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第100話 剣を捨て椀を取る

 十一の月二十日。

 セレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルトによるクーデターから二日後。

 王都は一時的に混乱するも、抵抗することなく女公爵の支配を受け入れていた。

 その頃、バルモア領を出発し、各地で略奪を繰り返しながら勢力を拡大していた救国軍も王都西方の郊外に到達した。


 数千の人の群れが、街道を埋め尽くしていた。

 もっとも、それを軍と呼ぶにはあまりにも雑然としていた。

 公爵軍の武器庫から持ち出した剣を下げた者。

 農具を担いだ者。

 木の棒の先に包丁を縛り付けただけの者もいた。


 女や子供もいた。戦うためではなく、他に行く場所がないからついてきた人々だった。

 ニコラスとオスカーが先頭に立ち、その後ろに元バルモア領軍第三部隊の兵が続き、さらにその後方に民兵と避難民が延々と連なっている。


 バルモア領都ゴルトフェルトを発ってから十数日。

 途中の小領で食糧を徴発しながらの行軍だったが、それでも全員の腹を満たすには足りなかった。


 脱落者は日に日に増えていた。

 ニコラスはそのたびに動けなくなった者に声をかけ、肩を貸し、励ましたが、もう限界が近いことは誰の目にも明らかだった。


「あと少しで王都だ……! もう少しだけ踏ん張れ……!」


 ニコラスが振り返りそう叫んだ時、先行していたオスカーの部下である斥候が戻ってきた。

 血相を変え、馬を――途中の村で徴発した農耕馬だが――走らせて戻ってきた。


「ニコラス殿! オスカー隊長! 西門前に軍勢が展開しています!」


「軍勢だと? 王都の守備隊か?」


 オスカーが顔を険しくした。

 王が迎撃のために兵を出したのであれば、この疲弊しきった救国軍では正面衝突に耐えられない。

 あの王は飢えた民を救うどころか、邪魔者として排除しようとしているのか。

 悔しさで唇を噛みしめるニコラスの隣で、斥候は首を横に振った。


「いえ! ローゼンシルト家の軍旗です! 西門に公爵家の部隊が陣取っていました!」


「……ローゼンシルトだって!?」


 ニコラスが目を見開いた。

 ローゼンシルト。その名は彼の記憶に深く刻まれている。

 バルモアが焼け野原になった後、山を越えて救援物資を送ってくれた公爵。

 飢えた自分たちに最初のパンを届けてくれた恩人。


「……なぜローゼンシルトが王都に?」


「わかりません。ただ、相当な数です。数千はいるかと。西門前の街道を完全に塞いでいます」


 オスカーとニコラスは顔を見合わせた。

 オスカーの目にあったのは軍人としての彼我の戦力差。

 こんな雑兵で、公爵家の精鋭を突破できるとは思えなかった。


 戦っても死ぬ。投降しても反乱軍として処刑される。

 どちらを選んでも救国軍の終わりは同じだ。


「……オスカー隊長。俺、ちょっと確かめてくる」


「おい、ニコラス――」


「あのローゼンシルトだ。あの公爵がバルモアの民に剣を向けるわけがない。あの人は最初に俺たちに手を差し伸べてくれたんだ」


 ニコラスは救国軍の先頭に立ち、街道を進んだ。

 丘を一つ越えると、王都の城壁が視界に入った。

 そして——その手前に展開するローゼンシルト軍の陣容が、目に飛び込んできた。


 息を呑んだ。

 整然と隊列を組んだ重装歩兵。磨き上げられた甲冑、統一された装備。

 薔薇の紋章を掲げた軍旗が、冬の風にはためいている。

 自分たちの寄せ集めの民兵とは比べることすらおこがましい、精強なる軍隊。


 オスカーもニコラスの隣まで来ていた。

 ローゼンシルト軍の陣容を一目見た瞬間、彼は全てを理解した。

 装備の質、隊列の練度、どれを取っても救国軍とは次元が違う。

 戦闘は一方的な蹂躪になるだろう。


「みんな聞け! 前にいるのはローゼンシルト公爵の軍だ! バルモアが飢えてた時に、山を越えて飯を届けてくれた人だ! 武器を降ろせ! 絶対に武器を向けるな!」


 ニコラスの声が、救国軍の隊列に響き渡った。

 民兵たちがざわめいた。

 ローゼンシルトの名は、バルモアの民にとって特別な意味を持っていた。

 あの一週間の粥と豆の汁物。山を越えて届けられた塩と乾燥肉。

 飢えの中で差し伸べられた唯一の手。


「ニコラスの言う通りだ。あの公爵は恩人だぞ」


「ローゼンシルト様に刃を向けるなんてできねえよ」


 困惑しながらも、救国軍の前衛は武器を下ろし始めた。


「よし、俺はローゼンシルト公爵と会って話を聞いてくる。オスカー隊長、あんた軍人だから馬乗れるよな? 悪ぃ、俺乗れねえんだ。俺を乗せて公爵様のところまで送ってほしい」


