第101話 悪役令嬢の一周年
十一の月十九日。冬の足音が日に日に近づいている早朝。
空が白み始めたころに私は目を覚ました。
いつもならもう少し遅い時間の起床なのだが、今日は“特別”な日ということもあり、早めに起きることにしたのだ。
“特別”な日――それはお父様が亡くなって一年、そして同時に私が“前世”の記憶を取り戻した日でもある。
あの日は晩秋なのに珍しく土砂降りで、雷も鳴っていた。
今でもはっきりと覚えている。お父様が息を引き取ったと同時に、頭の中に“前世”の記憶が洪水のように流れ込んできたのだ。
あれ以降私は自認こそリリアーネ・アッシュフィールドではあるけれど、もう一人の“私”の記憶も受け継いで生きることになった。
自分じゃない人間の記憶と経験なのに、それが確かに自分ものであるという自覚の不思議な感覚。
この一年、やがて訪れる破滅を回避するために奔走してきた。
お父様の亡き後、アッシュフィールド家を乗っ取ろうとした叔父を排除し、領主としての実権を握った。
その上で様々な施策で領地を発展させてきた。その結果、領民は豊かになっていった。
しかし――全てが上手くいかないのが現実だ。
原作と違った経緯で穀物投機により市場価格が高騰した上に、バルモア領で起きた大火が決定打となって、王国の食糧供給が一気に不安定化してしまったのだ。
ただ、王国全域で致命的な食糧不足による大量の餓死者の発生には至っていない。
バルモアとその周辺は深刻な被害を受けているが、その他の地域は自給率を完全に満たすまではないが秋の新穀が出回り、ギリギリ耐えられるレベルだった。
そして、私も含め全ての領主が食糧の物流を制限したため、ある場所にはあるが、ない場所にはないという地域格差が発生している。
※
私はお父様の命日ということもあり、朝食後ステラを伴いアッシュフィールド家の墓参りに訪れた。
まだ新しい墓石にはベルンハルト・アッシュフィールドの名が刻まれている。
私は花を手向け、墓石に向かって祈りを捧げた。
本音を言うと、お父様の下にこうして訪れるのは後ろめたい気持ちがあった。
今の私は生前のお父様が知る“私”とは、大きく変わってしまっているからだ。
お父様が亡くなる前の私は、我儘で高慢ちきで、使用人に対しても高圧的で、周囲から敬遠されがちな令嬢だった。
心を入れ替えた――と言えば聞こえがいいが、異世界の誰かがお父様の知る娘を乗っ取ってしまった――そんな負い目が私にはある。だからこうしてお参りするのは少々気の重いことだった。
「お父様が亡くなってから激動の一年だったわね」
「ん。まさか自分で毒飲んでグスタフを嵌めるなんて思わなった。しかもリリアーネを暗殺しようとした私を信用して毒飲むとか、本当にリリアーネは頭おかしいと思った」
「……酷いわね、ステラ。確かに無茶なやり方だったけど」
「でも、あれがあったから私はこうして今もリリアーネの近くにいられる。感謝してる」
ステラの狼耳がピクピク動き、尻尾もゆらゆらと揺れていた。
「……前からずっと気になっていたんだけど。リリアーネはどうやって私の正体を知ったの? 私が革命で処刑されたはずのヴァリャーグ帝国皇女ユースティアだって」
「う゛っ」
私は言葉に詰まる。これは私のトップシークレットの情報。
この世界の人間である限りまずたどり着けないであろう情報。
前世のゲームでの知識。
ずっとこのことは誰にも話していない。ステラにも伝えていない。
でも――ずっと私を信じている付いてきたステラに、この嘘はずっと罪悪感を持ち続けていた。
ステラになら――話してもいいのではないか。
「――ふふっ、いいのよリリアーネ。無理に話さなくても。あなたのおかげで私は“赤い眼”の暗殺者から解放されて、普通に生きられるようになった。もうそれだけで十分」
