第104話 公子レオフリック
冬が近づくブラックウォール公爵領の朝は、いつも冷たい朝霞で覆われていた。
日の出が遅くなった朝日が、霞を金色に染め上げる。
レオフリック・マルス・ブラックウォールは夜明け前の執務室で書類を広げていた。
点けたばかりの暖炉の火がぱちぱちと小さな音を立て、部屋にほんのりと温もりを呼び込む。
まだ吐く息が白い部屋の中で、羽ペンが紙の上をさらさらと走る音だけが響く。
バルモア領を端に発した穀物価格高騰と、その直後の大火は王都を挟んで東部に位置するブラックウォール領でも影響を及ぼしていた。
流通に滞りが生じ物価が上がる。領民は日々の糧を得るのに一層の苦労を強いられていた。
公爵領としても税の一部を免除し領民の負担を軽減させる施策を行っているが、根本的な穀物の流通量を回復させるには至っていない。今年の収穫分が無ければ事態はもっと悪化していただろう。
レオフリックは目を通した書類をひとまとめにし、家令に父の元へ提出するよう指示を出す。
最近、執務にレオフリックが関わる頻度が増えた。
専ら一次処理のほとんどを彼が済ませ、最終決裁は父エルウィンが担うという形が定着している。
いつからこうなったのか。
――わかっている。あの晩餐会からだ。
王都から戻った父は表面上は何も変わっていなかった。
朝は以前と同じ時刻に起き、鍛錬を欠かさず公務もこなしている。
声の調子も変わらない。部下への指示も的確で、誰もエルウィン・ガレス・ブラックウォールの異変に気づいてはいないだろう。
だが――レオフリックにはわかる。
以前の父なら報告を聞いたその場で「こうしろ」と即断していた場面で、「お前はどう思う」と聞いてくる。
父は公爵の仕事を、少しずつ息子に委ね始めている。
それ自体は構わない。嫡男である以上いずれは担わなくてはならないことだ。
ただそれが訪れるには、この家が受けた傷は大きすぎた。
――父は折れたのだ。
あの夜。衆目の前で娘が辱められ、それでも頭を下げることしかできなかったこと。
王家への忠義と娘への愛情の間で引き裂かれた父を、レオフリックは間近で見ていた。
そして、レオフリックはその父の背中を見ながら、弟を取り押さえながら、自分自身の激情をも押し殺していた。
『――控えろ、アルフレッド』
あの夜、自分が発した声が、ふと耳の奥で蘇る。
弟を止める声であり、自分を止める声でもあった。
あの夜、弟が激情にかられなければ、自分が王に詰め寄っていたかもしれないのだから。
執務机の隅に積まれた書簡の束に目をやる。
領の各地からの報告書に混じって、アッシュフィールド伯爵領からの定期連絡がある。
封を切り、目を通す。
領地の近況、冬季の備蓄状況、周辺地域の治安報告――いずれも簡潔にまとめられた実務的な文面だった。
見慣れた弟の字でそれはしたためられていた。
その末尾に筆跡の違う短い一文が添えられている。
『アルフレッド殿には日々真面目に励んでおられ、当家としても大変助かっております』
リリアーネ・アッシュフィールド伯爵自身の筆跡だった。
長い文章ではない。挨拶に毛の生えたようなものだろうが、当主が直接執筆するというその事実は弟が伯爵家で丁重に遇されている証左だった。
「アルは……上手くやっているようだな」
久々に弟の愛称が口からこぼれた。
幼い頃は互いに愛称で呼び合っていた。
それがいつからか、兄としての威厳を保つために愛称を使わなくなった。
レオフリックは手紙を畳み、書簡の束に戻した。
弟は元気でやっているらしい。
あのどうしようもなく率直で、落ち着きがなくて、兄が言った勉学の小言をまともに聞いた試しのない弟が余所の家で真面目に励んでいるという。
少しだけ口元が緩みかけたが、すぐに引き締めた。