 オスカーはその言葉に頷き、馬の背に跨る。

 そしてニコラスもその後ろに跨った。

 手綱を押して馬を進め出す。元農耕馬は軍馬とは比べ物にならない足の遅さで街道を進み、セレスティーヌの下へ向かっていった。

 

 ※


 ニコラスたちを認めたローゼンシルト軍の陣から、一つの小さな騎馬の列が進み出た。

 先頭を行くのは——紫紺のドレスの上に白銀の胸甲と小手を纏った女性。

 白い外套が冬の風にたなびき、茶髪が陽光を受けて艶やかに揺れている。

 十騎ほどの護衛を連れているが、槍も剣も鞘に収めたまま。敵意の欠片もない姿で、静かに前進してくる。


 セレスティーヌはニコラスたちの前方数十歩ほどで馬を止め、身軽に下馬した。

 彼女に習いニコラスとオスカーも馬を降り、一礼した。

 女公爵は護衛の一人もつけず、丸腰に等しい姿で二人に近づいてきた。


 ニコラスはその姿に、あの日のバルモアの聖堂前広場を重ねていた。

 ローゼンシルトの紋章が刺繍された外套を纏った使者が、豆と乾燥肉を運んできたあの日。

 あの時、使者は言った。


 ――閣下は、苦しむ民を見捨てることは女神の教えに反すると仰っておいでです。


 その閣下が、今目の前にいる。


「あなた方が、バルモア救国軍を率いているお方ですか」


 セレスティーヌの声は、穏やかだった。

 聖堂で信徒に語りかける聖女のような、柔らかく、しかし、芯のある声だった。


「あ――はい、ニコラス・ドレフュスです。公爵様……」


「オスカー・テュラムと申します。このような形でご挨拶することになってしまい、申し訳ありません」


 ニコラスの声が微かに震えていた。

 普段は誰の前でも堂々と喋れる男が、目の前の女性を前にして言葉が上手く出てこない。

 恩人という以上の何かが——この女性の纏う空気が、ニコラスの気勢を自然と鎮めていた。


 一方でオスカーは軍人としての礼を取り、あくまで冷静に応じた。

 王命に反して挙兵した身だ。たとえ相手が恩人であっても、立場をわきまえて振舞わなければならない。


「あなたたちのことは聞いています。飢えた民のために立ち上がり、公爵城を開かせ、仲間を率いてここまで歩いてきた。その道のりは――どれほど辛いものだったことか」


 ニコラスは喉が詰まった。

 労いの言葉だった。

 ゴルトフェルトを出てから、誰にも言われなかった温かい言葉

 救国軍は行く先々で恐れられ、忌避された。


「もはやあなたたちは賊徒ではありません。飢えた民です。飢えに苦しみ、声を上げることしかできなかった人々です」


 セレスティーヌは背後で待機する救国軍を見た。

 二人が気になってぞろぞろとついてきた群衆たち。

 薄汚れ、痩せ細った人々。

 力なく座り込む者、子供を抱き締めて佇む者たちを見渡しながら、静かに続けた。


「私は——あなたたちを救いに来ました」


 ざわめきが起きた。

 救国軍の民兵たちは互いに顔を見合わせ、困惑し、しかし希望のような何かが彼らの表情に滲み始めていた。

 同時に、それを額面通りに受け取れない者もいた。

 後方で警戒の目を向ける民兵、腕を組んで黙り込む元兵士。

 オスカーはそのどちらとも言えない顔で、ただセレスティーヌを見つめていた。


「例えローゼンシルト様が俺たちに手を差し伸べたとはいえ、俺たちはバルモア公爵を殺しました。そのような者たちをローゼンシルト様は救うと仰るのですか?」


 ニコラス問いかけは、至極当然だった。

 どれだけ取り繕うとも、救国軍は賊軍であり、領主を殺害した反逆者だ。

 そのような者たちをどうして救うと言えるのか。


「ごもっともです。言葉だけでは信じていただけないでしょう。――ですから、お見せしましょう」


 セレスティーヌが右手を軽く上げた。

 護衛の一人が進み出て、銀の盆を差し出した。

 盆の上には白い布が掛けられた何かが乗っている。

 セレスティーヌは自らその布に手をかけ——静かに、めくり上げた。


 ざわめきが、一瞬で凍り付いた。

 銀の盆の上に——金色の髪。閉じられた瞳。

 蒼白の面。死によって凍りつけられた、かつて美しかったであろう若い男の顔。


 エーデルガルド国王ジークハイト・アルベリヒ・エーデルガルドの首が、そこにあった。

 悲鳴も歓声も上がらなかった。ただ、数千の人間が一斉に息を呑んだ音だけが、冬の空に響いた。


 ニコラスは目を見開いたまま動けなかった。

 自分たちが「王に答えを聞きに行く」と叫んで、十数日かけて歩いてきた道。

 その道の終着点にいたはずの男が、銀の盆の上に首だけで載っている。

 目の前の聖女のような女が、自分たちより先に——王を殺していた。


 オスカーの背筋を、冷たいものが走った。

 彼は首を見ていなかった。セレスティーヌの顔を見ていた。

 穏やかな微笑みを浮かべたまま、王の生首を民衆に見せるその顔を。


(——この女公爵は、俺たちと同じことをやった。ただし、比べものにならないほど手際よく)