いつもの幼くぶっきらぼうな口調でなく、穏やかな声がステラの口から出る。
時々私の前で見せるステラの素。皇女ユースティアとしての本来の顔だ。
私よりも年上の、どこか私を妹のように見てくれる大人の女性の顔。
「……でも、きっとそれがあなたの時折見せる孤独の大元だと思うの」
「ステラ……」
「私がいて、ヴェルナーがいて、リュシアがいて、イリヤがいて、アルフレッドがいる。なのにあなたは時々すごく寂しそうな遠い目をしている。迷子になった子供のような目」
ステラは私の肩にそっと手を置いた。
まいったな……ステラはやっぱりわかってたんだ。
私がどこか他人事のような目でこの世界を見ていたことを。
「あの、ステラ――」
私は何か言おうとしたが、ステラの人差し指がそっと私の唇を押さえた。
ステラの微笑みは穏やかで、少し苦笑いを含んでいた。
「だから、無理に話さなくていい。いつか話したい時になったら話して。ただし、最初に話す相手は私だということを忘れないで」
「……ステラ。ありがとう」
「……ん、ユースティアとして喋るのはここまで」
ステラは肩を竦めると、穏やかな表情からまた普段のぶっきらぼうな表情に戻った。
「もう、ひさしぶりにステラの素の口調を見られたなって思ったのに。もう店じまいなんだ」
「……恥ずかしいし、ユースティアに戻すと自分がまだ皇女であることを意識させられるのが嫌」
「そっか……」
普段のステラは革命のことをおくびにも出さない。
皇女ユースティアのことなど忘れて、ただアッシュフィールド家のメイドとして、そして私の共犯者として振る舞っている。
ユースティアとして振舞うことはどうしてもかつての“傷”を意識させられてしまうのだろう。
だからステラという名で、私の傍に居続けるのだと私は思う。
自分を偽るのは悪いことじゃない、傷と向き合える日が来るまでそれでいい――そう思う。
ステラと比べて私のほうがずっと自分を偽っているんだから。
借り物の名前。
借り物の人生。
借り物の身分。
借り物の領地。
全てがリリアーネ・アッシュフィールドから借りたもので、返すあてもないもの――
「そろそろ屋敷に帰りましょ。今日もいっぱい仕事よ」
私は独り言のように呟くと、墓参りを終えた。
この世界で生きることは、今の私の義務でもあるのだから。
※
アッシュフィールド邸に戻った私たちは早速今日の執務に取り掛かった。
相変わらずうんざりする量の報告書の山をヴェルナーが優先順位を付けながら運んできてくれている。
ステラが淹れてくれた紅茶で一息をつく。
ここのところずっと殺伐とした情勢で、心休まらない状態がずっと続いている中での紅茶タイムは貴重な癒しの時間だ。
さて、今日のチーム・アッシュフィールドの議題はヘルマンシュタインの賠償金の取り扱いだった。
エルベ渓谷防衛戦に勝利を収めて数ヶ月。戦後処理としてヘルマンシュタイン伯爵には賠償金の支払いを課していた。
向こうが侵攻してきた側なのだから当然の措置だし、実際に滞りなく支払いは続いている。
「イリヤ、ヘルマンシュタイン領の現状はどう?」
「芳しくねえな。穀物価格の高騰はヘルマンシュタインも直撃してる。元々自給率が高い領じゃねえし、うちとの交易路に依存してた部分が大きい。そこに賠償金の支払いが重なって、商人に食糧を買い付ける余裕がなくなりつつある」
「餓死者や流民の発生は?」
「今のところはまだ出てねえ。だが冬を越せるかは怪しい。仮にヘルマンシュタイン領で流民が出始めたら、まず向かう先はうちだ」
やはりそうなるよねえ……
流民が出てきたら領境を越えてアッシュフィールド領に流れてくるだろう。