次の書簡に手を伸ばした時、視界の端にエルベ修道院宛ての送金記録が挟まっているのが目に入った。
金額は控えめだが、途切れることなく続いている。父の指示でレオフリック自身が手配したものだ。
(姉上――)
その名前が頭に浮かび、そしてすぐに沈んでいった。
送金先の名称以上のことを考えることをレオフリックは自分に許さなかった。
エルベ修道院の姉のことを考えると、あの夜のことが蘇る。
父の震える拳。
弟の慟哭。
姉が一切表情を崩さずに全てを受け入れたあの顔。
考えても何も変わらない。変えられない。
変えられなかった自分がこの家で今できることをやる。それだけだ。
レオフリックは視線を逸らし、次の書類に目を通した。
※
質素な朝食を終え、午前の公務に取り掛かる。
昼を過ぎた頃に父との定例の打ち合わせがあった。
領内の巡回報告、物資の動向、税収の状況などを確認し、今後の方針を協議する。
いつもの業務を淡々とこなす。
その打ち合わせの終わり際、エルウィンが切り出した。
「――王都のことだが」
レオフリックは顔を上げた。
父の表情は平静だった。平静すぎるほどに平静だった。
「……はい」
「ローゼンシルトがジークハイト陛下を弑したという報、お前はどう見ている」
この報せがブラックウォール家に届いたのは数日前のことだった。
セレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルトは王からの救国軍討伐の勅に応じ、軍を率いて王都に入城。
ところがローゼンシルトは王に反旗を翻し、そのまま王宮を制圧。
ジークハイトは弑され廃された。
報せを受けた日、エルウィンは長い沈黙の後「そうか」とだけ言った。
怒りでもなく、悲しみでもなかった。
まるで、いつか来るとわかっていたものが来た。とでもいうような静けさだった。
それ以降、二人の間でこの話題が持ち出されたのは今が初めてだった。
「ジークハイト陛下の治世が続けば、いずれ王国は内側から崩れていました。陛下にはその自覚がなく、そして我々も含めてそれを正す力を持ちませんでした。ローゼンシルト公爵の行いは紛れもなく簒奪ですが、結果として王都が安定に向かっているのであれば、それは認めざるを得ない事実です」
忠義の家が聞いて呆れる言葉だろう。
だが事実は事実だ。ジークハイトの治世を支持できる根拠などもはやどこにもない。
あの男がブラックウォール家にしたことを考えれば、忠義を語ること自体が欺瞞ですらある。
だからこそ、レオフリックは自らの言葉が王への私怨に彩られたものであると自覚せざるを得なかった。
「しかし――だからといって、ローゼンシルト公爵に膝を折る理由にはなりません」
一拍置いて、父の反応を伺う。
エルウィンは息子の顔を見つめていた。
「続けろ」
「我が家は代々、王国の秩序の守護者として在りました。その矜持は、特定の王への忠義ではなく秩序そのものへの献身です。武力による簒奪を追認すれば我が家が守ってきたものの全てが崩れます。たとえジークハイト陛下が王の器でなかったとしても」
欺瞞。
矛盾。そして、偽り。
レオフリックは自分で言っていて苦々しいものが胸に溜まっていた。
王都の守護者を自認しながら、討伐軍の派兵を拒否したのは他ならぬ自分の進言だ。
王家への忠義を説きながら、食糧供出を出し渋ったのも自分の判断だ。
もしブラックウォール家が忠義の名のもとに全力で王を支えていたなら、ローゼンシルトの蛮行を止められたかもしれない、と。
その自覚が、レオフリックの胸の奥で鈍い痛みを放っていた。
エルウィンは長い間黙っていた。
暖炉の薪が崩れる音がした。
「……お前の言う通りだ」