 バルモアの暴動は無秩序で、衝動的で、血にまみれた惨劇だった。

 だが目の前の女は整然と、混乱を引き起こすことなく、王を殺し、王都を掌握したのだろう。

 オスカーは軍人としての本能で、この女がどれほど恐ろしい人物かを悟った。


「あなたたちの敵は、もう消えました」


 セレスティーヌの声は、穏やかなままだった。

 白い布を元通りに被せ、銀盆を護衛に戻す。

 まるで茶会の余興が終わったかのような自然さで。


「王は裁かれました。あなたたちを飢えさせ、苦しみの声を無視し続けた王はもうこの世にはおりません。あなたたちが歩いてきた道は――無駄ではなかった。あなたたちの怒りは正しさが証明されたのです」


 群衆がざわめいた。

 怒りが正しかったと言われた。

 暴徒と罵られ、賊軍と蔑まれた自分たちの行いが——正しかったと。

 それが嘘であっても、飢えと疲労に蝕まれた心には甘い蜜のように染み込んでいく。


「しかし——今のあなたたちに必要なのは、剣ではなく温かい食事です」


 セレスティーヌは振り返りもせず、しかし声ははっきりと後方に届いた。


「彼らに温かい粥を振る舞いなさい。豆も肉も惜しまずに。この方たちは長い旅をしてきたのですから」


 命令は即座に実行された。

 ローゼンシルト軍の後方から荷車が引き出され、大鍋が据えられ、炊き出しの準備が始まった。

 手際の良さからして、最初から用意してあったのだろう。

 薪に火がつけられ、水が注がれ、豆と麦と肉が鍋に投じられていく。


 やがて、白い湯気が冬の空に立ち上り始めた。

 粥の匂いが風に乗って救国軍の群衆に届いた瞬間――堰が切れた。

 民兵たちが、武器を捨てて粥の鍋に駆け寄った。

 椀を差し出し、粥を受け取り、立ったまま頬張る者。座り込んで啜る者。

 子供を抱いた女が、子供に先に食べさせてから自分の分を口にしている。


 誰も武器を拾い上げようとはしなかった。

 温かい粥を手にした人間が、もう一度剣を取る理由はどこにもなかった。


 ※


 粥が行き渡り、救国軍の面々が束の間の満腹に表情を緩めた頃、セレスティーヌは再び群衆の前に立った。


「皆さん。あなた方はバルモアから長い道を歩いてきました。飢えと寒さに耐え、仲間を支え合い、ここまで辿り着いた。その勇気と連帯を私は心から敬います」


 群衆は粥の椀を手にしたまま、女公爵の言葉に耳を傾ける。


「しかし、王が倒れた今、この国にはまだ多くの問題が残されています。飢えた民は王都だけではない。あなた方同様に各地に苦しむ同胞がいます。私は——この国を立て直すために力を尽くすつもりです。あなた方の力を、どうか貸していただけませんか」


 命令ではなく、懇願の形を取っていた。

 膝をつかせるのではなく、手を差し伸べ共に歩もうと言うのだ。


 ニコラスが前に出た。

 ゴルトフェルトの焼け跡で声を上げ、民を導き、ここまで歩いてきた男がセレスティーヌの前で片膝をついた。


「ニコラス・ドレフュス。バルモア救国軍を代表して、ローゼンシルト公爵閣下の指揮下に入ります。——公爵閣下。俺たちはバルモアの恩を忘れはしません」


「ありがとう、ニコラス。あなたの勇気に心から感謝します」


 ニコラスに続いて、オスカーも膝をついた。

 無言だった。何か言うべき言葉があったのかもしれないが、出てこなかった。

 ただ頭を垂れた。


 二人に続き、民兵の隊長格たちも次々と膝をついていく。

 それを見た一般の民兵たちも、自然と片膝をつき始めた。

 数千の人間が粥の椀を片手に、ローゼンシルトの旗の前に跪いていく。


 この日をもってバルモア救国軍はセレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルトの旗の下に組み込まれたのだった。


 ※


 日が傾き始めていた。

 冬の短い陽光が、王都の城壁を橙色に染めている。

 ニコラスは設営されたキャンプの焚き火の傍に座り、空になった椀を膝の上に置いていた。


 腹が温かい。久しぶりに腹の底まで温まった気がした。

 周囲では仲間たちがローゼンシルト軍から支給された毛布にくるまり、焚き火を囲んでいる。


 昨日までの殺気立った顔が嘘のように穏やかだった。

 ふと視線を上げると、王都にセレスティーヌの騎馬が戻っていくのが見えた。


 白い外套が、夕日の中で一瞬だけ翻った。

 あの人についていけば、みんなを食わせていける。


 ニコラスは腹の温もりを噛み締めながら素朴にそう思った。

 政治も陰謀もニコラスには関係のない話だった。


 飢えた仲間に飯を食わせること。それだけが、ゴルトフェルトの焼け跡から歩いてきた彼の全てだった。

 焚き火が爆ぜた。


 赤い火の粉が冬の空に舞い上がり、すぐに闇に消えた。

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