難民や流民の流入は継続的に国力を削り続けるのは前世のニュースで何度も見た。
残念だけど、今のアッシュフィールドに彼らを養うだけの余裕はない。
「ヴェルナー、領内の現状は?」
「はい。食糧統制令のもと、備蓄の計画放出と新穀の流通により、領内は比較的安定を保っております。ただし、余剰と申せるほどの余裕はございません。ヘルマンシュタイン領から流民が押し寄せれば、到底持ちこたえられないでしょう」
ヴェルナーの報告も予想の範囲内だった。
うちは年明けからの備蓄で持ちこたえているし、新穀の収穫で最悪の状態は免れている。
でもこれ以上の負荷をかけるのは避けたい。
「ねえみんな。ヘルマンシュタインへの賠償金、これから冬の間は支払いを猶予しようと思うの」
執務室に一瞬の沈黙が落ちた。
イリヤが片眉を上げ、ヴェルナーが僅かに目を見開いた。
隣で書類を整理していたアルフレッドも手を止めてこちらを見た。
「理由を聞かせろ、お嬢」
「簡単な話よ。今ヘルマンシュタインから賠償金を絞り取って、その結果領民が貧しくなって飢えて難民化したら、その余波をまともに食らうのはうちだもの。ヘルマンシュタインから取り立てる小遣いの損失と、押し寄せる難民を養う費用を天秤にかけたらどちらが得なんて火を見るより明らかよ」
イリヤは腕を組んで、数秒ほど天井を見上げてから頷いた。
「ま、そうだな。首を絞めすぎて隣が倒れりゃこっちも巻き添えだ」
賠償猶予は純粋な善意じゃない。
隣領を安定させることがうちの安全保障に直結するという実利。
困っている時に手を差し伸べたという恩を売る機会。
まあ後者はあまり期待はしてないけど。
「ヘルマンシュタイン伯爵への書状の文面は――そうね、『折からの困難な情勢に鑑み、冬季の間は貴家の領民の安寧を優先されたく、賠償金の支払いを猶予する。春の到来とともに改めて協議したい』――こんなところでいいかしらヴェルナー?」
「かしこまりました。本日中に清書し、使者の手配をいたします」
「お願いね、ヴェルナー」
ヘルマンシュタインの件はこれで終わり。
私は紅茶の残りを飲み干し、次の書類に手を伸ばした。
※
午後――昼食の後の小休憩も終わり、執務室で再び仕事に戻った時だった。
少し乱暴にドアをノックする音が聞こえ、ドアが開かれる。
――リュシアだった。あ、嫌な予感。
「リリアーネ、良い知らせと悪い知らせがあるわ。それも緊急の」
ほら来た、嫌な予感が当たった……
リュシアがこうして急ぎで来るということは、教会ルートで急報が入ったのだ。
私は手を付けていた書類を片付け、リュシアの知らせを聞くことにした。
「じゃあ悪い知らせから」
「……ジークハイト陛下が死んだわ」
「はあっ!?」
その場にいた全員が絶句し、私は素っ頓狂な声を上げた。
「良い知らせは陛下の崩御による王都の混乱はローゼンシルト公爵によって収拾されており、現在は比較的安定した状態だという報告だわ」
「なにそれ……さらに意味がわかんないんだけど」
「でしょうね。王都の大聖堂から来た聖声盤の内容は以下の通り、『十一の月十八日、王都エーデルシュタットにおいて国王ジークハイト・アルベリヒ・エーデルガルド陛下が崩御あそばされた。現在、王都の治安と秩序の維持はローゼンシルト公爵セレスティーヌ閣下が担っておられる。ローゼンシルト公爵は王都の民の安全を第一に、食糧の配給と治安の回復に尽力されている。王都の信徒諸兄には平穏を保ち、女神の御加護のもと冷静なる日々を送られんことを祈念する』」
リュシアは手にしていた聖声盤から起こした文書を読み上げると、私にそれを手渡す。
私はもう一度その内容を確認する。――どれだけ読んでも、事態が掴めない。
王が死んだ。そして、ローゼンシルト公爵が事後処理をしている?