父はそう言って、窓の外に目を向けた。
家中に澱む霧はまだ晴れていなかった。
※
セレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルトからの書状が届いたのは、その翌日のことだった。
ローゼンシルト家の薔薇の紋章が封蝋に押された、上質な羊皮紙。
レオフリックはまず自分が開封し、内容を確認してからエルウィンに渡した。
『親愛なるブラックウォール公爵エルウィン閣下。
初冬の候、閣下並びにご令息方におかれましては変わらぬご壮健のこととお慶び申し上げます。
このたびの国内の混乱に際し、閣下が東方の安定のためにご尽力されていることは王都にも広く伝わっております。
さて、すでにお耳に届いているかと存じますが、先般の動乱において国王陛下が崩御なされ王都は一時的な混乱に見舞われました。私は勅命に基づき王都の治安維持に当たり、現在は民の安全と秩序の回復に全力を注いでおります。
旧き秩序の守護者たるブラックウォール公爵家の存在は、この新たな時代においても欠くべからざるものと確信しております。閣下の家が長きにわたって守り育んでこられた名誉と伝統は、決して過去のものではございません。それは未来の礎としてより一層輝くべきものです。
ゼーヴェルト公爵閣下をはじめ、多くの方々がすでにこの国の再建にお力をお貸しくださっております。
閣下のご事情は十二分に承知しております。何も急かすつもりはございません。ただ、もし閣下にその意思がおありでしたら、共に歩む道をお示しいただければこれに勝る喜びはございません。
セレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルト』
それは少なくとも表面上には、ブラックウォール家への最大限の敬意が示されている書状だった。
簒奪者であるローゼンシルトが、王家への忠義を貫こうとするブラックウォールを未来の協力者として歓迎する。
もっとも――その歓迎そのものが、ブラックウォールへの圧力なのだとレオフリックには読み取れた。
父は書状を一度だけ読み、机の上に置いた。
「返書はどうする」
エルウィンが聞いた。
――また、聞いた。
レオフリックは一瞬だけ目を伏せ、すぐに顔を上げた。
「あくまで返事を急かしていないと思われます。ローゼンシルト公爵としてもブラックウォールの価値を理解しているゆえに、慎重に事を運ぶつもりなのでしょう。まずは当たり触りのない礼状を返すのが得策かと存じます」
「――そうか」
エルウィンは短く頷いた。
それ以上は何も言わずに、書状を引き出しに仕舞った。
※
執務室に戻り、レオフリックは白紙の羊皮紙と向かい合った。
ペンを手に取り、インク壺に浸す。
書くべきことはわかっている。
当たり障りのない、何も約束せず、何も拒絶しない、時間だけを稼ぐ返書。
多くの諸侯はまずこの手の書状を返送するだろう。
時期を伺い、立場を探り、様子を見る。
アッシュフィールド伯爵とて似たような書を出しているはず。
問題は――公爵家だからこそ、この返書が他の諸侯にとっても一つの指標になる政治的意味を持つことだ。
だからこそ一語たりとも疎かにできない。
『ローゼンシルト公爵セレスティーヌ閣下。
ご書状、謹んで拝読いたしました。
このたびの変事に際し、閣下が王都の安定のためにご尽力されていることに、深い敬意を表します』
ここまではただの社交辞令の挨拶。
最低限敵ではないと示し、一応の礼を尽くす。
ここからが肝心だ。
本当なら『簒奪者に膝は折れない』と書きたいが、それは不可能だ。
ローゼンシルトが今の王都の支配者である以上、表立って敵意を示すことは自殺行為に等しい。
――では臣従を匂わせるか?
