い糸に過ぎない。
だが糸は束ねれば強固な縄になる。
その縄が自分たちの首を絞めるものになっては遅いのだ。
早く糸を断ち切らなくては――
問題は方法だ。
今度は――もっと確実な手を打たねばならない。
ゼーヴェルトは馬車の中で一人、冬の王都の空を見上げた。
晴れた空に浮かぶ灰色の雲が、ゆっくりと東へ流れていた。
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