――崩御。
病死であれ老衰であれ、通常は死因が添えられるものだし、若い王の突然の崩御であれば尚更。
何があったのかを伝えるのが自然な在り方のはず。
それが――何も書かれていない。
「リリアーネ、あなたも気付いているでしょうけどこの声明、王に対する追悼の文言がほとんどないわ。普通、国王が崩御されたのなら『女神の御許に召された』とか『臣民は喪に服し』とか、決まり文句があるはずでしょう。それが一切ない。代わりにあるのはローゼンシルト公爵への礼賛ばかり」
うん、それも確かにそうだ。
まるで、王が死んだことよりもローゼンシルト公爵が事後を処理していることをアピールしたいかのような内容に思える。
「お嬢、というかローゼンシルト公爵はなんで王都にいるんだ? それが一番腑に落ちないぞ」
イリヤが顎に手を当てて眉間に皺を寄せている。
ローゼンシルト公爵はずっと前に自領に戻っているはずだが――なんでわざわざ王都に――と、思ったところで私はある事態に思い当たった。しかし、それを認めるとローゼンシルト公爵は――
「この間、ジークハイト陛下から書状来たでしょ。『救国軍討伐の兵を出せ』って。うちはそんな余裕なんかねーよって丁重に断ったけど」
「ああ、そういえばそんなこともあったな。親父も領内が厳しくて無理って返事書いたって兄貴からの手紙であったな」
アルフレッドが頷いている。
ブラックウォール公爵ですら出兵をためらう状況で、ローゼンシルト公爵は派兵した。
「……これは、ローゼンシルト公爵がやったわね」
「リュシア……それって……」
「みんな自領の安定が第一で出兵をためらわれるなか、率先して自ら兵を率いて王都に向かった。王都の人間は皆思うでしょうね。反乱軍の討伐にローゼンシルト公爵が来てくれたんだって、諸手を上げて歓迎したはず」
私はリュシアの言葉を聞きながら、ドン引きする気分になっていた。
ここまで聞けば王都で何が起こったか大体想像はついた。
「忠臣面して堂々と手勢を王都内に引き入れて、そして『敵は王宮にあり』とでも宣言したのでしょうね。王宮はひとたまりもなかったんじゃないの? まさか生きてるうちに弑逆なんてあるとはねえ」
ひさびさのリュシアの毒舌が炸裂していた。
でも全っ然笑えねえ……
「ローゼンシルト公は大聖堂を含めて王都をすでに押さえている。そんな状況で、ローゼンシルトは王殺しの大罪人だなんて声明を出せるわけがないわ。だから何とも歯切れの悪い事実の羅列だけの声明になったのでしょうね。どちらにせよ今わかるのはここまでよ。聖声盤からこれ以上の情報は期待できない。大聖堂が押さえられている以上、あそこから出てくる情報は全てローゼンシルト公に検閲されているものと考えたほうがいいわ」
私は声明文を机に置いた。
ステラがいつの間にか私の後ろに立っていた。金色の瞳が声明文を冷ややかに見下ろしている。
「そのうちイリヤさん伝手の、商人筋から王都の実情が伝わってくると思うけど。……もしこれが本当に弑逆なら――ローゼンシルトは衝動的に王を殺したんじゃない。王を殺してすぐに民衆の人心掌握と教会を押さえた。つまり用意周到に計画されたものよ」
それだけ言って、リュシアは踵を返して教会に戻っていった。
しばらく誰も口を開かなかった。
暖炉の薪がぱちりと爆ぜた。
「……アルフレッド、大丈夫?」
声をかけると、アルフレッドは窓の外を見つめたままゆっくりと口を開いた。
「……ジークハイト陛下は、姉上を公衆の面前で辱めた。あれは絶対に許せることじゃないし、今だってそう思ってる。でも――だからといって、王を殺して国を奪うなんてことが、許されるはずがない。そんなことを許したら、次は誰が殺される? 気に入らない統治者は殺してもいいってことになる。そうなったら、この国はもう……」
言葉が途切れた。
アルフレッドの拳は震えていたが、目は真っ直ぐ前を向いていた。
セレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルト――以前サロンで会った時は穏やかな笑みを浮かべる大人の女性だった。
あの微笑みの裏に、王殺しを起こす野心が隠されていた。
しかもここまでの速度で、ここまでの規模で動く相手だなんて――