それこそできない。代々の矜持が許さないし、何より――あの晩餐会で辱められた姉のことを思えば、簒奪者であろうとなかろうと、権力者に安易に頭を下げるのは生殺与奪権を渡すのと同義のように思えた。
『当家は東方領の守護という長年の責務に鑑み、現在は領内の安定と冬季の備えに全力を注いでおります。閣下のご事業に深い関心を寄せつつも、当面は領内の安寧を最優先とせざるを得ぬ状況にございます。情勢が落ち着きましたら、改めてお話の場を賜りたく存じます――』
書き終えて、レオフリックは自分が書いた文面を読み返した。
何も言っていないに等しい返事だ。
だが、これ以上のことは書けなかった。
ローゼンシルトがこれを読めば、ブラックウォール家がまだ態度を決めかねていることは一目瞭然だろう。
時間稼ぎだと見抜かれることもわかっている。
だがそれでもいい。今はこれ以上の答えを出せない。
出せないことこそが、ブラックウォール家の今の姿だ。
レオフリックは完成した返書を持って父の執務室を訪ねた。
エルウィンは文面を一読し、しばらく黙っていた。
それからペンを取ると返書の最後に自らの名前を署名した。
レオフリックは少し安堵した。
この署名が父の名で出されることが、自分の判断が間違っていなかったことの証明で、父がまだブラックウォールを背負っていることの証左でもあったからだ。
※
返書を送り出してから数日が過ぎた。
十二の月に入り、領内は冬の静けさに包まれつつある。
――はずだった。
いくつかの取引先からの納品状況に違和感を覚えた。
定期的に取引している麦の卸商からの納品に遅れがあった。
理由を問い合わせると「仕入れ先の都合で遅延が生じている」との回答。
それだけならまだ高値止まりしている穀物相場の影響だと納得できた。
だが同じ週に、鉄の仕入れを担う別の商人からも同様の連絡が入った。「輸送の手配に手間取っている」。
さらにもう一件、皮革の取引先からも「当面の間、納品量を減らしたい」との申し出。
一件だけならまだしも立て続けとなると意図的なものではないかと疑わざるを得ない。
遅延が起きている取引先の仕入れを辿ると、いずれも途中でゼーヴェルト公爵が絡む流通網を経由している。
北方の海運を基盤とするゼーヴェルト公爵家の影響力は、直接取引のない商人にも間接的に及ぶ。
上流でほんの少し水の流れを絞るだけで、下流の商人に影響が及ぶ。
確証はない。ゼーヴェルトが意図的にやっているという証拠はどこにもない。
だが、ローゼンシルトへの返書を送ったばかりのタイミング的に偶然とは考えにくい。
「……催促、ということか」
ゼーヴェルトはいち早くローゼンシルトに与した。
おそらくは経済的な利益と引き換えに、新体制への支持を約束したのだろう。
そしてローゼンシルトの指示か、それともゼーヴェルトの独断かはわからないが態度を決めかねているブラックウォール家への圧力として、これらの取引停滞が仕組まれたのだろうか。
証拠はない。だから抗議のしようもない。
ゼーヴェルトは海運と物流の支配者だ。
ブラックウォールの領地は内陸ではあるがその影響力からは逃れられない。
その気になれば、ゼーヴェルトはブラックウォールを経済的に窒息させることができるだろう。
(アッシュフィールド領との直接取引を締結すべきか。だが――)
これまでブラックウォール領の経済は王都を中心とした交易網に依存してきた。
それをゼーヴェルトに押さえられている現在、別の交易網を模索せねばならない。
アッシュフィールド領との取引を拡充すれば、ある程度は補えるだろう。
ただし、荷物は空を飛べない。
ブラックウォール領とアッシュフィールド領の間にはヘルマンシュタイン領が跨っている。
この交易網を成立させるには、どうしてもヘルマンシュタイン伯爵に話を通さねばならず、何かしらこの交易網に一枚噛ませて権益を握らせる必要があるだろう。
(ヘルマンシュタイン伯への便宜は必要経費だな)
ヘルマンシュタイン領も物資不足で苦しんでいる。
多少の利権を譲ることでブラックウォールとアッシュフィールドの交易の仲介を引き受けるだろう。
「――父上の承認を得て、早速交渉を進めねば」
この一手がゼーヴェルトを、そしてローゼンシルトを刺激することはわかっている。
だが、何もしなければ領は冬を越せない。
このまま座してゼーヴェルトの思うままにされるつもりはない。
レオフリックは書類をまとめるとエルウィンの執務室へ向かうのだった。
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